翌朝。
教室の窓から差し込む光はやけにまぶしくて、
黒板の文字はやけにぼやけて見えた。
――単に、美羽の目の下のクマのせいだ。
「……はぁ。」
席についた瞬間、三回目のため息。
そこへ、ガタッと椅子を引く音。
隣から身を乗り出してきたのは、もちろん莉子だった。
「で!ででで!! 昨日の遼くんとの下校はどうだったのよ!?」
朝イチからフルスロットルである。
「……どうもこうも、危ういというか……命がもたないというか……」
遠い目で窓の外を見つめる美羽。
夕焼けの中で、あの年上キラーと並んで歩く自分の姿がよみがえる。
距離が近くて、言葉が軽くて、でもちょっとだけドキッとしたりして。
(……いやいやいや、何思い出してんの私!)
「なにそれぇ!? 詳しく!詳しく教えなさいよぉー!」
「ちょ、揺らさないでってば、首取れる……!」
莉子に肩をぐらぐら振られていると――
「きゃーーーっ!!」
教室の前方から、女子たちの黄色い悲鳴があがった。
その名を呼ぶ声が、重なっていく。
「成瀬くんだ!」「碧くーん!」
黒薔薇の童顔スマートボーイ――成瀬碧が、爽やかな笑顔で教室に現れた。
くりっとした目、柔らかそうな髪。
ぱっと見は正統派アイドル、しかし中身は格闘技と勝負に命をかける変人である。
「こんにちは、雨宮さん。」
碧が、にこっと微笑んで手を振ってきた。
教室中の女子が、「雨宮さん!?」「雨宮さんて生徒会に入った子だよね……?」「また美羽ちゃん!?」と小声でざわつく。
(あ……そうだった。今日は付き添い、碧くん担当の日だったんだ……)
顔がひきつるのを自覚する。
隣で莉子が、きらきらを超えてギラギラした目で叫んだ。
「ちょっと美羽!! 昨日は遼くんで、今日は碧くん!?
ねぇそれもう黒薔薇逆ハーレムってやつじゃん!? 呪われてるって自分で言ってたけどさ、
それ完全にリア充の呪いだからね!? 交代制イケメン付きサイクルとか何それ!?」
「いや、そんな良いもんじゃないからね!?
これ全部、“脅迫状のせい”だからね!? 全然羨ましくないからね!?」
……と言いつつ、
教室の端で碧を取り巻く女の子たちを見て、ため息がこぼれた。
*
昼休み。
「雨宮さん、ちょっと来てください。」
そう言った碧に連れられてやって来たのは、
柔道部や武道系の部活が使う道場だった。
木の床が広がり、
白い壁、低い窓から差し込む光が畳の匂いを柔らかく照らしている。
「……なんか、嫌な予感しかしないんだけど。」
美羽は思わず呟いた。
碧は、いつもの童顔スマイルのまま、真剣な声で口を開いた。
「僕、考えたんですけどね?」
「う、うん?」
「雨宮さんともう一度勝負して、鍛え直せば――
今回の脅迫状を出した相手も萎縮して、手を出せないんじゃないかと思いまして!」
「……は?」
頭の中で、いま聞いた日本語を順番に組み立て直す。
「なので! 今から勝負しましょう!」
碧は両拳をきゅっと握って宣言した。
「いやいやいやいや待って。
目的、だいぶ変わってない!?
ていうか私、今“守ってもらう側”だよね!? なんで鍛錬側に回ってるの!?」
思わず全力でツッコミを入れた。
碧は首をかしげて、まるで本気で不思議そうにする。
「しかし、鍛錬と場数を踏めば、雨宮さんももっと強くなれますし。
万が一、脅迫状の相手が襲ってきても、二人で片付けたら一石二鳥じゃないですか?」
「いや、その発想が格闘家脳すぎるのよ!!」
心の中で叫ぶ。
(なんでこんな人に頼んだの、椿くんんんん!?)
何度言っても方向性を曲げない碧に、美羽はついに肩を落とした。
「はぁ、……とりあえず、勝負はするけどさ。
じゃあ、私が負けたら守ってくれるってことでいいんだよね?」
碧は目を瞬かせてから、ふんわり笑った。
「何言ってるんですか。
僕が勝ったら、雨宮さんが強くなるまで鍛え直して差し上げるつもりですよ。
ま、ないとは思いますが、万が一僕が負けたとしたら……そうですねぇ。
負けた時に考えるとします。」
「そこはボディーガードなんだから、“従います”でしょーが!!」
またもやツッコミ。
しかし、暖簾に腕押しとはまさにこのことだった。
ふと、美羽は周囲を見回して、眉をひそめる。
「ていうかさ、こんな場所で誰かが来たら余計ややこしいんだけど?」
「安心してください。
そこは手を回してあります。今日は誰も来ませんよ。厳重です!☆」
バチんと、童顔ボーイは美羽にとって憎たらしいウインクをかましている。
「それ、今こそ別の方向で使うべき“厳重さ”じゃない!?」
本気で頭を抱えたくなった。
しかし――
もうここまで来たら、やるしかない。
*
二人は体操服に着替え、道場の中央で向かい合った。
道場には、二人の足音と心臓の鼓動しかない。
窓の外では、白い雲がゆっくりと形を変え、
差し込む光に細かい埃がきらきら舞っている。
碧が構えた。
童顔の彼の雰囲気がすっと変わる。
「では――始めましょう。」
声と同時に、一気に距離が詰まった。
風が、美羽の頬をかすめる。
(速い……!)
初めて会ったときより、格段に速い。
踏み込み、体重移動、フェイント。
どれも無駄がなくて、綺麗で、だからこそやっかいだ。
腕を絡めてくる。
足元を狙ったフェイントからの蹴り。
受けて、いなして、半歩引く。
額から、汗がつっと流れた。
「どうしました?もう降参ですか?」
余裕の笑みを浮かべる碧。
(……ほんっと、この童顔ムカつくわ……)
でも、その動きは本物で。
気付けば息が上がっているのは、美羽の方だった。
(……でも、きっと勝てない相手じゃない。)
視線を走らせる。
碧の軸足。左肩。腰の入り。
ほんの一瞬だけ、均衡が乱れるポイントがある。
(見えた……)
さっき、一瞬だけ見逃した隙。
あれは、また出る。
碧が距離を詰める。
今度は横から、足を払うフェイント。
「もういいですよ? 僕がちょっと本気出したら、
きっと雨宮さん、飛んでいっちゃいますよ?」
「……上等じゃない。」
足を引き、呼吸を整える。
――来る。
碧が踏み込んだ瞬間、
わずかに腰が浮いた。
(今だ!!)
美羽は床を蹴った。
相手の足を払う、つばめ返し。
地面をなめらかに滑るような自分の軌道と、
視界の端でひっくり返る碧の身体。
「あっ――!」
碧がバランスを崩し、そのまま背中から畳に倒れ込んだ。
ドスン、と音が響く。
静寂。
息が荒い。
心臓が速い。
でも――この状況を表す言葉はひとつだけだった。
「……はい。おしまい。」
美羽は、額の汗を手の甲で拭い、
勝ち誇った笑みを浮かべた。
「私の勝ちね、碧くん。
約束通り、ちゃんとボディーガードしなさいよ?」
そう言って、倒れた碧に手を差し伸べる。
碧は、その手をじっと見つめたまま、
しばらく黙り込んでいた。
「ん? 碧くん?
え、嘘、もしかしてかなり痛かった!? ご、ごめ――」
その瞬間。
ぎゅっ。
差し伸べた手を掴まれ、身体ごと強く引かれた。
「え――」
視界がぐるりと傾く。
気付けば、床に背中を押し付けられていたのは美羽の方で、
上には碧の影と、道場の天井が重なっていた。
「って、えええええ!? 碧くん!?」
童顔の碧が、真上から覗き込んでくる。
距離が近い。
さっきの遼よりも、もっと近い。
碧は、真剣な目をして言った。
「僕、初めてなんです。」
「……は?」
意味がわからず、間抜けな声が出る。
「碧くん、とりあえず退いてくれるかな!?
息、かかってるし、近いんだけど!!」
「僕、生まれて初めて女の子に負けました。」
「え、あ、うん? それは……ごめん?」
「こんな感情、初めてなんです。
悔しい……という感情なんでしょうが、なぜかドキドキもしていて。
今までこんなことなかったのに――どうしてくれるんですか?」
「……へ?」
額から汗がすうっと流れ落ちる。
碧の声は真剣そのもので、
冗談を言っているようには聞こえなかった。
「そうだ、雨宮さん。初めての責任をとって、僕の彼女になってください。」
「は、はあああああ!?!?」
道場中に響くレベルで叫んだ。
(ちょっと待って!?
童顔で可愛い顔して、何突拍子もないこと言ってんのこの人!?)
頭の中がぐるぐると回る。
「と、とりあえず言ってる意味がわからないから退いてってば!!」
「嫌です。
雨宮さん、返事をしてください。僕はこの生まれて初めての感情に、真剣に困ってるんです。」
「こっちが困ってるんですけど!!?」
どう見ても人生初告白をかましながら、
一ミリも空気を読まない碧。
(やばい、ピンチ……!
これ、どうすればいいの……?!)
そのとき。
「何してんだ、お前は。」
低い声が、道場の入り口から響いた。
次の瞬間、ベリッと音を立てる勢いで、
碧の身体が美羽から引きはがされた。
視界が開ける。
見上げると、そこには――
眉間にしわを寄せ、あからさまに機嫌の悪い北条椿が立っていた。
「つ、椿くん……!」
思わず名前が漏れる。
碧は、さして焦った様子もなく立ち上がり、
首をかしげる。
「椿くんじゃないですか。どうしてここへ?」
椿は深くため息をついた。
「碧。お前な……勝負は許可したが、
美羽を口説く許可は出してねぇ。」
「っ……!?」
“口説く”というワードが突き刺さる。
(く、口説かれてたの私!?)
いまさら自覚して、道場の真ん中で真っ赤になる美羽。
一方碧の方は――
“自覚”という概念そのものがなかったのか、目を点にした。
そして、じわじわと顔が赤くなっていく。
「く、口説……
ぇ、僕は…、今のって……そういう……」
「本人が一番びっくりしてるし……」
美羽は額に手を当て、深くため息をついた。
(……本人も自覚なしだったのね。
ほんと、この学園の男子たち、誰か一人でいいから“普通の高校生”いないの?)
椿はそんな二人を見下ろして、冷静に言う。
「もう勝負はついただろ。
今日は俺が美羽を送っていく。碧、お前は頭冷やしとけ。」
その言葉と同時に、
椿は美羽の前に立ち、片手を差し出した。
「ほら、美羽。さっさと帰るぞ。」
差し出された手。
指先まで綺麗で、でも節はしっかりしていて、
力の強さを物語っている。
心臓が、ドクン、と鳴る。
(……ずるい。
さっきまで碧くんに押し倒されてパニックだったのに、
椿くんの手、見た瞬間、全部持っていかれてる……)
美羽は、そっとその手を握り返した。
ぐっと引き上げられ、立ち上がる。
そのまま、椿は手を……離さなかった。
「えっ、椿くん!?」
道場を出ても、廊下に出ても、
その手はずっと繋がれたままだった。
「い、いつまで繋いでるの?!」
「誰かに狙われたら面倒だろ。」
「で、でも……!」
「なんだよ、文句あんのか?」
横顔は相変わらずクールで、
でも耳の先が、ほんの少し赤いような気がした。
(……気のせい、だよね……?)
夕暮れの廊下。
窓の外の空は、水彩絵の具を溶かしたみたいなオレンジと群青のグラデーション。
二人の影が床に並び、
繋がれた手の分だけ、すこしだけ近くに寄り添って伸びていく。
心臓は、ずっと落ち着かないまま。
(……どうしてこんなにドキドキするんだろう。)
碧に押し倒された緊張も、
初告白みたいな宣言も――
全部まとめて、胸の中でぐちゃぐちゃに混ざっている。
その中で、ただ一つだけはっきりしていること。
(――やっぱり私、椿くんのことが好きだな…)
指先から伝わる体温が、
その事実を、静かに、でも確実に、焼き付けていった。
こうして今日もまた、
黒薔薇学園の放課後は騒がしくて、
そして、少しだけ甘く終わっていく。
明日、この手を離さない理由が、
“護衛”じゃなくて、
もっと違う名前で呼べますように――
そんな図々しい願いが、
美羽の心の片隅で、そっと灯っていた。
教室の窓から差し込む光はやけにまぶしくて、
黒板の文字はやけにぼやけて見えた。
――単に、美羽の目の下のクマのせいだ。
「……はぁ。」
席についた瞬間、三回目のため息。
そこへ、ガタッと椅子を引く音。
隣から身を乗り出してきたのは、もちろん莉子だった。
「で!ででで!! 昨日の遼くんとの下校はどうだったのよ!?」
朝イチからフルスロットルである。
「……どうもこうも、危ういというか……命がもたないというか……」
遠い目で窓の外を見つめる美羽。
夕焼けの中で、あの年上キラーと並んで歩く自分の姿がよみがえる。
距離が近くて、言葉が軽くて、でもちょっとだけドキッとしたりして。
(……いやいやいや、何思い出してんの私!)
「なにそれぇ!? 詳しく!詳しく教えなさいよぉー!」
「ちょ、揺らさないでってば、首取れる……!」
莉子に肩をぐらぐら振られていると――
「きゃーーーっ!!」
教室の前方から、女子たちの黄色い悲鳴があがった。
その名を呼ぶ声が、重なっていく。
「成瀬くんだ!」「碧くーん!」
黒薔薇の童顔スマートボーイ――成瀬碧が、爽やかな笑顔で教室に現れた。
くりっとした目、柔らかそうな髪。
ぱっと見は正統派アイドル、しかし中身は格闘技と勝負に命をかける変人である。
「こんにちは、雨宮さん。」
碧が、にこっと微笑んで手を振ってきた。
教室中の女子が、「雨宮さん!?」「雨宮さんて生徒会に入った子だよね……?」「また美羽ちゃん!?」と小声でざわつく。
(あ……そうだった。今日は付き添い、碧くん担当の日だったんだ……)
顔がひきつるのを自覚する。
隣で莉子が、きらきらを超えてギラギラした目で叫んだ。
「ちょっと美羽!! 昨日は遼くんで、今日は碧くん!?
ねぇそれもう黒薔薇逆ハーレムってやつじゃん!? 呪われてるって自分で言ってたけどさ、
それ完全にリア充の呪いだからね!? 交代制イケメン付きサイクルとか何それ!?」
「いや、そんな良いもんじゃないからね!?
これ全部、“脅迫状のせい”だからね!? 全然羨ましくないからね!?」
……と言いつつ、
教室の端で碧を取り巻く女の子たちを見て、ため息がこぼれた。
*
昼休み。
「雨宮さん、ちょっと来てください。」
そう言った碧に連れられてやって来たのは、
柔道部や武道系の部活が使う道場だった。
木の床が広がり、
白い壁、低い窓から差し込む光が畳の匂いを柔らかく照らしている。
「……なんか、嫌な予感しかしないんだけど。」
美羽は思わず呟いた。
碧は、いつもの童顔スマイルのまま、真剣な声で口を開いた。
「僕、考えたんですけどね?」
「う、うん?」
「雨宮さんともう一度勝負して、鍛え直せば――
今回の脅迫状を出した相手も萎縮して、手を出せないんじゃないかと思いまして!」
「……は?」
頭の中で、いま聞いた日本語を順番に組み立て直す。
「なので! 今から勝負しましょう!」
碧は両拳をきゅっと握って宣言した。
「いやいやいやいや待って。
目的、だいぶ変わってない!?
ていうか私、今“守ってもらう側”だよね!? なんで鍛錬側に回ってるの!?」
思わず全力でツッコミを入れた。
碧は首をかしげて、まるで本気で不思議そうにする。
「しかし、鍛錬と場数を踏めば、雨宮さんももっと強くなれますし。
万が一、脅迫状の相手が襲ってきても、二人で片付けたら一石二鳥じゃないですか?」
「いや、その発想が格闘家脳すぎるのよ!!」
心の中で叫ぶ。
(なんでこんな人に頼んだの、椿くんんんん!?)
何度言っても方向性を曲げない碧に、美羽はついに肩を落とした。
「はぁ、……とりあえず、勝負はするけどさ。
じゃあ、私が負けたら守ってくれるってことでいいんだよね?」
碧は目を瞬かせてから、ふんわり笑った。
「何言ってるんですか。
僕が勝ったら、雨宮さんが強くなるまで鍛え直して差し上げるつもりですよ。
ま、ないとは思いますが、万が一僕が負けたとしたら……そうですねぇ。
負けた時に考えるとします。」
「そこはボディーガードなんだから、“従います”でしょーが!!」
またもやツッコミ。
しかし、暖簾に腕押しとはまさにこのことだった。
ふと、美羽は周囲を見回して、眉をひそめる。
「ていうかさ、こんな場所で誰かが来たら余計ややこしいんだけど?」
「安心してください。
そこは手を回してあります。今日は誰も来ませんよ。厳重です!☆」
バチんと、童顔ボーイは美羽にとって憎たらしいウインクをかましている。
「それ、今こそ別の方向で使うべき“厳重さ”じゃない!?」
本気で頭を抱えたくなった。
しかし――
もうここまで来たら、やるしかない。
*
二人は体操服に着替え、道場の中央で向かい合った。
道場には、二人の足音と心臓の鼓動しかない。
窓の外では、白い雲がゆっくりと形を変え、
差し込む光に細かい埃がきらきら舞っている。
碧が構えた。
童顔の彼の雰囲気がすっと変わる。
「では――始めましょう。」
声と同時に、一気に距離が詰まった。
風が、美羽の頬をかすめる。
(速い……!)
初めて会ったときより、格段に速い。
踏み込み、体重移動、フェイント。
どれも無駄がなくて、綺麗で、だからこそやっかいだ。
腕を絡めてくる。
足元を狙ったフェイントからの蹴り。
受けて、いなして、半歩引く。
額から、汗がつっと流れた。
「どうしました?もう降参ですか?」
余裕の笑みを浮かべる碧。
(……ほんっと、この童顔ムカつくわ……)
でも、その動きは本物で。
気付けば息が上がっているのは、美羽の方だった。
(……でも、きっと勝てない相手じゃない。)
視線を走らせる。
碧の軸足。左肩。腰の入り。
ほんの一瞬だけ、均衡が乱れるポイントがある。
(見えた……)
さっき、一瞬だけ見逃した隙。
あれは、また出る。
碧が距離を詰める。
今度は横から、足を払うフェイント。
「もういいですよ? 僕がちょっと本気出したら、
きっと雨宮さん、飛んでいっちゃいますよ?」
「……上等じゃない。」
足を引き、呼吸を整える。
――来る。
碧が踏み込んだ瞬間、
わずかに腰が浮いた。
(今だ!!)
美羽は床を蹴った。
相手の足を払う、つばめ返し。
地面をなめらかに滑るような自分の軌道と、
視界の端でひっくり返る碧の身体。
「あっ――!」
碧がバランスを崩し、そのまま背中から畳に倒れ込んだ。
ドスン、と音が響く。
静寂。
息が荒い。
心臓が速い。
でも――この状況を表す言葉はひとつだけだった。
「……はい。おしまい。」
美羽は、額の汗を手の甲で拭い、
勝ち誇った笑みを浮かべた。
「私の勝ちね、碧くん。
約束通り、ちゃんとボディーガードしなさいよ?」
そう言って、倒れた碧に手を差し伸べる。
碧は、その手をじっと見つめたまま、
しばらく黙り込んでいた。
「ん? 碧くん?
え、嘘、もしかしてかなり痛かった!? ご、ごめ――」
その瞬間。
ぎゅっ。
差し伸べた手を掴まれ、身体ごと強く引かれた。
「え――」
視界がぐるりと傾く。
気付けば、床に背中を押し付けられていたのは美羽の方で、
上には碧の影と、道場の天井が重なっていた。
「って、えええええ!? 碧くん!?」
童顔の碧が、真上から覗き込んでくる。
距離が近い。
さっきの遼よりも、もっと近い。
碧は、真剣な目をして言った。
「僕、初めてなんです。」
「……は?」
意味がわからず、間抜けな声が出る。
「碧くん、とりあえず退いてくれるかな!?
息、かかってるし、近いんだけど!!」
「僕、生まれて初めて女の子に負けました。」
「え、あ、うん? それは……ごめん?」
「こんな感情、初めてなんです。
悔しい……という感情なんでしょうが、なぜかドキドキもしていて。
今までこんなことなかったのに――どうしてくれるんですか?」
「……へ?」
額から汗がすうっと流れ落ちる。
碧の声は真剣そのもので、
冗談を言っているようには聞こえなかった。
「そうだ、雨宮さん。初めての責任をとって、僕の彼女になってください。」
「は、はあああああ!?!?」
道場中に響くレベルで叫んだ。
(ちょっと待って!?
童顔で可愛い顔して、何突拍子もないこと言ってんのこの人!?)
頭の中がぐるぐると回る。
「と、とりあえず言ってる意味がわからないから退いてってば!!」
「嫌です。
雨宮さん、返事をしてください。僕はこの生まれて初めての感情に、真剣に困ってるんです。」
「こっちが困ってるんですけど!!?」
どう見ても人生初告白をかましながら、
一ミリも空気を読まない碧。
(やばい、ピンチ……!
これ、どうすればいいの……?!)
そのとき。
「何してんだ、お前は。」
低い声が、道場の入り口から響いた。
次の瞬間、ベリッと音を立てる勢いで、
碧の身体が美羽から引きはがされた。
視界が開ける。
見上げると、そこには――
眉間にしわを寄せ、あからさまに機嫌の悪い北条椿が立っていた。
「つ、椿くん……!」
思わず名前が漏れる。
碧は、さして焦った様子もなく立ち上がり、
首をかしげる。
「椿くんじゃないですか。どうしてここへ?」
椿は深くため息をついた。
「碧。お前な……勝負は許可したが、
美羽を口説く許可は出してねぇ。」
「っ……!?」
“口説く”というワードが突き刺さる。
(く、口説かれてたの私!?)
いまさら自覚して、道場の真ん中で真っ赤になる美羽。
一方碧の方は――
“自覚”という概念そのものがなかったのか、目を点にした。
そして、じわじわと顔が赤くなっていく。
「く、口説……
ぇ、僕は…、今のって……そういう……」
「本人が一番びっくりしてるし……」
美羽は額に手を当て、深くため息をついた。
(……本人も自覚なしだったのね。
ほんと、この学園の男子たち、誰か一人でいいから“普通の高校生”いないの?)
椿はそんな二人を見下ろして、冷静に言う。
「もう勝負はついただろ。
今日は俺が美羽を送っていく。碧、お前は頭冷やしとけ。」
その言葉と同時に、
椿は美羽の前に立ち、片手を差し出した。
「ほら、美羽。さっさと帰るぞ。」
差し出された手。
指先まで綺麗で、でも節はしっかりしていて、
力の強さを物語っている。
心臓が、ドクン、と鳴る。
(……ずるい。
さっきまで碧くんに押し倒されてパニックだったのに、
椿くんの手、見た瞬間、全部持っていかれてる……)
美羽は、そっとその手を握り返した。
ぐっと引き上げられ、立ち上がる。
そのまま、椿は手を……離さなかった。
「えっ、椿くん!?」
道場を出ても、廊下に出ても、
その手はずっと繋がれたままだった。
「い、いつまで繋いでるの?!」
「誰かに狙われたら面倒だろ。」
「で、でも……!」
「なんだよ、文句あんのか?」
横顔は相変わらずクールで、
でも耳の先が、ほんの少し赤いような気がした。
(……気のせい、だよね……?)
夕暮れの廊下。
窓の外の空は、水彩絵の具を溶かしたみたいなオレンジと群青のグラデーション。
二人の影が床に並び、
繋がれた手の分だけ、すこしだけ近くに寄り添って伸びていく。
心臓は、ずっと落ち着かないまま。
(……どうしてこんなにドキドキするんだろう。)
碧に押し倒された緊張も、
初告白みたいな宣言も――
全部まとめて、胸の中でぐちゃぐちゃに混ざっている。
その中で、ただ一つだけはっきりしていること。
(――やっぱり私、椿くんのことが好きだな…)
指先から伝わる体温が、
その事実を、静かに、でも確実に、焼き付けていった。
こうして今日もまた、
黒薔薇学園の放課後は騒がしくて、
そして、少しだけ甘く終わっていく。
明日、この手を離さない理由が、
“護衛”じゃなくて、
もっと違う名前で呼べますように――
そんな図々しい願いが、
美羽の心の片隅で、そっと灯っていた。



