夜の公園で助けた中学生の女の子は、泣きながらも「ありがとう」と言ってくれた。
その声が、意外と澄んでいて可愛かったのを覚えている。

「ねぇ、お姉ちゃん!名前、教えて!」
「え? あ、雨宮美羽。美羽でいいよ。」
「私はね、鈴!"北条 鈴"(ホウジョウ スズ)!」

「……え? ほうじょう……?」
どこかで聞いたことがある気がして、美羽は一瞬だけ首をかしげた。
でもすぐに、
「まぁ、そんなことはいっか!」
と能天気に笑った。

——その“北条”がどんな名前か、
この時の美羽はまだ知らない。




ーーー鈴という女の子。

鈴は、とにかくよく笑う子だった。
頬にえくぼができて、声が鈴みたいに可愛い。
助けたあともなかなか帰ろうとせず、美羽の袖をつかんで離さなかった。

「ねぇねぇ、お姉ちゃん、また会える?」
「え、いや……」
「会いたい〜! ね? 連絡先交換しよ?お願い!♡」
「うぅ……可愛い子にそんな顔されたら断れない……」

鈴の“お願い顔”にあっさり撃沈。
美羽はLIMEを交換した。
まさか中三の子に押し負けるとは。
(ある意味、私より強い……)

美羽は苦笑しながらも、指を立てた。
「でもね、鈴ちゃん。今日のことは絶対ナイショ。いい?」
「え〜、なんで〜? お姉ちゃん、めっちゃカッコよかったのに!」
「だ〜め!」
美羽は眼鏡越しにウインクして、小指を差し出した。
「ほら、小指。ゆびきりげんまん。絶対言わないって約束。」
「うぅ〜、わかった……ゆびきりげんまん。」

指を絡めて、ふたりで笑い合う。
「お姉ちゃん、ほんとに可愛い〜!」
「もう〜やめてよ、恥ずかしい〜!」

笑い声が春の夜に溶けていった。

そのあと連絡先を交換して、鈴を家の近くまで送っていく。
別れ際、鈴はにっこりと笑って言った。
「またお出かけしようね!」

手を振って走っていく背中が小さくなっていく。
美羽はふと、自分の胸に手を当てた。

(……誰かを守るための喧嘩って、悪くないかも)

そう思った瞬間、自分でハッとした。
(いやいやいや、だめだめ! バレたら即アウト! 安泰な学園生活が終わる!)

頭を振って、全力で“現実モード”に戻した。




ーーー翌朝、学校にて。

次の日の朝。
教室に入った瞬間、妙な空気が流れていた。

「ねぇねぇ、聞いた?」「マジ?」「ほんとに?」

みんなが何かをひそひそ話している。
莉子が駆け寄ってきた。
「美羽! 大ニュースだよ!」

「ど、どうしたの?」
「昨日ね、“青龍”の下っ端が何人かボコられたらしいの!」
「……ん?」
「黒薔薇を狙ってたチームだよ!? その青龍の子たち、それが、こてんぱんにやられたんだって! その人物が、“美人の女の子”だったらしいよ!」

(……は?)
背筋に冷たいものが走る。

莉子は目をキラキラさせながら続けた。
「もしかしてさ! レディースの登場かな?! やっば、ドラマみたい!」
「そ、そうなんだ〜! すごいね〜!」
無理やり笑顔を作る。
(も、もしかして……昨日のあれ……?)

額にじんわりと冷や汗がにじむ。
(いやいや、待って。昨日は眼鏡してたし、私服だったし。顔バレ……しないよね?)

心臓がドクドク鳴る。
一応、確認しておこうとスマホを開いた。
メッセージアプリに指を滑らせる。

> 美羽:昨日のこと、誰にも言ってないよね?
鈴:美羽ちゃん!大丈夫!鈴、友達には言ってないよ♡



「……“友達には”、ね」

引っかかるワード。
でも、“まぁいっか”の精神が勝ってしまう。
(うん、鈴ちゃんだし。大丈夫でしょ。……たぶん。)

胸の中でそう呟きながら、安心したような、モヤモヤしたようなため息をついた。




ーーー同じ頃──生徒会室(黒薔薇本拠)。

黒薔薇学園・生徒会室。
いつもは静かなその部屋に、今日は不穏な空気が漂っていた。

「なぁ、椿。例の噂、聞いた?」
爽やかな笑みで話しかけるのは、白石悠真。
生徒会副会長にして、黒薔薇の“爽やか腹黒”担当。
その笑顔はいつも柔らかいが、言葉の端にはどこか毒がある。

向かいのソファで書類をめくっていた北条椿は、眉間にしわを寄せたまま短く答える。
「あぁ、聞いた。……くだらねぇ。」

その声は低く、鋭い。
美貌だけじゃなく、威圧感まで持ち合わせた彼の存在に、
部屋の空気が少し冷たくなる。

「でもさ〜、ただの噂じゃないらしいよ?」
悠真は机の上に肘をつきながら笑った。
「昨日、青龍の下っ端がボコられた。で、その場に“女”がいたって話。しかも、めっちゃ美人らしい。」

「……女?」
隣のソファで、童顔の成瀬碧が目を輝かせる。
「えぇ、美人なのに喧嘩強いんでしょ? なんかロマンありますねぇ。僕、その子と勝負したいなぁ。」

「お前、単に喧嘩したいだけだろ?」
年上キラーの神崎遼が笑いながら言う。
「でも気になるね〜。俺も会ってみたいな〜。年上だといいけど♪」

「お前ら、浮かれすぎだ。」
椿が低くつぶやく。
「……昨日、鈴がその青龍の下っ端に絡まれた。」

「え……鈴ちゃんが?」
悠真の笑顔が一瞬だけ消える。
「どうやら、その“女”が助けたらしい。鈴が言うには“すごく綺麗で、強いお姉ちゃん”だとよ。……だがな、鈴は頑なに情報を吐かねぇ。」

「言わないって?」
「“約束したから”ってな。朝からそれで喧嘩になった。」
椿は額を押さえる。
「ったく、頑固なやつだ……」

ハッカーの藤堂玲央が無表情でPCを叩きながら言う。
「要するに、その女の正体を突き止めればいいんですね。」
「まぁ、そういう事だ。玲央、頼んだ。」

「了解。」
玲央の指がキーボードの上で静かに踊る。
ディスプレイに次々とデータが流れていく。

悠真がにこにこしながら言う。
「でもあんまり調べると、鈴ちゃん、また怒るんじゃない? お兄ちゃん?」
「……うるさい。」
「図星〜?」

「俺は鈴が心配なだけだ。」
椿の声が少し荒くなる。
それでも、その瞳の奥には確かに“妹を思う兄”の色があった。

静かな生徒会室に、カチリと時計の音だけが響いた。







その頃、
美羽は教室の窓際で風を感じながら、ぼんやり空を見ていた。

(あの子、鈴ちゃん……“北条”って、なんだかどっかで聞いたような……)
また思い出そうとして、
(まぁいっか!)
といつものように思考を打ち切った。

そんな自分に、
「……ほんと、危機感ゼロだなぁ」
と小さく笑う。

窓の外の桜がひらひらと舞って、
その花びらが机の上に落ちた。

——まだ知らない。
その小さな“出会い”が、
彼女の学園生活を大きく変えていくことになるなんて。