朝、目を覚ました瞬間から、なんだか世界が少しズレていた。

「……ん〜……ふぁぁ……」

寝ぼけ眼で洗面所に向かい、いつものように歯ブラシを手に取る。
今日の天気は晴れ。窓の向こうの空は、少しにじんだみたいに青くて綺麗だった。

(今日はいいことありそう……)

そう思った瞬間だった。

――ぱきっ。

「……え?」

手の中で、お気に入りの歯ブラシが真ん中から唐突に割れた。

「な……なにこれ!? 割れちゃったんだけど!?!?」

寝癖のついた髪のまま、洗面所で固まる美羽。
歯磨き粉がブラシからつるっと床に滑り落ちた。

(いやいや……朝イチでこれ!?)

朝の幸せゲージが一気にゼロへと急降下した。

そのままテンションが上がらないまま玄関へ。

「いってきまーす……」

靴を履き、スクールバッグを肩にかけた瞬間。

――ぶちっ。

「あ、え、ちょっと待って!? 今の音なに!?」

バッグに着けていたお気に入りのウサギのチャームが、無惨に地面へ転がっていた。

「うそでしょ……今度はチャームぅ!? 縁起悪くない!?」

泣きそうになりながら拾い上げ、ため息とともに登校へ向かった。






ーーー学園の昇降口。
いつもより、靴箱の扉が重く見える。

(今日……絶対ロクな日じゃないやつじゃん……)

おそるおそる蓋を開ける。

その瞬間。

――ストン。

真っ黒な封筒が入っていた。

「……え?」

美羽は反射的に蓋を閉めた。

パタンッ。

「……え、なに今の……黒い…手紙…?」

背筋がすっと冷える。

「こ、こわいんですけど!? 私……呪われてる?!」

震える手で封筒を拾い、そっと中を開く。

そこには、乱暴な筆跡でこう書かれていた。

"お前の秘密をばらされたくなければ
北条椿と白石悠真に近づくな!"

「……っ!」

心臓が跳ね、じわりと指先が冷たくなった。

どうして。
なんで“秘密”を知ってる人が……。
そして、どうして二人の名前が出てくるの……?

胸がざわざわと波立ったそのとき。

ぽんっ。

肩に手が置かれた。

「きゃぁぁぁーーーっ!!」

「えええ!? ちょ、美羽!? そんな驚く!?」

振り向くと、大きな目を見開いた莉子が立っていた。

「り、莉子……びっくりさせないでよ……!」

「いや、逆だからね!? 美羽の反応の方がびっくりだからね!?」

莉子はくすくす笑ったあと、美羽の手元に気づいた。

「え、なにそれ……真っ黒……手紙?」

「あ、いや、これは……!」

美羽の慌てた動きを見て、莉子の目がキラリと光る。

「まさか……ラブレター!? 黒いのに!? 新しいタイプ!?!?」

「ち、違う!! そんなのだったらまだマシだよ!!」

「え? じゃあなに? 脅迫状? ホラー?」

「いや……まぁ……ホラー寄り……かも……?」

美羽は観念して手紙を見せた。

莉子は覗き込み、眉をひそめた。

「えっ……なにこれ……怖っ。てか、“秘密を共有してる三人”って……なにそれ仲良しかよ!」

「ち、ちがうから!!」

莉子は心配そうに首を傾げる。

「でもさぁ美羽、大丈夫? なんかこれ……ほんとに怪しいよ……」

「うん……でも、まだ様子見してみる。誰かわからないし……」

その後も黒い手紙は続いた。
翌日も、その翌日も。

しかも……毎回一枚ずつ増えていく。

「え? 増える方式なの……?」

気味悪さが日に日に増していった。






そして次の日の夕方。

昇降口で靴箱を開けた瞬間。

また落ちる黒い封筒。

「……はぁ……」

開けば内容はさらにエスカレートしていた。

"言うことを聞かなければ
お前の秘密をバラす。
北条椿と白石悠真に危害を加えるぞ!"

美羽の心臓がぎゅっと縮む。

「……もう、私だけの問題じゃなくなったなぁ……」

そのときだった。

「おい、何してる。」

突然の低い声。

「えっ……!」

振り返ると――北条椿がいた。

夕方の光を背負ったその姿は、
誰よりも近寄りがたいのに、何よりも安心してしまいそうで。

美羽は思わず手紙を背中に隠した。

(やばいっ……!)

椿は細めた目で美羽を見つめた。

「ん?今……何か隠したよな?」

「えぇぇ!? な、何も!? 椿くんこそ、こんなとこでどうしたの!?!?」

「生徒会で話し合いするから、わざわざ呼びに来てやっただけだ。……で、また何か隠してるな?」

「なっ……何も……! ちょーっと……用事があって?」

椿は一歩近づく。

美羽は一歩下がる。

(ちょ、ちょっと近い近い近い!!)

「下駄箱に用事なんてそうそうねぇだろ。
後ろに隠してるもの……さっさと見せろ。」

「みっ……見せられないよ……!」

「ラブレターでも入ってたか?」

「そ、そうなの! ラブレターなのよ!だから関係ないでしょ?」

「黒いラブレターなんてあるか。」

「(うそ、あの一瞬で、みえてたの!?)」

椿はさらに一歩近づき、
美羽の顔の横に手を置いた。

どん。

「っ……!」

一瞬で距離を奪われ、視界いっぱいに椿の顔。

(ち、近っ……!近すぎないっ!?)

胸がどくどく鳴り、思考が真っ白になる。

「美羽?」

低い声が耳に落ちる。

「ひゃっ……ちょ、近すぎ……!」

押し返そうとするが、椿は微動だにしない。

「…言っただろ。
お前は女なんだから……俺に勝てるわけねぇよ。」

「っ……わ、わかってても……やってみなきゃわからないでしょっ!」

「へぇ……まだ競る気あるんだ?」

椿は美羽の両手を取ると、
あっという間に頭の上でまとめて押さえ込んだ。

「ちょ、ちょっとぉ!?!?」

身体が動かない。
顔が熱すぎて呼吸もまともにできない。

(む、無理……こんなの……反則じゃない……)

そのとき。

美羽の背中から、隠していた黒い手紙がばさばさっと落ちた。

「あっ……!」

椿はそれを拾い上げ、くるりと一枚めくる。

「最近は……真っ黒で不気味なラブレターが流行ってんのか?」

その口元が、意地悪く上がる。

「わああああ!! わかった!! 言うから!!
言いますからぁぁ!!」

顔が爆発しそうなほど赤くなりながら叫ぶ美羽。

椿は機嫌良さそうに手紙をヒラヒラさせた。

「ま、俺に勝てるって思ってんなら……勝負してやってもいいけど?」

その瞳は、どこまでも余裕で、どこまでも強引で。

美羽の心臓は、また今日も、彼の一言で掻き乱される。

――黒い手紙よりも、ずっと厄介な人だ。

そして美羽は知る。

“ほどけない距離”の正体は、
黒い封筒なんかじゃなくて――

北条椿その人だってことを。