後夜祭が終わった夜、校門を出た途端、世界から音が抜け落ちた気がした。
たぶん、花火の最後の光がまぶたの裏に残っているせいだ。
駅までの道をぼんやり歩き、電車に揺られ、家のドアを開け、ただ「ただいま」と言った。

部屋に入ってベッドにダイブする。
天井は、昼より少しだけ近く見えた。

(……夢みたいな夜だった)

スマホが小さく震える。
画面には、鈴ちゃんからのメッセージがいくつも並んでいた。

『文化祭めっちゃ楽しかった♡
友達との写真送るねー!
タピオカの行列、やばかった!!』



次の写真。笑顔の鈴。ピースする友達。
画面の向こうの楽しさが、部屋の空気を少し甘くする。
思わず口元がゆるんだ。

そして、最後のメッセージで指が止まる。

『"お兄ちゃん、珍しくご機嫌さんなんだけど、
美羽ちゃん何があったかしらない?"』



「……っ!」

スマホを枕に押しつけて、顔を真っ赤にする。
(ご機嫌、って……。だ、抱きしめられたことと関係ある……? ない、よね? ないかも。いや、ある……?)

心臓がばかみたいに騒いで、枕がかわいそうになる。
でも、その高鳴りはすぐに別の痛みに溶けた。

(……悠真くんの返事、あいまいなままだ)

“それでも僕は、美羽ちゃんが好きだよ?”

体育館で笑った悠真の顔が、胸の奥に引っかかる。

(どうしよう……ちゃんと、向き合わなきゃ)

私は、スマホの画面を伏せた。

――夜が静かに降りてきた。







翌朝。

文化祭翌日の学園は、いつもより小さな音で呼吸していた。
廊下に残ったテープの糊跡、階段の踊り場に忘れられた手作りの紙花。
昨日の賑やかさの亡霊が、薄く漂っている。

生徒会室のドアを開けると、空気が一拍、緊張した。

「おはようございます。」
声が少し上ずった。

「おはよー、美羽ちゃん。昨日はおつかれ!」
遼がソファに全身を投げ出しながら片手を振る。

「……おはよう。」
玲央は無表情でキーボードを叩き続け、画面の数字だけが軽やかに踊っていた。

椿は、いつもの席で資料をめくり、淡い光を背にしていた。
視線が一瞬だけこちらを掠めて、すぐ戻る。
その短い軌跡だけで、胸が少し跳ねた。

「やぁ、美羽ちゃん、手伝うよ。」
笑顔の温度はいつもどおり。白石悠真は、私の机の横に自然に立った。
ホチキス、配布物の仕分け、会議用のメモ。
流れるような動作と、冗談半分の軽口。
――まるで、昨日の“途中で止まった告白”なんて存在しなかったみたいに。

(……空気が、違う)

会話はいつも通りなのに、椿と悠真の間、ほんの少しだけ温度差がある。
見えない火花が、静かに散っている気がした。

「悠真。書類の順番、昨日の決裁順で揃えろ。」
椿の声は低く落ちる。

「了解でーす。会長は相変わらずクールだねぇ~。」
悠真はヘラっと笑う。
笑顔の裏に、薄い刃のようなものが一瞬のぞいた。
私の指先が、紙の角を探してさまよう。

「……ふぁあ。終わったら寝ていい?」
遼が大きくあくびをして、空気をほぐす。

そこで、碧が手をひょいっと上げた。童顔のまま、声は明るい。

「はいっ! あの、提案なんですが、 文化祭も一段落したことですし、ジュースで乾杯でもしません?」

玲央が即座に乗る。
「賛成。ついでに買い出し係は心理戦で決めよう。じゃんけんで。勝敗パターンも記録しておかないとな。」

「出たよ玲央くん。好きだねぇ~」遼が笑い、
「いいねぇ、お疲れさまパーティーしよーよ♪」

悠真はいつものテンションで手拍子。

椿が珍しく短く頷く。
「……そうだな。やるか。」

(椿くんが素直……!)

私は少しだけ肩の力が抜けた。
こんな何でもない“普通”が、いちばんありがたい。

机を丸く囲んで、合図を合わせる。
「せーの、じゃんけん――ぽん!」

結果を見た瞬間、私の心の声が素直に出た。

「あ……」

私と、椿と、悠真がグー。他の三人はパー。

(よりによって、この三人……!?)

喉がからん、と鳴った気がした。
視界の端で、椿は表情を変えない。
悠真は、少しだけ楽しそうに見える。

「悪い。俺はこのあと外部交渉がある。……悠真、美羽と買ってこい。」
椿の声はいつも同じ温度。けれど、私の耳には少しだけ冷たく響いた。

「そう? じゃあ――遠慮なく美羽ちゃんを連れていくね、会長?」
悠真はにこにこ。笑顔の端に、ほんの少しだけ棘の影。

(なんかやっぱり、ギスギスしてる……?)

「う、うん。じゃ、行ってきます!」
私は慌てて立ち上がり、資料の山から解放されたみたいに一礼して、ドアへ向かった。



ドアが閉まる。
廊下の静けさが、少しだけ冷たい。

並んで歩き出すと、悠真が横顔のまま、柔らかく笑った。
「ねぇ、美羽ちゃん。」

「なに?」

「昨日、眠れた?」

「う、うん。……ま、まぁ。」
(うそ。ぜんぜん)

「そっか。僕はあんまり寝てないや。美羽ちゃんのことずっと考えてたから。」

「な、なんでそんなこと……」

「事実だから。」
いつも通りの軽さ。
なのに、胸の奥をくすぐる。

外へ出ると、昼の光が白く眩しかった。
自販機の並ぶ校舎裏へ向かう途中、風が運んでくるのは、紙とインクの匂い。
片づけの音が遠くでカラン、と鳴る。

赤と青と白のボタンが並んだ自販機の前で、私はハッとした。

「あ。みんなの注文、聞いてないよ?」

悠真はすぐ笑って、軽く肩をすくめる。
「あぁ、問題ないよ。だいたいいつも決まってるから。」

「え、そうなの?」

「うん。遼は"ミルクティー"、碧は"いちごミルク"でしょ、玲央はブラックで、椿は紅茶。……で、僕も紅茶。」

「覚えてるんだ……。仲良いんだね。」

「そうだね。」
一瞬、笑顔の温度が下がる。
「ほんと、被るのは“好きな飲み物”だけにしてほしいんだけどねぇ?」

「え?」
意味がわからなくて首を傾げると、
悠真はさらっと話題を飛ばした。

「で、美羽ちゃんは?」

「わ、私は――桃! ももジュースにする!」
少し声が弾んで、自分でも笑ってしまう。

「了解。桃ね。」
悠真は小気味いいテンポでボタンを押し、取り出し口へ手を伸ばしていく。
缶やペットボトルが落ちる「ガコン」という音が、胸の鼓動と妙に揃った。

五本ほどそろったところで、彼がふいにこちらを見た。
瞳の色は、思ったより澄んでいる。

「そういえばさ――」
声が少しだけ落ちる。
「椿と、なんかあった?」

喉がつまった。
頭の中で、保健室の夜が一瞬にして再生される。
花火。月光。包帯。
近すぎる距離と、低い声。

「な、なんにもないよ?」
しどろもどろ。
自分でも、下手だと思う。

悠真は笑って、でも目の奥は笑っていなかった。
「ほんと? ちょっと顔、赤いけど?」

「き、気のせいだよ……っ」

「そっか。」
ペットボトルをまとめて抱え直しながら、彼はぽつりと言った。
「実はね、椿に怒られたんだ。」

「え?」
思わず一歩、近づく。

「“自分のことばかりじゃなくて、美羽の怪我も気にしろ”って。」
苦笑い。肩をすくめる仕草。
「だから――ごめんね。困らせたよね。」

「ち、違うよ。悠真くんは悪くない。」
言葉が自然に出た。
「私がちゃんと向き合ってなかったから。悠真くんは優しいし、強いし、ちょっと変なところもあるけど……ちゃんと気持ちを伝えてくれて、嬉しかった。……でも――」

「ちょっとストップ」
指先が私の言葉をそっと止めた。
「そこから先は、僕が言う。」

彼の横顔が、少しだけ大人びて見えた。

「わかりやすいよ、美羽ちゃん。……椿のこと、好きなんでしょ?」

視線がふっと彷徨う。
嘘をつくのは、きっともう、失礼だ。

「……うん。」
小さく、頷く。
世界が、いったん静止してから、やさしく動き出した。

風が光を運び、体育館のガラスに雲が流れる。
悠真は、目を細めて笑った。

「そっかそっか。」
声は軽いのに、胸の奥で微かな音がした。
「――まあ、美羽ちゃんの恋を“全力で”応援はできないけどさ。」

「……え?」

「椿に泣かされたら、僕のところにおいで。いつでも歓迎するから!」
にこっと、いつもの悪い王子さまの笑顔。
だけどその笑顔は、ちゃんと、あたたかかった。

「ゆ、悠真くん……っ、声が大きい!」
耳まで真っ赤になって、慌てて人差し指を唇に当てる。

「はは。……じゃ、戻ろっか。」
彼は片手でジュースを持ち直し、もう片手で自販機の取り出し口に残った一本を拾い上げる。
「桃、忘れずに。」

「ありがとう。」
受け取ったペットボトルが、手のひらでひんやりした。
その冷たさが、不思議と心に優しかった。

二人で廊下を戻る。
窓に映る影が並んで、揺れて、伸びて、重なる。

(ちゃんと伝えられたわけじゃないけど――
少しだけ、前に進めた気がする)

生徒会室の前で、私は一度深呼吸した。
空気をまるごと入れ替えるみたいに。

ドアを開けると、遼が真っ先に身を乗り出す。
「おそかったねぇ~。まさか、廊下でデートしてた?」

「まぁね。楽しくてさ?」
悠真はニコニコしながら、あっさり認めた。

「ち、違っ――」
慌てる私。
椿の視線が、こちらに触れた。

一瞬。
ただ、その瞬間だけで、胸がドクンと鳴る。
彼は何も言わない。けれど、ほんの少しだけ、口元がやわらいだ。

(――あ)

胸の中の何かがほどける音がして、私は視線をそっと逸らした。
手の中の桃のボトルが、まだ少しだけ冷たい。

「はい、分配分配。遼はミルクティー、碧はいちごミルク、玲央はブラック。で、会長は――」

「紅茶」
椿は視線を資料に落としたまま、短く答える。
その声は、昨日の夜より少しだけ、柔らかい。

「のーみーまーす! 乾杯の音頭は会長ね!」
遼のテンションが、部屋の空気を一段軽くする。

「……仕方ない。――お疲れ」
椿がペットボトルを軽く持ち上げた。
私たちも続く。

「お疲れさま!」
「ブラック良好。」
「いちごミルク最高~!」
「かんぱーい!」
「か、乾杯っ」
ペットボトル同士が、軽く触れ合った。
透明な音が、ふわりと広がって、天井に消えた。

私は、桃のやさしい甘さを一口。
喉をすべる冷たさが、胸の奥の熱を少しだけ冷ましていく。

椿の横顔。
悠真の笑顔。
玲央のカーソル、碧の無邪気、遼の冗談。
――この景色が、少し好きだと思った。

(大丈夫。ちゃんと、向き合っていこう)

私の中の何かが、静かに決意に変わる。
窓の外では、昨日の紙花が一輪だけ風に揺れていた。
光はやわらかく、日常は続いていく。

でも、昨日までと同じじゃない。
胸の奥に灯った小さな火は、もう、簡単には消えないから。