お姫様抱っこされたまま、どれくらい歩いたのかわからなかった。
廊下の蛍光灯が二人の影を長く引きずる。
窓の外では、夕暮れが紫に染まりはじめていた。
「ちょっ、ちょっと椿くん!? 下ろしてってば!」
「暴れんな。足が悪化するだろ。」
「だ、だからって……!」
「うるせぇ。」
低い声が耳元で落ちるたびに、美羽の心臓がどうしようもなく跳ねた。
(うそでしょ……距離、近すぎる……!)
息をするたび、椿の匂いがする。
少しシトラスに似ている、どこか懐かしい香りだった。
保健室の扉が開く音。
中は静かで、夕方の光がカーテン越しにやわらかく差し込んでいた。
椿はそっと美羽をベッドに下ろした。
「ほら、座れ。」
「……ありがと。」
少しの間を置いて、椿が無造作に言う。
「脱げ。」
「――――は?」
時が止まる。
「な、なに言って……っ、ちょ、椿くん!? 何脱げって!!」
顔が真っ赤になる。頭の中で警報が鳴り響いた。
椿は一拍置いて、口角を上げた。
「ばーか。靴下だっつの。」
「えっ……あ、あぁ……」
(そ、そういうことかぁぁぁぁ!)
顔から火が出そうだった。
「ってか! 紛らわしいのよ!」
ぷくっと頬を膨らませて言うと、椿は「悪かったなー」と笑った。
その笑みの奥に、ほんの少しだけ優しさが滲んでいた。
しゃがみこみ、美羽の足首に手を伸ばす。
包帯を外すその手つきは、思ったよりも丁寧で、静かだった。
包帯の下の足首は、赤く腫れていた。
「炎症起こしてるな。走りすぎだ。」
「え? そんなの見ただけでわかるの?」
「俺の兄が医者なんだ。子どもの頃、見よう見まねで覚えた。」
「へぇ……」
夕陽が椿の横顔を照らす。
頬のラインが光を受けて、いつもよりも大人びて見えた。
(……なんか、ずるい)
椿は冷たい氷嚢を手に取り、美羽の足首にそっと当てた。
「冷たいけど、少し我慢しろ。」
「う、うん……」
ひんやりとした感触が肌に伝わる。
じんわり沁みる冷たさに、痛みが少しだけ和らぐ。
「椿くん、ごめんなさい。後夜祭、もう始まっちゃうよね? 私ならもう平気だから……」
「別に。」
「え?」
「お前、放っとくとまた走るだろ。」
そう言って消毒液を取り出した。
シュッ。
少し沁みて、美羽は思わず声を上げた。
「っ……いたっ……」
「我慢しろ。こればっかりはしょうがねぇ。」
少しだけ柔らかい声音。
その優しさが、逆に胸に刺さった。
(なんでこの人、こういう時だけ優しいの……)
沈黙が続く。
遠くから、ドン――と花火の音が響いた。
「わぁ、……花火。」
思わず呟く美羽。
椿も手を止めて外に視線を向けた。
「綺麗……」
小さくこぼした言葉に、椿が息を吐く。
「で? 悠真と喧嘩でもしたのか。」
「え……あ……喧嘩、じゃないけど……」
目を伏せながら、美羽は小さな声で言う。
「……悠真くんに、また告白されたの。」
椿の手が止まった。
消毒綿を持つ指が、わずかに震えたのを美羽は感じた。
「そうか。」
短く、それだけ。
でも沈黙の中に、見えない波が広がった。
窓の外では、花火が連続して夜空を彩る。
金色の光が椿の横顔を照らす。
「……で? なんで走る必要があったんだ?」
その問いに、美羽は言葉を失った。
美羽の足にゆっくりと包帯を巻きはじめる椿。
伏せ目がちの彼の表情が光に染まる。
見惚れてしまうほど綺麗だった。
(あぁ……きっと、もっと前から――)
(気づかないふりをしてただけなんだ……)
「……私ね、」
声が震えた。けれどもう止められない。
「ずっと頑張ってきたの。
一生懸命でいることが正解だって思ってた。
でも、空手をやめて、自分を変えようとして……
“か弱い女の子”になれば、誰かに好きになってもらえるって思ってたのに――」
「……」
「どうして、悠真くんの言葉……
きっと嬉しかったはずなのに、心に響かなかったんだろうって……
どうして私は受け入れられなかったんだろう……」
頬をつたう涙が、足の脛に落ちる。
椿は顔を上げ、少し驚いたように美羽を見つめた。
「……悪い。痛かったか?」
「ちがう……」
震える声で、美羽は言った。
「心の方が、もっと痛いよ……」
右手で涙を拭おうとするけれど、止まらない。
椿は、そっと手を伸ばした。
「お前は……頑張りすぎだ。」
「っ……!」
息が詰まる。
次の瞬間、椿の腕が美羽を抱き寄せていた。
「泣くな。」
「……泣いてない。」
「泣いてるだろ。」
低く、少しだけ笑う声。
でも、その響きはどこまでも優しかった。
外では最後の花火が咲く。
赤、青、白。
空いっぱいに広がる光の中で、美羽は小さく囁いた。
「……椿くん……」
椿は静かに言った。
「美羽。お前は、俺に守られてろ。」
その一言に、胸の奥がじんと熱くなった。
美羽は涙の中で笑った。
それを見た椿の表情も、かすかに緩んでいた。
(……この瞬間、きっと一生忘れない)
外の空に光が散る。
保健室の窓に映る二人の影が、静かに重なって揺れた。
そしてその夜――
美羽の中で、“恋”という灯が、
確かに、静かに、燃えはじめた。
廊下の蛍光灯が二人の影を長く引きずる。
窓の外では、夕暮れが紫に染まりはじめていた。
「ちょっ、ちょっと椿くん!? 下ろしてってば!」
「暴れんな。足が悪化するだろ。」
「だ、だからって……!」
「うるせぇ。」
低い声が耳元で落ちるたびに、美羽の心臓がどうしようもなく跳ねた。
(うそでしょ……距離、近すぎる……!)
息をするたび、椿の匂いがする。
少しシトラスに似ている、どこか懐かしい香りだった。
保健室の扉が開く音。
中は静かで、夕方の光がカーテン越しにやわらかく差し込んでいた。
椿はそっと美羽をベッドに下ろした。
「ほら、座れ。」
「……ありがと。」
少しの間を置いて、椿が無造作に言う。
「脱げ。」
「――――は?」
時が止まる。
「な、なに言って……っ、ちょ、椿くん!? 何脱げって!!」
顔が真っ赤になる。頭の中で警報が鳴り響いた。
椿は一拍置いて、口角を上げた。
「ばーか。靴下だっつの。」
「えっ……あ、あぁ……」
(そ、そういうことかぁぁぁぁ!)
顔から火が出そうだった。
「ってか! 紛らわしいのよ!」
ぷくっと頬を膨らませて言うと、椿は「悪かったなー」と笑った。
その笑みの奥に、ほんの少しだけ優しさが滲んでいた。
しゃがみこみ、美羽の足首に手を伸ばす。
包帯を外すその手つきは、思ったよりも丁寧で、静かだった。
包帯の下の足首は、赤く腫れていた。
「炎症起こしてるな。走りすぎだ。」
「え? そんなの見ただけでわかるの?」
「俺の兄が医者なんだ。子どもの頃、見よう見まねで覚えた。」
「へぇ……」
夕陽が椿の横顔を照らす。
頬のラインが光を受けて、いつもよりも大人びて見えた。
(……なんか、ずるい)
椿は冷たい氷嚢を手に取り、美羽の足首にそっと当てた。
「冷たいけど、少し我慢しろ。」
「う、うん……」
ひんやりとした感触が肌に伝わる。
じんわり沁みる冷たさに、痛みが少しだけ和らぐ。
「椿くん、ごめんなさい。後夜祭、もう始まっちゃうよね? 私ならもう平気だから……」
「別に。」
「え?」
「お前、放っとくとまた走るだろ。」
そう言って消毒液を取り出した。
シュッ。
少し沁みて、美羽は思わず声を上げた。
「っ……いたっ……」
「我慢しろ。こればっかりはしょうがねぇ。」
少しだけ柔らかい声音。
その優しさが、逆に胸に刺さった。
(なんでこの人、こういう時だけ優しいの……)
沈黙が続く。
遠くから、ドン――と花火の音が響いた。
「わぁ、……花火。」
思わず呟く美羽。
椿も手を止めて外に視線を向けた。
「綺麗……」
小さくこぼした言葉に、椿が息を吐く。
「で? 悠真と喧嘩でもしたのか。」
「え……あ……喧嘩、じゃないけど……」
目を伏せながら、美羽は小さな声で言う。
「……悠真くんに、また告白されたの。」
椿の手が止まった。
消毒綿を持つ指が、わずかに震えたのを美羽は感じた。
「そうか。」
短く、それだけ。
でも沈黙の中に、見えない波が広がった。
窓の外では、花火が連続して夜空を彩る。
金色の光が椿の横顔を照らす。
「……で? なんで走る必要があったんだ?」
その問いに、美羽は言葉を失った。
美羽の足にゆっくりと包帯を巻きはじめる椿。
伏せ目がちの彼の表情が光に染まる。
見惚れてしまうほど綺麗だった。
(あぁ……きっと、もっと前から――)
(気づかないふりをしてただけなんだ……)
「……私ね、」
声が震えた。けれどもう止められない。
「ずっと頑張ってきたの。
一生懸命でいることが正解だって思ってた。
でも、空手をやめて、自分を変えようとして……
“か弱い女の子”になれば、誰かに好きになってもらえるって思ってたのに――」
「……」
「どうして、悠真くんの言葉……
きっと嬉しかったはずなのに、心に響かなかったんだろうって……
どうして私は受け入れられなかったんだろう……」
頬をつたう涙が、足の脛に落ちる。
椿は顔を上げ、少し驚いたように美羽を見つめた。
「……悪い。痛かったか?」
「ちがう……」
震える声で、美羽は言った。
「心の方が、もっと痛いよ……」
右手で涙を拭おうとするけれど、止まらない。
椿は、そっと手を伸ばした。
「お前は……頑張りすぎだ。」
「っ……!」
息が詰まる。
次の瞬間、椿の腕が美羽を抱き寄せていた。
「泣くな。」
「……泣いてない。」
「泣いてるだろ。」
低く、少しだけ笑う声。
でも、その響きはどこまでも優しかった。
外では最後の花火が咲く。
赤、青、白。
空いっぱいに広がる光の中で、美羽は小さく囁いた。
「……椿くん……」
椿は静かに言った。
「美羽。お前は、俺に守られてろ。」
その一言に、胸の奥がじんと熱くなった。
美羽は涙の中で笑った。
それを見た椿の表情も、かすかに緩んでいた。
(……この瞬間、きっと一生忘れない)
外の空に光が散る。
保健室の窓に映る二人の影が、静かに重なって揺れた。
そしてその夜――
美羽の中で、“恋”という灯が、
確かに、静かに、燃えはじめた。



