四月の風は、少しだけシャンプーの匂いがした。
新しい制服の襟を直しながら、雨宮 美羽(アマミヤ ミハネ)は大きな校舎を見上げた。
「わぁ……都会の学校って、ほんとにドラマみたい……」

掲げられた校章は、銀色の薔薇。
この学園の名前は——黒薔薇学園高等部。
父の仕事の都合で、田舎から転校してきたばかりの美羽には、
このキラキラした世界がまるで異国のように見えた。




ーーー入学式、ざわめく講堂。

「新入生代表、生徒会長・北条椿(ホウジョウ ツバキ)。」

マイクの音が響いた瞬間、
会場が**キャーーーー!**という黄色い声に包まれた。

「きゃー! 椿くーん!」「こっち向いてー!」
「やば、実物のほうが100倍かっこいいんだけど!」

美羽は耳をふさぎたくなった。
壇上に立つ男子生徒——確かに、見た目は完璧。
黒髪を後ろでゆるく束ね、制服は少し着崩し気味。
その横顔は彫刻みたいに整っていて、光を浴びるたびに世界が静止したように見える。

……でも。

「え、ちょっと待って。生徒会長が暴走族って、どういう仕組み?」

思わず口に出た言葉に、隣の席の女子がクスッと笑った。

「ふふっ、あなた面白いね。」
声の主は明るい茶髪の背の低い女の子だった。
ぱっちりした目に笑顔。都会の女の子って感じ。

「私、高城 莉子(タカシロ リコ)。あなたは?」
「えっ、あ、雨宮 美羽です。今日からこの学校に……」
「知ってる知ってる! だってここら辺では見たことない顔だもん!」

テンポが速すぎて、ついていけない。
でもその明るさが、少しだけ心を軽くした。

「ねぇ美羽ちゃん、今の見た? あの人たち、全員“黒薔薇”のメンバーなの!」
「黒薔薇?」
「そう! この学園を取り仕切ってる暴走族チーム! しかも、生徒会までやってるの!」
「えぇ……そんなハイブリッドいる?」

莉子は両手で頬を押さえながら、うっとりした顔をする。
「でも顔面偏差値バケモノ級なんだよ〜! SNSでもファンクラブあるし!」
「……へぇ。まぁ、かっこいいんだろうけど……」
「興味ない感じ?」
「うん。どっちかって言うと、騒がれてるうるさい人苦手かも。」

莉子はぽかんとしたあと、笑い出した。
「あははっ、やっぱり美羽ちゃんは面白いね!」
「そうかな……?」
「うん! じゃあ今日から友達決定!」

初めてできた都会の友達に、美羽は少しだけ笑った。




ーーー日常、穏やかな日々。

春がゆっくりと夏の匂いを運び始めた頃、
美羽は学園生活にもだいぶ慣れてきた。

授業中に当てられても答えられるようになったし、
お昼休みには莉子とお弁当を食べて、
放課後には笑いながら帰る毎日。

ただ——
ひとつだけ、少し困っていることがあった。

「ねぇ、雨宮さんって、今度の日曜ひまだったりする?」
「え? あー、ごめん。その日はちょっと……」

男子に話しかけられることが増えていた。
それだけならまだしも、廊下を歩けばヒソヒソ声が聞こえる。

「可愛くね?」「ほらあの子だよ、」「あの笑い方、天使じゃね?」

なんて、どう反応すればいいか分からない。
田舎では“普通”だったのに、都会だと“目立つ”らしい。

「また断ったの? 美羽ちゃん〜もったいな〜い!」
莉子が呆れ顔で言う。
「今の子、バスケ部キャプテンだよ? かっこよかったじゃん!」
「うーん……優しいけど、なんか違うの。」
「えー、贅沢!」

美羽は、少し照れながら笑った。
「私ね、弱い男って興味ないの。」

「……なにそれ! 強さってどういう意味?!」
莉子がぐいっと顔を寄せる。
「もしかして、美羽ちゃん……喧嘩とか強い系?」

「ち、ちがう! そういう意味じゃなくて!」
慌てて手を振る。
「ほら、精神的な強さというか! 根性とか、そういうの!」
「ふ〜ん……ほんとぉ?」
「ほんとだよぉ〜。」

(……ふぅ、危なかった)
心の中でため息をつく。
本当のことなんて言えない。
“空手三段”なんて言ったら、絶対引かれる。
この雨宮美羽の"安泰な学園スローライフ"が
かかってるんだから!




ーーー春の夕方、都会の風。

その日の夕方。
ベッドに寝転がって、スマホをいじる。
画面の明かりがまぶしくて、ブルーライトカット眼鏡をかけ直す。

(なーんか……アイス、食べたいかも!)

時計は18時過ぎ。
「まだ間に合うよね?」
そう呟いて、美羽は部屋を出た。

外の空気は少し冷たいけど、心地いい。
制服から私服に着替えた美羽は、春色のカーディガンにデニムスカート。
「溶ける前に帰らなきゃ〜♪」
鼻歌まじりにコンビニでチョコミントアイスを買い、足早に歩く。

そのとき——。

「やめてっ! 誰か、助けて!!」

か細い声が、夜風に混じって聞こえた。

美羽は足を止めた。
少し先、公園の暗がりで、数人の男たちが女の子を囲んでいる。
中学生くらいの子だ。制服も違う。
泣きながら、必死に助けを求めている。

(……関わらない方がいい)
そう思うのに、足が勝手に前へ出る。

「ねぇ、離してあげなよ?」
声が出た。思っていたよりもはっきりと。

「……は? 誰?」
「何見てんの?」
「通りすがりの高校生ですけど?」

不良たちの目が、美羽に向く。
その中のひとりがニヤッと笑った。
「あ? よく見たら、君も結構可愛いじゃん~。」
「…は?」

ぞわりと背筋が冷たくなる。
女の子から、彼らの視線が美羽へと完全に移った。

(あー……面倒くさい展開になった)

「ねぇ君、俺らと遊ばない?」
「いや、アイスが溶けるから無理。」
「は? アイス?」

美羽はチョコミントアイスを手の中でくるくる回した。
「そう、これ。溶ける前に食べたかったんだけどね!!——」

ベチャッ。

アイスが、不良の顔面に命中した。

「なっ!? なにすんだテメ——」

その瞬間、美羽の身体が自然に動いた。
一歩、踏み込む。
掌底。肘打ち。回し蹴り。

動きは静かで、でも正確だった。
数秒後、地面に転がっているのは彼らの方だった。

「……っよし、終わり!」
髪を整えて、息を整える。

泣いていた女の子が震えながら顔を上げた。
「お、お姉さん……すご……」
「ふふ、大丈夫? もう怖くないからね。」
「う、うん……! ありがとう……!」

美羽は微笑んで、その子の頭を軽く撫でた。
「泣かないで。ほら、帰ろっか。家まで送ってってあげる!」

手を引いて歩き出す。
夜風がふたりの髪をそっと撫でた。

——溶けたアイスの棒が、街灯の下でキラリと光る。