蒼天のグリモワール 〜最強のプリンセス・エリン〜

浮遊(レヴィターレ)!」

 高度三千メートルにある浮遊大陸から自由落下していたわたしの身体を、スッポリと重力遮断フィールドが包みこんだ。
 湖面まで百メートルを切った辺りで、慣性すら無視してピタっと止まる。

 昇ったばかりの朝日が宙に浮いたわたしをまぶしく照らし出す。
 黒いゴスロリ服に黒いブーツ。背中には、黒い小さな羽根つきリュック。
 どれも新品な上、とても良い仕立てをしている。
 どこからどうやって調達したのか知らないが、契約成立の証として、一式、アルがプレゼントしてくれたものだ。

「魔法は正常に発動している。対魔法防御(シールド)に覆われた今のわたしには、強制遮断も効かなさそうね」

 体内の魔法回路(マジックサーキット)をチェックしたわたしは、風に乱れた服と銀髪とを簡単に整えると、再び魔法陣にアクセスした。

降下(デッシェンソス)
 
 今度は足先を下に、音も立てずに降下する。
 先ほどまでの落下の際は、服が風にバタバタとあおられ激しい音を立てていたのだが、今度は見えない箱にでも入っているかのように、服が全くひるがえらない。
 悪魔王ヴァル=アールとの契約の影響で金色から銀色に変わってしまったツインテールが、わたしの頭の動きに合わせて揺れる程度だ。

 そのまま真っ直ぐ下に降りたわたしは、地面に降り立つかのように、静かに湖面に着地した。
 湖面に波紋が広がるも、足元の黒いブーツは全く水に濡れない。

「ふむ。問題なさげだな、エリン」

 同じく湖面に平然と立つ白猫が声をかけてきた。
 背中に天使のような白い羽根を生やした、身長五十センチほどの二足歩行の白猫、アルだ。
 天使の使いのような見た目をしているが、この白猫、名をヴァル=アールと言って、実は悪魔たちを束ねる王だ。

 わたしは準備運動でもするかのように、その場で手先足先をグルグルと回して確認してみたが、特に異常は感じられない。いたって正常。

「魔力がみなぎっているのを感じるわ。多少身体の節々(ふしぶし)が痛いけど、その程度かしら。銀色に変わってしまった髪は慣れるしかないわね。で? これで本当に変わっているの?」

 確認のつもりか、アルがわたしの周りを歩いて一周する。

「エリンとの契約は、いわゆる婚約(エンゲージ)だからね。この先、体組織から魂の色から、悪魔王の花嫁にふさわしい姿に――何から何まで人間とは違うモノに変化する。とはいえその変化はゆっくりだし、多少調整もしたからそこまで見た目が変わることもないだろう。ボクはこう見えてエリンの容姿が気に入っているんだ」

 異常なしと判断したのか、アルは背を向けると、波打つ湖面を岸に向かってスーっと移動し始めた。
 歩きではない。直立不動で、足を一切動かすことなく移動している。
 わたしもそれを真似て移動してみる。

「わたしの容姿って言ったって、アルはメダカの背びれの色と同等の価値感でしか見ていないでしょうに」
「だってボク悪魔だもん。人間と感覚が違うのは当然さ。まぁでも、これでエリンは晴れて不老不死になったわけだ。レオンハルトやクロードの『限りなく不老不死っぽい』変化ではないよ。完全に不老不死。老いないし死なない。首が分断されてもキミは生きている」
「それはそれで、げんなりする話よね」

 程なく前方に桟橋(さんばし)が見えてきた。
 ここからでも分かるくらい、人が大勢待ち構えている。

 本来であれば、近辺の漁師の家々からは朝餉(あさげ)の支度で湯気が立ち昇っている時間だが、今朝は全く出ていない。
 一人残らず桟橋に集まっているのだろうか。 
 だが、桟橋で待つのは一般人だけではなかった。

 悪魔の超感覚で、この距離でも詳細に見える。
 そろいの銀色の鎧を着た集団が百人ほど。これはフランシア兵だ。
 率いているのは治安維持部隊隊長のグレイのようだが、なんと城主・ヴィード=フランシアまでいるようだ。

「兵士がいるわね……。どう思う? アル。まだ洗脳、残っていると思う?」
「ここからじゃ分からないな。だけどエリン、対人戦闘をするなら充分に気をつけろよ? 今のキミは、魔力や筋力が尋常じゃないレベルで倍増している。光弾一発で人が消し飛ぶし、ちょっと強めのパンチを放てば相手の土手っ腹に大穴が開くぞ。人を殺したくなければ威力を抑えろ」
「そーりゃ大変だわ」

 警戒しつつ桟橋に上がったわたしの前に、ヴィードが立った。
 だが次の瞬間、ヴィードはわたしを前に片膝をついた。
 背後にいたお付きの兵士たちも、一斉にそれに(なら)う。

「お待ちしておりました、エリン姫」
「……洗脳は解けたってことかしら?」
「どうでしょう。五百年前ならいざ知らず、今の今まで我々にとってイーシュファルト王国はどこか別の国のおとぎ話に過ぎなかったので、正直そこの民と言われても全く実感がありません」
「でしょうね」

 ヴィードが片膝をついたまま、空を見た。

「ですが、今の我々にはあの浮遊大陸が見えますし、目の前の貴女と城の肖像画が同一人物だと認識できるようになっております」
「肉壁が消えたおかげね」
「遥か上空に浮かぶ大陸。もちろん行ったことなどありませんが、こうして見ていると、なぜか誇らしさを感じるのです。そして姫、湖上を渡る貴女の姿を見て、我々にむくむくと忠誠心が湧いてきました。それはまるで、今ようやく本当の(あるじ)(あい)まみえたような、そんな感覚なのです」

 ヴィードは腰に()いていた剣を鞘ごと抜くと、柄をわたしに向かって差しだした。
 騎士の誓いだ。
 わたしは剣を引き抜くと、その平をヴィードの肩に当てた。

「あなたの忠誠を受けましょう、ヴィード。その身が果(みは)てるまで、我に仕えよ」
「ありがとうございます、姫」

 城主であるヴィードから忠誠の誓いを受けたからには、その城に所属する全員からの忠誠をも得たという意味になる。
 わたしはそこにいる全員に向かって『立て』とジェスチャーをした。
 皆立ち上がると、誇らしげな表情でうなずく。

「では我が騎士・ヴィード。あなたに対しての最初の命令よ。周辺住民を連れて一刻も早くここを離れなさい。兵を総動員して町の人に避難指示を。戦場は湖上を想定しています。津波が押し寄せる可能性があるから、高い場所のほうがいいわね。あまり時間がないから急いで」
「姫、我々にできることは?」
「ない。むしろ邪魔よ。勝負は一瞬でつく。あなたたちのすることは、わたしが戦闘している間、民を守ること。大丈夫、わたしは勝つわ。さぁ行きなさい!」
「分かりました、姫。総員、撤収だ! グレイ! 何人か連れて町へ行け! 町の人を、急ぎ丘の上のフランシア城まで避難させるんだ!」
「はっ!」

 兵士たちの護衛で、漁師たちが荷馬車に同乗して急いで移動していく。
 それを見送ったわたしは、再び湖面に立つと、移動を開始した。

 クロード=フランシアの気配がする。おそらく近くまできている。
 この近辺が多少なりとも無人になることを待っててくれているようだけど、そんな優しさが残っているとはね。
 そして湖の中央辺りまで移動したところで、わたしは敵――クロード=フランシアと相対したのであった。