伯爵令嬢になった世界では大切な人に囲まれ毎日が輝く2

 学祭が無事に終わり、次の日は学祭の振替休日として屋敷でゆっくりと心と体を休めたおかげで疲れはすっかりほぐれ、学祭から二日後の今日、学園にいつも通り登校して来ていた。

 アンリのスッキリとした気分とは裏腹に天気は生憎の空模様。雨までは降っていないが、いつ降り出してもおかしくない天気だ。

 そして今日アンリは珍しく一人で別館にいた。と言うのも、数分前まで朝一の授業を終えたフレッドとミンスと共に紅茶を飲みながらお喋りをしていたのだが、午前の授業を終えたクイニーとザックが現れると昼休憩の時間に頼みたい事があると誰からか頼まれたのだと言って、フレッドとミンスを連れて本館へ向かってしまった。

 アンリ一人のクラブは時が止まっているような静寂が漂う。思い返してみれば、いつもこの部屋には誰かが居たし、アンリ一人になる事は初めてだ。
 不思議とソワソワした感覚を覚えながらも、シェルフから本を一冊取ると、本館へ向かった彼らが戻るまで読書して待つ事にする。

 どれくらい経っただろうか。静かだった部屋に扉をノックする音が響き渡る。
 だがもし扉の前に立つ人物がフレッド達ならそれぞれ一本ずつ鍵を持っている為、わざわざノックなんてしない。となれば、誰だろうか。

 不審に思いながらもゆっくり扉を開けると、人参色の長髪を一つにまとめた姿がトレードマークとなっているキューバがいつもの笑みを浮かべて立っていた。キューバとは一昨日、大講堂の楽屋で顔を合わせたのが最後だ。

「アンリちゃん、一昨日ぶりだね!」
「キューバ先輩!どうしたんですか?」
「ううん、大した用事は特になかったんだけど、前にアンリちゃんがクラブに入ってるって言ってたから、どんな事をしてるのかなって気になって様子を見に来たんだ」
「そうだったんですね。あ、でも今、他のみんなは出払っちゃってて…」
「そうなの?じゃあアンリちゃんも暇だろうし、彼らが戻って来るまで一緒にお喋りでもしない?」

 キューバはアンリからの許可を貰う前に部屋の中に入ってくる。
 クイニー達はクラブに余所者を入れる事を嫌っているが、キューバのことは全く知らない人というわけでも無いし、後から説明すれば大丈夫だろう。

 キューバにはソファーに座っているように促し、アンリは紅茶を淹れに向かう。
 温かい湯気の立つお湯を茶葉を入れたポットに注ぐと、蒸れるまで三分ほどの時間がかかる。キューバに背中を向け、二つのカップを準備しながら声を掛ける。

「先輩は紅茶にお砂糖は入れますか?」
「うん、じゃあお願いしようかな」
「分かりました」
「にしてもこの部屋、他のクラブの部屋に比べてかなり広いんじゃない?アンリちゃんはいつもここで彼らと一緒に過ごしているの?」
「はい、授業が無い時間は大抵ここに居ますね」
「…そっか」

 キューバは一段と低い声を出すとソファーから立ったのか、足音が近づいてくる。そしてアンリが振り返る前に体を拘束されてしまう。

「アンリちゃん、それで抵抗しているつもり?ほら、こうしてアンリちゃんの体を抱きしめちゃえば、もう身動き取れないでしょう?」

 キューバは強引にアンリを引き寄せると長い腕でアンリを抱きしめる。キューバの表情はいつもと変わらないはずなのに、浮かべている笑みが今はただただ恐ろしく、抱きしめられた体温と感触が気持ち悪い。
 長身のキューバを怯えた目で見つめても、その表情からキューバが何を考えているのか分からない。

「なんでこんな事を…」

 震えた声で疑問を口に出すと答えはすぐに返ってくる。

「そんなの、アンリちゃんを俺のモノにする為に決まってるじゃん」
「どういう意味ですか…」
「アンリちゃんは知らないだろうけど、去年オーリン家で開催された舞踏会、俺も参加していたんだ。そこでアンリちゃんを初めて見たとき、一目惚れした。それですぐに声を掛けようとしたのに、他の子息達が先にアンリちゃんに近づいた。まぁあの時は執事や友達が間に入って助けたみたいだけど」

 キューバが言っているのはアンリの社交界デビューを兼ねて開かれた舞踏会の事だろう。ファーストダンスを終え、コンサバトリーで軽食に目を奪われていると男達に声を掛けられ、アンリはキッパリと誘いを断ったものの、男達は話を聞いてくれないどころか、助けに入ったフレッドにまで手を上げた。
 あの時はミンスやクイニー、ザックのおかげでその場が落ち着いたものの、アンリにとっては苦い記憶だ。

「それ以降、タイミングを見計らってアンリちゃんに近づこうとしても学園ではいつもあの男達と一緒に居るし、アンリちゃんも彼ら以外に対しては警戒心むき出し。そんなアンリちゃんに近づいても見向きもされないだろう?だからどうやって近づこうかって考えていたんだけど、名案を思いつく前にアンリちゃんが俺の目の前に現れた。演劇の授業でアンリちゃんの姿を見たとき、運命だって思ったんだ。これはきっと神が俺に授けたチャンスだって」

 口調や態度、何もかも豹変したキューバはまるで一昨日の舞台でキューバ自身が演じていた王子そのものだ。王子も普段から愛嬌を振りまき周囲の信頼を獲得するが、実は全て姫を自らのモノにするための作戦だった。今、アンリを抱きしめるキューバはそんな王子にそっくりだ。

 冷静にそんな事を思うが、今はそんな事に脳を働かせている場合じゃない。なにより、何をしてくるか予想も付かないキューバをどうにか引き離したい。
 腕をどうにか動かしてみようと試みるが、残念ながらアンリの力じゃビクともしない。

 キューバは有無を言わせる前にアンリを抱き上げる。

「こら、アンリちゃん。暴れたら危ないよ。舞台の時は大人しく抱えさせてくれたでしょう?」
「ちょっ、どこ行くんですか!」
「昼休憩の時間にアンリちゃんを抱えて別館を出たら目立っちゃうから、外が落ち着くまで時間を潰そうと思って。それに、この部屋の隣には丁度良い寝室があるじゃん」

 軽々とアンリを抱えるキューバは、どれだけ手足を動かして抵抗しても無駄だと言う様に寝室へ入っていく。

 寝室に入ると勢いよくアンリをベッドへ押し倒したキューバはアンリへと跨がる。どんなに手足をバタつかせても、キューバは不気味な笑みを向けるだけだ。

 フレッド…。クイニー…。ミンスくん…。ザックくん…。
 もう彼らが早く戻ってくることを願うしか出来ない。

 アンリが一縷の望みを託している事を察してか、キューバは「残念」と笑う。

「アンリちゃんは”友達”が帰ってくるのを待っているのかもしれないけど、無駄だよ。だって彼らを呼び出したの、俺だもん。今頃、俺が呼び出した教室で一向に来ない俺を待ち続けているよ」

 キューバは笑いながらアンリを絶望の淵に追いやる。アンリの表情は歪み、真っ青だ。

「誰か…」

 叫んで助けを呼ぼうにも、あまりの恐怖に声が震えてしまう。そしてどれだけ大声を出せたとしても、別館の部屋は扉を閉めてしまえば遮音されてしまい、ちょっとの物音や声は外に一切聞こえない。

「さぁアンリちゃん、時間はたっぷりある。まずはその小さな唇、貰おうかな」

 反射的に顔を逸らしたアンリの顎を掴み強引に正面を向かせると、キューバは顔をゆっくりと近づけてくる。

 今にも唇と唇が触れてしまうのではと思う所まで顔が近づいてきた時だった。

「アンリちゃん!!」

 部屋の扉を勢いよく開ける音と共に、アンリの名を叫ぶ声が耳に入る。

「ミンス、くん…?」

 キューバが跨がっているせいで声の主の顔を見る事は出来ないが、男の子にしては高い声。そのすっかり聞き慣れた声はミンスだ。

 予想しなかった来訪者に驚いてか、キューバがアンリを拘束する力が一瞬緩まる。その隙を見逃さず、力いっぱいにキューバの体を押すとキューバはバランスを崩す。
 アンリは急いでベッドから降りるが、体に上手く力が入らずに立つ事が出来ない。
 ミンスはすぐにアンリの元へ駆け寄ると、震える体を支えてくれる。

「アンリちゃん、ごめん。遅くなっちゃった。でももう大丈夫だからね」
 
 いつもの何十倍も優しい声をアンリへ向けると、ミンスはキューバに向き直る。その横顔にはいつもの可愛げな表情は消え、まるで別人の様だ。