***
「「ありがとうございました」」
今日の授業は主にアンリとカリマーのシーンをメインに練習が進んだ。前回までの授業と違い、大道具が実際に置かれた事でイメージが具現化され、いつも以上に演技に熱中できて楽しかった。
集会室を出たアンリはカリマーと二人、並んで廊下を歩いていた。本当は授業を終え、集会室でそのまま話をするつもりだったのだが、キューバが何かと絡んできて話しにならなかったため、歩きながら話す事になったのだ。
「昨日話した看板用の板は既にクラブに運び込んであります。それと、デザイン案はこちらになります。看板は学祭前日に吊り下げる予定なので、それまでに完成させるようにお願い出来ますか?」
「分かりました。色々とありがとうございます」
「アンリさんはこれからクラブですか?」
「はい、その予定です。先輩は?」
「僕はこれから会議なので、途中まではアンリさんと一緒です」
カリマーとはキューバを交えて話す事があっても、二人っきりで話すのは初めてだ。聞きたかった事を聞くのなら、今が丁度良いタイミングかもしれない。
「カリマー先輩、一つ聞いても良いですか?」
「なんでしょう?」
「先輩は目立ったり、人前に立つ事は好きじゃないって言っていたじゃないですか。それなのにどうして舞台に立ったり、生徒会長まで務めているんですか?」
ずっと不思議だった。人前に立つのは好きじゃないと自らの口でカリマーは言っていたにも関わらず、たくさんの選択科目が存在する中から自ら演劇を選んでいる。そして生徒会長にまでなっている。
選択科目については基本的に自分の選んだ科目を受ける事が出来るし、生徒会になるには推薦されてなる事もあるようだが、推薦されたからと言って必ず引き受けないといけないなんて決まりはない。それこそ生徒会長なんて、自らの意思がなければ引き受けないだろう。
「そうですねぇ、生徒会長を引き受けた事については現副会長のお願いを断れなかったんですけど…」
「副会長…。あ、もしかして昨日の実行委員会の時に先輩の隣にいた眼鏡をした女の子の事ですか?」
「はい、そうです。彼女は一応、僕の幼馴染で婚約者なんです」
「えっ!先輩、婚約者がいるんですか?!」
アンリが声を大きくして驚けばカリマーは目元を緩めながら頷く。
「僕は昔から彼女のお願いを断る事が出来ないんです。それこそ彼女が僕に何かをお願いしてくる事自体が少ないですから、頼まれた事は出来るだけ叶えてあげたいんです」
「大切な人、なんですね」
「そんな風に改めて言われると照れますが、まぁそうですね」
優しい表情で微笑むカリマーはきっと昨日アンリも一度だけ姿を見た彼女の事を脳内で思い描いているのだろう。
「それと僕が舞台に立つ理由、でしたね。それについては純粋に、僕が僕ではない誰かを演じている時間が好きだからです。アンリさん、アンリさんの知っての通り、普段の僕は気を張っていないと無口ですよね」
「えっと、はい…。どちらかと言うと…」
「僕自身、人と話をするのはあまり好きじゃないんです。特に上辺だけの付き合いの人とか…。色々と気を遣わないといけないですから。それでも役という形で台詞を読んでいると、その人の人生を体験しているようで楽しいし、誰かを演じている時の僕は生き生きとして居られる気がするんです」
「確かに、先輩って練習が始まると楽しそうですよね」
「舞台に立っている時もあまり観客の方達に見られているという感覚が無いんです。それこそ、舞台の中の世界で実際に過ごしている感覚で…」
「なるほど…」
初めて演技の練習をした時から感じていた事だが、カリマーはひとたび役に入り込むと本当に楽しそうで生き生きとしているのだ。それこそ、普段の無口な彼がまるで幻かのように。
先生や他の学生達の視線が集まる中、人が変わったようにあれだけ堂々と演技をしていたのは、演技をしているというよりも自分とは違う誰かの人生を追体験して楽しんでいたからだったんだ。その感覚はアンリが読書を好きだと思う理由と似ている気がする。
「アンリさんは楽しいですか?」
「…楽しいです!もちろん初めは私で良いのかって悩んだし、今でも葛藤はあります。でもいざ演じると楽しくて、嫌な事とか余計な事も全部忘れているんです」
「そうですか」
カリマーは一息つくと、表情を硬くし足を止める。アンリも一歩遅れて立ち止まるとカリマーと視線を合わせる。
「…アンリさん、アンリさんの言う嫌な事って女学生達の事ですよね」
「えっと、それは…」
「すいません。僕も彼女達が貴方を悪く言っているのは知っていたんです。でも舞台に立たない時の僕では弱気になってしまって…」
カリマーは眉を下げると申し訳なさそうな表情を浮かべる。だが女学生達はあくまでカリマーやキューバ、先生の居ないタイミングを見計らってアンリの事を大声で悪く言っていた。それなのにまさかカリマーが気がついているなんて、思いもしなかった。
「知っていたんですね…」
「はい、と言っても偶然立ち聞きをしていたと言いますか…」
「そうだったんですか」
「その場で僕が出て行って彼女達を宥めようとして状況が悪くなる恐れもあるかと思うと、どうして良いのか分からず…、本当に申し訳ありませんでした」
カリマーは再び謝ると頭を下げる。
だが女学生達がアンリを悪く言うのは突如やって来た二年生が主役に選ばれたから。それに加え、アンリは学年を問わず人気のあるクイニー達と共に過ごしている事で僻まれているからだ。カリマーが謝ることは何も無い。
「先輩は何も悪くないです。だからそんな風に気に病まないで下さい。私は大丈夫ですから」
「…アンリさんはとても強いんですね」
「私にはたくさんの味方がいるって大切な人に教えて貰ったんです。だから何を言われても私は負けません」
「そうですね、仰るとおりです。…ですがもし、彼女達がこれ以上変な行動を取るようなら、その時は僕も生徒会長として動きます」
「ありがとうございます」
「えぇ。では僕はこっちなので」
「はい、お疲れ様です」
カリマーと別れ、アンリは更衣室で着替えを済ませると別館へ向かう。別館へ入り階段を登っていると、背後から名を呼ばれる。
「アンリ様」
「あれ、ザックくん。他の二人は?」
「二人は先に部屋に行ってるはずだ。それより会長からデザインは貰ったのか?」
「うん。これだって」
偶然合流したザックとカリマーから貰ったデザイン案を眺めながら三階へ上がる。
クラブにはフレッドを含め、既に三人が集まっていて、カリマーの言っていた通り、看板用の板も届いている。ただ校門に取り付けると言っていただけの事もあって、板は想像以上に大きい。そして事情を知らないクイニーは怪訝な表情を浮かべ、ミンスは興味津々といったところだ。
「アンリちゃん、これなぁに?」
「またおかしな事、引き受けたんじゃねぇよな?」
「実は私とザックくんが学祭の実行委員に選ばれちゃって。校門に吊り下げる看板を作らないといけないの」
「いや、二人でこれはさすがに無理だろ」
クイニーがそう返すと、ザックはクイニーの肩に手を置くと不敵な笑みを浮かべる。
「クイニー、何を言ってるんだ?私がいつ、アンリ様と二人で作業を終わらせると言った?」
「は?」
「居るじゃないか。ここに暇そうな奴らが」
そして不敵な笑みの理由を察したクイニーはあからさまに嫌そうな表情を浮かべる。
「どうして俺らが…」
「良いだろ、暇なんだから。ミンスはもちろん、手伝ってくれるんだろう?」
「うん、もちろん!二人の力になれるなら手伝うよ!」
ミンスが勢いよく頷くと、フレッドも遠慮がちに手を上げる。
「あの、僕も手伝います」
「ミンス、バノフィーくん、ありがとう。ほらクイニー、後はクイニーだけだぞ。まぁ別にミンスとバノフィーくんが手伝ってくれると言うし、クイニーがわざわざ手伝ってくれなくても構わないが…」
「あぁもう、分かったよ。手伝えば良いんだろ」
「初めから大人しくそう言えば良いものを…」
「今のはほとんど誘導尋問だろ」
「まぁ良いじゃないか。じゃあ私と、そうだな、クイニーで良いか。今から画材を取りに行くから、他は出来る事をやって待っていてくれ」
「ちょっ、なんで俺なんだよ」
「どうせミンスを連れて行っても荷物なんてまともに持たないだろうし、さすがにアンリ様に重たい物を持たせるわけに行かないだろ?」
「あぁ分かった、分かったよ。好きにしろ」
「じゃあ行ってくる。後はアンリ様、頼んだ」
ザックは渋々といった表情のクイニーを連れて部屋を出ていく。そして残されたアンリ達は相変わらずクイニーを上手く掌で転がすザックと、面白いほど転がされるクイニーに苦笑いで微笑み合う。
「えっと、どうしよっか」
「出来る事って言われても、デザインは決まってるんだよね?」
「生徒会の人が考えてくれたらしいんだけど、これだって」
アンリがプリントをミンスとフレッドに見えるように広げると、ミンスは唸る。
「かなり難しそうだね」
「とりあえず下書きした方が良いのかなって思うんだけど、それすらも難しそうだよね」
「一応絵画の授業は取ってるけど、絵を描くのが得意ってわけじゃ無いし、さすがに僕には描けないかも」
カリマーの渡してきたデザイン案というのは白黒で描かれているのだが、かなり細部までこだわっていて、それこそプロレベルだ。塗り絵のように既に書かれた下書きに合わせて色を塗る事は出来るかもしれないが、それ以前に下書きをしない限り何も出来ないだろう。だからといってミンスと同じく、アンリも絵を描くのは不得意だ。
アンリとミンスが二人揃って唸っていると、静かにプリントを見つめていたフレッドがアンリの名を呼ぶ。
「アンリ。良ければ僕が書こうか?」
「え?フレッドって絵描けるの?」
「設計図があるなら、うん。描けると思う」
「じゃあお願いしても良い?」
フレッドはサッチェルバッグの中からペンを取り出し、アンリからプリントを受け取ると板の側に腰を落とす。そして板とプリントを見比べながら所々に印をつけていくと、迷うこと無く板に薄い線を引いていく。
「フレッドくんって本当にすごいよね」
「ねっ、まさか絵も描けるなんて」
「まだ軽く線を引いているだけですよ?それにデザイン自体は既に用意されたモノですし」
アンリとミンスが口を揃えて褒めるとフレッドは声色を変えること無く応える。
「もぉ、謙遜しすぎだよ。ねぇフレッドくんって苦手な事とか無いの?」
「苦手な事、ですか?」
「だってほら、勉強にダンス、貴族としての所作も完璧でしょう?その上、絵まで描けるなんて。逆にそこまで完璧にこなすフレッドくんの苦手な事って何なんだろうって気になっちゃって」
「確かに、言われてみれば私も気になるかも」
思い返してみれば、フレッドがこれまで何かに躓いている姿を見たことがない。勉強やダンスが上手なのはフレッドの陰の努力の賜だというのは、一緒の屋敷で暮らしていれば分かるが、気遣いも出来て、礼儀作法もミンスの言うとおり完璧。掃除も一切手を抜かないし、フレッドの淹れてくれる紅茶は他の誰が淹れてくれる紅茶よりも美味しい。誰がどこを見ても完璧で欠点を見つけることが出来ないのだ。
「僕にだって苦手な事はありますよ。それに勉強についても地頭が良いわけじゃないので、その分勉強をしているだけですし、ダンスだって人並み程度です」
「もぉ、フレッドは自分を過小評価しすぎだよ」
「でもそんなフレッドくんの苦手な事ってなぁに?」
「そうですねぇ…、一つを選ぶのなら暗闇、ですね」
「暗闇?」
「はい、幼い頃から不思議と暗闇は苦手なんです。ですから今でも眠る時は月明かりを頼りにしています」
フレッドが苦手と公言するモノが何かと気になっていたが、まさか暗闇が苦手だなんて想像の範囲外だ。普段あんなに完璧なフレッドの苦手なモノが暗闇だと聞くと、なんだか愛らしい。
アンリと共に話を聞いていたミンスはフレッドの苦手なモノが暗闇だと聞くと、嬉しそうに声を上げる。
「…!僕の仲間だ~」
「仲間?ミンスくんも暗闇、ダメなの?」
「うん、絶対に無理!そっかぁ、フレッドくんでも苦手なんだぁ。えへへ、仲間が出来た~」
ミンスは満面の笑みを浮かべると、周囲にフワフワとした温かい雰囲気を漂わせる。
フレッドの動かす手からミンスに視線を移していたアンリはフレッドの「出来たよ」の一言に驚き、勢いよく板の方を見る。
ついさっきまで何も書かれていなかったはずの木の板には確かにデザインの下書きが終わっている。しかもこんな短時間で書き終えたにも関わらず丁寧で、プリントのデザイン案そのものだ。
「早っ!」
「写しただけですから」
「写しただけって言っても、私達じゃこんな丁寧に短時間で描けなかったよ」
「ほんとフレッドくんが居てくれて良かったよ。本当にありがとう!」
再びアンリとミンスがフレッドをベタ褒めすると、フレッドはほんの少しだけ頬をピンク色に染める。
そしてフレッドの早い模写のおかげで、アンリとフレッドとミンスは画材を取りに行った二人が戻ってくるまで休憩となった。アンリとミンスについてはずっと喋っているだけで、休憩をしていたも同然な気がするが、色塗りで挽回することにしよう。
しばらくすると両手に大量のペンキやら筆を抱えた二人が戻ってくる。画材があるのは倉庫だとカリマーから聞いていたが、普段からあまり使われていない場所なのか、二人は埃を被っていて、クイニーは埃にやられているのか、クシャミをしたり目を擦っている。
クイニーとザックは画材を置き、既に下書きの終わっている板を見ると感心したように声を上げるが、一人分の筆圧しか無い事に気がつくと、すぐにアンリとミンスが何もしていなかった事がバレてしまう。ザックからは軽く言われる程度で済んだものの、クイニーは埃にやられ機嫌を損ねた腹いせをアンリとミンスにぶつけるかのように、しばらくお説教が続いた。
なんとか仲裁に入ったザックとフレッドのおかげでクイニーからのお説教は終わり、ようやく色塗りを始めることになった。ただデザイン案は白黒で、配色の指定も特に書かれていない。そのため、どこにどんな色を塗るのか決める事から始まった。
しかし性格や考え方、価値観の違う五人の意見がすぐに一致する訳もなく、この日は結局筆を手にする前に配色を決めるだけで終えるのだった。
「「ありがとうございました」」
今日の授業は主にアンリとカリマーのシーンをメインに練習が進んだ。前回までの授業と違い、大道具が実際に置かれた事でイメージが具現化され、いつも以上に演技に熱中できて楽しかった。
集会室を出たアンリはカリマーと二人、並んで廊下を歩いていた。本当は授業を終え、集会室でそのまま話をするつもりだったのだが、キューバが何かと絡んできて話しにならなかったため、歩きながら話す事になったのだ。
「昨日話した看板用の板は既にクラブに運び込んであります。それと、デザイン案はこちらになります。看板は学祭前日に吊り下げる予定なので、それまでに完成させるようにお願い出来ますか?」
「分かりました。色々とありがとうございます」
「アンリさんはこれからクラブですか?」
「はい、その予定です。先輩は?」
「僕はこれから会議なので、途中まではアンリさんと一緒です」
カリマーとはキューバを交えて話す事があっても、二人っきりで話すのは初めてだ。聞きたかった事を聞くのなら、今が丁度良いタイミングかもしれない。
「カリマー先輩、一つ聞いても良いですか?」
「なんでしょう?」
「先輩は目立ったり、人前に立つ事は好きじゃないって言っていたじゃないですか。それなのにどうして舞台に立ったり、生徒会長まで務めているんですか?」
ずっと不思議だった。人前に立つのは好きじゃないと自らの口でカリマーは言っていたにも関わらず、たくさんの選択科目が存在する中から自ら演劇を選んでいる。そして生徒会長にまでなっている。
選択科目については基本的に自分の選んだ科目を受ける事が出来るし、生徒会になるには推薦されてなる事もあるようだが、推薦されたからと言って必ず引き受けないといけないなんて決まりはない。それこそ生徒会長なんて、自らの意思がなければ引き受けないだろう。
「そうですねぇ、生徒会長を引き受けた事については現副会長のお願いを断れなかったんですけど…」
「副会長…。あ、もしかして昨日の実行委員会の時に先輩の隣にいた眼鏡をした女の子の事ですか?」
「はい、そうです。彼女は一応、僕の幼馴染で婚約者なんです」
「えっ!先輩、婚約者がいるんですか?!」
アンリが声を大きくして驚けばカリマーは目元を緩めながら頷く。
「僕は昔から彼女のお願いを断る事が出来ないんです。それこそ彼女が僕に何かをお願いしてくる事自体が少ないですから、頼まれた事は出来るだけ叶えてあげたいんです」
「大切な人、なんですね」
「そんな風に改めて言われると照れますが、まぁそうですね」
優しい表情で微笑むカリマーはきっと昨日アンリも一度だけ姿を見た彼女の事を脳内で思い描いているのだろう。
「それと僕が舞台に立つ理由、でしたね。それについては純粋に、僕が僕ではない誰かを演じている時間が好きだからです。アンリさん、アンリさんの知っての通り、普段の僕は気を張っていないと無口ですよね」
「えっと、はい…。どちらかと言うと…」
「僕自身、人と話をするのはあまり好きじゃないんです。特に上辺だけの付き合いの人とか…。色々と気を遣わないといけないですから。それでも役という形で台詞を読んでいると、その人の人生を体験しているようで楽しいし、誰かを演じている時の僕は生き生きとして居られる気がするんです」
「確かに、先輩って練習が始まると楽しそうですよね」
「舞台に立っている時もあまり観客の方達に見られているという感覚が無いんです。それこそ、舞台の中の世界で実際に過ごしている感覚で…」
「なるほど…」
初めて演技の練習をした時から感じていた事だが、カリマーはひとたび役に入り込むと本当に楽しそうで生き生きとしているのだ。それこそ、普段の無口な彼がまるで幻かのように。
先生や他の学生達の視線が集まる中、人が変わったようにあれだけ堂々と演技をしていたのは、演技をしているというよりも自分とは違う誰かの人生を追体験して楽しんでいたからだったんだ。その感覚はアンリが読書を好きだと思う理由と似ている気がする。
「アンリさんは楽しいですか?」
「…楽しいです!もちろん初めは私で良いのかって悩んだし、今でも葛藤はあります。でもいざ演じると楽しくて、嫌な事とか余計な事も全部忘れているんです」
「そうですか」
カリマーは一息つくと、表情を硬くし足を止める。アンリも一歩遅れて立ち止まるとカリマーと視線を合わせる。
「…アンリさん、アンリさんの言う嫌な事って女学生達の事ですよね」
「えっと、それは…」
「すいません。僕も彼女達が貴方を悪く言っているのは知っていたんです。でも舞台に立たない時の僕では弱気になってしまって…」
カリマーは眉を下げると申し訳なさそうな表情を浮かべる。だが女学生達はあくまでカリマーやキューバ、先生の居ないタイミングを見計らってアンリの事を大声で悪く言っていた。それなのにまさかカリマーが気がついているなんて、思いもしなかった。
「知っていたんですね…」
「はい、と言っても偶然立ち聞きをしていたと言いますか…」
「そうだったんですか」
「その場で僕が出て行って彼女達を宥めようとして状況が悪くなる恐れもあるかと思うと、どうして良いのか分からず…、本当に申し訳ありませんでした」
カリマーは再び謝ると頭を下げる。
だが女学生達がアンリを悪く言うのは突如やって来た二年生が主役に選ばれたから。それに加え、アンリは学年を問わず人気のあるクイニー達と共に過ごしている事で僻まれているからだ。カリマーが謝ることは何も無い。
「先輩は何も悪くないです。だからそんな風に気に病まないで下さい。私は大丈夫ですから」
「…アンリさんはとても強いんですね」
「私にはたくさんの味方がいるって大切な人に教えて貰ったんです。だから何を言われても私は負けません」
「そうですね、仰るとおりです。…ですがもし、彼女達がこれ以上変な行動を取るようなら、その時は僕も生徒会長として動きます」
「ありがとうございます」
「えぇ。では僕はこっちなので」
「はい、お疲れ様です」
カリマーと別れ、アンリは更衣室で着替えを済ませると別館へ向かう。別館へ入り階段を登っていると、背後から名を呼ばれる。
「アンリ様」
「あれ、ザックくん。他の二人は?」
「二人は先に部屋に行ってるはずだ。それより会長からデザインは貰ったのか?」
「うん。これだって」
偶然合流したザックとカリマーから貰ったデザイン案を眺めながら三階へ上がる。
クラブにはフレッドを含め、既に三人が集まっていて、カリマーの言っていた通り、看板用の板も届いている。ただ校門に取り付けると言っていただけの事もあって、板は想像以上に大きい。そして事情を知らないクイニーは怪訝な表情を浮かべ、ミンスは興味津々といったところだ。
「アンリちゃん、これなぁに?」
「またおかしな事、引き受けたんじゃねぇよな?」
「実は私とザックくんが学祭の実行委員に選ばれちゃって。校門に吊り下げる看板を作らないといけないの」
「いや、二人でこれはさすがに無理だろ」
クイニーがそう返すと、ザックはクイニーの肩に手を置くと不敵な笑みを浮かべる。
「クイニー、何を言ってるんだ?私がいつ、アンリ様と二人で作業を終わらせると言った?」
「は?」
「居るじゃないか。ここに暇そうな奴らが」
そして不敵な笑みの理由を察したクイニーはあからさまに嫌そうな表情を浮かべる。
「どうして俺らが…」
「良いだろ、暇なんだから。ミンスはもちろん、手伝ってくれるんだろう?」
「うん、もちろん!二人の力になれるなら手伝うよ!」
ミンスが勢いよく頷くと、フレッドも遠慮がちに手を上げる。
「あの、僕も手伝います」
「ミンス、バノフィーくん、ありがとう。ほらクイニー、後はクイニーだけだぞ。まぁ別にミンスとバノフィーくんが手伝ってくれると言うし、クイニーがわざわざ手伝ってくれなくても構わないが…」
「あぁもう、分かったよ。手伝えば良いんだろ」
「初めから大人しくそう言えば良いものを…」
「今のはほとんど誘導尋問だろ」
「まぁ良いじゃないか。じゃあ私と、そうだな、クイニーで良いか。今から画材を取りに行くから、他は出来る事をやって待っていてくれ」
「ちょっ、なんで俺なんだよ」
「どうせミンスを連れて行っても荷物なんてまともに持たないだろうし、さすがにアンリ様に重たい物を持たせるわけに行かないだろ?」
「あぁ分かった、分かったよ。好きにしろ」
「じゃあ行ってくる。後はアンリ様、頼んだ」
ザックは渋々といった表情のクイニーを連れて部屋を出ていく。そして残されたアンリ達は相変わらずクイニーを上手く掌で転がすザックと、面白いほど転がされるクイニーに苦笑いで微笑み合う。
「えっと、どうしよっか」
「出来る事って言われても、デザインは決まってるんだよね?」
「生徒会の人が考えてくれたらしいんだけど、これだって」
アンリがプリントをミンスとフレッドに見えるように広げると、ミンスは唸る。
「かなり難しそうだね」
「とりあえず下書きした方が良いのかなって思うんだけど、それすらも難しそうだよね」
「一応絵画の授業は取ってるけど、絵を描くのが得意ってわけじゃ無いし、さすがに僕には描けないかも」
カリマーの渡してきたデザイン案というのは白黒で描かれているのだが、かなり細部までこだわっていて、それこそプロレベルだ。塗り絵のように既に書かれた下書きに合わせて色を塗る事は出来るかもしれないが、それ以前に下書きをしない限り何も出来ないだろう。だからといってミンスと同じく、アンリも絵を描くのは不得意だ。
アンリとミンスが二人揃って唸っていると、静かにプリントを見つめていたフレッドがアンリの名を呼ぶ。
「アンリ。良ければ僕が書こうか?」
「え?フレッドって絵描けるの?」
「設計図があるなら、うん。描けると思う」
「じゃあお願いしても良い?」
フレッドはサッチェルバッグの中からペンを取り出し、アンリからプリントを受け取ると板の側に腰を落とす。そして板とプリントを見比べながら所々に印をつけていくと、迷うこと無く板に薄い線を引いていく。
「フレッドくんって本当にすごいよね」
「ねっ、まさか絵も描けるなんて」
「まだ軽く線を引いているだけですよ?それにデザイン自体は既に用意されたモノですし」
アンリとミンスが口を揃えて褒めるとフレッドは声色を変えること無く応える。
「もぉ、謙遜しすぎだよ。ねぇフレッドくんって苦手な事とか無いの?」
「苦手な事、ですか?」
「だってほら、勉強にダンス、貴族としての所作も完璧でしょう?その上、絵まで描けるなんて。逆にそこまで完璧にこなすフレッドくんの苦手な事って何なんだろうって気になっちゃって」
「確かに、言われてみれば私も気になるかも」
思い返してみれば、フレッドがこれまで何かに躓いている姿を見たことがない。勉強やダンスが上手なのはフレッドの陰の努力の賜だというのは、一緒の屋敷で暮らしていれば分かるが、気遣いも出来て、礼儀作法もミンスの言うとおり完璧。掃除も一切手を抜かないし、フレッドの淹れてくれる紅茶は他の誰が淹れてくれる紅茶よりも美味しい。誰がどこを見ても完璧で欠点を見つけることが出来ないのだ。
「僕にだって苦手な事はありますよ。それに勉強についても地頭が良いわけじゃないので、その分勉強をしているだけですし、ダンスだって人並み程度です」
「もぉ、フレッドは自分を過小評価しすぎだよ」
「でもそんなフレッドくんの苦手な事ってなぁに?」
「そうですねぇ…、一つを選ぶのなら暗闇、ですね」
「暗闇?」
「はい、幼い頃から不思議と暗闇は苦手なんです。ですから今でも眠る時は月明かりを頼りにしています」
フレッドが苦手と公言するモノが何かと気になっていたが、まさか暗闇が苦手だなんて想像の範囲外だ。普段あんなに完璧なフレッドの苦手なモノが暗闇だと聞くと、なんだか愛らしい。
アンリと共に話を聞いていたミンスはフレッドの苦手なモノが暗闇だと聞くと、嬉しそうに声を上げる。
「…!僕の仲間だ~」
「仲間?ミンスくんも暗闇、ダメなの?」
「うん、絶対に無理!そっかぁ、フレッドくんでも苦手なんだぁ。えへへ、仲間が出来た~」
ミンスは満面の笑みを浮かべると、周囲にフワフワとした温かい雰囲気を漂わせる。
フレッドの動かす手からミンスに視線を移していたアンリはフレッドの「出来たよ」の一言に驚き、勢いよく板の方を見る。
ついさっきまで何も書かれていなかったはずの木の板には確かにデザインの下書きが終わっている。しかもこんな短時間で書き終えたにも関わらず丁寧で、プリントのデザイン案そのものだ。
「早っ!」
「写しただけですから」
「写しただけって言っても、私達じゃこんな丁寧に短時間で描けなかったよ」
「ほんとフレッドくんが居てくれて良かったよ。本当にありがとう!」
再びアンリとミンスがフレッドをベタ褒めすると、フレッドはほんの少しだけ頬をピンク色に染める。
そしてフレッドの早い模写のおかげで、アンリとフレッドとミンスは画材を取りに行った二人が戻ってくるまで休憩となった。アンリとミンスについてはずっと喋っているだけで、休憩をしていたも同然な気がするが、色塗りで挽回することにしよう。
しばらくすると両手に大量のペンキやら筆を抱えた二人が戻ってくる。画材があるのは倉庫だとカリマーから聞いていたが、普段からあまり使われていない場所なのか、二人は埃を被っていて、クイニーは埃にやられているのか、クシャミをしたり目を擦っている。
クイニーとザックは画材を置き、既に下書きの終わっている板を見ると感心したように声を上げるが、一人分の筆圧しか無い事に気がつくと、すぐにアンリとミンスが何もしていなかった事がバレてしまう。ザックからは軽く言われる程度で済んだものの、クイニーは埃にやられ機嫌を損ねた腹いせをアンリとミンスにぶつけるかのように、しばらくお説教が続いた。
なんとか仲裁に入ったザックとフレッドのおかげでクイニーからのお説教は終わり、ようやく色塗りを始めることになった。ただデザイン案は白黒で、配色の指定も特に書かれていない。そのため、どこにどんな色を塗るのか決める事から始まった。
しかし性格や考え方、価値観の違う五人の意見がすぐに一致する訳もなく、この日は結局筆を手にする前に配色を決めるだけで終えるのだった。

