「本当に大事な依頼は、平日の昼間か、そうでなければ深夜に来るのよ。だから聖くんには、私が暇そうに見えるの」
そう言うと夜さんはポットを持ち上げ、僕と自分のカップに紅茶を注ぎ足す。
僕は曖昧な表情を浮かべ、注いでもらった紅茶に口をつける。まだ熱い。カップに注いだ紅茶はすぐに冷めるのに、ポットの中の紅茶はなかなか冷めない。不思議だと思う。
「わかりました、そういうことにしてあげます。けど、あまりに暇だと、僕の助手としての仕事が、事務所の掃除だけになってしまいます」
「あら、それだって大事な助手の仕事よ?」
夜さんは何が楽しいのか、ニコニコ笑っている。
「僕は【夜さんの助手】なのではなく、【探偵助手】なんですけど!」
夜さんは何が面白いのか、ケラケラと笑った。
***
僕の家の裏に、【弓槻探偵事務所】と書かれた看板が現れたのは、今から半年ほど前のこと。閑静な住宅街の真ん中に、探偵事務所。その不思議な組み合わせは、あっという間にご近所に知られることとなった。
弓槻探偵事務所の存在は、ママ集団の井戸端会議で僕のお母さんの耳に入り、その日の夕ご飯を囲みながら僕に伝わった。
もともと弓槻家は、近所の集まりに頻繁に顔を出すタイプではなかった。夫婦と娘一人が、ひっそりと暮らしていた。
とはいえ、道端で出くわせばちゃんと挨拶はするし、回覧板はちゃんと回すし、奥さんにスーパーの安売り情報を教えると喜んでくれた、とご近所のママは語ったそうだ。しかし、3年前に弓槻夫婦が事故で亡くなってからは、変わってしまった。
家に残っているはずの弓槻家の一人娘、【弓槻夜】の姿はぱったりと見かけなくなった。散歩をしているところに出くわすこともなく、スーパーで買い物をすることもなく、回覧板を持っていっても誰も出てこない。
ご近所さんたちはみんな、夜さんはどこかに引っ越したんじゃないかと思っていた。そして、夜さんのことをみんな忘れていった。
弓槻探偵事務所の所長さんはが、まさにその夜さんだ。
所長といっても、探偵事務所に所属しているのは夜さんだけだ。
弓槻夜さん。年齢は知らないけど、20代半ばくらいだろうか。引きこもりがちだからか、肌の色は白く、日焼けのひの字もない。地毛らしい少し明るい長い髪は、少しふわふわ癖っ毛だ。いつもスーツを着ているけど、ジャケとの中のひらひらしたブラウスや、ちょっと広がるスカートのラインが、あんまりキャリアウーマンっぽくない。
初めて会ったときから、そんな感じだった。
夜さんが引きこもってから探偵事務所を始めるまでに、何があったのか、僕は知らない。聞くつもりもない。僕は弓槻探偵事務所の【探偵助手】であり、先輩であり所長である夜さんのことを、信頼している。
僕は週に3回、学校が終わった後に弓槻探偵事務所に行く。
そこで、夜さんに来た探偵の依頼のお手伝いをしている――と言いたいところだが、実際には事務所の掃除や書類の整理、夜さんの望むままに肩もみやマッサージをしている。
結局、依頼らしい依頼も、事件らしい事件もない。
あったとしても、夜さんに依頼はしない。
そういうものだった。
そう思っていた、ある日のことだ。
***
その日の夕方、弓槻探偵事務所に到着した僕は驚いた。だって、依頼人らしい人が来ているんだもの。
いつもの癖でノックもせずに事務所の応接室兼夜さんの書斎に入ると、夜さんのほかに、髪の長い、女の人らしい後ろ姿が見えた。華美な装飾がない室内で、一点豪華なソファに腰掛けていた。
僕の姿を確認するなり「聖くん、お茶を用意して」と、夜さんは普段通りののほほんとした表情で告げた。僕は慌ててうなずくと、学校のかばんを置くのも忘れて、台所に走った。
依頼人だ!
いったいどんな依頼なんだろう。
女の人だった。
遺産相続をめぐった殺人事件だろうか。
蔵の奥から宝の地図が出てきたのだろうか。
夜さんお気に入りのアッサムを、いつもは棚の奥にしまったままのお客様用のティーカップに注ぐ。僕には紅茶は茶色に見えるけど、これを紅いと思った人がいるから、紅茶って言うんだ、というようなことを考える。
紅茶の注ぎ方は、探偵助手としてまず最初に覚えさせられた技能だ。
ティーカップを2つお盆に載せると、今度は応接室の扉をきちんとノックする。
「失礼します」
扉を開けると、夜さんの声が飛び込んできた。
「では、話は大体わかりました。さっそく仕事に取り掛からせていただきますね」
「ありがとうございます、それでじゃよろしくお願いします」
僕が台所にいるうちに、話は終わってしまったようだ。話を聞きたかったけど、仕方ない。机にカップを置く。
「遅くなりましたが、お茶はいかがですか? こちらは私の助手をしてくれている聖くん、お茶の入れ方も、探偵助手としての力もまだまだ未熟ですけれど」
こういうときの夜さんには、まったく悪気がない。ただ単に僕を紹介しようとしてくれている、どちらかと言えば善意故の言動だ。
だからといって、あんな物言いをされて嬉しいわけはあるはずがない。むっとした表情を隠しながら、僕は会釈をした。
依頼人の女性は、僕のお母さんと同じか、少し上くらいの年齢に見えたから、40代とか50代とかだろうか。濃い目だけど綺麗にお化粧されたお顔と、派手なボルドー色のワンピースとつばの広い帽子が、昔の女優さんみたいで、良く似合っていた。いかにも、お屋敷のご夫人、といったていだ。
「ありがとう。でも次の約束の時間があるので、失礼するわ。――また来週の同じ時間に、進捗をうかがいに来るので、よろしく」
せっかく淹れた紅茶に目もやらずに、夫人は席を立った。
夜さんは嫌な顔一つせずに、その様子を見つめていた。
「はい。来週には、十分な成果をお見せ出来ると思います」
余裕綽々、といった風な夜さんは、ちょっと探偵っぽかった。
夫人はその言葉に満足げにうなずき、そのまま事務所から出て行った。後には僕と夜さんだけが残された。
「……せっかく聖くんがお客様用のカップを出してくれたのに、もったいない」
「今の人、依頼人ですか?」
ずず、と音を立てて夜さんが紅茶をすする。もうお客様はいないのだ、よそいきの顔をする必要はない。
「そうよ。あ、もったいないから聖くん、それ、飲んだら?」
「あ、じゃあお言葉に甘えて……。で、依頼って、どんな依頼なんですか?」
夜さんに向かい合うように、さっきまで夫人が座っていたのと同じところに座る。
「うん? 聖くんにはあんまり関係ない依頼よ?」
「関係ないことはないでしょう。僕はこの事務所の助手ですよ」
紅茶に口をつける。
夜さんは小首をかしげて、それでも僕に数枚の書類を渡してくれる。
「本当に関係ないと思うけど……」
手書きで書かれた、依頼人からの話がまとめられた書類だ。女性らしい、丁寧だけど少し丸みの帯びた字で、几帳面に情報がまとめられている。
「えっと……
依頼人の名前は、花園由比歌。年は47歳。住所は隣町。夫は花園鉱業の現社長、花園徹……すごい、社長夫人なんですね!」
書類から顔をあげて夜さんのほうを見る。。
社長夫人からの依頼なんて、本当に探偵っぽい! すごいじゃないか!
でも、夜さんは嬉しくなさそうだ。僕は再び書面に視線を落とす。
「数ヶ月前から、夫・徹の様子がおかしく……浮気ではないかと疑っているので、調査してほしい……」
そこまで読んで、僕は書類を机に置いた。夜さんのほうを見ると、彼女はゆっくりとうなずいた。
「ええ、今回の依頼は、浮気調査よ。だから、聖くんにお願いすることは――」
「あ。たった今、ちょっと面白いことを思いついたわ」
紅茶を飲み終わったころ、夜さんはそう呟いてにんまり笑った。
***
「――で、ここがご主人の書斎、となりがご夫婦の寝室だ。新人には、まず各部屋の掃除を担当してもらうことになる。何かわからないことはあったか? ええと……」
「せ、聖奈です……」
なんだか手持無沙汰で、まだ真新しいエプロンの裾をギュッと握った。
「そうだった。聖奈さん、ね。すまないね、人の名前を覚えるのが苦手で」
「い、いえ。あの、大丈夫です……」
真っ赤になりながらうなずくと、メイド長から掃除道具を受け取った。
どうしてあの人は、僕がメイドに扮して潜入するなんてトンデモな探偵法を思いつくんだ!
***
依頼があった翌日、僕は花園家にいた。
紅茶を飲み終わった瞬間、夜さんは思いだしたことがあるらしく、パソコンを立ち上げた。インターネットにつなぎ、アクセスしたのは多くの人間が実名で登録している有名SNSだ。
「私は学生時代の友人と基本的に連絡を絶っているのだけれど、このSNSというのは便利なものね。あっという間にみんなの消息まで知ることが出来て」
僕はどう反応していいかわからず、黙って夜さんの行動を見守っていた。夜さんは、1人のSNSページにたどりつくと、じっと見つめる。
「やっぱり。花園鉱業、なんだか聞きおぼえがあると思った」
「どうしたんですか?」
「私の高校時代の唯一友人と言える子がね、花園家のメイドとして勤めているのよ」
画面の中には、気が強そうなショートカットの女性の写真とともに、「名前、雛鳥冥。勤務先、花園鉱業。交際関係、複雑な関係……」とずらずらと情報が並んでいた。
「なるほど、この人に聞き込みをするんですね! さっそく連絡してみましょう」
パッと顔を上げると、夜さんはなんだか少し興奮しているようで、少しばかりうっとりした表情を醸し出していた。
「……夜さん?」
こういう時の夜さんは、よくない。
夜さんは、傍らにある電話に手を伸ばすと、リズムよく番号をたたく。ほどなくして電話がつながる。
「もしもし、雛鳥さんのお宅でしょうか。わたくし、弓槻……。あ、冥? うん、私、夜。久しぶり。ごめんね、ご無沙汰しちゃって。うん、元気。あ、違うの。今日はね、仕事でちょっと冥に相談があって。……うん、うん、知ってる。私の知り合いの子がね、お屋敷でメイドの仕事をしてみたいって言うのよ、すごくお世話になっている人の娘さんで……。1週間、いえ、3日でいいから、何とかお願いできないかなって。……ほんと? ごめんね、ありがとう。じゃあ確認出来たらまた電話してくれる? あ、メールでも大丈夫。アドレス変えちゃってるから教えるね。えっとy……」
電話越しに交わされている会話は、もちろん夜さん側しか聞こえないのだが、恐ろしさにあふれていた。
受話器を置くと、夜さんは嬉しそうに告げた。
「聖くん、メイドさんになって、【潜入捜査】してこよっか」
嫌です、と言える空気ではなかった。
***
そういうわけで、僕は【聖奈】と名乗って、3日間だけ花園家でメイド体験をすることになった。
夜さんは、なんだかこうなることを予想していたのではないかという周到さで、僕に黒髪セミロングのウィッグをくれた。髪型を変え、ロング丈のメイド服を着せられた自分は、まるで別人のようだった。
メイド服を着た僕に、夜さんは飛び上がって喜んだ。文字通り飛び上がった。
「いい……。すごくいいよ、聖くん……。写真撮っていいよね?」
「イヤです!」
「ケチ!!」
スカート丈がロングだとはいえ、股の間になにもないのは防御力が低すぎる。歩くたびにスカートの裾を踏みそうになるし、ウィッグを被った頭はちょっと重たい。
夜さんは、花園家まで車で送ってくれたが、メイド長の冥さんに僕を引き渡すと
「いい? 聖くん。頑張って浮気の証拠を探してくるのよ。愛人からの手紙とか、愛人宛てのプレゼントとか。何か見つけたらスマホの写真でいいから、写真を撮るの。あ、カメラのシャッター音には気をつけてね。こっそり撮るのよ?」
とアドバイスを残し、さっさと消えてしまった。
ご近所を歩かなくて澄んだのはよかったけれど、あまりに薄情過ぎはしないか。そんな気持ちで小さく睨みつけるが、夜さんは素知らぬ顔。
「探偵助手としての初仕事、頑張ってね」
頑張りたいのは山々だが、この格好では頑張る以前の問題だ。
今すぐ叫びたい。逃げ出したい。攻めて服を脱ぎたい。
「……聖奈さん? 大丈夫?」
ここに至るまでの苦難に思いを馳せていると、冥さんが声をかけてくれた。
「へっ!? あ、あの、ごめんなさい……」
「緊張しなくてもいいからね。最初の部屋の掃除は私もついて一緒にやろう」
冥さんは、SNSの写真よりも髪を短く刈っていて、今はベリーショートと言っていいくらいだ。印象通りサバサバした性格らしく、言葉づかいも丁寧だが少し男っぽい。でも、そんなちょっとカッコいい雰囲気の女性がメイド服を着ているというギャップに、ちょっとドキドキしてしまう。
「ありがとうございます……!」
あまりたくさんしゃべってしまうと、声で男だとばれてしまいそうだ。
僕はあくまでも【夜さんの仕事でお世話になった人の娘】だ。【探偵助手】じゃない。
「じゃあ、ご主人の書斎から行こうか。ついてきて」
ツカツカと歩いていく冥さんの後を、慌ててついていった。
教えられた仕事は、いつも弓槻探偵事務所でやっていることと変わらなかった。掃除は事務所の掃除で慣れている。テキパキとほうきで履き、窓を拭き、ゴミをまとめる僕に、冥さんは「慣れているね……」と感心してくれた。探偵助手の仕事ということもできず、「家のお手伝いをしているので……」と誤魔化すと、さらに褒めてくれた。
ちょっと嬉しかった。
「この調子なら、寝室のほうはひとりで任せてしまっても大丈夫そうだな。私は別の仕事をしてくる」
「は、はい……」
冥さんは僕の頭を何度か撫でると、僕を安心させるようにニコッとほほ笑んだ。
「小一時間したらまた様子を見に来るし、ご主人も奥様も夜まで戻らないから、焦る必要はない。どうしていいかわからないところがあったら、そのままにしておいて大丈夫だからね。じゃあ、後は頼んだよ」
そういうと、冥さんは行ってしまった。
これは――チャンスだ。
というか、本当にいいのだろうか? こんな、今日会ったばかりの小娘に、寝室なんて大人の秘密たっぷりの部屋を任せて。
――小娘だからか。
これが、大人だったらこうはいかなかったのかもしれない。子どもだからこそ、警戒されない。小娘だから危険なことはないと、そう判断したのだろう。
――もしかして、夜さんはこれを見越して、僕を潜入させたのだろうか。
いや、それはないな。あの人はただ僕にメイド服を着せたかっただけだ。
そうひとりで納得すると、花園家のひみつの花園……じゃなくて、寝室の扉を開けた。
想像したよりもシンプルな室内だった。シングルサイズのベッドが2つ並んでいる。2つのベッドの間には小さなテーブル。なんだか、ちょっといいホテルみたい。ベッドメイクはまだされていないが、掛け布団はキレイにもどされていた。起きたばかりの僕の部屋とは大違いだ。ベッドの足側の壁には大きなクローゼット、ウォークインクローゼットというのだったろうか、が備え付けられている。奥には大きな窓。今はレースのカーテンがかかっているが、その奥には簡易的なベランダが見えた。
「えっと……」
まずは掃除、かな。
ベッドメイクは頼まれてないし、だいたい新しいシーツも持ってないから、後でやるか他の人がやるんだろう。僕は手に持ったほうきを床にあてた。
掃除をしながら、調べられそうなことがあったら調べよう。
こういうとき、本当の探偵だったらどんなところを調べるんだろう。
ベッドサイドのテーブル。うん、怪しい。どちらが旦那さんのベッドだろうか。
ベッドのなか、枕の下、クローゼットのなか。旦那さんの私物はこの部屋にはあまりなさそうだ。
掃き掃除をしながら、調べるところを品定めしていく。
不謹慎だけど、ワクワクしていた。
はじめての探偵助手としての仕事。こんな格好でなければ、もっとワクワク出来たのに。
掃除の手を止めて、スカートの端をつかむ。
冥さんはふつうに接してくれた……と思うんだけど、男だとバレていないのだろうか。
思い立って、ウォークインクローゼットの扉を開く。思った通り、姿見が置いてあった。全身の姿を映してみる。まだ男らしい体つきとはいえないけど、女の子のようにやわらかな脂肪があるわけではない。半袖のワンピースから伸びた腕は、骨ばっているし、顔だって別に女顔ではない。ウィッグの前髪が長いし、顔周りの毛で顔のラインもちょっと隠れているから、まあそこまで違和感はない、のかもしれない。
なるほど、女性の髪型っていうのは、すごい力を持っているんだな……。
そこまで考えて、なんだか恥ずかしくなってきた。
今は難しいことは考えず、探偵助手としての任務のことだけを考えよう。
と、その時だった。
ガチャ、と音がして寝室の扉が開く音がした。誰か人が入ってきたようだ。冥さんがもう来たのだろうか。思っていたより早い。
クローゼットの中から外に顔を出すと、そこにいたのは冥さんではなく、見知らぬ男性だった。
――えっ。
どうしていいかわからず、咄嗟にクローゼットを内側から閉めた。
別に隠れる必要はなかったのではないか。僕は今メイドなわけだし、寝室の掃除というここにいる大義名分もある。しかし――
「よし、誰も居ないな。はいっていいぞ」
男の声。
クローゼットの隙間から、目を細めて室内を覗く。
先ほどちらりと見えた男の人、あれは昨日の資料に載っていた、今回のターゲットである花園徹そのひとだ。
さっき冥さんは【ご主人も奥様も夜まで戻らない】と言っていたではないか。では、どうして……。
僕は息を潜め、寝室の様子に目を凝らした。
花園徹は、細い手首を掴んでいた。連れられて寝室に入ってきたのは、女性だった。しかも、今僕が着ているのと同じメイド服を着ていた。
僕は冥さんしか紹介されていないけれど、このお屋敷には冥さん以外にも何人かのメイドが働いている。冥さんはメイド長というやつで、一番偉いらしい。花園徹が連れて来たのは、まだ若くて、なんだかおどおどしたメイドだった。
「でも、ご主人様。いくら奥方様がいらっしゃらないといっても……」
「メイド長にも離れで仕事を頼んであるし、他のメイドも買い物に出ている。だから気にする必要はない」
「いえ、そういうことではなく……。ッ……」
わあ、わあ、わあ!
目の前で、とてもいけないことが繰り広げられている。
ど、どうしよう。このままここに潜んでいていいのだろうか。とはいえ、今更出て行くことは出来そうもない。ああ、最初から隠れたりしなければよかった。
――ん?
いや、そうじゃない。
これがまさに、【証拠】じゃないか!
僕は慌ててスカートのポケットをまさぐり、スマートフォンを取り出す。カメラアプリを立ち上げると、カメラをクローゼットの扉の隙間にあてがう。モニタの中には、艶めかしくからみ合って動く男女。
見てられない。
ベストショットを狙うとか、そんなことはちょっと考えられそうにない。もう、えいやって撮ってしまおう。そう決意し、スマホのカメラマークをタップした。
――カシャリ。
あ!
無音カメラじゃなくて、ふつうのカメラアプリで撮っちゃった。
「誰だ!」
シャッター音に気付いた花園徹が声を上げる。キョロキョロと周囲を伺っている。
ど、どうしよう……。
「ご、ご主人様……?」
「この部屋で人が隠れられそうなところなんて」
言いかけて言葉が止まる。そうだ、寝室の中で人が隠れられそうなところなんて、僕が隠れているこのウォークインクローゼットしかない。気づくのは当然だ。
花園徹は、息を潜めてこちらに近づいてくる。隙間から見えるのだから、息を潜めようがこちらからまるわかりなのだが、そこまでは気付いていないらしい。
見つかるわけにはいかない。
証拠写真は撮れたのだ、これをなんとか夜さんに渡さなければいけない。僕は探偵助手なんだから。
スマートフォンをポケットに戻し、ギュッと握る。
よし。
「この中にいるのはわかってるんだ、おとなしく出て……――ッ!!!」
クローゼットの扉の前に花園徹が立ったその瞬間、おもいっきり扉を開けた。扉は花園徹の顔面にぶつかる。
「このッ……!」
男が怯んで尻をついた、その隙にクローゼットから飛び出る。入口のドアの前には、メイドの女性がいる。彼女はなんだか戸惑っているようで、僕と花園徹を見比べてなんだかあわあわしている。
ちょっとあの人をどけるのは面倒そうだな。
こっちのほうが早いな。
僕は窓をあけると、ベランダに出る。そのままベランダの手すりを掴むと、無理やり飛び越える。
「おいッ、そこのメイド! 待て!」
誰もが言う、待てと言われて、待つ人はいない、と。後ろを振り返る間も惜しんで、僕は花園家の敷地を抜けだした。
***
どこをどう走ったのか。
冷静に考えたら、花園家のある隣町の土地勘なんて、ゼロに等しい。全速力で走り、走り疲れて立ち止まると、すっかり迷子だった。
「どうしよう……」
当たりを見回すと、ただの住宅街だ。規則正しく、誰とも知らぬ他人の家が並んでいる。
知らない町でひとりになると、途端に不安になる。
しかも、服を着替えていない。ハッと自分の服を確認すると、やっぱりメイド服のままだ。そういえば、花園徹も「そこのメイド」と言っていたっけ。
着替えは、他の私物といっしょに花園家に置いたままだ。――個人情報とか、大事なものは持って行ってないから、それは別にいいんだけど。
知らない町で、メイド服で一人佇む。
どういう状況だ。
一気に恥ずかしさが募り、頬が真っ赤に染まるのがわかる。
人通りがないのだけが救いだ。
立ち止まっていても仕方がない。不安を押し殺し、少し進んでみることにした。
どうして、住宅街というのはこうも特徴がないのだろうか。歩いても、歩いても、ずっと異邦だ。自分の家でも、友だちの家でもない、どこかの誰かの家は、ただひたすらに冷たい。
少し進んでみると、小さな公園があった。
花壇と、ブランコと、砂場と、ベンチがあるだけの、街角の小さな公園だ。昼時だというのに、小さな子どもですら遊んでいない。この辺りの子は、もっと遊具の揃った公園で遊ぶのかもしれない。
だけど、今の僕にはちょうどよかった。
少し座って休憩していこう。
公園の中に入り、ベンチに腰掛ける。
座ると、一気に疲労感が押し寄せた。そうだよ、ちょっと頑張りすぎた。一呼吸ついて、やっと物事が考えられるようになってきた。
――なんか、すごかった。
クローゼットの隙間から覗き見た、花園徹と若いメイドとの絡みあう姿が、ふと脳裏をよぎった。すぐにブンブンと頭を振って、その光景を頭から追い出す。
僕は、ちゃんと探偵助手としての仕事を成し遂げることが出来たんだ。
探偵助手としての、はじめての成果が、このスマートフォンに――
「あっ、スマホ」
僕は馬鹿なんじゃないだろうか。
スマホがあるんだから、夜さんと連絡も取れるし、なんなら地図アプリで現在地を知ることも出来る。
ポケットからスマホを取り出し、画面を見る。すると、ちょうど夜さんから着信が来ているところだった。
「もしもし、夜さん」
「聖くん!? いまどこにいるの?」
電話にでるなり、夜さんの大声が響いた。
「えっと、あの、公園……」
「公園って、どこの!?」
なんだか、夜さんの声が裏返っている。もしかして、走りながら話しているんだろうか。
周囲を見回すと、注意書きが書かれた看板に、公園の名前が書いてあった。
「楓野公園、ってところみたいです」
「わかった、すぐ行くからそこにいて」
ブチッと通話が途切れる。
夜さん、すごく焦っていたみたいだった。
僕が逃げ出したことが、冥さんから伝わったに違いない。
怒ってるのかもしれない。証拠の写真は手に入れたとはいえ、ターゲットに見つかったんだ。潜入捜査としては大失敗だ。
はあ。ため息が出る。
「聖くん!? いる?」
公園の入り口から、女性の声。いつも聞いている、慣れ親しんだ声に、僕は反射的に立ち上がる。
「夜さん、ここです」
別れた時と同じ姿のまま、夜さんはこちらに駆け寄ってくる。なんだか、すごく長い時間会っていないような気がした。
何を言う前に僕のことをギュッと抱きしめる。
「えっ、ちょ、夜さん……?」
顔が柔らかいものに押し付けられる。なんだか、ミルクみたいな甘い匂いがする。
驚きと、そして安堵。僕は夜さんの服をぎゅっと握り返した。
「良かった、聖くんがいなくなったって聞いて、何かあったんじゃないかと思って心配してたのよ」
「ごめんなさい……」
夜さんの腕の中で、瞳を閉じる。
「やっぱり、いきなりひとりで潜入捜査なんて無茶だったわね」
優しい手付きで、夜さんの手が僕の頭を撫でる。
「いったい何があったか、教えてくれる?」
身体を離すと、じっと見つめられる。なんだか恥ずかしくて視線をそらしてしまう。夜さんはそれでも僕の頭を撫で続けていた。
いつもは子ども扱いされるのは嫌な気持ちになるけれど、今は何故か心地よかった。
僕は小さく頷くと、なにがあったかを話しだした。
「……で、これがその写真です」
差し出したスマートフォンを受け取ると、夜さんは画面を難しい顔をして見つめた。
もしかして、これじゃ証拠にはならないだろうか……。
少し不安になった。
しかし、すぐに夜さんはにっこりとほほえみかけてくれた。
「これなら証拠はバッチリよ。聖くん、やるじゃない。それにしても、メイドに手を出していたなんて、まさかそんな有りがちなことをしていたなんて……。
――でも」
「でも?」
夜さんは、スマートフォンの画面に手を滑らせる。軽く操作をすると、僕にスマートフォンを返す。
「あれ? いいんですか?」
「馬鹿ね、聖くん。写真を撮ったら、メールでもなんでもいいから私に送れば済む話でしょ」
「……」
そういえば。
確かにそうだ。
「テンパっていたのはわかるけど、カメラのシャッター音は切り忘れるし、肝心の証拠写真は送り忘れるし、それにそんな目立つ格好でずっといるし、探偵助手としてはまだまだ合格とは言えないわね」
ニヤっと笑みを浮かべると、僕のスカートをめくる。
「ちょ、ちょっと……!」
「わざと着替えなかったのは、そのメイド服が気に入ったからかな~?」
スカートの中に手が潜り込む。見えないところまでキチンとしろ、と言ってわざわざ履かせられた女物のニーソックスと腿の間に指が這う。
「よ、夜さん……、やめてくださいって……」
そう言うと、夜さんはぱっと手を離す。
あまりのあっけなさに、逆にびっくりしてしまう。
「へっ?」
「ふふ、冗談よ。ちゃんと頑張ってくれて有難う。じゃあ、事務所に帰りましょ」
「……」
この人の切り替えの速さは、眼を見張るものがある。
僕の訝しげな視線に気がついたのか、夜さんは片手を上げ、何度か指を曲げてみせる。
「もしかして、物足りなかった? もっと触って欲しくなっちゃったのかな?」
かぁっと頭に血が上る。
「そんなわけないでしょうっ!」
ぷい、と顔を背けると、夜さんの脇を通りぬけ、一人歩き出す。
「せ、聖くん? 待ってよ、どこ行くの?」
「ひとりで帰ります!」
「帰ってもいいけど、聖くんの私服は私が回収してきたんだけど、その格好でおうちに帰るの?」
「……」
仕方なく足をとめ、振り返る。夜さんは、いつもと変わらず、僕を見つめていた。
***
「どういうことなんですか?」
「ご主人が浮気をしているという証拠は見つかりませんでした。おそらく、このまま調査を続けても同じ結果になるかと思います」
潜入捜査からしばらくして、弓槻探偵事務所に、例の依頼人の花園夫人がやって来た。夜さんは、神妙な面持ちで頭を下げている。
なんでだろう。
僕が命を懸けて潜入捜査をして、花園徹の浮気の証拠写真を撮ってきたのに。
花園夫人は、夜さんの真面目で真摯に見える態度に、しぶしぶという症状を浮かべる。
「まあ、頭を上げてください。わかりましたわ。あなたがそう言うなら、私の勘違いか何かなんでしょう」
夫人の言葉に、夜さんは顔を上げる。そして、傍らに置いた書類ケースから、封筒を取り出す。
「大変申し訳ありません。こちらについてはお返しします」
「これは……?」
封筒は少し膨らんでいて、ズシッと重たそうだ。
「いただいた前金です」
「あら。前金は調査費用としてお渡ししていたものです、返していただかなくて結構よ」
夫人は封筒を確認すると、そのまま机の上に置き直した。しかし、夜さんは頑として封筒を受け取らなかった。
「……はあ、頑固な探偵さん。また困ったことがあったら依頼させていただくわ」
「はい、ぜひ。その際はきちんと調査を成功させます」
この人は何を考えているんだろう。
なんで、どうしてお金を受け取らないんだろう。
成功報酬はともかく、前金くらいもらっておけばいいじゃないか。そもそも依頼がたくさん来ているようには見えない探偵事務所だ。稼げるところで稼げばいい。
いや、そもそも浮気の証拠もある。
混乱しているうちに、夫人は弓槻探偵事務所を後にした。
「はあ、疲れた。聖くん、お茶入れて。ミルクたっぷりで」
「お茶より、どうしてお金返しちゃったんですか!? それに、証拠がないとか……」
夜さんに詰め寄る。しかし、夜さんは飄々とした態度だ。
「ああ、いいじゃない、別に。お金に困ってるわけでもないし」
「で、でも……僕、あんなに頑張ったのに……」
僕が頑張った意味はなかったんだろうか。お金に困ってないというのが事実かはわからないけれど、頑張って探偵助手をしても、夜さんの気分次第で頑張ったことがなくなってしまうのだろうか。
なんだか、しょんぼりしてしまう。
「……ちがうの、ごめんね。説明しなくて」
夜さんは、ポンポンと僕の頭を撫でる。そして、デスクの引き出しを開けると、そこから無造作に何かを取り出す。
――札束だった。
「なんですか、これ!?」
「ふふ、すごいでしょ。聖くんが頑張ってくれた結果よ」
「僕の……?」
夜さんは、ゆっくりと話してくれた。
花園徹がメイドに手を出していたのは、事実だ。しかし、それは新人メイド相手だけではない。あの館で雇われているメイドの多くがその被害にあっているらしい。合意の上といえば合意の上だが、雇用主と雇われメイドの関係での合意は、女性として自信を持って「合意」といえるような関係ではないらしい。
「メイドの人がみんな、っていうことは、もしかして、あの冥さんも……?」
「さあ、冥はハッキリ言わなかったから、わからないけどね。でも、調査を続ければメイドの多くが花園徹と関係があるのがわかってしまうわ。そうしたら、夫人はどうすると思う?」
紅茶をカップに注ぎながら、僕は考える。
ミルクたっぷりのアッサム。
「旦那さんと別れる……?」
夜さんは、ゆっくり首を振る。
「別れるかもしれないけど、別れないかもしれない。お金持ちで立場もある人っていうのは、カンタンにいかないのよ。でも、私だったらメイドは全て解雇して、新しい人を雇いなおすわね」
「……」
なるほど、たしかにそうだ。
同じ屋根の下に、自分の旦那と関係があった人間が何人もいて、働いている。いくら女性の方に罪がなかったとしても、面白くはないだろう。
「だから、証拠を出すことは出来なかったんですね」
夜さんは小さく頷く。
なんだ、そういうことか。
「でも、そのお金はいったい……?」
僕の頑張りの結果としての、大金。僕の頑張りといえば、あの証拠を見つけたことしかない。
「ふふ、タダ働きはしたくないもの。夫人からお金をもらえないなら、ほかの人からもらうしかないじゃない?」
「もしかして、花園徹を脅して……!?」
「脅したりしてません。お話をしたらご好意でくれたのよ」
悪い人だ。
なんていうことだ。
ぜったい脅して奪いとったんだ。
「冥とは連絡が取れるしね、また今後こういうことがあったら、その時は奥様に報告させていただくと言ったら、ご丁寧にくださったのよ。お足代かしらね」
夜さんは何でもない顔で、ミルクを混ぜた紅茶に口をつける。
僕は開いた口がふさがらなかった。
夜さんって、不思議な人だ。
探偵に見えないし、仕事をしているように見えないし。ちょっとわがままで、ちょっと意地悪。でも優しくて、それでいて強か。
変な人だ。
でも、それが探偵らしさなのだろうか。
「ねえねえ。冥が聖くんのこと、褒めていたわよ。よく仕事のできるいい子だって」
「え、あ、それは嬉しいです」
「花園徹がまたメイドに手を出してないか、定期的に調査した方がいいと思うの。だから、たまにメイドさんになって花園家で働かない?」
……。
「ぜったいイヤです!」
僕は見逃さなかった。
部屋の隅に、クリーニングから返って来た状態のままのメイド服が干されていることを。
夜さんは僕に甘いけど、僕も夜さんに甘い。きっと、あのメイド服の出番は、また来るに違いない。



