かつて、そこには人々の声があった。
朝の鐘、商人の声、子どもたちの駆ける足音。
それが今は、何もない。
どこかで草木が揺れ、ひっそりと瓦礫を包み込んでいた。
イファは乾いた土を踏みしめながら、アルメリアの町へと足を踏み入れた。
崩れかけた建物は錆びつき、蔦の絡まった家々はひっそりと影を落とす。
雑草は無秩序に伸び、人の過去の暮らしをまるごと飲み込もうとしていた。
「……アルメリアが……こんなことに……」
呟いた声は、すぐに風にさらわれて消えた。
町の中心部へと向かうと、かつて友人と通った学校があった。
ドアは外れ、窓ガラスはひび割れ、机や椅子は埃まみれだった。
それでも、ふと目に留まったのは、掲示板に貼られたポスター。
ここの校庭で行われる年に一回のお祭り。
三年前の日付は、ひどく遠く感じられた。
あれは、アルメリアを去る事になった年の春。
父が「今年は、ちゃんと一緒に行けるぞ」と笑って言っていたのを思い出す。
結局その約束は、果たされなかった。
イファは母校を後にして、ゆっくりと街の広場へと進む。
イファが住んでいた頃、そこには噴水があり、子どもたちが集まっていた。
今は、水の代わりに砂が吹き溜まり、石造りの台座だけが残されている。
あのとき、世界はまだ明るかった。
未来を、疑うこともなかった。
毎日過ぎていく日々が当たり前で、弱さも痛みも知らなかった。
さらに少し歩いて、イファはかつて暮らしていた家を訪れることにした。
今だからこそ、向き合わなければいけない。
自分の力では、何も守れなかった、あの時を。
学校から家へ帰る通学路。
何度も通った道なのに、今はもうすっかり色を失っていた。
そのことがひどく、イファの胸を締め付ける。
足は僅かに震えていた。
赤い屋根は崩れ、壁も半分以上が倒れていた。
それでも、門から玄関までの小道には、幼い頃に踏みしめた記憶の感触が残っていた。
「……ここ、だったな」
幼い頃、雨が降るたびに父と母と並んで過ごした部屋。
古びた机に並ぶ、母が焼いてくれた甘いパン。
この町を守るんだ、と笑って言った父の背中。
イファは目を伏せ、拳を強く握る。
「……俺たちは……ずっとこの町で生きてたのに」
町は静かだった。
音も、匂いも、人の気配も、何ひとつ残っていなかった。
すべてが、風にさらわれて、ただ朽ちていく。
この町で生きていた自分は、家族や友達と精一杯の時間を過ごしていた。
希望に満ちていた。
でも、あの日から、全てが変わった。
ノアレの事故の日、肌にまとわりつくような風が吹き、違和感を覚えていた。
学校から帰ると、いつも家でおかえりと迎えてくれる母がいなかった。
数時間後、両目を手で覆った母は、見たこともないほどに取り乱していた。
その数日後に帰ってきた父は、転勤が決まったと苦い顔で言い、すぐにノースフィアへと家族で移住した。
帰ってこられるはずだった家には、全てを残していた。
ノースフィアに着いた頃、アルメリアの事実を知った。
もう、二度と戻れないかもしれない、と。
土壌や水は汚れ、危険な街だと連日騒ぎになっていた。
アルメリアから来た者というだけで、差別にもあった。
最初は、アルメリアに残っていた人もいたという。
でも、国から切り捨てられた町では、誰一人、生きていけなかったのだろう。
徐々に人々は街から離れ、いつの日か自分の故郷は「見捨てられた街」と呼ばれるようになった。
あの日から、母の目は光を失い、ノースフィアに移住した数ヶ月後、父は事故で死んだ。
イファはその空白を埋めるように、自分の中に“何か”をしまい込んで生きてきた。
「……だからって、俺は、ずっと失ったままでいていいのか……?」
声が、震えていた。
何年も心の奥に閉じ込めていた想いが、ぽつりと零れ落ちる。
「……全部、あの日に壊されたんだ。家族も、町も、未来も。それなのに、ただ黙って、目を背けたままでいいのかよ……っ」
そのとき、リアの顔が浮かんだ。
星灯籠の日、
リアと見上げた満天の星空、
水面に映る星々の光、
手を伸ばせば届きそうだった、あたたかい日々……。
真っ直ぐな瑠璃色の瞳で、自分を見てくれた彼女の姿。
「リア……」
イファは歩き出した。
町の外れに続いている道へと足を向ける。
そこには、ノアレへと続く古い道があるはずだった。
「……リア、待ってて。今行くから」
彼女が笑っていた日々を、ただの“記憶”にしたくない。
誰にも利用されず、誰にも奪わせない。
彼の中に残る、静かで確かな灯火が、再びゆっくりと燃え上がっていく。
草を踏みしめ、風の中を歩き出す。
かつて暮らした町の沈黙を背にして、イファは先に進んだ。
その胸には、誰かのために戦うという確かな想いが宿っていた。
