ノースフィアの朝は、ひんやりとして、どこか澄んでいた。
草木の葉先には夜露が残り、町の屋根の向こうから、やわらかな陽光がゆっくりと顔を覗かせていく。
イファは、旅支度を整えた荷物を背負い、家の前で小さく深呼吸をひとつした。
重くはないのに、胸の奥にはずっしりとした何かのしかかっていた。
それは責任であり、
そして、想いでもあった。
マリナがそっと彼の隣に立ち、微笑む。
その顔には、寂しさと同時に、信頼と誇りがにじんでいた。
「本当に、大きく、頼もしくなったわね……イファ。あなたならきっと、乗り越えられるわ。あの子を、どうか支えてあげて」
イファは言葉にならない想いをぐっと飲み込み、まっすぐ母を見つめた。
「……ありがとう、母さん。いってきます」
そのとき、母の手が背中に触れた。
その温もりが、すべてを語っていた。
寂しさも、
不安も、
願いも
──ぜんぶ。
イファは、ゆっくりと歩き出した。
朝靄の残る道を一歩ずつ。
もう、振り返らない。
そう心に決めて。
町の外れ、見慣れた森の手前で、カイが待っていた。
朝日を背に、腕を組み、いつものように陽気に眉を上げる。
「……よう。お前が一人で行っちまうのは、やっぱり少し寂しいな」
カイは、「俺が言ったのにな」と笑ってみせた。
「カイさん……警備隊のこと、本当にありがとうございます」
イファは深々と頭を下げた。
その動きに、言葉では言い尽くせない感謝がこもっている。
カイは小さく息を吐き、ふっと笑う。
「まぁ、イファ一人いなくたって警備隊は回るさ。町のほうは任せとけ」
イファは思わず小さく笑った。
「……帰ってきたときには、また叱ってください。俺、どうせまた何かやらかしてると思うんで」
「バカだな……」
カイはふぅとため息をついて続けた。
「お前にしか守れないものがある……イファ、頼んだぞ」
イファは喉の奥に熱くなるものを感じながら、かすれた声で「はい」と返事をした。
そして「行ってきます」と声をかけようとした、そのときだった。
「イファぁぁっ!」
遠くから全力で走ってくる音。
振り返ると、ミナが小さな肩を揺らして駆けてくる。
その目には、あふれそうな涙があった。
「ミナ……」
「リアを! 探しにいくって……聞いたわ……! あの子、ひどいんだから……私に……何も言わずに……!」
言葉が追いつかないように、ミナは必死に息を吸い込む。
イファは言葉に詰まって、ただ立ち尽くしていた。
ミナはごくりと唾を飲み込むと、震える手をイファに差し出して言った。
「リアに渡して……。私、リアと友達になれて、本当によかったって……伝えて」
「これ……」
イファは驚きながらも、ミナの手に握られていたものを手に取る。
「リアが、前に言ってたわ。イファからもらったんだって」
それは、真っ白なアネモネの押し花で作られた綺麗なしおりだった。
ミナがイファの深緑の瞳を見つめて言う。
「一緒に花言葉を調べたの。希望って意味をね。でも、白いアネモネには、“真実”って意味もあるの……。あの子が真実と向き合ってもなお、希望を捨てないでいられるように……。お願い。イファ……リアを、助けて……」
胸が締め付けられる。
その花は、白くて凛と咲いていて、
リアにぴったりだと思って選んだ。
リアは、たしかにこの町で、一緒に時を刻んでいた。
そして、紛れもなく、イファの希望になっていった。
イファはしおりを両手で受け取り、そっと胸にしまう。
「……わかった。絶対に、届けるよ」
ミナは涙をぬぐい、笑おうとするけれど、顔がくしゃくしゃにゆがんでいた。
「……イファも、気をつけてね。無事に、帰ってきて……」
「うん。必ず、ふたりで帰ってくる」
その言葉に、ミナはぎゅっと口を結んでうなずいた。
カイは、遠くの空を見つめたまま、ぽつりとつぶやく。
「……お前にばっかり背負わせてしまって、すまない」
イファは首を振り、その背中に、静かに答える。
「俺が、守りたいんです」
三年前の自分は、母親も父親も守れなかった。
でも、今の自分には守りたいものがある。
そして、これ以上、失いたくないものがある。
自分のためだけじゃない。
誰かのために歩く今なら。
今度こそ、かならず。
拳を握りしめたイファは、最後に、もう一度だけ二人の顔を見て、小さく頭を下げた。
そして、まっすぐに、森へ向かって踏み出した。
空はどこまでも高く、澄み渡っていた。
風が草を揺らし、陽の光が彼の背中を照らす。
リアが待つ場所は、遥か遠く。
けれど、彼の足にはもう迷いはなかった。
歩き出すたびに、ノアレへと続く道が、ゆっくりと姿を現していく気がした。
