それでも、この世界で、光を


通路に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。

肌にまとわりつくのは、長く閉ざされていた空間が作り出す冷たい重さ。
あたりには瓦礫が散乱し、足元には微かな埃が舞う。
天井には壊れかけた照明が、細く瞬いていた。

風は届かない。
音すらも沈んでゆく。

光があるのに、影のほうが濃く感じる。

壁をなぞるように歩く自分の足音が、まるで他人のもののように耳に響いた。

ふと横を見ると、半ば崩れかけた通路の奥に、鉄扉のようなものがうっすらと見えた。
だが、その先は、崩れた瓦礫に塞がれていた。


──私、本当に来たことがあるの……?

思い出せない。
なのに、心のどこかがざわつく。

遠い場所で感じたような音、匂い、光。

記憶のかけらが何かを訴えているのに、
それを言葉にできないもどかしさだけが残っていた。


セリオは隣で無言のまま歩いている。
けれどリアは、彼の視線が何度か自分に向けられているのを感じていた。

──この人は……私のこと、私のここでの時間を、どれほど知っているのだろうか……

問いただせば、きっと何かを答えるだろう。
でも、自分の過去を、自分の手で知りたかった。


通路の突き当たりでセリオが立ち止まる。

重い鉄扉が軋みながら開いた先には、静まり返った小さな部屋があった。

薄い暗い照明が天井から吊るされていて、部屋全体に灰色がかった光を落としていた。
壁にはいくつかのモニターがあり、中央には使い古された操作台も見える。
そして、傍らには、色褪せた大きな椅子が置かれていた。

壁の焦げ跡。
剥き出しの配線。
溶けたようなコード。

そして、床の隅には、誰かが残した、擦れた靴跡。

──ここで……誰かが、生きていた


リアの喉がきゅっと細くなる。
自分もここにいたはずなのに。

セリオが操作台の端に手をかざす。

「……残っていればいいが、保存状態は悪い。君がここを去る時、この研究所は軍に狙われ、多くの記録が失われた」

セリオがいくつかのスイッチを操作すると、モニターのひとつが瞬き、ジジッというノイズと共に古い映像が再生された。


そこに映っていたのは、ひとりの男だった。
痩せた体に白い髭。

白衣を着た男は、優しげな目をしていたが、目の奥には強い意思が宿っていた。

リアは、思わず一歩前に出る。

映像の中の男は、真っ直ぐにカメラを見て話し始めた。


『……リア、もし君がこれを見ているのなら──』


その声に呼ばれた自分の名に、リアの身体が小さく跳ねる。

けれど、次の瞬間。

ザザ……ッ ザザッ……ピー……ッ……!

画面が崩れ、音声もノイズに飲まれた。
目の前の人物は消え、再びモニターは闇に沈んだ。

「……!」

リアはモニターの前で立ち尽くしたまま、胸に手を当てる。

──誰なの? 
覚えていない……

──でも、知っている──

言葉にならない想いが、喉元までこみ上げてくる。
目の奥が熱くなる。

「……これが、サンティス、博士…?」

絞るような声で問うと、セリオが一拍置いて、静かに頷いた。

「君を救い、ここで共に過ごした人物だ」

共に過ごした、その言葉が、痛みのように胸に突き刺さる。
リアには、その記憶が、なかった。
ここで誰かと共にいたという実感も、ぬくもりも。なにも。

──私の時間が、私の知らないところにある……
どうして忘れてしまったんだろう……大切なものだったはずなのに──

セリオは、再び操作を止めた。

「焦る必要はない。この研究所にさえ入れたのなら、いくらだって時間はある」

リアは何も返せなかった。
気持ちだけが焦る。

沈黙のなか、リアは部屋の奥にぽつんと置かれた、色褪せた椅子へと近づいた。
手を伸ばし、その椅子を回転させると、背もたれの布は焦げて破れ、肘置きは曲がっていた。

だが、なぜかその椅子には、温かさが残っている気がした。

誰かが、ここに座っていた。
何度も、何日も。

その隣に、きっと、自分もいたのだ。

リアは、指先で椅子のひび割れをなぞった。


──思い出したい。
自分の過去を──


リアはただ、そこにあった誰かの暮らしの名残を、手のひらで確かめるように見つめていた。