その頃──
リアとマリナがいる家にも、控えめなノックの音が響いた。
「……誰かしら、こんな時間に」
マリナが顔を上げるより早く、扉の向こうから穏やかな声が届く。
「夜分遅くに失礼します、リア」
胸の奥が、ひやりと冷える。
リアは小さく息を吸い、「私が出ます」とマリナに告げて扉を開いた。
月明かりを背に、
白銀の髪の男が静かに立っていた。
「よかった。……まだ、見つかっていなかったようだね」
その声は落ち着いていた。
「時間がない。町はもう動き出している。正規軍が、君を探しているんだ」
「……え?」
背後から、マリナの声が重なる。
「リア、どちらさま?」
セリオは視線を逸らさず、淡々と言葉を重ねる。
「このままここにいれば、いずれ軍は強硬手段に出る。そうなれば、君だけじゃない。この町も、君の大切な人たちも……巻き込まれる」
リアの脳裏に、町の人々の顔が浮かぶ。
イファの背中、ミナの笑顔、マリナのぬくもり。
セリオの声は、どこまでも冷静だった。
「リア。私とともに来なさい。君がここを離れれば、軍は町には手を出さない。私が、保証しよう」
その言葉を遮るように、マリナが一歩前に出る。
「失礼ですが、どちら様でしょうか。こんな時間に訪ねてきて、この子を連れて行こうだなんて」
リアは、かすかに震える声で答えた。
「……大丈夫、マリナさん。この人は……私の過去を知っていて、私の故郷を教えてくれた人です」
マリナは、珍しくセリオを睨んだ。
その視線は、確かに、彼を捉えている。
セリオは一瞬だけ目を伏せ、
それから、どこか寂しそうに微笑んだ。
「私は、君の過去だけじゃない。君が歩むべき“行き先”も知っている」
マリナが、静かに口を開く。
「リア……ここに残りなさい」
同時に、セリオが言う。
「リア。ノアレへ来るんだ。君自身の真実を、この手で確かめればいい」
二つの声の間で、リアは唇を噛みしめ、深く息を吸った。
「……わたしが行けば、みんなは……無事なんですね」
「ああ」
セリオは、迷いなく頷く。
「リア、だめよ。行かないで」
リアは、マリナを振り返った。
見えないはずの瞳が、穏やかに向けられていた。
まるで、すべて分かっているかのように。
「……マリナさん。わたし、逃げるために行くんじゃありません。帰ってくるために、行きます」
その一言で、
マリナは理解してしまった。
──ああ、この子はもう、
守られるだけの子じゃない。
胸の奥が締めつけられても、マリナは腕を伸ばさなかった。
代わりに、静かに言った。
「……必ず、帰ってきなさい、リア。ここは、あなたの家だから」
リアの胸に、あたたかいものが広がる。
「……ありがとう」
短く、けれど確かにそう告げて。
夜風が、頬を撫でる。
床板が、かすかに鳴った。
その背中を、マリナは何も言わずに見送った。
森の入り口。
夜の帳が降りたその場所には、白い大きな繭のような形の乗り物があった。
周囲を黒いリングが無音で回転し、ひときわ異質な光を放つ。
「さぁ、行こうか。真実を、この手で掴むために」
そう言ったセリオは、リアの手を取り、青白い光を放つ不思議なポットへと促す。
セリオの瞳は、光を宿しているはずなのに、どこか深い闇をたたえていた。
リアは一瞬戸惑ったが、震える足で、ポットへと乗り込んだ。
そのとき。
「リアーーーーッ!!」
息を切らし、茂みをかき分けて走ってきたイファの声が、闇を裂いた。
リアは反射的に振り返る。
月光の中に、彼の姿があった。
「イファ!」
その声と同時にポットの扉が閉まり、機体は静かに地面から浮き上がる。
次の瞬間、あたりの空間そのものが凪いだように、ポットの姿が消えた。
……間に合わなかった。
イファはその場に崩れ落ち、湿った地面を拳で叩いた。
「……リア……」
呟いたその小さな声は、誰に届くこともなく、夜の森に消えていった。
夜風がイファの横を吹き抜けていく。
広がる闇に、ただひとつの灯が消えた。
それは、優しくて、あたたかくて、かけがえのないものだった。
それが瞬く間に彼の手からこぼれ落ちたことを、
イファは、静かに実感していた。
