あたりはいつの間にか闇の中に溶けていた。
三日月が雲間から顔を覗かせ、淡く世界を照らしている。
揺れる草木に、遠くから届く川の音と虫の声が重なって、秋の静けさが深く染み渡っていく。
吸い込んだ空気はほんのり冷たく、夏の名残と秋の気配が混じり合っていた。
夜の香りが胸の奥まで届き、そっと痛みを残す。
リアは庭にあるベンチに座り、膝の上でそっと指を重ねる。
穏やかな時間のはずなのに、気持ちは焦るばかりだった。
しばらく星を眺めていると、背後から足音が近づいてきた。
振り返ると、ランタンを手にした仕事帰りのイファが立っていた。
柔らかな灯りがリアの影を長く伸ばしていく。
「リア、どうしたの? こんなところで」
「……イファを待っていたの」
イファは一瞬驚いたが、すぐに笑顔を湛えて、隣に腰を下ろした。
夜風がふたりの髪をそっと撫でる。
「寒くない?」
「うん、大丈夫」
ふたりで星を眺めたあの夜を思い出す。
はじめて一人じゃないと感じた記憶が、胸の奥で静かに揺れていた。
今も変わらず、隣にはイファがいて、瞬く星は遠く、美しかった。
静かな沈黙が、ふたりの間をやさしく包み込む。
やがて、リアは小さく息を吐き、ぽつりと言葉を落とす。
「イファ……少し、聞いてほしいことがあるの」
イファは真剣にリアを見つめ、静かにうなずいた。
「うん。何でも話して」
リアは、迷いを押し殺すように息を吸い、そっと言葉を紡ぐ。
「……実は、この前、セリオさんに言われたの。ノアレに、一緒に来ないかって…私の過去の全てが、そこにあるからって」
イファの表情がわずかに強張る。
リアは、少し言葉に詰まりながらも、ゆっくりと続けた。
「最初は、行きたくないって思った。みんなと離れたくない。ここが私の居場所だって、思えているから。だけど、ちゃんと知りたいとも思ったの。自分の過去を。それなのに、やっぱり怖くて、どうしたらいいのか、ずっとわからなかった……」
リアは手をぎゅっと握りしめる。
「もし行けば、きっと私が知らない過去を知ることになる。でも……それで何かが壊れてしまう気がするの。ここでみんなと過ごした日々さえ、なくなってしまいそうで……知ろうとしなければ、私はずっと、ここにいられるのにって……」
その声は小さく、夜の闇に溶けていく。
イファは、そっと彼女の手に自分の手を重ね、静かに耳を傾けた。
「私は、今のこの暮らしが大好き。イファと出会って、マリナさんと暮らして、ミナやリゼットとも友達になれた。なのに……」
声が震える。
それでも、リアは言葉を続ける。
「もし私が、ノアレに行って、本当の自分を知ったら……それが、知りたくないような過去だったら……。もう、二度とみんなに会えなくなるかもしれない……」
リアは、夜空を見上げた。
無数の星が瞬き、その光は闇夜に輝く希望のようだった。
その光にそっと、自分の決意を重ねながら、リアは、心に誓った。
「それでも、わたし、決めたの。ノアレに行く」
──私も守りたい。
イファやこの町のみんなを。
イファの瞳がぐらりと揺れた。
イファは何度か小さく頷くと、感情を押し殺すように、静かに口を開く。
「リア、ありがとう。打ち明けてくれて。……正直、セリオさんのことを完全に信じられるわけじゃない。でも──ノアレに行くかどうかは、リアが決めることだ」
ランタンの灯が、ゆらゆらとふたりの影を揺らす。
イファは、ゆっくりと、言葉を選びながら続けた。
「ただ、一つだけ確かなのは、リアは今まで、ちゃんと頑張ってきたってこと。怖くても、自分のことを知ろうとして、ちゃんと前を向こうとしてきた。俺は、それだけで本当にすごいと思う」
そう言って、イファはリアの手をもう少し強く握りしめた。
「リアがどんな選択をしても、俺はリアの味方でいる。そばにいたいんだ。リアの隣に」
リアは瞳を潤ませ、そっとイファを見上げた。
その瑠璃色の瞳の奥に、淡い金色の光が滲んでいく。
イファはふと、その瞳に目を奪われたように、じっと見つめた。
「……リアの瞳って、色が変わるんだね。……すごく綺麗だ」
リアは驚いたように目を見開いた。
「……私、そんなふうに見えてるの?」
イファは急に目を逸らして、少し照れくさそうに頭をかいた。
「うん。なんていうか……光が生まれてくるみたいで。見てると、不思議とあったかい気持ちになる。……すごく、リアらしい」
リアの胸の奥に、じんわりと温かなものが広がっていく。
まるで、自分の中にある“何か”を、イファが初めて見つけてくれたようだった。
「……リアは、リアだよ」
イファはもう一度、まっすぐリアを見つめて言った。
「俺は、リアが不安なときも、怖いときも、どんな時もずっとそばにいる」
「ありがとう……イファ」
リアの声は、小さく震えながらも、どこか安らかだった。
そして迷いの中にも、小さな決意を抱えた笑顔だった。
イファも、柔らかな笑みを浮かべる。
「大丈夫。リアは一人じゃない」
夜風がふたりの間を心地よく通り過ぎる。
月明かりの中で、リアの銀色の髪がふわりと揺れていた。
そして、ゆっくりと、その小さな光はまたひとつ、確かな灯りへと育っていた。
