一人につき、生まれながらに『字』を与えられ、その『字』に当てはまる能力を使えるようになった時代――皆が各々の『字』の力を使い、暮らしを豊かにしてきたが、ある日を境にその日常は非日常へと変化していった。
 触れたものを全て腐らしてしまう異形の化け物『デュユース』の存在が問題視されるようになり早5年の月日が経過していた。
最初こそ、軍隊を動かしてなんとか食い止めていたのだが、それでは間に合わないと考えた政府は、それらに対応できる人材を育てるための特殊軍人養成学校『オリオン学園』を設立し、若く、力ある人材を集めるようになった。
 瀬良春斗(せらはると)もそんな学園に通う一人であった。

***

「くぁ~……」
 ザワつく教室の中に、伸びの良いあくびが広がった。
 連休明けの学園は皆大抵、家族との久しぶりの再会や自主練の話で持ち切りになるものだが、今日は違っていた。どうやら、転校生が来るらしく皆その話で盛り上がっている。
 そんな中、間の抜けたあくびを披露した春斗はぼんやりと窓の外を見ていた。こういう時、窓側の席は良いものだと思いながら遅刻ギリギリで走る生徒達の姿を見つめる。心の中で腑抜けたエールを送りつつ、遅刻寸前の生徒達を見ていると、そんな者達を絶望に叩き落とすようなチャイムの音が響いた。
「あらら、残念」
 そう呟くと、ガラガラと引き戸の音が耳に届いた。担任が教室に入ってきた合図で、それとともにザワついていた教室内が一気に静まり返る。
「あー、今日は転校生を紹介する。入ってきなさい」
 先程まで、教室中の噂の的となっていた転校生が教室へ入ってくる。
 ゆっくりと歩いて来たその人物に、皆が目を奪われる。
 少しだけ尖ったアッシュグレーの髪に、シュっとした金色の瞳、背丈は春斗よりも高く、長い足が動く度に、ここはランウェイか何かかと疑いたくなった。そんな人物が真っすぐにこちらを見ると、その整った顔に皆が息を飲んだ。
 腹が立つほどの所謂イケメンという部類に、嫉妬したような表情を浮かべる者もいれば、うっとりと目を奪われる者もいる。そんな人物に、春斗は少しだけ惹かれるものを感じながら、黒板に書かれた文字を読んだ。
 水無月煌(みなづききら)。そう書かれた文字を目で追い、転校生が口を開いたのを確認して耳を澄ませる。
「水無月煌です。よろしく」
 低く、甘い声で言い、転校生――煌は担任から言われるままに自身の席へと歩みを進めた。
 こちらへ向かってくるのを見て、どうやら自分の後ろの席らしいと気がつくと、春斗はへらっと笑って煌に話しかけた。
「水無月くん、よろしくね」
 そう言うと、煌は春斗をジッと見つめてフッと鼻で笑ってくる。
「なんだ、男子校って聞いてたけど……女もいるんだな」
「……へ?」
 一瞬、なんのことかと思ったが、煌はそれだけ言って席に着くと何事もなかったかのように授業の準備を始めていた。
 そんな煌に、春斗は腹が煮えるような怒りを感じて、思わず振り返って怒りをぶつけようとしたが、授業開始の合図に疎外されてしまい、仕方なく休憩時間を待つことにした。

***

 やけに長く感じた授業が終わるなり、煌の席の机をバンッと力強く叩く。
「なんだよ」
「さっき言ったこと、取り消せよ。僕は女じゃない!」
「へぇ~、そう言われてみれば確かに……胸ないしな」
 無神経な煌の言葉に、春斗は頭が沸騰するような怒りを覚え、思わず胸倉を掴みそうになると、それの間を取り持つように一人の生徒が入り込んでくる。
「鈴……退いてよ! コイツ一発くらい殴らないと気が済まない」
「まあまあ、落ち着いて~」
 そう言って二人の間でヘラヘラと笑うのは、春斗の親友である連鈴(むらじすず)だ。昔から争い事を好まぬ方で、何故この学園に入学したのかも分からない人物であった。淡いオレンジ色のふわふわとした髪をなびかせて、宥めるように両手を振っている。
「水無月くんも悪気があったわけじゃなさそうだし? 許してあげなよ~」
「うぅ……鈴が言うなら、まあ……今回だけは許してあげてもいいけど」
「だってさ~。水無月くんもそれでオッケーだよね?」
 鈴がパチンッとウィンクをすると、煌は深く溜息を吐いて笑って見せた。
「こんなヘラヘラした奴に守られてるとか、へなちょこなんだな、お前」
「なっ……! お前ッ!」
「あ~! 喧嘩はダメだよ~、春。水無月くんも! 喧嘩ごしは良くないよ~」
 ヘラヘラとしつつも、しっかりと二人の間を取り持ち、なんとか治めることに成功すると、鈴は春斗を連れて廊下へと向かった。
(ムカつく! ムカつく!)
 鈴に宥められても心の底ではまだ怒りが治まっていない春斗は、頭の中で何度もそう連呼し、手を引かれるまま廊下へと歩んでいった。
「あんまり気にしちゃダメだよ~」
「だってアイツ! 僕が一番言われてムカつくことを平然とっ!」
「水無月くんは転校生で、春のことまだよく分かってないんだからさ、そんなにカッカッしちゃダメだよ」
「それは……そうだけど……」
 鈴の言葉に、春斗は口ごもった様子で目を泳がせる。確かに、鈴の言う通り煌とは初対面であり、まだお互いのことを何も知らない間柄だ。自分がどれだけ嫌がっていたとしても、それを知らない煌からすれば軽い冗談だったのかもしれない。
(だとしても、ムカつくことはムカつくんだけど……)
「分かったよ……今回だけ、鈴に免じて許すことにする」
「うん! そうして!」
 元気に答える鈴に、心を癒されたようで春斗はホッと息を吐いた。
 鈴の『字』は『癒』であり、その字の通り他者の傷や心を癒す能力がある。しかし、大体は能力なしでもこうして心を癒してくれるのだから素直に凄いと春斗は思った。
 それに比べて自分はただからかわれただけで大袈裟に怒りを露わにしてしまい、情けなさにガクンと肩を下げる。けれど、何故か彼の言葉には過剰に反応してしまうなとも思った。初対面のはずなのに、どうしてか気になってしまうのだ。昔、どこかで会ったことがあるのだろうかと考えてみるが、どれだけ辿っても記憶の中に煌の存在はなく、春斗はなんとも言えない気持ちになった。
(まあ、アイツの素性なんかどうでもいいんだけど)
 知ったところで何かが変わるわけでもない。そう思うと、春斗は再度深く息を吐いて鈴に話しかける。
「鈴はどう思う? あの転校生」
「う~ん……イケメンだけど、なんかちょっと近づき難い感じ?」
「そっか……」
「なになに? 春ったら気になっちゃってる感じ~?」
「べつに。あんなヤツどうだっていいよ」
「またまた~」
「本当にどうでもいい!」
「ふふっ、じゃあそういうことにしとくね。でも、友達になりたいってんなら応援するよ」
「なっ……! 誰があんなヤツと……」
 鈴からもからかわれ、春斗はバツの悪い顔をして教室へと戻った。その後ろをニヤけた顔で歩く鈴を無視して席に着く。それと同時に次の授業のチャイムが鳴り、一瞬で静かになった教室内で、教科書を雑にめくりながら煌のことを考える。
 友達になりたいのかと言われれば、そうではないと否定できる。けれど、近づき難さは不思議と感じず、それが余計と頭を悩ませていった。
(どうでもいいのに……なんで、こんなに気になるのかな……)
 煌とは初対面で、最悪の会話しかしていない。なのに何故、こんなにも気持ちをかき乱されるのか。謎で仕方がなかった。
「……じゃあ、ここを……瀬良、答えてみろ」
「えっ、あっ! はい! えーっと……」
 急に担任から声をかけられ、慌てて教科書をパラパラとめくる。だが、どこの問題を答えれば良いのか、そもそも答えられる問題なのかすらも分からず、呆然と立ち尽くして蚊の鳴くような声で分からないと伝えると、担任は飽きれたように溜息を吐いて、後ろの席の煌へ回答を述べるように言った。
「はい」
 恥ずかしさにゆっくりと席に着く春斗を尻目に、煌はスラスラと答えを述べると、担任からの高評価を得て席に着いた。
「こんなのも答えられないのな、へなちょこ」
「っ……!」
 小声で言われ、春斗は思わず掴みかかりそうになった腕を押さえて深く深呼吸をした。いちいち構っていたらキリがない。言わせておけばいいと思い、黙り込んで教科書に目線を移すと、煌はつまらなそうにそっぽを向いて窓の外を見つめた。丁度目に入った場所で行われている訓練を見て、生ぬるいなと思いながら担任の声を聞くだけ聞いて、不真面目に授業を受けた。

***

「次は訓練だから、全員戦闘服に着替えて外に集合な~」
 担任がそう言うと、生徒たちが一斉に挨拶をし、各々の戦闘服に着替え始める。それを横目に担任も仕度のために教室を出ていくと、煌が春斗の着替えを見て話しかけてきた。
「なあ、戦闘服ってどんなのなんだ?」
「はっ?」
 問われて、そう声を出すと煌はムッとした顔で春斗を見た。
「転入手続きの時、そんな話聞いてないから何も持って来てないんだよ」
 それを聞いて、学園側は何を考えているんだと思いながらも、春斗は煌に訓練の話をすることにした。
「戦闘服は各々の能力に適した物を選ぶんだよ。一緒じゃ能力使いづらい人もいるから」
 そう言って、春斗は自身の戦闘服を見せる。黒い軍服に、ベルトで自身の武器でもある日本刀を腰に携えている、いたってシンプルなものだ。春斗の『字』は『時』であり、数秒間だけ時間を止めることができる。したがって、戦闘自体は自身で行わなければならないため、武器を所持していた。他にも似たようなタイプの生徒は沢山いる。
「へぇ~、じゃあ俺は服だけでいいんだな。なら、今回は制服のままでいいや」
「……君の『字』って――いや、なんでもない」
 煌の持つ『字』が何なのか、尋ねようと思ったが、これで自分の能力を遥に超えるものを言われたらと思うと、聞く気がおきず春斗は言葉を切って煌に背を向けた。
「用意ができたら訓練場に集合だから、僕はもう行くからね」
「おう! 教えてくれてサンキューな」
「……」
 素直に礼を言われたことに戸惑いながら、春斗は訓練場へと向かった。
(なんだよ……あんな態度もできるんじゃないか)
 まだ出会って間もないとはいえ、煌の側面しか見えていなかった春斗にとって、あの素直な礼の言葉は深く胸に刺さるものであった。最悪の会話から始めたのはあちらだが、あんな態度もとれるのならば今後を考えてみても良いとすら思えてくる。
(……って! なに考えてるんだ! 僕は……)
そんな傲慢な考えを無意識に持ってしまう自分に落胆し、春斗は訓練場に到着するとスゥーっと外の空気を吸い込んだ。冬が近い。澄んだ、冷たい空気は今の自分の思考を整えるのに丁度良いと思った。
春斗は、今の世界ではそう珍しくもない戦災孤児にあたり、デュユースの存在がまだあまり知れ渡っていない時に目の前で家族を全員殺害されており、幼い時から軍が設立したデュユース被害者だけを集めた孤児院で育っていた。孤児院は皆、心に強いダメージを負った者ばかりで、暗く陰気な空気が漂い、皆が皆自身の孤独を抱えて生きていたせいか、少しでも自分よりも恵まれた環境で育った者を羨んでしまう傾向を持った者が多かった。春斗も、その一人だ。
 煌の真っすぐな善意に戸惑い、友達になってやっても……などと傲慢な考えを持ち出してしまう自分が心底薄っぺらな人間に見えてくる。それは、この学園に入学した時も体験したもので――孤児院出身者は拒否権なく、この学園に入学することになっているのだが、その時に嫌だと喚く同期を見てうんざりしていた自分に、真っ先に話しかけてきた鈴とのことを思い出す。大きく丸い翠の瞳でこちらを見つめ、幼い顔立ちをさらに幼い笑みで埋め尽くして挨拶をされた。
「俺、連鈴! 君は?」
 他者をことごとく拒絶して生きていた春斗にとって、初めてと言っても過言ではない、同じ目線で言葉を交わしてくれた人物に、大袈裟に驚いてしまう。
「あっ! ごめん、ビックリさせちゃった?」
「いや……大丈夫……」
「そっか。良かった~! やっぱさ、こんな世の中じゃん? なんか暗くて嫌になっちゃうよね」
「そう、だね……」
 目を泳がせてやっとの思いで呟いた言葉はそれだけで、春斗はなんとなく情けない思いをしつつ、鈴の他愛ない会話の中の毒気のなさに若干の苛立ちを覚えていた。ああ、この者は恵まれて育ったのだろう。初対面の相手に気さくに話しかけられる程度には、他者の悪意に触れることなく生活してきたのだと思うと、嫌でも自分の胸が真っ黒に染まっていくのを感じた。
 けれど、鈴はそんな春斗の考えなどつゆ知らず笑ったまま続けるように名前を訪ねてくる。そんな態度に、春斗は苛立ちを含んで返事をした。
「聞いてどうするの? どうせ卒業したら皆バラバラの部隊に所属して、最悪死ぬんだよ?」
「……うん、そうだよね。でもさ、今は生きてるじゃん。だから教えてよ」
「……っ」
 鈴の無垢な瞳を大きく見開いた目で見つめる。こんなふうに言われたこと、扱われたこと、優しく踏み込まれたこと、全てが初めてで、驚かずにはいられなかった。暫く黙り込んでいると、鈴は心配した様子で春斗の顔を覗き込む。
「大丈夫~?」
「あっ、へっ……えっと、あぁっ! 名前! その……瀬良、春斗」
「春斗かぁ……いい名前だね! じゃあ、春って呼んじゃうね~」
 擦れていた思考が一気に澄んだ水で洗われたような感覚だった。今までの人生の中で、こんなふうに自分を人扱いしてくれた人物との出会いに戸惑い、どうしていいか分からずにいると、鈴がニカッと笑って春斗の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「へっ? へっ?」
「安心するおまじない~。父さんから教えてもらったんだ」
「お父さんが……そっか、素敵……だね」
 自分でも精一杯だったと思う。絞り出した声で言うと、鈴は何かを問い詰めることもなく優しく頭を撫でて笑っていた。胸が、じんわりと温かくなる感覚と一緒に棘が突き刺さるような感覚が混ざり合う。これが、幸せという感覚なのかと思うと言い表し難い気持ちが押し寄せてくるが、少なくとも目の前の人物からは敵意を感じない。そんなことは初めてだった。
「……ありがとう。安心したよ、鈴」
「どういたしまして!」
 鈴の元気な返事を聞き、初めてのことに戸惑いながらも鈴の善意に触れたことで春斗は人の温かさを思い出し、そこから変に他者へ敵意を向けたり拒絶することがなくなっていったのだった――それが、今になってまたどす黒いものが込み上げてくるのを感じて、春斗は己を恥じる。
 きっと、煌も純粋な善意からの言葉だったに違いない。それを叩き落としそうになった自分を振り払うように頭をブンブンと振る。すると、先に来てストレッチをしていた鈴が駆け寄って来るのが見えた。
「春~! そろそろ訓練始まるよ~……って、どうしたの?」
「ちょっと、自己嫌悪してた」
「なんで?」
「自分醜いなって」
「どゆこと」
 不思議そうな表情を浮かべる鈴に笑って誤魔化し、訓練開始の笛の音を聞いて集合する。
「……ん? 水無月、戦闘服はどうしたんだ」
 煌を見るなり、そう言った実技担当の言葉で一斉に生徒達の視線が煌に集まる。
「あ~、知らなくて持って来てません。でも、俺の『字』的には必要ないかなって思って~」
「戦闘服は『字』の力の補助のようなものだ。次からはちゃんと用意してくるように!」
「は~い」
 気だるげに返事をした煌を見て、担当は飽きれた顔をしたが、すぐに笛を鳴らして今日の訓練内容を話していく。今日は能力強化の訓練らしく、各々で『字』の能力を使って与えられたミッションをこなすといった内容だった。
 説明が終わり、訓練が始まると、皆が緊張感に包まれたような空気が漂ってきた。名前を呼ばれた順からミッションを始め、クリアした順に成績が発表されていく。先に呼ばれていく生徒達を眺め、春斗は自分の番がくるのを待ちながら刀のチェックをする。刃こぼれはないか、汚れてはいないかを確認していると、担当から名前を呼ばれ、慌てて位置へ着いた。
「瀬良は1分以内にあの的を破壊すること。以上だ、やってみろ」
「はい!」
 担当からのミッションを聞き、返事をして刀を抜く。深く息を吸い込み、開始の合図とともに己の『字』を光らせる。すると、周りの時間が停止し、春斗だけが動ける空間が作られる。春斗の能力はせいぜい十秒程度の時間しか止められないため、急いで的を一刀両断すると、荒い息を吐きながら能力を解いた。
「はい、合格。でも、もう少し長く時間停止ができるようにするように。敵はこっちなんか待ってくれないからな」
「はぁ……っ、ふぅー、はい。分かりました」
 担当からのダメ出しと評価を聞き、精進せねばと思う。確かに、いざ敵と遭遇したとして、こちらが能力を発動するのを待ってくれるわけではない。もっと瞬発力を上げなければと、己の力のなさを知って拳を握る。そうしていると、次の生徒である煌の名前が上げられ、入れ違うように交代をした。
「水無月は今日が初めてだからな、とりあえず能力を見せてみなさい」
「了解しました~」
 間抜けな声を出して、煌はそっと両手を前に出して指を動かした。瞬間――リングの周りに設置されていた岩が空中に浮き、そのまま勢いをつけて地面に叩き落とされる。
「な……っ」
 その光景に皆息を飲み、春斗も声を漏らして驚いた。
「こんな感じっす」
「あ、ああ……威力は分かった。確か、お前の『字』は『操』だったな……今のは岩を操ったのか?」
「あ~、操るっていうか……俺にしか見えない糸で動かしたって感じです」
「動かした? あの岩を、か?」
「はい。こう見えて俺、結構怪力なんで」
「……よ、よし分かった。下がっていいぞ」
 そう言って、評価Aと書かれた用紙を受け取って戻ってくる煌を見て、春斗は言い知れない劣等感に似た感情を抱いた。自分は武器が無ければまともに戦うこともできない。それを、彼は自身の力だけでどうにかしてしまうのだと思うと、酷く自分が劣っているように感じた。思わず、カタカタと身を揺らして顔を伏せていると、後ろから大きな腕で抱き寄せられ、驚きにビクンと跳ねる。
「はーちゃん、どうしたの? 寒い?」
「……黒、ビックリするじゃないか」
 抱き寄せてきた相手――心音黒(こころねくろ)に言ってその大きな身体の先にある顔を見上げる。ショッキングピンクのベリーショートの髪に、隈の酷いつり目。いつも気だるそうな動きをしている大柄な身体は春斗をすっぽりと収めるほどで、この学園でもかなり体格に恵まれた生徒の一人だ。白い大きなウサギの耳を模したフードの付いたパーカーを着用しており、腰には火薬の入った小瓶をいくつもぶら下げている。
「黒はもう終わったの?」
 抱きつかれたまま問いかけると、黒はコクンと頷いて見せてきた。元より、口数の少ない方ではあるが今日は特に静かな気がする。もしかしたら、先程の煌の力を見たからかもしれない。あんなものを見せられて、何も感じない方がおかしな話だ。そんなことを考えていると、不意に煌が春斗の方を振り返った。何か話そうとでも思っていたのか、口を開きかけるのが見えたが、何故かすぐに閉じて目線を逸らされる。
「……?」
 そんな煌の様子を不思議に思いながら、春斗は黒から離れると、次に訓練を行う三年生達へと目線を向けた。本来ならば、学年ごとに別々で行うものなのだが、今日だけは授業の関係で共同訓練となったらしい。三年生の実技を見られるのは珍しいことなので、春斗をはじめ他の生徒達も釘付けとなっていた。
「花形。一年達にお手本を見せてやりなさい」
「はい、承知いたしました」
 真っ先に呼ばれたのは、この学園でもトップの成績を誇る花形鏡(はながたかがみ)だった。金色の美しいセミロングの髪を揺らし、鋭い赤い瞳で模擬試合用の敵を模った人形を見つめている。
「では……始め!」
 担当の掛け声とともに、花形は素早く人形に触れた。その瞬間、人形がどろりと溶け出し、攻撃を繰り出す間もなく腐り果てて崩れていく。花形の『字』は『毒』であり、身体のいたる部分を毒に変えることができる。その能力を使い、人形を素早く腐食させたのだろう。さすがの力に春斗も唾を飲み込んで驚いた。
「さすがだ、花形」
「ありがとうございます。少しでも一年生達の指揮を上げられたらいいのですが……」
 控えめに言い、花形はジッと一年生達を見つめた。そんな中、偶然なのか春斗と目が合うと、ニコッと笑って元の位置へと戻っていく。
「知り合いだったっけ?」
 不意に黒が春斗に尋ねた。
「いや……一度、挨拶したことがあるくらいだけど……」
「ふ~ん、そうなんだぁ……」
 それを聞いて、黒は不服そうな返事をするとすぐに春斗に抱きつこうと両腕を伸ばした。それを上手くかわして、春斗は花形を見つめると妙に引っかかるものを感じた。気のせいかもしれないが、花形には何か秘密にしていることがあるような、そんな気がしてならない。先程の笑顔もどこかこちらを探るような感じであった。何かしてしまったのだろうかと悩むが、黒に話した通り挨拶を交わした程度の仲であり、特にこれといって思い当たるものがなかった。
(気のせい……だよね? たぶん……)
「――ちゃん、はーちゃん!」
「へっ……あっ! ごめん、黒……なに?」
「一年生はもう終了だって。はーちゃん係だから、片付けしとけって言ってたよ」
「そっか……ありがとう」
「手伝おうか?」
「いや、そんなにやる事ないから大丈夫。先に戻ってて」
 黒にそう言うと、春斗は乱雑に置かれた用具を持って体育倉庫へそれらを片付けに行った。
 重い引き戸を開けて、埃っぽさに咳込みながら片付けを行っていると、不意に視界に何かが過った。
「……?」
 埃の積もったマットの間に、何か黒い塊のような物を見つける。手に取って見てみると、それはこの学園の教師や生徒達の情報が書かれた紙がファイリングされた物だった。残念ながらほとんどが腐り落ちていて中身はほぼ読めないが、表紙にあたる部分に金伯で学園の名前が押されており、それが何かか程度は判別がついた。
「どうしてこんな物がここに……」
 呟いて、頭を悩ませていると背後から声をかけられる。
「一年生くんはお片付けに随分と時間が掛かるのだね」
 振り返ると、そこには花形の姿があり、引き戸にもたれ掛かるようにして春斗を見つめていた。
「花形先輩……すみません、すぐに出ます」
 そう返事をすると、花形は引き戸をそっと閉めながら話しかけてくる。ギイィ……と重い音が響き、春斗はなんとなく危機感を感じてその場を離れようと足を踏み出した。
「おっと……先輩の話を聞かずに出ていく気かい?」
「あっ……」
 閉まりつつある扉から出ようとした瞬間、腕を掴まれしまい阻止されてしまう。それと同時に、扉が閉まり倉庫内は小窓からの光のみを通すだけの薄暗い空間となった。
「……先輩? うっ!」
 掴まれた腕に急に痛みが走り、春斗はその場に膝をついてへたりこんだ。
「ただの痺れ毒だよ、心配いらない」
 低い声で言い、花形は春斗から手を離すと、しゃがみ込んで目線を合わせる。冷たい瞳が合うと、春斗は背筋が凍りつくような感覚に襲われた。毒のせいで上手く動かない身体では逃げることも叶わない。ただ、冷たい視線に捕らわれていると、花形が言葉を続ける。
「それ、まさか見つかるとは思っていなかったよ。完璧に処分した気でいたからね」
 ちらりと春斗の手元を見て、花形はそう言うと再び春斗へ視線を向ける。赤い瞳がまるで矢を射るような鋭さで向けられ、春斗は声すらまともに出せなくなった。
(どうして……花形先輩が、こんな物を……?)
 鋭い瞳に見つめられるまま、そんなことを思っていると、ふと、春斗の頭に先程の訓練のことが過る。花形が颯爽と破壊した人形は確か腐食していた。そして、今手に持ったフォイルもそうだ。腐食し、中身が読めなくされている。証拠隠滅にしてはやり方が何かに似ている気がした。
(まさか……デュユース⁉)
 ハッとした顔でそんな考えが浮かぶと、春斗は花形を見る目を変えた。近年、深刻化されるようになったデュユース被害はあまりにも多く、頻繁だった。昔はそうでなかったものが、急に膨大な数で押し寄せてくるのには何か理由があるのではないか。そう、例えば……誰かが操作しているなど――。
「その顔……気がついたようだね」
「どう、して……先輩っ」
「どこまで突き止めたかは分からないが……見てはいけない物を見てしまったのだから、お仕置きくらいはしておこうか」
「せんぱ、うぅ……っ!」
 突然、冷たい床の上に押し倒され、固いコンクリートの衝撃に声を上げる。それと同時に、また痛みを感じた。今度は首元に針を刺されたようなものだった。
「いっ……つぅ、……」
 痛みに顔を歪めていると、徐々に首元から熱を感じ、それが一気に身体中に広がっていくと、春斗は荒い息を吐いて覆いかぶさる花形を見上げた。
「今のは媚薬だよ。せめて、気持ち良くくらいはしてあげないと可哀想だからね」
「はぁ……っ、先輩、やめ……んんっ!」
 媚薬のせいで無意識に膨らみをみせた下半身に手が伸びる。洋服の上から撫でられるだけでも強い刺激が脳天を突いてくる。その感覚に思わず声を漏らすと、花形は心底楽し気に口角を上げた。
「悪いね……こちらにも、事情というものがあるんだよ……」
 低く、冷たい声が放たれ骨ばった掌が洋服の中へと入りこんでくる。
「あ……っ! やめ、やめてくださいっ!」
 そう声を上げるが、花形が手を止める素振りはなく、呆気なく直に性器に触れられるとそこへまた新たな毒を付着されて、春斗はゾワゾワとした感覚に身悶えた。
「誰にも話せないように……汚してあげるよ」
 優しい声色と笑顔で言われ、全身が凍りつくような恐怖が走る。口では嫌だと言いながらも、身体は毒に蝕まれ快楽を見出してしまう。ニチャニチャといやらしい水音が響き、それだけでも顔を覆いたくなるほどの羞恥だというのに、自分の体液で濡れた指先でトントンと秘所を突かれると羞恥心を上回る恐怖と快楽で全身が震えてしまった。
「そろそろ、頃合いかな」
 カチャカチャとベルトを取る音が聞え、春斗は最悪の状態を思い浮かべ、必死に抵抗しようともがく。けれど、毒で上手く動かない身体では何もできず、突かれたそこに熱い物がぴったりとあたる感触にサッと血の気が引いていくのを感じた。
「やっ……嫌だ……っ」
「知らなくていいことを知った罰だよ。受け入れなさい」
「いっ、ぎぃいいっ!」
 強い痛みと耐えがたい熱が侵入してくる。それに吐き気をもよおしながら、春斗はギュッと目を閉じると早くこの時間が終わってほしいと願うのだった。

***

 あれから、どれくらいの時間が経ったのだろうか。倉庫内には気絶した春斗が倒れており、花形の姿は既になくなっていた。そんなところに、訓練用の的を一つ持った煌が引き戸をこじ開けて入ってくる。
「瀬良~、これ忘れてたぞ……って、瀬良? おいっ!」
 倉庫内に入るなり、倒れた春斗を見つけると、煌は瞬時に駆け寄ってその身体を揺さぶった。意識を失い、乱れた服装で倒れていた春斗はどう見ても何かをされた後といった状態で、煌は思わず息を飲んだ。
「……んっ」
 暫くして、目を覚ました春斗は自分を抱きかかえる煌の姿を目に映して半狂乱気味にバタバタと暴れ出した。
「嫌だっ! やめて! お願い、止めてぇっ‼」
「落ち着け! ゆっくり息吸え……こうやって……すぅー」
「はぁ……あっ、スゥー……はぁーっ」
 煌に言われるまま、ゆっくりと深呼吸を繰り返すと、春斗は落ち着きを取り戻してぼんやりと煌を見上げた。
「落ち着いた……か?」
 心配そうに見つめてくる煌に頷いてみせる。そうすると、煌は安心したように目を細めて笑った。意識を手放していたこと、ボロ衣同然となった洋服に身体についた痣。それらを見れば、なにがあったかは明白だろう。それでも、煌は春斗から話始めるまでは何も尋ねまいと黙っているようだった。そんな煌の態度を見て、春斗は恐る恐るに唇を動かす。
「僕……そうだ、花形先輩に……っ」
「花形? あの毒使いの奴か?」
 問われて、頷く。春斗の蒼い瞳が揺れ、震える指先が何かを示した。そちらへ目線を向けると、黒く腐食した何かが目に入り、煌は首を傾げる。
「あれ……見つけちゃって、そうしたら花形先輩が……っ」
 乾いた唇が震える声を放つ。その様子を見下ろす煌に、春斗は最初迷った様子を見せてから、グッと決意したように自分の身に何があったのかを語った。
「……んだよ、それ……っ!」
 春斗の話を聞き、煌は怒りを露わにすると、奥歯を噛みしめるようにギリギリと音を鳴らす。正直、春斗にはどうして自分のためにここまで腹を立ててくれるのか分からなかったが、真っ直ぐな煌の金色の瞳からは純粋な気持ちしか感じず、少しだけ恐怖が和らぐような感覚を覚えた。それは言葉に対してだけでなく、みすぼらしくなった春斗に何気なく上着を掛けた煌の態度からも得られたものだった。
「あり、がとう……」
「気にすんな。それより……花形のこと、もうちょい聞いてもいいか?」
「えっ……うん」
 本来ならば思い出したくもない事柄だが、何故か今の煌にならば話せそうな気がし、春斗は頷いてそう返事をする。
「――だから、花形先輩は証拠隠滅に失敗したと思って、あれを見つけた僕に、あんなことを……」
 曇っていく春斗の表情を見て、煌はそれ以上問いただすことを止め、そっと春斗の頭に大きな掌をポンっと乗せた。そして、そのままポンポンとまるで幼子をあやすかのように軽く叩いた。
「辛いこと、話させて悪かったな」
「……構わない、けど……どうして? そんなに僕のこと構うの?」
「こんな現場目撃して、何もしない方がどうかしてるだろ」
「それはそう……かもしれないけど」
 今まで、自分を同じ人として扱ってくれた者など、鈴か黒くらいしかいなかった。こんな世の中だ、皆が自分や自分の環境で手一杯で、他者に優しくするなど珍しい。否、そこまでできる者などいないにひとしかった。
 それが、今日出会ったばかりで、開幕から喧嘩をした相手に何故そこまでできるのか、春斗は疑問で仕方がないといった顔で煌を見つめた。そんな春斗に、煌は答えるように立ち上がり、春斗の目をジッと見つめて口を動かした。
「今度から、俺が守ってやるよ」
「……えっ?」
 突然の言葉に驚き、間の抜けた声を漏らす。今、彼は何と言ったのだろうか。すぐには理解できなかった。
「お前、なんか危なっかしいし……それに、花形はまだお前に目付けてるんだろ? だったら、側に居る方が安心だし」
 笑って、当たり前のように言う煌を信じられないといった表情で見上げる。しかし、どうしてか馬鹿にされている感じはしなかった。それどころか、煌からは一切の悪意を感じない。それは鈴や黒にも言えることだが、それとはまた違ったものを感じる。
(どうして……)
「ダメだよ……」
「なんで?」
「だって、僕……凄く汚いしっ」
 ――誰にも話せないように……汚してあげるよ。
 花形に言われた言葉が頭を過る。結果的に煌にだけ事情を話したとはいえ、自分が汚されたことに変わりはない。そんな者を側で守りたいなど、どうかしているとしか思えない。
「だから? 俺はお前が汚いとか綺麗とか、どうでもいい」
「……っ!」
「俺が守りたいから守る。それじゃダメか?」
「っ、くっ……メ、じゃない……ダメじゃないっ」
 気がつくと、大粒の涙が溢れポタポタと冷たいコンクリートの上を濡らしていた。それが自分のものだと分かると、春斗は若干の気恥ずかしさを感じた。それでも止めることのできないそれを煌がそっと長い指で拭いとる。
「大丈夫だから、泣くなよへなちょこ……いや、春斗」
 不意に名前を呼ばれて顔を上げると、そこには眩しいほどの笑顔を浮かべた煌の顔があり、春斗は安心感にホッと息を吐く。
「ありがとう……その、煌くん」
「おう!」
 ニカッと笑う煌に礼を言い、漸く倉庫から出ようとした時――ガラガラと鳴り響く引き戸の音とともに、よく知った声が春斗の耳へ届いた。
「はーちゃ~ん、片付け終わった~? ……って、あれ?」
 その声は、最初は軽いものだったが、煌の姿を瞳に映すなりドンっと重いものへと変化する。
「なんで転校生がはーちゃんと二人きりで居るの」
 隈の目立つ細い目が煌を鋭く睨みつける。そして、煌の指が春斗の涙を拭っていることに気がつくと、引き剥がすように大柄な身体が二人の間へと入ってきた。
「気安く触らないでよ……お前なんかが触れていい存在じゃない」
「なんだよ急に」
 間に割り入ると、すぐさま春斗の腕を握って、黒は煌を睨みつけながら言い放つ。
「黒……これには訳が……」
「関係ない。はーちゃんを泣かせる奴は許さない」
「ちょっと待て! 話くらい聞けって!」
「聞かない。はーちゃんの騎士(ナイト)は僕だから」
「あー! なんだコイツめんどくせぇ‼」
 黒の言葉を聞いて、煌はそう叫ぶと春斗に助け船を出すように目線で指示をした。
「く、黒……あのね」
 話しかけると、黒は掴んでいた春斗の腕に力を込めた。絶対に離さないと言いたげに、握ってくる大きな掌は春斗の顔を歪める程度には痛みを放っている。
「っ……黒! お願い……聞いてっ!」
 精一杯の声で言い放つと、黒は漸く自分の掌が春斗の腕を強く握ってしまっていたことに気がつく。そして、慌てた様子で謝罪を繰り返した。
「ごめんっ! 痛かったよね……ごめんね、はーちゃん」
「大丈夫。話……聞いてくれる?」
「うん」
 春斗の言葉で、シュンとうなだれる黒を見て、煌は不思議そうに首を傾げた。あれだけ言うことを聞こうとしなかった者が、春斗を前にしてまるで躾の行き届いた犬のように大人しくなるのは謎でしかない。二人には恐らく、何か固い絆のようなものがあるのだろう。そう思うと、煌は少しだけ黒を見る目を変えた。その間、春斗は黒へ何があったのかを簡潔に述べ、あえて性被害に遭ったことを隠しつつ、煌の申し出を受けたことを説明する。
「なにそれ、意味わかんない。ぽっと出が何言ってんのって感じ」
「ぽっと出って……仕方ないだろ、放っておけねぇんだから」
「それってただの自己満足でしょ。自分の欲求満たすのに、はーちゃんを使わないでよ」
「そんなんじゃねぇよっ!」
「はーちゃんには僕が居る……だから、お前はいらない」
「テメェ……っ」
 何を言っても無駄といった状態に、煌は心底嫌気がさす。けれど、一度自分で決めたことを曲げる気はなく、黒に何を言われようと春斗を守るという決意を撤回することはなかった。
「はぁ……っ、お前にはーちゃんの何が分かるんだよ。今日会ったばっかりの奴がさ……調子乗らないでくれる?」
「乗ってねぇしっ! 大体、テメェだってコイツの何を知ってるって言えるんだよ」
「全部」
「……はっ?」
 黒がそう口にすると、煌は間抜けな声を漏らして黒を見上げた。
「僕は、はーちゃんのものだから……全部知ってる。お前なんかとは違う」
「なに、わけわかんねぇこと……」
 言い争っていると、漸く身体の痺れから解放された春斗が二人の間に入って説得を試みた。
「二人とも、それくらいにして。僕はもう……大丈夫だから」
 本音を言えば、全く大丈夫ではないのだが、今はそんなことも言っていられない。早く二人の喧嘩を収めなければ……と思い、春斗は必死に二人の顔を見つめた。
「ごめんね、煌くん……黒も、ちゃんと謝って」
「嫌だ。はーちゃんのお願いでも、それは聞けない」
「べつに、俺はテメェなんかの謝罪は求めてねぇよ」
「二人とも……」
 睨み合う二人を見て、どうすればいいのかと悩んでいると、空気を読むかのように下校時間を知らせるチャイムが鳴り響いた。それを聞き、黒が再び春斗の腕を掴む。
「帰ろう、はーちゃん」
「おいっ! まだ話終わってねぇぞ!」
「興味ない。行こう、はーちゃん」
 ぴしゃりと言い放ち、春斗を連れて歩き出すと、黒は薄暗い倉庫から出ていった。春斗が振り返って、煌を見つめる。とても申し訳ないといった表情で、煌は煮え切らない思いを抱えながらも春斗を追うことはしなかった。
「……ったく! なんだよ、アイツ!」
 ぶつくさと文句を垂れながら、煌は残されていた腐食したファイルを手に取る。これが、花形が何を企んでいるかの証拠だと思うと、回収しないわけにはいかない。
「ほとんど読めねぇけど……まあ、これで大体の推測はつくな……」
予期せぬ事態であったとはいえ、春斗を巻き込んでしまった重みを抱え、煌はファイルを持ち上げると埃臭い倉庫から一足遅れて出ていった。

***

 春斗は黒に連れられて寮まで戻ると、深く
溜息を吐いてズルズルと力が抜けきったように座り込んだ。幸い、現在は一人部屋となっているため誰かに何か言われることもなく、妙な安心感に肩をガクンと落とす。
(煌くん、嫌な思いさせちゃったな……)
 先程の煌と黒のことを思い浮かべてさらに深い溜息を吐く。黒が自分をとても大切にしていることは知っている。しかし、だからといって助けてくれた煌を責めるのはおかしいと思った。
(黒……今でもまだ、あの時のこと覚えてたんだ……)
 心音黒との出会いは、春斗がまだ孤児院へ預けられて間もない頃だった――陰気臭い孤児院の中に嫌気がさし、屋上へと出た時のことだ。柵のかけられていない屋上の隅から、今まさに飛び降りようとしていた黒へ声を掛けたのが始まりだった。
「……どうして助けたの?」
 気だるげに言ってきた黒に、春斗は何故という問いを暫く考えてから口を開いた。
「だって、勿体ないじゃない」
「勿体ない? 何が?」
「君の命」
「はっ? なにそれ……そんなの君に関係ないじゃない」
「うん。関係ないよ。でも……」
 一旦言葉を溜めてから、春斗は黒に手を伸ばしてそっと囁きかけた。
「要らないなら、僕にちょうだいって思っただけ」
「……えっ」
 澄んだ蒼色の瞳を向け、そう言ってきた春斗に黒は脳の処理が追いつかないといった様子で春斗の手を見つめる。小さく、真っ白な手はこちらを全く警戒することなく、差し伸べられており、早く触れろと言っているようだった。
「どうせ捨てちゃうんでしょう? だったら、僕にちょうだい、君の命」
「……」
 何を言っているのか分からなかった。けれど、黒はいつの間にか春斗の手を握ると、その温かさにやんわりと口元を緩めていた。こんな感情を抱くのはいつぶりだろうか。何もない自分に刺し込んできた光。それは眩しくて、温かくて、自分には勿体ないとすら思えたが、握った手の温かさだけで、そんなことはどうでも良いと感じられた。
「分かった……えーっと……」
「春斗。好きに呼んでいいよ」
「じゃあ、はーちゃん。僕の命、君にあげるよ」
「うん。貰うね」
 そう言って微笑んだ春斗に、黒は心から救われた気持ちになった。春斗と共にいよう。ずっと。そう思い、黒は春斗へ完全なる忠誠心を抱いたのだった。
 それが、黒が春斗を心底気にかける理由である。他者が春斗に触れること、春斗の気持ちを揺るがすことを絶対に許さない……黒は常にそう思って生きることを決意していた。
(僕があんなこと言ったから、黒は……)
 過去の自分の言動に後悔しつつ、春斗はどうしたものかと考え込む。できることならば、煌と黒には溝を作ってほしくはない。だからといって、無理矢理仲良くしろとも言えないのだが。
(どっちにしろ、僕が原因なんだ。なんとかしなくちゃ)
 そう思い、その日は鉛のように重い身体でなんとかシャワーを浴びて、夕食もとらずに就寝した。

***

「あの~……黒?」
「なぁに?」
「さすがに授業中くらいは離れてほしいかな……」
 春斗にぴったりとくっついて授業を受ける黒に、担任からの痛い視線を感じながら言う。昨日の一件以来、黒は片時も春斗から離れようとしなかった。何処へ行くにも付いてまわり、授業中であろうと関係なく引っ付いて、春斗を他者から遠ざけている。
「だって、こうでもしないと、はーちゃんすぐ居なくなっちゃうじゃない」
「授業はちゃんと受けるよ!」
「でもさぁ~」
 そんな会話をしていると、さすがにしびれを切らした担任が黒へチョークを投げつけてくる。それをゆったりとした動きで避け、黒は手をあげると担任へ物申した。
「先生~、危ないで~す。あと、僕の席はーちゃんの隣に変えてくださ~い」
 そんな黒の発言を聞き、担任は飽きれたように溜息を吐く。そして、勝手にしろと言うように背を向けて授業を再開した。
「……おい」
 担任まで見放された黒に、煌が背後から小声で話しかける。
「テメェ……いい加減にしろよな」
「お前には関係ない。放っといてよ」
「ちょっ、黒……!」
 バチバチと火花を散らす二人を見て、春斗は黒を止めようと声を出すが黒は聞く耳を持たず、煌を一睨みして教科書へと目線を戻す。黒のそんな態度に、煌は思わず席を立って机を叩いてしまう。そうすると、教室中の視線は一気に春斗達三人へと向けられ、静かな鋭さで貫いてきた。
「あっ……、っと……」
 しまった、と黙り込んだ煌を見て、担任が肩を揺らして一喝する。
「お前達三人とも……廊下に立ってろっ‼」
 ドスのきいた声で言い放たれ、三人は渋々廊下へと向かった。
 もうじぎ冬を迎える季節の廊下は冷たく、足元からジンジンと冷えを伝えてくる。
「お前のせいで立たされたじゃん」
「あっ? 元はと言えばテメェが……」
「二人とも、もう静かにしてよ……っ!」
 授業妨害にならない程度の声で叫び、春斗は二人を睨みつけながら肩を揺らした。
「はーちゃん? なんで怒るの? 僕、はーちゃんのためにやってたんだよ?」
「おっ、俺だって……春斗のこと考えて……」
「僕のためにしてくれることは嬉しいよ? でも、加減ってものがあるでしょう?」
「それは……」
 黒が何も言い返せないといった様子で呟く。煌も目を泳がせていて、どうやら反省しているようだった。
「僕は……確かにまだまだ弱いけど……全部守ってもらわなきゃいけないほどじゃないよ。それくらい、分かってよ……っ」
 蒼い瞳に少量の涙が浮かぶ。二人が自分を守ると言ってくれたことや間違った方向性とはいえ、してくれたことへの感謝はあった。けれど、ここまでされると逆に自分の弱さが浮き彫りになるようで嫌だった。
「僕のこと、想ってくれるなら……信じてよ」
 言い終り溜息を吐いた春斗に、二人は申し訳さなそうに肩をすくめて口を開く。
「ごめんね、はーちゃん」
「俺も……カッとなっちまって……悪かった」
 二人が謝罪すると、春斗は浮かんだ涙を拭って二人を真っ直ぐに見つめた。
「じゃあ、仲直りの握手してみせて?」
「「……へっ?」」
 重なった声に吹き出しそうになりながら、春斗は悪戯っぽく笑って二人に握手を促す。すると、煌は唇を噛みながらそっと掌を差し出し、それを見た黒が嫌々といった様子でその掌と自分の掌を合わせて強く握った。
「よくできました。それじゃあ、これからは喧嘩はなしで、ね?」
 してやったりといった表情で言う春斗に、完全敗北した二人は、暫く手を握ったまま睨み合うと、降参するように深く溜息を吐いた。
「お前のこと、認めたわけじゃないけど……はーちゃんのこと、頼むからね」
「おう。テメェも、やりすぎないくらいに頼んだぞ」
 そんなやり取りをして、少しだけ溝がなくなった二人を見て、春斗はホッと息を吐く。これで、今まで通りの学園生活を送れそうだと一安心して、二人へ笑いかける。
「僕からも……何かあったら、よろしくお願いします」
 そう言って、春斗は二人に深々と頭を下げると、ふと頭の中を過った花形のことを二人にはしっかりと話しておこうと決意し、頭を上げた。
「放課後、二人に話したいことがあるんだけど……いいかな?」
 真剣な眼差しで言う春斗に、二人はコクリと頷いてから、思い出したように握っていた互いの手を離した。
 そんな様子をクスクスと笑いながら見つめ、窓の外へと目線を移す。曇り空の下、この学園外の場所では今も知らない誰かがデュユースの被害に遭っているのだと思うと、春斗は一層強い意思を持って放課後に二人へ話す事を脳内で整理した。

***

「今さらだけど、二人共……デュユースの力については理解してるよね?」
 放課後、春斗の部屋へと集まって改めて春斗の話を聞く。外はもうそろそろ日が落ちようとしていて若干暗い。
「触れたものを全て腐らせるのと、あとは……」
「唯一ある弱点があるよな。確か……頭、だったか?」
「うん。基本的にデュユースは頭と胴体が離れても活動を止めない。けど、頭を完全に破壊すれば動きを止められるし、頭の核となる黄色い石を砕けば倒せる」
 説明する春斗に頷き、煌と黒はジッと春斗を見て各々の見解を話す。
「でも、あれって発見が難しいんでしょう? なんか授業でやった気がする~」
「やった気じゃなくてやったよ。ちゃんと授業受けようね、黒」
「発見するためには条件を揃える必要があるよな。闇より深い暗闇と煙幕をピッタリに用意するってやつ」
「そう……その二つが揃うことで、デュユースの頭の中が見られるようになる……一瞬だけどね」
 春斗が考え込むように腕を組むと、黒が確信を突くような言葉を放った。
「ていうかさ……そもそも、デュユースって何なんだろうね。今さらだけどさ、気にならない?」
 言われて、煌と春斗はパチクリと瞬きを繰り返す。確かに、授業でデュユースの及ぼす脅威は嫌と言うほど聞いてきたが、そもそもにあれらがどういったものなのかという詳細な説明は受けたことがない。触れたものを何でも腐食させてしまう存在、といった情報以外を軍の者も知らないのだろう。
 あれらは何処から発生し、何故に人間を襲うのか。それらを知る者が居ないのだ。だとしたら、もし……それを探ることに成功できたらどうなるか、煌と春斗はほぼ同時に考え着くと、ハッとした表情で黒を見つめた。
「それだ!」
「黒、凄いよ!」
「……えっ?」
 急に身を乗り出して称賛され、黒は驚きに目を丸くする。
「つまり、デュユースが何処から来てるのか、それが分かればこっちにも勝機はあるってこと!」
「場所さえ掴めりゃ、あとはどうやってアイツらが出来てるのか探るだけで根っこから駆逐できるってことだ」
「えーっと……つまり、完全勝利できるってこと?」
「そういうこと」
 戸惑う黒をそっと撫でて言うと、春斗は一瞬だけ表情を曇らせてから、黒の目をジッと見つめ直した。そして、大きく息を吸い、先日のことを包み隠さず全て黒に打ち明けた。
「……なに、それ」
「全部……僕の身に起きたことだよ」
「はーちゃんをそんな目に遭わせただなんて……許さない、花形っ」
 ギリッと奥歯を噛みしめる動作に、春斗は先日真っ先に自分を見つけて、守ると言ってくれた煌の姿を重ねる。二人はよく似ていると思った。
「でも、少しだけどデュユースについてを掴めたとも思ってる……」
「だな。花形の持つ『字』は怪しい……目星を付けるには十分だと思うぜ」
 そう言って、煌は視線を窓の外に移すと、暫く黙り込んでから、軽く頷いて口を開いた。
「……なあ、お前ら」
 不意に話しかけてきた煌に、春斗と黒は一斉に目線を向ける。その瞳を見て、煌は意気込むように言葉を放った。
「俺と運命共同体……なってくれっか?」
 その表情は何故かとても寂しそうで、春斗はその意味を問いたい気持ちを抱く。けれど、今は黙って話を聞くことにした。
「どういうこと?」
「そのまんま。俺はデュユースを根絶やしにするためにこの学園に来た。だから、お前達も同じ気持ちで挑んでみてほしい。って、俺の我儘だ」
 なんでもないと言うように笑った煌を見て、春斗はすかさずその手を取ると、頭を左右に振る。
「我儘なんかじゃない。……やろう、一緒に」
「はーちゃんが言うなら仕方ないね……いいよ。僕も乗ってあげる」
「……サンキューなっ!」
 ニカッと笑う煌につられるように春斗と黒も口元を緩ませる。
「んじゃ、絶対……この世からデュユースを消し去るぞ!」
 三人で声を出し合い、改めて志を持つと、三人とも笑い合ってやがて訪れる平和を思い浮かべた。それはきっと、想像を遥に超えるものだろう。今から、それが嬉しくてたまらなくなるほどに。
 そんな想像をする中で、ただ一人、瞳を揺らした煌にはどちらも気づく様子はなかった。

***

 翌日、春斗が学園に登校すると、妙にクラスがザワついていた。まさか、煌以外にも転校生が現れたのかと思ったが、春斗の姿を見るなり慌てて駆け寄ってきた鈴が、大きな目をさらに大きく開いて春斗に何事かを伝えてくる。
「春! 花形先輩が、学園を自主退学したって……っ!」
「えっ……」
 鈴からの情報が耳に入ると、春斗は僅かに硬直し、花形の顔を思い浮かべる。それと同時に、自分が彼からされたことが公になってしまったのかと思い、カタカタと身体を震えさせた。
(あのことが知られたら……僕も学園に居られなくなる……)
 そう思う春斗だったが、鈴は続けるように話すと、どうやら花形は家庭の事情で退学せざるを得ない状況だったのだと説明された。花形から受けたことが、皆に知られていなかったことに安堵し、春斗はホッと胸を撫で下ろす。けれど、重要な情報源がなくなってしまったと知り、ここからどうするべきかを考えなければならない。そのことに頭を悩ませていると、チャイムの音が鳴り響き、担任と何故か学園長が重々しい雰囲気を纏いながら教室へ入って来た。
「今日は予定を変更して、皆に話がある」
 担任はそう言うと、どうぞ……と学園長を前に通して軽く頭を下げた。
「ゴホンッ! え~、今日入った情報だが、デュユースの被害が尋常ではなく深刻な状態となっているそうだ。それも、町の者を全員一晩で腐らせてしまうほどに……」
 学園長の話を聞き、クラス中がガタンと机を揺らす。デュユース被害は確かに深刻化されてきていたが、ここまでの被害は初めてだ。無理もない。そんな中、煌がそっと手を上げて学園長へ質問を飛ばした。
「それだけ、デュユースの数が増えたってことですか?」
「そうなるな」
 学園長の返答を聞き、背もたれに身を預けると、煌は考え込むように腕を組んで窓の外を見つけた。それだけ勢力を増したデュユースの被害は、いずれこの学園へも訪れるだろう。そうなった時、まともに対峙できる生徒が何人いるか。教師達を混ぜたところで、守りを固めること程度しか期待できない。それならば……と、煌はもう一度手を上げて学園長へ言葉を放った。
「学園長自らこんな話するってことは……軍の人数、足りてない感じっすよね?」
 煌に図星を突かれ、学園長はうっと声を漏らすと、取りだした派手なハンカチで額に浮かび上がった汗を拭った。
「じゃあ……俺、志願します。軍の助っ人的なやつ」
「本当かねっ⁉」
「はい。どうせ、この学園に居たって襲われる可能性があるなら、手っ取り早く戦った方がマシなんで」
「ほう! 君のような生徒を持って私は幸せじゃ! すぐに手続きをしよう。他にも、志願する者はおるか?」
 学園長が尋ねると、皆が皆近くの生徒と顔を見合わせて表情を曇らせた。いくら訓練を受けているとはいえ、まだ未成熟の若者が自ら死ぬ可能性の高い現場へ行くとはなかなか言いづらい。そんな重い空気が漂う中で、春斗は震える身体を必死に動かして手を上げる。
「僕も……志願します!」
 目一杯の勇気を乗せた声で言うと、クラス中の視線が春斗へと集中する。今まで、あまり目立たないように過ごしてきた春斗にとって、その視線は少々痛く感じたが、後戻りをする気は毛頭なく、手を下ろすことはしなかった。
 そんな春斗に感化されたのか、鈴も手を上げると自分も志願すると言い放った。
「俺は、救護の方になっちゃいますけど……それでも、役に立てるなら」
 震える声から、彼が恐怖を我慢して話しているのが安易に分かった。誰よりも優しく、温かな存在が戦地に赴くなど誰が想像しただろうか。クラス中がざわめきたてる。
「はーちゃんが行くなら僕も。志願しま~す。援護くらいは……できると思うんで」
 鈴に続くように志願した黒の声を聞き、春斗は漸く震えを止めると、学園長の方を見る。なにやらメモのようなものを取って、誇らしげに胸を張っていた。
「では、この四名を軍の特別部隊へと配属する。明日には向かってもらうので、今日はもう寮に戻って良いぞ」
 最後の仕度に、身辺整理でもしてこいと言うように学園長はそう告げて教室を出ていった。深々と頭を下げてそれを見送った担任からも、寮へ戻るように言われ、四人は教室を出ていくと各々の部屋へと戻っていった。
「じゃあ、準備済ませちゃうから……皆、また明日ね」
 そう言って、静かな部屋戻り春斗は仕度を始める。武器や戦闘服以外では特にこれと言って持っていきたい物などはないが、何か一つくらいはお守り代わりに持っていこうと引き出しを漁る。すると、奥の方から小さな小瓶が出てきた。それには、小さな星型の砂が少量入っていて、光に照らすとキラキラと輝いてまるで本当の星のようだと思った。
(懐かしいな……)
 孤児院時代、一人だけ自分になにかと世話を焼いてくれた先輩が居た。歳は三つほど上で、爽やかな笑顔と深い海のような瞳が印象的な青年だった。自分の生まれ故郷でよく取れるのだと、この星の砂をくれたのはその青年が学園へ通うことが決まった日のことだ。いつもは明るい笑顔が、少しだけ濁っていたのを思い出す。それでも、青年は春斗にだけは心配をかけまいと必死に笑って施設を出ていき――二度と帰ってくることはなかった。
(生きてたら……今ごろは軍でも上の方だったのかな……)
 青年の死を告げられたのは、春斗が学園に入学する少し前のこと。デュユースの被害が深刻化されはじめ、優秀な生徒だけが戦地へと送り込まれた時のことだった。青年は能力の高さから、学生では異例の最前線での戦いを命じられ、そこで儚く散っていったらしい。デュユースに身を腐らされ、遺体すら帰ってはこなかったのを思い出す。空っぽの棺の前で泣きじゃくり、この星の砂の瓶をわざと見えないように引き出しの奥へしまったのは、春斗なりの自己防衛とも言えた。見えなければ、想像もしないで済む。自分もいつか使われて死を迎えるのかと、考えることなく生活できる。そう思っていた。
「これにしよう」
 小瓶を握り、戦闘服のポケットへと忍ばせる。
 死をただ恐れていた自分はもう居ない。今は、この世界を救って皆と生きていくことを考えられるようになったのだ。こんな自分を青年はどう思ってくれるだろうか。それは分からない。
 けれど、きっと今の自分の背ならば押してくれるのではないかと春斗は思った。
「頑張ります」
 そう呟いて、窓の外を見るとすっかり裸となった桜の木が目に入ってきた。この木がまた満開の桜を咲かせるのを絶対に見ると意気込み、春斗は最小限の荷造りを始めるのだった。

***

 次の日、他の生徒達よりも早く登校するよう言われた四人は、早朝の静かな教室で落ち合うと短い挨拶を交わして軍の特殊部隊からの指示を待った。
 カツカツと響く軍靴の音が耳に届くと、特殊部隊の隊長と思わしき人物が教室へと入ってくる。顔に大きな傷を持つ、いかにもな顔立ちをしたその人物は四人の身なりを見ると、すぐに各々へ指示を出した。
「連鈴、お前は救護班として拠点にて怪我人の手当をするように」
「は、はい!」
 神父服に似た服装をして、肩から大きな救急バッグをかけた鈴に言い放ち、男はすぐに他の三人を見つめる。
「瀬良春斗、水無月煌、心音黒……以上、三名は私が率いる部隊の最前線で戦ってもらう。以上だ!」
 低い声で言う男に若干の恐怖を抱きつつ、四人は不安と希望を胸に軍の構える拠点へと向かった。
(最前線、か……)
 専用の車に揺られながら、ポケットの中に忍ばせた星の砂の小瓶を握りしめて春斗はふと、考え込んだ。これをくれた青年は最前線にまわされて死んだ。彼と比べて、自分はどこまでやれるだろうか……。そう思って、表情を曇らせていると、隣から鈴が軽く肩を叩いて話しかけてきた。
「絶対……皆で帰ろうね」
 その声は震えていたが、確かな勇気を含んでいて春斗はもちろん、煌や黒もそれを受け取って和らぐ気持ちに口角を上げる。そして、全員でコクリと頷いて見せた。
「約束だよ!」
 そう言った鈴の言葉に癒されながら、暫くして到着した拠点に足を踏み入れた。
 ここまで来たら、もう後戻りはできない。はなからするつもりもないが、それでも戦地に立つと気持ちは一層引き締まった気がした。
「連はテントで待機、残りの三人は私について来なさい」
 隊長がそう告げると、鈴は一瞬だけ寂しそうな表情を浮かべてから、いつも通りの満面の笑みを三人へ向けると、ガバッと三人をまとめて抱きしめた。
「鈴くんチャージ‼」
 そう叫んで、三人へ全力の想いを伝えると、満足げに離れていく。
「これで大丈夫! 俺の元気パワー目一杯注いだから! だから……だからさ、絶対に約束守ってね。……じゃあね!」
そう言ってテントへと入っていく鈴の姿を目で追い、春斗はギュッと星の砂の小瓶を握る。すると、隣に立っていた煌と黒が笑みを浮かべながら歩みを始めた。しっかりと覚悟を決めた横顔をしている。そんな二人に影響を受け、春斗も真剣な面持ちで前を見つめ、鈴との約束を胸に隊長の後を駆けていくのだった。

***

 最前線というだけあってか、隊長から任された場では多くの軍人が再起不能なくらいの大怪我をしながらも懸命に戦おうとしていた。
 無数に現れるデュユースに対抗する術を考え、いかに民間人達への被害を抑えるかの軍議がされているが、この少人数部隊では難しいようで、皆が表情を強張らせている。
「これが、現状だ」
「……」
 見せつけられた惨状に言葉を失う。こんな状態の中で改めて自分達に何ができるかを己に問いかける。重い苦しい空気が充満し、黙ったままでいると、不意に煌が鋭い視線を向けて隊長へ発言を行った。
「ここは特殊部隊ですよね……ってことは、他の部隊と違って敵の本拠地くらいは調査済なんですか?」
「ああ、場所は既に特定している」
「なら、話が早い……俺が先陣切って行きます。皆さんは援護に回ってください」
「ちょっ……煌くん、何言って――」
「僕も……同行します」
 無茶な行動をしようとする煌を止めようとする春斗の言葉を切るように、黒もそう発言するといつになく真面目な顔で本気なのだという雰囲気を漂わせていた。
「……分かった。援護は任せておけ」
 覚悟を決めた二人に敬意を表するように、隊長はそう言うと、軍議を中断させて新たな作戦への変更を指示する。
「二人とも正気? 敵の巣窟に突っ込むなんて……そんなのっ」
 死ににいくようなものだと思いながらも、春斗とてここまで来た身であることを思い出し、言葉を飲み込んでそれを深い溜息として吐き出す。
「もう……仕方ないなぁ。僕も行くよ、仲間はずれは許さないからね」
「はーちゃん……」
「言うと思った」
 目を見開く黒の隣で、そう言った煌が口元を緩ませる。煌から運命共同体となってくれと言われた時から、きっと覚悟などとっくに決まっていたのだろう。この二人と共に居られるのなら、春斗は不思議と恐怖心が沸いてこなかった。
「一番カッコイイところだからね、バッチリ決めてこよう」
 春斗が言うと、煌と黒は頷いて同時に春斗の肩に手を乗せた。その大きな掌に自分も掌を重ねて、温かさを共有する。
「頑張って、平和を取り戻そうね」
 そう囁くと、その様子を横目に眺めていた隊長が声をかけてきた。
 どうやら、軍議が少々長引くとのことで三人はひとまず別のテントで待機をしておくようにという命だった。それを聞き、真っ先に黒が大きなあくびをしてその場を離れていく。そんないつも通りの黒の態度に呆気にとられながら、煌と春斗もその場を離れた。
「春斗、ちょっといいか?」
「どうしたの?」
 早々にテントへ待機に向かった黒の後ろを歩いていた春斗に、煌がそっと話しかける。真面目と言うよりは、どこか申し訳なさそうな表情を浮かべた煌を不思議に思いながら、春斗は手招きされるまま、テント付近の茂みへと入っていった。

***

「どうしたのさ? こんな場所でかしこまって」
「その……謝りたくて、さ」
「謝る?」
「ああ。お前が花形に……汚された時のこと」
 言われて、ハッとあの日のことを思い出し、春斗は僅かに肩を揺らした。煌や黒のおかげで立ち直ることができたが、されたことへの恐怖はまだ残っていて、意思とは真逆に身体を反応させてしまう。
「あの時、俺がもっと早く気がついてたら……お前をあんな目に遭わせずに済んだのに……っ!」
「ちょっと待って、なんの話?」
 確かに、煌の到着が速ければ春斗は暴行を受けずにすんでいたかもしれない。けれど、それをまるで煌のせいだと言いたげな言葉に、春斗は意味を求めてそう返す。
「俺は、花形を……あの学園のスパイを探るために政府から送り込まれたんだ」
「えっ……?」
 突然の告白に上手く頭が回らない。煌が政府関係者という驚き。そして、何故そんな重大な任務を背負っていたのかという疑問。それらで思考がぐちゃぐちゃにかき混ぜられ、春斗は困惑した表情で煌を見つめる。
「お前になら、もう……言ってもいいかもな。俺は――」
 ずっと不思議に思っていた、あの寂し気な笑みが向けられる。今にも泣き出しそうな、そんな顔をした煌はやけに幼く見えた。
「政府が対デュユース用に造った、生体兵器なんだ」
「生体、兵器……?」
「ああ。だから、お前と同じじゃない……人間じゃ、ねぇんだよ」
 煌の告白にすぐに言葉を発することができなくなる。
(生体兵器? 人間じゃない?)
「俺の身体はデュユースの攻撃に反応しない。おまけに、欠損しないかぎりは怪我もすぐに治っちまう……引いただろ? さすがに」
「……なにそれ」
 まさかの真実ではあった。けれど、それがなんだと言うのか。今さら、そんなことが分かったところで、春斗の気持ちが揺らぐことはない。
「そんなの、どうだっていいよ。煌くんは煌くんでしょう? だったら、それでいいじゃないか」
 真っ直ぐに煌を見つめ、春斗はそう吐き出すと蒼色の瞳を揺らして煌の胸を軽く小突いた。
「人間じゃなかったら友達になれない? 仲間だって言えない? 違うだろ……っ‼」
「春斗……」
「君が何かだなんて、関係ないんだよっ! そんなことで、今さら……君がくれたものが、気持ちが、なくなってたまるかっ!」
 ゼェゼェと息を吐く。自分の口から、こんな叫びが溢れるとは思っていなかった。それでも、春斗は煌への想いを抑え込むことはできなかった。
「春斗、お前……ぷっ! あはははっ!」
「なっ、なんで笑うのさ!」
「だって、お前めちゃくちゃ必死で……はっ、はははっ!」
「誰のために必死になってると思うのさっ!」
「そう、だよなっ……わりぃ」
 腹を抱えて笑う煌に春斗が頬を膨らませると、煌は深く息を吐いて目尻を指先で拭った。
「ふぅー……サンキューな、春斗」
 ニカッと笑って、煌は春斗をそっと抱き寄せる。トクトクと心地の良い心音が耳に届き、春斗はなんとなく気恥ずかしい気持ちになった。
「お前にそう言ってもらえて、嬉しい……ありがとう」
 抱き寄せる力が強まり、密着していく。他人の体温はこんなにも温かったのかと、再確認させられる。そんなことを感じながら春斗が黙っていると、煌が覗き込むように顔を近づけてくる。
「春斗……」
 甘く囁かれた名前が耳に届くのと同時に、唇に柔らかな感触を感じた。それが煌のものだと気がつくと、一気に恥ずかしさが込み上げてくるのを感じて、春斗は思わず煌を押し退けてしまう。
「……悪い、焦りすぎた」
「あっ! ごめん、嫌とか……そういうのじゃないんだけど……」
「じゃあ、いいのか?」
「えっと……」
 驚きが先に来てしまい、思わず離れてしまったが、煌を拒絶する気持ちはない。だからと言って、こういう時どういう反応を示せば良いのか、春斗はまだ知らなかった。
「お前が嫌がるならもうしない。けど、もし……嫌じゃないなら……俺はしたい」
 あくまでも、春斗を傷つけるつもりはなく、その上で自分の意見を述べる煌に、春斗はぐるぐると回る思考回路で最適解を導き出す。
「嫌じゃない、よ? でも、こういう時どうしたらいいのか分からなくて……その、教えて……くれる?」
 上目遣いに尋ねると、煌はパチクリと瞬きを繰り返してから、そっと春斗の腰を優しく掴んだ。
「ああ。俺も、手探りだけど頑張ってみるわ!」
 そう言って、煌は再び唇を合わせると、今度は深く味わうように吸い付いていく。固く閉ざされた春斗の唇をこじ開けて、舌を忍ばせると、それを春斗のものと絡めて遊ぶそうなキスをする。
「ちゅっ……くんっ、ンンッ……」
 初めての行為に戸惑ってしまい、思わず呼吸を忘れてしまっていると、煌がそっと唇を離して柔らかく笑った。そして、春斗の目尻に溜まった涙を長い指ですくい取る。
「お前、すぐ泣くなぁ」
「はぁっ……仕方ないじゃないか、初めて……なんだからっ」
「それ言ったら、俺もそうなんだけどな」
 甘く響く声で言い、春斗の胸に掌をあてると目線をキョロキョロと泳がせながら、春斗に囁く。
「その……直に触れても、いい……ですか?」
「なんで敬語なの」
「だってよぉ……いきなり、その……なんだぁ、そういうことしたいって、恥ずかしいだろ……」
「それ、いきなりキスしてきた奴が言えることかな?」
「それは……悪い」
「はぁ……仕方ないなぁ。いいよ、触っても」
「マジか? でも……」
「でも?」
「俺、自制利くか分かんねぇぞ……?」
 心配そうに聞いてくる煌に、春斗は笑いを堪えながらあてられた掌をそっと自身の服の中へと誘った。
「あったけぇ……それに、鼓動が……なんか安心する」
 直に触れた春斗の胸は、滑らかな触り心地で、トクントクンと規則正しく動く心臓の音はまるで子守唄のような安心感をくれた。それが嬉しくて、煌はそっと掌を滑らせると、胸の突起を優しく撫でてくる。
「んっ……!」
「……っ‼」
 それに反応した春斗に、今まで感じたことのない昂りを覚え、全身に電流が走ったかのような衝撃を受けると、煌は衝的に春斗を抱きしめる。そして、熱い息を荒々しく吐きながら春斗の耳元で絞り出したような言葉を吐いた。
「春斗っ……もっと、触れたい……っ」
「……いいよ。いっぱい、触って」
 そう返ってきた言葉を聞き、どちらからともなく唇を合わせる。互いの唾液が混ざり合い、飲み下しきれなかった分が口元から零れ落ちていく。
「んっ、ふっ……ちゅくんっ、ちゅっ……」
 そうやってお互いを味わい、恥じらいを捨てて互いの肌に触れた。触り心地や筋肉の動く感覚に驚かされながら、日の光が照らす中、二人は初めて深く交じり合ったのだった。

***

「満足した? 煌くん」
 乱れた衣服を整えながら問いかけると、煌は頬を染めて頷いて見せた。
「なら良かった」
 ベルトを止め直し、そう返す春斗に、煌は照れ臭そうに頬をかきながら質問をする。
「今さら……だけどさ、痛かったりとか……しなかったか?」
「そりゃ、少しはあったけど……でも、怖くなかったから」
 春斗の回答に、煌は瞬時に花形の一件を思い出す。あんな目に遭った相手に、同じことをしてしまった罪悪感が込み上げてくる。けれど、春斗はそんな煌の考えなど知ったことではないと言うように、平気な顔をして微笑んだ。
「煌くんが僕を想ってくれてるのが嬉しかったから、全然怖くなかったし、嫌だなんて思わなかったよ」
 素直な感想を述べると、春斗は未だ乱れたままの煌の袴を整えてやり、ポンッと肩を軽く叩いた。
「そろそろ戻ろう。黒が心配しちゃう」
「なんてーか……お前って、結構さっぱりしてんのな」
 驚くほどあっさりとした春斗の態度に、煌は驚かされながら笑い、一緒にテントへと向かった。すっかり日は沈んで、あと数刻ほどで月明りを照らし出しそうな空を見上げて、一度だけ深く息を吐く。春斗との交わりで、少しだけ自分がただの人間になれたような気持ちになった。それはとても嬉しくて、同時にやはり自分は違う個体なのだという寂しさを孕んだが、そんなことはどうでも良くなってしまうほど、煌は多幸感に包まれたようだった。
 テントに入ると、黒は既に簡易ベッドで横になり寝息を立てていた。それを起こさないように慎重に歩き、春斗も疲れた身体を休めようと別のベッドへ横たわる。それを見て、煌も自分のベッドへ向かおうとした時、不意に背後から黒が小声で囁いてきた。
「あんまりさ、泣かせないであげてよね」
 それだけ言って、特に何も言及してはこなかった黒に、煌は目を見開くと零れる笑みを浮かべて小さく返す。
「努力する」
 そう言って、ベッドへ入ると、煌はまだ僅かに残る興奮で冴えてしまう意識を無理矢理鎮めて浅い眠りについた。

***

翌朝、早朝から叩き起こされると、三人は隊長達の練った作戦を聞かせされ、早々に戦地へ送られることとなった。
「――以上が作戦となる。お前達の働き次第でこの世の命運が決まる……健闘を祈る」
 言うと、隊長は申し訳なさそうに軽く頭を下げ、全身で三人へ敬意を表し、他の軍人達も年端もゆかぬ三人を真面目な顔で見つめて敬礼をした。
「では、作戦を開始する!」
 隊長の掛け声とともに、三人が敵の本拠地へと正面から突っ込み、背後から軍人達が援護を行っていく。
 本拠地というだけあり、踏み込んだ瞬間から大量のデュユースが出現し、一気に緊迫とした空気に包まれた。
「黒! お願い!」
「うん」
 春斗の掛け声を合図に、黒が自らの『字』を光らせる。黒の持つ『暗』の『字』の能力で、辺り一面に漆黒が広がり、自分達の姿すら見えないほどの闇に包まれる。その中で、煌は自身の糸を指先で操ると、近くの岩を手繰り寄せて砕き、辺りに煙幕を作り出した。
「行けっ! 春斗!」
煌が声を上げ、春斗は闇と煙幕の中で素早く時を止めると、僅かに見えた黄色い石を自身の武器である日本刀で切り裂いていった。
 デュユースには声がないため、断末魔を聞くことはなかったが、代わりに時を解放した瞬間の崩れ落ちていく音が聞こえ、それを聞いた黒が作り出した暗闇を解除する。
「上手くいった感じだね」
 連携の取れた戦いに、安心した様子で言うと、黒はふと、頭を傾げてゆっくりと目の先を指さした。
「明らかに怪しい入口発見」
 錆びれた鉄製のドアを指さし、そう言った黒の指先を目で追うと、そこにはまるで見つけてくださいと言っているかのような怪しい建物が建っていた。この位置からそう遠くはない場所に鎮座するそれを見て、煌が口角を上げる。
「あれが敵の基地ってところか~?」
「そう、みたいだね」
 無数に現れるデュユースを前に呟き、春斗がどうにかして入口に侵入できないかと考えていると、背後からキュポンッと何かの栓を抜いた音が聞こえてきた。
「ここは僕が引き受けるから、二人はあそこに向かって」
 そう言いながら、黒は開けたばかりの火薬瓶を二人に見せつける。
「コレ、昨日間に合わせで作った特別製だから、たぶんチャンスは一度だけだと思うんだ」
 珍しく真面目な雰囲気を纏って言う黒に、春斗は思わず止めようとしたが、今は彼を信じて突き進むのが最善だと思い、唇を噛みしめながら深く頷いた。すると、それを見た煌が春斗の手を取って走り出し、黒は二人の姿がある程度離れたのを確認してから、その瓶を投げる。瞬間――辺りが一瞬で激しい煙幕に包まれ、同時に黒が深い漆黒を作り出す。
「絶対、二人で……戻ってきてね」
 暗闇の中で黒が手製の火薬を使って戦っているのを肌で感じながら、手探りにで見つけた重いドアをこじ開けて中に入る。ギィイ……と鳴り響いた音に、そっとかき消された言葉は二人の耳に届くことはなかったが、確かな信頼という糸で繋がれているからか、不思議と誰一人として切なさを抱くことはなかった。
「黒のおかげで入れはしたけど……」
 基地らしき場へ煌と春斗が潜入すると、思わず呆れてしまうほどそこには何もなく、あるのは痛々しい静けさだけだった。
「デュユースのデュの字もねぇな……」
「でも、油断は禁物だよ。いつ何が起こるか分からないんだから……」
「その通り」
「「……っ⁉」」
 歩みを進めていると、急に聞き覚えのある声が響き、二人はビクンと肩を揺らした。基地らしき場の奥、一か所だけ光に照らされたその場所には、よく知った者がまるで二人を歓迎しているかのように立っていた。
「花形……っ!」
「ちゃんと先輩を付けたまえ。退学者とはいえ、君達よりは年上なのだから」
 鼻につく声色で言うと、花形はそっと手を伸ばして近くのショーケースへ二人の視線を誘導した。
「これが何か、分かるかい?」
 そう言って、見せつけられた物を凝視する、そこには黄色く輝く男の掌程度の大きさをした石が鎮座していた。
「これは、デュユースの核の原石さ。ついでに教えてあげると、デュユースは自然発生したものではない」
「まさか……っ」
「ああ、僕が創ったものだよ。この能力でね」
 感づいた春斗に笑って答えると、花形はそっとその原石に触れる。すると、二人の目の前へ巨大なデュユースが出現する。そして、そのデュユース越しに煌を指さすと、花形は冷たい瞳を向けて呟いた。
「お手並み拝見といこうじゃないか、バケモノ」
 まるで、煌を異質のものと知っているかのように言うと、巨大デュユースが大きな拳を煌に振り下ろす。
「煌くんっ‼」
 間一髪のところで避けた煌を見て、安心する春斗をいつの間にか近づいて来ていた花形がその手を取ってくるりと回る。
「君はこちら側に来るといい」
「な……っ! 誰がそんなことっ!」
「悪い話ではないよ。君の時を操る能力と僕の毒を用いれば……この世などすぐに一掃できる」
「なにを……言って……」
 心ここにあらずといった様子で目を細め、花形が囁くと、背後から一人の中年男性が現れた。
「鏡! なにを遊んでいるんだ、早く邪魔者を消して対象を捕らえなさい!」
「……はい、お義父様。……と、言うわけだ。君に拒否権はない、僕達の夢のために……その力を奮ってもらうよ」
 そう言うと、花形はニッコリと笑って煌に仕向けたデュユースへ指示を出した。先程よりも明らかに動きが速くなったデュユースに、避けるのが精一杯といった様子で戦う煌を見て、春斗は急いで花形の手を退けると、煌の元へと駆け寄る。
「俺が注意を引き付ける! 春斗はなんとかして核を破壊してくれ!」
「分かった!」
 刀を握り、煌の指示に従って動く。どうやらデュユースは煌にしか狙いを定めていないようで、春斗にどこを切られても反撃をしてくる素振りはなかった。
「あああああっ!」
 声を上げてなんとか核を破壊できないかと攻撃を続けていると、その光景を見つめていた花形が髪をいじりながら呟いてくる。
「そういえば、お前にはデュユースの腐食が効かないそうだけれど……再生能力にも限界はあるのだろう?」
「それがっ、どうしたってんだよっ!」
「例えば……一か所だけを常に腐食させたら、どうなるのだろうね?」
「はっ……? おわっ!」
 花形の言葉の意味が分からず、思わずそちらを振り返ってしまった隙をついて、デュユースが煌の右足首を狙って何度も打撃を与えた。
「いっ……ぎ、ぐぐぐっー!」
「煌くんっ!」
「だい、じょぶ……うぅ……っ!」
 すぐに傷が治る体質とはいえ、痛みはあるため、呻き声を上げつつも春斗にそう伝えた煌に、花形は笑いながら問いかける。
「本当に?」
 そう問われた瞬間、煌の足首に強い痛みが走り、激しい熱が伝わってくる。
「どう、なって……くっ!」
「煌くん! ……どうして? 煌くんには効かないはずじゃ……っ」
「それは、一発の場合の話だろう? 確かに、お前は人間と同じようにはいかない。けれど、絶対に壊せないわけではない」
 煌の身体の創りを熟知したように言い、高笑いを上げる。確かに、煌の身体はデュユースの腐食能力は効かないように創られている、けれど、それは怪我を負わないというわけではなく、いくら腐らないとはいえ同じ個所を何度も傷つけられれば、蓄積された怪我による支障はきたす。それを分かった上で、花形はデュユースに執拗に煌の足を狙わせたのだった。
「クッソッ……ぐぐっ……」
 脂汗をかきながら、煌は呻くとハッとした顔をして春斗を見つめた。そして、刀を握った方の腕を掴み、刃を自身の痛みを放つ足へ向ける。
「春斗……このまま、ぶった切れるか?」
「えっ……なに、言ってるの? 煌くん……」
「このままじゃ痛みが邪魔して戦いづらい……ぶった切ってくれた方がまだ動ける」
「そんな……っ! くっ……」
 あり得ないことだと思った。けれど、煌の目は真面目で拒絶できない。考える時間もなく、春斗は瞬時に決心すると、声を張り上げて刃を振り下ろした。
「うあああああああああああッッ‼」
 目の前が真っ赤に染まり、先程まで煌の一部だったものが切り離されて落ちていく。そうすると、煌は春斗の頭をぐしゃりと撫で、両手の指先を全て動かして周りの機械類を持ち上げると、花形を狙って叩き落とした。
「はぁ……しぶといバケモノだね」
 呟いて、花形はデュユースを盾にして身を守る。けれど、そのせいで見えていなかったのか黄色い石の原石にまでは意識が向かなかったらしい。煌の手にショーケースが渡っていくのを見上げてあんぐりと口を開けていた。
「作戦……成功っ」
「最初から、それが狙いだったと言うのか……?」
「まあな。賭けだったけど、春斗がイイ感じに声上げてくれたおかげでアンタの視線も逸らせたしな」
「煌くん……なんて無茶なっ!」
「悪いな、黙ってて。でも、上手くいったしオッケーだろ?」
「~~っ!」
 煌の作戦にしてやられたという様子で、春斗は声にならない声を出しながら煌の持ち上げたショーケースを見る。まだ輝きを放つそれをこのままにはできない。
「……言いたいことはあるけど、今はこっちが先だよね」
「止めたまえっ! それさえあれば、僕達はこの世界を美しいものにできるのだよ? こんな……腐った世界を終わらせられるんだ……」
 絞り出したように言う花形を見て、春斗は躊躇いなくショーケースを叩き切り、中の原石を砕く。
「……っ!」
 その光景を見つめ、目を見開く花形の後ろで、中年男性が悲鳴を上げる。
「うわああっ! なんてことを! 革命の石がっ……それさえあれば、私は神へとなれたというのに……クソッ! 鏡! この無能めがっ!」
 情けなく喚き、花形へ拳を振りかざそうとした瞬間、中年男性の首元から大量の血が噴き出し、でっぷりと肥えた身体が固い床へ倒れ込んだ。どうやら、拳が届くより先に花形の手に握られたナイフが男性の首に届いたようだった。
「……これで、台無しだね」
 そう呟きながら立ち上がり、花形は二人を見下ろすと、力なく語り始めた。
「ここまでしても、僕は幸せとは縁遠いようだ……ああ、本当に最低な世界だなぁ」
 泣き出しそうな顔で言う花形に、二人は何も言い出せないまま、ただジッとその姿を見つめた。
「僕はね、このためだけに生かされてきたんだよ……でも、もう無意味だね。こんなことなら、あの時一緒に死んでいれば良かった……っ」
「あの時……?」
「僕と同じ能力を持った奴隷達が集団自害をした時さ」
「……っ!」
「ああ、そんな顔をしないでくれたまえよ……同情など腹の立つものはいらないからね」
 冷たい瞳を向けながら言う花形に、思わず黙り込んでしまった春斗とは逆に煌がそっと話しかける。
「アンタの学園の記録がおかしかったのはそのせいか?」
「まったく、バケモノは意地汚いね……わざわざ見たのかい?」
「ああ。アンタは表向きには資産家の子供になってた。でも、実際は奴隷出身だったんだな」
 花形が頷くと、春斗は口元を覆って吐き気を堪えた。裏の世界には、所謂特殊な『字』を持って生まれた者を対象とした奴隷制度があるというのを噂で聞いたことがあった。けれど、それはあくまで噂で、どこか他人事で絵空事のように思っていた。だからこそ、こんな身近に感じる日が来るとは思ってもいなかった。
「戦災孤児がまともな孤児院に入るだなんてね、君のように恵まれた能力を持つ者だけなんだよ」
「僕は恵まれてなんか……っ!」
「当たり前のように食事を与えられて、当たり前のように雨露をしのいで眠ることができた奴に言われたくないっ!」
 張り上げられた声に肩が揺れる。あの花形から出た声とは思えないほど、大きく、悲しい声だ。
「僕のように誰かを傷つけることしかできない能力を持った者はね、使われることでしか生きられないんだよ……不必要な命なのさ」
「それは違うっ‼」
 花形の声にも劣らないもので言い放ち、春斗は花形に駆け寄ると、その手を握って真っすぐに目を見つめた。
「確かに先輩のしたことは許されない! でも、不必要な命だなんて……そんなの、絶対に違う!」
「……綺麗事を……君だって僕を恐れているくせにっ」
「あんな目に遭ったんだ、怖いですよ! でも……でも、僕は先輩の命が必要ないだなんて思わないっ!」
「どうして……」
「だって、こんな世界でも生まれてきて、僕に出会ってくれたんだから……」
 気がつくと、大粒の涙を流していた春斗に、バツの悪さ感じて花形は俯く。
「……見つけてなど、くれなかったくせにっ」
 そして、そう呟くと花形は握っていたナイフで春斗の喉をかき切り、その返り血を浴びると、春斗を強く押し退けて煌の元へと返す。
「春斗っ‼」
「二度とそんな綺麗事が言えないように、お仕置きだよ……」
 そう言って、花形は全てを捨て去ったような笑顔を向けると、二人が出口に向かうよう導く。
「この基地は数分後に爆発する……さっさと消えてくれたまえ」
「お前は……どうするつもりだよ」
「地獄の神に抗議でもしてくるさ」
「はながたっ、せんぱっ……」
「さあ、もう行きなさい……生き延びて、せいぜい腐った世界見物でもしてきたら良い」
「……クソッ!」
 喉を押さえる春斗を担ぎ、煌は片足だけで走ると崩れていく基地から脱出した。
「ああ……今度は、見つけてもらえたらいいなぁ」
 心底疲労した声で呟き、花形は瓦礫の中へと消えていった。

***

「本当に行っちゃうの?」
 寂し気に問いかけてきた鈴に笑いかけ、春斗はゆっくりと頷いた。
 デュユースの元を絶ち、デュユースによる被害がなくなって半年の時が過ぎた。あれから煌と春斗の二人は英雄として称えられ、世界は復興の兆しを見せていた。けれど、あの一件で煌は右足を、春斗は声帯を失うという損害を受けていた。煌は義足を付け、春斗は手話を覚えることで生活に支障がないように過ごしてきたが、ふと煌が旅に出てみたいと言い出し、春斗もそれに賛同し、バイクでの二人旅をすることになったのだった。
 花形が散り際に残した言葉が頭から離れなかったのか、煌はこの世界を隅々まで見てみたいと思った。実際、良くなってきているとはいえ、まだまだ世界は平和であるとは言い難い。そんな世界から目を逸らしてはいけないと、そう感じたのだ。
「はい、コレあげる」
 バイクに跨った煌に、黒が小さな小瓶を手渡す。中には鮮やかなピンク色をした花が詰められていた。
「はーちゃんの部屋から見える桜。散っちゃったの拾ったんだよ」
「なんだよ、お前結構かわいいことすんのな」
「まあ、お守りみたいな感じかな。ちなみに強い衝撃与えると爆発するようにしてあるから、気をつけてね」
「なんて危なねぇもん渡してくれてんだっ!」
 そんな二人のやり取りを見ながら、クスクスと口元をほころばせて、春斗もバイクに跨って煌にしがみついた。
「んじゃ、行ってくるわ」
「行ってらっしゃい。気をつけてね!」
「手紙くらいはちょうだいね」
「おう! ……じゃあ行くぞ、春斗」
 春斗がコクリと頷いたのを見て、エンジンをかける。けたたましい音とともに、勢いをつけたバイクが走り出し、二人は学園を背に走り抜けた。
「本当に良かったのか? 学園、あのまま普通のカリキュラムに変更になるんだろ?」
 煌が言うと、春斗は一切の躊躇いなく頷いて見せた。デュユース被害がなくなった今、学園での戦闘訓練や教習は必要なくなり、建物はそのままに、普通科として学生達の未来を見据えた教育がなされることとなった。それは勿論、煌や春斗も対象者であったが、春斗は未来を見つめるより先に今を煌と見つめることを選んだ。それによって、二人は中退となるはずだったが、政府が二人の功績を称え鈴や黒と同じ年に卒業資格を与えると言ってくれ、この旅にも全面的な支援をしてくれることになったため、二人は迷わずそれを受け入れたのだった。
「ま、俺は構わねぇけどな」
 そう言いつつも、喜んでいる煌の顔を見上げて、春斗は安心したように笑む。
(普通の学生もいいけど、今は……)
 煌の腰にしがみつき、ぴったりとくっついてその温かさを感じる。人間ではないとはいえ、血の通った身体からはしっかりとした体温が伝わってきて、とても安心する。
(君と離れたくなかった、なんて言ったら……どんな顔するかな)
 そんなことを思いながら、あてのない道を走る。手続きや何やらで、学園を出るのが遅くなってしまったせいで辺りはすっかり暗がりとなって、空には小さな星々が輝き始めていた。
「今日はここらで野宿だな」
 そう言ってバイクを止め、煌は用意しておいたテントを素早く設置すると、手際よく火をおこしてキャンプの準備をする。春斗も手伝いはしたが、まだ一人では覚束ない手つきでやっとの思いで淹れた珈琲を手渡すと、煌はそれを受け取って空を見上げた。
「春斗、手こうしてみろ」
 自身の右手で親指と人差し指をピンと立てて見せ、春斗も見よう見まねで自身の左手でそれを作る。すると、煌がその手を取るように指を重ねて、そのまま高く空に向かって持っていく。
「ほら、こうすると写真みたいになっていいだろ?」
 ニカッと笑って言われると、まるで本当に写真の中に閉じ込められた夜空を見ているような気持ちになった。星には詳しくないが、今見えているこの景色の美しさはよく分かる。
(綺麗……)
「この世界は……まだ美しいなんて言えないかもしれない。でも、いつかこの星々みたいに輝くって俺は信じてる」
 そう囁き、煌は春斗の方を向くと、真剣な眼差しで言葉を紡いだ。
「だから……ずっと、俺と一緒に居てくれるか?」
(……当たり前だろ、馬鹿っ)
 煌の質問にそう返すように、春斗は笑って頷くと、煌はパッと目を輝かせて喜んだ。
「春斗が、俺を見つけてくれて良かった……」
(それはこっちの台詞だよ)
「あ~! やっべぇ、俺マジで幸せだわ~」
 はしゃぐ煌を微笑ましく思いながら、春斗は二人で切り取った星々をうっとりと見つめる。
 この世界は、決して美しくなどない。けれど、これから美しくしていくことはきっとできる。煌と共に居られるのなら、きっと。
「春斗、サンキューな!」
 そんなことを思う春斗に気づいていないのか、純真無垢な笑顔を向ける煌の存在を近くに感じながら、春斗はその幸せをじっくりと噛みしめるのだった。