戻って来た夏澄に連れられ、千晴は昇降機で一階へ降りた。途中途中に慌ただしい小士らとすれ違う。彼らに指示を出しているのは、門にいた青柳色の装束の者たちだ。あれが道士だと夏澄が教えてくれる。月花のような隊士は見かけなかった。
 二人は表門ではなく、反対側に位置する別の門から外に出た。石で造られた広場があり、その先にはもう一枚鉄の門があった。ここにも松明が灯され門番が立っている。
 夜風が冷たい。千晴は両手に息を吐いた。
「少し寒いけど、馬車より疾風で帰った方が速いから勘弁しろよ」
 夏澄が言った。
「疾風とは、何ですか?」
「え? ああ、そうか。彼の世にはないんだな」
 夏澄は胸の前で手を組むと、何度か形を変えて印を結んだ。すると目の間につむじ風が起き、白い風が馬の形を作った。千晴は目を丸くする。
「これが疾風。移動手段のひとつだよ」
 見えない階段でもあるのか、夏澄はひょいと足を運んで馬の背に跨った。
「ほら、手を貸せ」
 夏澄が千晴に手を差し出す。恐る恐る千晴が手を伸ばすと、夏澄はいとも簡単に千晴を引っ張り上げた。夏澄の後ろに足を揃えて横向きに座る。
(不思議……。風の上に座っているみたい。少し温かく、まろやかな……)
「つかまってろよ。人間を乗せるのは初めてなんだ。感覚がつかめなくて振り落とすといけないからな」
「は、はい」
 千晴はそろそろと、夏澄の腰に両腕を回した。
「出発するぞ」
 疾風はゆっくり動き出した。脚が地面を蹴る振動が伝わってくる。
 道士の門番は疾風を認め、鉄製の門を開いた。
 丘に囲まれた道が現れる。細長い外灯が点在しているが暗い。
 疾風は徐々に加速し走り出した。着物の裾が風にはためき、驚いた千晴は夏澄にしがみついた。気づいた夏澄が軽く首を後ろに回す。
「仕方ないなぁ」
 夏澄が呟くと、千晴のすぐ真横でつむじ風が起きた。それは翼のように左右に広がって千晴を背後から包み込んだ。体が固定され振動が和らぐ。
「これ以上は無理だからつかまってろよ」
 疾風は速度を保ち、丘の道を走り抜けた。
 やがて外灯がなくなった。月明かりだけの暗い道を、疾風は迷いなく突き進んでいく。
 十分ほど走った頃に夏澄が言った。
「もう着くぞ。あれが月花様のご自宅だ」
 開けた土地に、ぽつんと建つ家があった。
 疾風が速度を緩める。景色を見る余裕ができ、千晴は家の様子を観察した。
 夜叉社や周辺の建物に比べれば、地味で古風な造りだ。軒下に一つだけ、提灯に似た灯りがぶら下がっている。明かりはそれひとつで、一階と二階の雨戸は閉まっていた。
 門をくぐり、砂利と飛び石の道をたどる。

 そこで千晴は、飛び石の上に漂う黒い雪を見た。

(あれは月花さんの……?)
 疾風が玄関前で停まる。千晴は夏澄の手を借りて疾風から降りた。
 夏澄は懐から鍵を取り出し引き戸の穴に差し込んだ。
 鍵を回す。
 戸がピィンと音を立て青白く瞬いた。見えない圧力を感じ千晴は体をのけ反らせる。
「結界だよ。鍵と連携してるんだ」
 夏澄はガラリと戸を開けた。
 家の中は静まり返っている。千晴は玄関たたきの上にも雪を見つけた。
(やっぱり月花さんの邪気だ……どうしてこんな所に? ご自宅に戻っていらっしゃるの?)
 尋ねようとすると、夏澄が先に口を開いた。
「月花様がご不在でも失礼のないようにな。汚したり壊したりするなよ」
 ご不在? 疑問に思いながら家に上がった。
 夏澄は棚の上に置かれた白い筒に手をかけた。上の部分、蓋を何度か回す。すると筒は淡く発光し室内を照らした。
 明るくなった廊下を進む。進む先にも邪気は残されていた。突き当りまで来ると夏澄は左手の部屋に千晴を案内した。
 部屋の中は真っ暗で何も見えない。夏澄が畳を踏む音だけが伝わってくる。
 部屋の隅で淡い光がついた。大きくて丸い筒が光を灯している。廊下にあった物と同じ仕組みらしかった。おかげで室内の様子が見えて来る。
 机と座椅子、箪笥がある。床の間には翡翠の花瓶が飾られている。
「今夜はここで過ごすようにな。押し入れに布団もある。あと、便所は廊下を出て右だ」
「あの、月花さんは?」
「そのうち戻られるだろう」
 夏澄はやはり、月花がいない前提で話している。千晴の疑問は大きくなった。
「結界もあるし誰も入って来ないさ。じゃあ僕は社に戻る。片付けが残ってて忙しいんだ」
 矢継ぎ早に夏澄は廊下を戻って行った。玄関の戸を閉める音、鍵の回る音、そしてピィンと戸の鳴る音が聞こえ、静かになった。

 千晴は胸に手を当てる。トクトクと鼓動が鳴っている。
(不思議なことばかり。ここは本当に異界なんだ)
 勝手が違うことも多いだろう。不安がないわけがない。千晴は大きく息を吸って大きく吐いた。
(しっかりしなきゃ。私は鬼目として生きていかなくてはならないんだから)
 両手で頬を軽く叩く。それから廊下の奥に目を凝らした。
 そこにうっすら漂うのは邪気だ。
(向こうにいらっしゃるのかしら……?)
 夏澄は月花が自分で邪気を治めていると話したが、それがどんな方法なのか千晴には想像もできない。
(……自分の役目はまだわからないけど……、邪気が見えることで何かお力になれるのなら……)
 ゆっくり静かに、千晴は月花の痕跡を辿った。部屋とは反対方向に廊下を進み、別の部屋をひとつ通り過ぎる。その先は行き止まりで、二階へ上がる階段があった。月花の邪気はここで途切れている。階段を見上げるが、邪気は見当たらない。
(二階へ上がったわけではない……?)
 周辺を確認すると、階段下側面の大きな棚に邪気を見つけた。さらに階段下を塞ぐ壁にも邪気が残っている。棚と壁を手で伝ったような跡だった。千晴は壁を触った。すると手に違和感があった。
(この壁……もしかして動く?)
 両手を使って押してみる。違和感が大きくなり、千晴は全体重を掛けて壁を押した。
 突如壁が向こう側に回転した。
「わっ……」
 壁はどんでん返しになっていた。千晴は勢いのまま壁の中に入り込んだ。背後で壁が閉じると、途端に視界が真っ暗になる。千晴は焦ったが、目の前に、うっすらと縦に光の筋が入っていることに気がつく。

 ……う。

 光の筋から小さな呻き声が聞こえた。千晴は光に手をかける。段差に指か掛かり、そこにある戸を右へ引いた。
 畳の上に点々と落ちる邪気。こちらに背を向けて座る月花。上半身だけ着物を脱ぎ、右手でつかんだ布で左肩を押さえている。けれど上手く力が入らないのか、右手はずるずると前に落ち、血に染まった布が畳の上に落下した。
 露わになった肌、左肩の真下に横に伸びる赤い傷があった。傷から黒い邪気が溢れ出し、月花のうなじへ立ち上っている。反対に、滲み出た血が、雨粒のようにして下っていく。
「月花さん……!」
 千晴は月花に駆け寄った。ようやく千晴の存在に気づき、月花が驚いて振り返る。
「お前、どうしてここに……」
「それより傷がっ」
 千晴は布を拾い傷に当てた。月花の体が一瞬だけビクリと揺れる。
「大丈夫ですか?」
「……っすまない、が、しばらく、押さえていてくれるか……」
 絞り出すように月花が言った。千晴は何度も頷き返す。
 月花の額からぽたぽたと汗が滴り落ちる。千晴は別の清潔な布を見つけて額を拭いた。月花の目がちらりと千晴を見る。咎められたのかと思い、千晴は手を止めた。
「よ、余計なことでしたでしょうか?」
「…………構わない……」
 汗が首筋まで伝う。
(肌が冷たい。顔色も悪い。どうして、この傷のせい?)
「あの、他にできることは?」
「……そのまま押さえていてくれ。それだけでいい……」
 月花が目を閉じる。千晴は優しく汗を拭い続け、早く痛みが治まるよう祈った。

 どれほどそうしていただろうか。

「……もう平気だ」
 千晴の手に月花が触れた。熱の戻った指先に千晴の胸がドキリとする。表情も少しだけ和らいだだろうか。千晴はそっと手を離した。
 傷の血は止まっていた。邪気も溢れる勢いを弱めている。
 月花は机に手を伸ばし、ガーゼに薬を塗り傷に当てた。後ろ側ではやりにくいだろうと千晴も手伝う。上から包帯を巻いて固定した。
「……これで大丈夫だ」
「でもまだ顔色が。それに邪気が残っているようですが、大丈夫なんですか?」
 包帯の下から邪気が出てくる。月花は首を回しそれを確認する。
「これが見えるのか?」
「はい」
 正直に答えると、月花は小さな笑いを漏らした。
「こんな微細な邪気を見る奴は初めてだ。そもそもどうしてここがわかった?」
「それは、月花さんの邪気を追って来たんです」
「邪気を追った? どういう意味だ?」
 聞き返され千晴は戸惑う。包帯の下から出て来て、ふわりと舞う月花の邪気。千晴は両手で包むようにして差し出した。
「邪気が玄関の外からずっと続いていたので、それで階段下の壁にたどり着いてこのお部屋を見つけました」
 月花はぽかんと千晴を見た。
「……つまり、邪気の跡をたどって来たのか?」
「はい」
「……邪気の痕跡が見える奴なんて聞いたことがない。見たこともない。ましてや人間にそんなことができるのか?」
「……わかりません。私も異界へ来て初めて邪気を見ましたし」
「夕真の時に感じただろう。邪気が恐ろしくないのか?」
「あの方は危険だと思いました。ですが、月花さんの邪気は平気です。恐ろしさは感じません」
 むしろ、と、心の中で続ける。
(どこか寂しい気がする)
 受け止めた邪気が手のひらの上で、雪のようにゆっくりと消えていく。
 月花はしばらく考え込み、ぼそりと呟いた。
「……見つけられるのかもしれないな」
「え……?」
「お前なら……俺を刺した奴を見つけられるかもしれない」
「刺した……?」
「二年前、俺は毒を塗った刃物で肩を刺された。この傷はその時のものだ」
「毒?」
「ああ。鬼毒(きどく)という、邪気を急速に高める毒だ。鬼毒の傷は邪気に反応し開いてしまう。そして邪気の出口になる」
「あっ、だから血が? それに傷の周囲に邪気が、邪気が多く見えるのは、傷から邪気が漏れ出てしまうから?」
「よくわかってるんだな」
 月花が笑う。当の千晴は戸惑いが大きかった。
「こ、この傷は治せないのですか?」
「鬼毒は体に定着し、何度でも痛みを再現する。根本的な治療はない。そのつど対処するしかない」
「そんな……。いったい誰がそんな毒を月花さんに?」
「……犯人とされる奴は見つかっている。だがどう考えても、あいつがそんなことをするとは思えない」
「それは……犯人は別にいると?」
 月花は頷いた。
「私に見つけられるかもしれないというのは、どういうことですか?」
 月花はすぐに答えず、部屋の隅にある戸棚を指差した。
「右の引き出しにある箱を取ってくれ」
 言われた通り、千晴は引き出しを開けて、中から両手に収まる木箱を取り出した。月花のもとへ持っていくと、中を見るよう促される。
 箱の中には真っ二つに割れた石が入っていた。
「石、ですか?」
「何か気づかないか?」
 千晴は集中して目を凝らす。すると、石の割れ目にこびりつく黒、邪気が見えた。
「これは、月花さんの邪気?」
「見えるんだな」
「どういうことでしょうか……?」
「悪鬼の邪気は対象に残る、という逸話がある。その石は二年前に刺された後、俺が割った石だ」
「月花さんの邪気が、この石に残ったということですか?」
「ああ。鬼毒のせいで、俺は急速に膨れ上がった邪気に侵され自我を失いかけた。暴走しかけたんだ」
 月花は表情を苦々しくさせた。
「その時に俺は、俺を刺した奴を斬った」
「えっ! 犯人を見ているということですか?」
「顔は覚えていない。あの時は自我を保つのがやっとだったからな。覚えているのは、奴の服が同じ夜叉隊の物だったということと、奴を斬った手の感触。……そして、奴の傷に俺の邪気が残った、という感覚だ」
 自分の右手を見下ろし月花が言った。
「言葉にして説明はできないが……自分の一部が奴に流れるような感覚があった。お前はその石を見てすぐに俺の邪気だと気づいたな?」
「はい。この邪気は、月花さんのものと同じだと思います」
「俺の邪気だと判別できる、ということだ。石に残ってるものは徐々に薄れてきている。俺でも数分は眺めてなきゃ見えない。奴に残る邪気も同じように薄れているのか俺では見つけられない。だがお前はすぐに気づいた。……お前なら、奴に残る邪気の痕跡から、見つけ出せるかもしれない」
「月花さんは、本当の犯人を捜しているんですね?」
「ああ」
 邪気が見えること、月花と出会ったこと、月花が自分を襲った犯人を捜していること。全てがひとつに繋がっていく。
役目を理解することは繋がること。

 千晴はこれが答えなのだと確信する。

「承知いたしました。私の目がお役に立てるのなら、月花さんを傷つけた犯人を見つけ出します」
 千晴の答えに月花は深く頷いた。それからフッと体の力を抜いた。
「今夜はここまでだ、また明日話をしよう。お前も休め」
「何か他にお役に立てることがあれば」
 散らばった布や薬を見回し千晴は言った。
「いい。今日はもう休め」
 脱いでいた着物を月花が整える。半裸であったことに今さら気づき、千晴は自分の頬が赤くなるのを感じた。
 二人はどんでん返しの壁から廊下に出た。月花が先導する。千晴は後ろをついて行きながら、着物の上からうっすらと透ける邪気を見ていた。
(夏澄君が月花さんは邪気の制御が人一倍お上手だと言っていたっけ。あのくらいの邪気なら平気ということだろうけど、そんな月花さんが暴走しかけるほどの邪気って……)
 鬼毒とは恐ろしい代物に違いない。なぜそんな毒を月花が受けなければならなかったのか。考えているうちに、もといた部屋まで戻ってきた。
「布団もある。好きに使っていい」
「はい。ありがとうございます」
 月花は廊下を引き返し階段の方に姿を消した。
 千晴は部屋に入った。
 胸の鼓動はまだ速い。
(おじい様、お父さん、お母さん。まだわからないことが多いけど、私、立派に務めます)
 届けと願いを込め、千晴は押し入れに向かった。布団を取り出して敷き横になる。
(今夜は休もう。また明日、月花さんのお役に立てるように……)
 高鳴る気持ちを鎮めながら目を閉じる。
 視界は闇だ。けれどその中で、千晴は小さな光を抱いていた。