「――い、……おい」
揺れ動く意識に、千晴は目を開けた。
夏澄がこちらを覗き込んでいる。
「おい起きろ。そろそろ月花様が戻られる」
一瞬何のことかと混乱し、千晴はここがどこかを思い出して飛び起きた。
いつの間にか床に伏せって眠っていたらしい。今日までの数日間、緊張であまり眠れていなかったせいか。一人になり、緊張の糸が切れたようだった。
「も、申し訳ありません! 私っ」
「いいから。ほら、そっちに座ってろ」
どうでもよさそうに言って、夏澄は千晴を追いやった。心臓を鳴らしながら、千晴は隣室の襖を背に、障子窓を右手にした位置へ移動する。そして急いで着物や髪を手ぐしで整えた。
夏澄は灰色の大きな布を抱えていた。それを、障子窓のすぐ下から部屋の中央に向けて広げる。表面は滑らかで水を弾くような素材だ。さらに布の側に、きれいに畳んだ着物を置く。そして千晴の隣に正座した。
「いいか? 黙ってお出迎えするんだぞ」
前を見据えたまま夏澄が言った。
(月花さんは窓から出て行ったけど、戻って来る時も窓から戻られるのかな。だから床に敷物を?)
千晴が考えていると、布の上に人影が映し出された。
開け放たれた窓から、白髪の人物が姿を現わす。月明かりを背に受けながら、ゆっくりと降り立ったのは月花だった。
千晴の体がぞおっと粟立つ。
ゆらゆらと、月花の全身から黒い湯気が立っている。邪気だった。向こう側の見えない黒さで月花を包み込んでいる。月花の顔には、ねっとりとした黒い液体が付いていて、それは服にも付着しており、黒い生地の中に光沢を放っていた。何かの――魔物の――返り血に違いなかった。千晴は声を出すことも、身動きひとつも取れなくなる。
月花は虚ろだった。灰色の目は一層に薄く冷たい。敷かれた布の上で刀を下ろすと、そのまま帯を外し、おもむろに着物を脱ぎ捨てた。次いで袴に手をかける。千晴は慌てて顔を伏せた。直後、袴の下りる音がした。汚れた装束から、用意された着物に着替えていく。その気配が終わったのを感じ取り、千晴はそろそろと顔を上げる。
月花は既に部屋の出口へと歩いていた。体の邪気は変わらない。月花の動きに合わせて揺れ動き、積もった雪が風にさらわれるようにしてさらさらとした影を残した。
一言も発することなく、月花は部屋を出て行った。
夏澄が立ち上がる。残された衣服と刀を、慣れた手つきで布に包み抱え上げた。
「僕が戻るまでここで待ってろよ」
「月花さんはどちらへ?」
「さあ」
「さあ? って?」
「本来なら討伐から戻った隊士は邪気を祓いに行かなきゃならない。でも月花様は社の祓い場は使わないんだ。いつもどこかへ消えて、ご自身で邪気を治められる」
「だ、大丈夫なんですか? だってあんなに邪気が」
「まあほとんどは平気だよ。隊士は訓練を受けているし。特に月花様は邪気の制御が人一倍上手い。だから多くの魔物を倒せるんだ」
「……邪気は、凄まじい力を発揮するから?」
「そういうこと。まさかお前、全ての鬼人が魔物を倒せるとでも思ってるのか? そんなはずはない。だから夜叉隊の隊士は特別なんだ」
じゃあ待ってろよと言い夏澄は部屋を出ようとした。が、直前で振り返る。
「お前、人間なのに邪気が見えるのか?」
「は、はい。そうみたいです」
「ふーん? まあいいや。とにかくすぐ戻るから大人しくしてろよ」
今度こそ本当に部屋を後にする。
力が抜け、千晴は両手を畳についた。
(……鬼人の本質は戦にある。大昔はそう言い伝えられていたそうだけど……)
邪気をまとう月花の姿が真実だった。
(そう、言えば……)
月花が着物を脱いだ時、背中に傷があるのが見えた。そう長く見えたわけではないが、左肩のすぐ下に真横に入った傷があった。月花の邪気はその傷周辺が特に濃かったように思う。
千晴の視界に黒い雪が舞い降りた。ふわふわ動きながら、千晴の手に向かって降りて来る。
(月花さんの邪気だ。……不思議。夕真さんの邪気は恐ろしかったけど、月花さんの邪気は……)
千晴は邪気を受け止めようと手を広げた。けれどその影は、千晴の手に届く前に消えてなくなった。
揺れ動く意識に、千晴は目を開けた。
夏澄がこちらを覗き込んでいる。
「おい起きろ。そろそろ月花様が戻られる」
一瞬何のことかと混乱し、千晴はここがどこかを思い出して飛び起きた。
いつの間にか床に伏せって眠っていたらしい。今日までの数日間、緊張であまり眠れていなかったせいか。一人になり、緊張の糸が切れたようだった。
「も、申し訳ありません! 私っ」
「いいから。ほら、そっちに座ってろ」
どうでもよさそうに言って、夏澄は千晴を追いやった。心臓を鳴らしながら、千晴は隣室の襖を背に、障子窓を右手にした位置へ移動する。そして急いで着物や髪を手ぐしで整えた。
夏澄は灰色の大きな布を抱えていた。それを、障子窓のすぐ下から部屋の中央に向けて広げる。表面は滑らかで水を弾くような素材だ。さらに布の側に、きれいに畳んだ着物を置く。そして千晴の隣に正座した。
「いいか? 黙ってお出迎えするんだぞ」
前を見据えたまま夏澄が言った。
(月花さんは窓から出て行ったけど、戻って来る時も窓から戻られるのかな。だから床に敷物を?)
千晴が考えていると、布の上に人影が映し出された。
開け放たれた窓から、白髪の人物が姿を現わす。月明かりを背に受けながら、ゆっくりと降り立ったのは月花だった。
千晴の体がぞおっと粟立つ。
ゆらゆらと、月花の全身から黒い湯気が立っている。邪気だった。向こう側の見えない黒さで月花を包み込んでいる。月花の顔には、ねっとりとした黒い液体が付いていて、それは服にも付着しており、黒い生地の中に光沢を放っていた。何かの――魔物の――返り血に違いなかった。千晴は声を出すことも、身動きひとつも取れなくなる。
月花は虚ろだった。灰色の目は一層に薄く冷たい。敷かれた布の上で刀を下ろすと、そのまま帯を外し、おもむろに着物を脱ぎ捨てた。次いで袴に手をかける。千晴は慌てて顔を伏せた。直後、袴の下りる音がした。汚れた装束から、用意された着物に着替えていく。その気配が終わったのを感じ取り、千晴はそろそろと顔を上げる。
月花は既に部屋の出口へと歩いていた。体の邪気は変わらない。月花の動きに合わせて揺れ動き、積もった雪が風にさらわれるようにしてさらさらとした影を残した。
一言も発することなく、月花は部屋を出て行った。
夏澄が立ち上がる。残された衣服と刀を、慣れた手つきで布に包み抱え上げた。
「僕が戻るまでここで待ってろよ」
「月花さんはどちらへ?」
「さあ」
「さあ? って?」
「本来なら討伐から戻った隊士は邪気を祓いに行かなきゃならない。でも月花様は社の祓い場は使わないんだ。いつもどこかへ消えて、ご自身で邪気を治められる」
「だ、大丈夫なんですか? だってあんなに邪気が」
「まあほとんどは平気だよ。隊士は訓練を受けているし。特に月花様は邪気の制御が人一倍上手い。だから多くの魔物を倒せるんだ」
「……邪気は、凄まじい力を発揮するから?」
「そういうこと。まさかお前、全ての鬼人が魔物を倒せるとでも思ってるのか? そんなはずはない。だから夜叉隊の隊士は特別なんだ」
じゃあ待ってろよと言い夏澄は部屋を出ようとした。が、直前で振り返る。
「お前、人間なのに邪気が見えるのか?」
「は、はい。そうみたいです」
「ふーん? まあいいや。とにかくすぐ戻るから大人しくしてろよ」
今度こそ本当に部屋を後にする。
力が抜け、千晴は両手を畳についた。
(……鬼人の本質は戦にある。大昔はそう言い伝えられていたそうだけど……)
邪気をまとう月花の姿が真実だった。
(そう、言えば……)
月花が着物を脱いだ時、背中に傷があるのが見えた。そう長く見えたわけではないが、左肩のすぐ下に真横に入った傷があった。月花の邪気はその傷周辺が特に濃かったように思う。
千晴の視界に黒い雪が舞い降りた。ふわふわ動きながら、千晴の手に向かって降りて来る。
(月花さんの邪気だ。……不思議。夕真さんの邪気は恐ろしかったけど、月花さんの邪気は……)
千晴は邪気を受け止めようと手を広げた。けれどその影は、千晴の手に届く前に消えてなくなった。
