(……月花様、何を考えているのか読めない人だわ。鬼目のことは仕方なく引き受けたということなのかしら……)
 言動からして好意的とは言い難い。
(それに私の役目っていったい? 邪気が見えることが関係しているの?)
 月花に言わせるとよく見えているらしいが、役目の理解には結びつかない。
(……私だから、わからないのかな……)
 月花とは出会えた。けれど鬼目の本質は役目を担い鬼人に仕えること。役目を理解するまでは鬼道入りを果たしたとは言えない。まだ安心してはダメだと自分に言い聞かせる。
 月花の背中で眠るユウマに、うっすら邪気が漂う。先ほどの戦闘を思えば絶対に刀を渡してはならないことだけは理解できた。千晴は両手で刀を握りしめた。

 進行方向に大きな影が見えた。小さな灯りも見えてくる。

 それはいくつもの建物が並んだ光景だった。やぐらのように高い物や、舞台のように突き出した物。赤と黒を基調とした建造物の数々が、視界に入り切らないほど広がっている。
「あれは町でしょうか?」
「ああ」
「月花様はあの町に住まわれているのですか?」
「ああ」
 この人は「ああ」しか返さないのだろうかと千晴は顎を引いた。月花は黙ってどんどん歩いて行く。
 草原が途切れ、しばらく石と土の混じった道を歩いた。先に見える町が近づいてくる。
 道はひとつの楼閣に続いていた。背後には巨大な岩壁があり、切り出された窓から光が漏れている。一階にある朱色の門は開け放たれ、松明が燃えていた。両側には槍を携えた門番が立っている。恰好は月花やユウマと似ているが、着物の色は青柳で、目元以外の肌は頭巾で覆われていた。
 月花の姿を視認し、門番は驚いた様子で声を上げた。
「月花殿!? それに夕真殿! いかがされましたか!?」
「邪気にやられている。すぐに祓い場へ連れて行ってくれ」
 月花が言うと、中から担架がやって来て夕真を運んで行った。千晴の持っていた刀も回収される。慌ただしい場が収まると、門番は訝しげに千晴を見た。
「月花殿。そちらの人間は、まさか」
「鬼目だ」
「なんと! 今日がその日でしたか! いやしかし、鬼目は深い黒髪に紫の目を持つのが証と聞きます。けれどこの者は……」
 左目が鬼目色ではない。門番が言いたいことを察し千晴は説明しようと口を開けた。けれど先に月花が言った。
「この世に突如現れる人間など鬼目しかいないだろう。もし違ったら叩き出せばいい」
 千晴は肩を震わせた。門番はしばらく考え込んだが、黙って二人に道を譲った。
「来い」
 月花が門の中に入る。千晴は慌てた。
「あの、月花様。確かに私は片眼にしか鬼目がありませんが」
「わかってる。それ以上はいい」
 弁明を押し止め、月花はどんどん進んで行く。

 外から見えた楼閣は門そのものの役割を果たしていた。通り抜けるとそこは岩壁の中で、天井は高く何台か昇降機が設置されていた。向こうの世界で言うエレベーターだ。千晴と月花はその内の一つへ向かい乗り込んだ。
 がらがらと鎖の巻き上がる音がして、昇降機が上昇する。
「……月花様、ここは?」
「夜叉(やしろ)だ。夜叉隊の拠点」
「夜叉社……」
「その『様』はやめろ」
「えっ? ですが、月花様は鬼人様ですから」
「鬼目は鬼人を様と呼ばなければならない規則でもあるのか?」
「規則ではありませんが、私たちの平和は鬼人様に守られています。敬うのは当然のことです」
 千晴は月花を見上げながら答えた。月花は前を見据えたまま、軽くため息をつく。
「鬼人様ね……。お前は誰かから人間様と呼ばれたいか?」
「……いえ……」
「俺は思わない。鬼人であることにも、俺であることにも。だから『様』は必要ない。わかったな」
いいえ、と返したいところだが、これ以上機嫌を損ねることは憚れる。
「……では、何とお呼びすれば……」
「『様』以外なら何でもいいだろ」
「……では、月花、さん?」
「それでいい」

 昇降機が停まる。

 窓がないので外は見えないが、上昇した時間と距離から、相当の高さまで昇って来たことが窺えた。下の階の岩壁とは違い、ここは壁も天井も床も木材が使用されている。
 二人は廊下を進んだ。右には壁が続いていて、等間隔に鍵のついた引き戸があった。どうやらいくつか部屋が並んでいるらしい。反対側も壁だが、こちらは引き戸の代わりに下り階段がある。階段下からは、時折人の声や足音が聞こえた。
(不思議な造り……)
 月花はひとつの部屋の前で止まると、懐から鍵を取り出して開錠し、引き戸を開けた。
 中は六畳ほどの部屋だった。置いてある物は何もない。ただ正面には障子窓があり、向こう側の月明かりが室内を照らしていた。隣には別の部屋があるようで、襖で仕切られている。
 その襖がスッと開いた。
 正座した人物が頭を下げる。門番とは色違いの群青色の装束を着た人物だった。顔はやはり、目元以外が頭巾で覆われている。
「お戻りになられましたか」
 声から推測すると若い男子だろうか。男は顔を上げ、千晴の存在に気づき、半眼気味だった青い瞳を大きく見開いた。
「月花様、その者は?」
「鬼目だ。俺はもう出るから、戻るまでここにいさせろ。戻ったら諸々済ませた後、家まで連れて行ってくれ。一階の客間でいい」
「ご自宅に? よろしいのですか?」
「他に連れていく場所もないからな」
 男はしばらく目をしばたたかせたが、ふと我に返った様子で深々と頭を下げた。
 月花は障子窓を開けた。そのまま窓の外へと飛び降りる。
 千晴は驚いて駆け寄り窓の下を覗き込んだ。
 巨大な岩と覆い茂る木の波があった。その中を、月花らしき人影が軽々と跳んでいく。やがて月明かりの届かない、深い闇の中に消えてしまった。
 月花の消えた地点から顔を上げると、巨大な闇の上に月明かりが道を作っていた。黒い闇の表面はゆらゆらと揺れている。
(大きな湖? まさか、これが……)
「おい」
 呼びかけられ、千晴は室内に顔を戻した。先ほどの男が立っていて、半眼気味に千晴を見ている。
「名前は?」
「鬼咲千晴といいます」
「僕は夏澄(かすみ)だ。月花様付きの小士(しょうし)だ」
 夏澄の「月花『様』」呼びが気になり、千晴は小首を傾げた。
「こちらの世界のことは何も知らないのか?」
 夏澄が怪訝に尋ねる。
「い、いえ。夜叉隊のことは存じております。小士とは夜叉隊の階級のことで合っていますか?」
「ああ。最も低い階級で、隊士の世話係だ。中間に位置するのが道士、最高位が月花様たち隊士」
「はい。存じております。夏澄様は月花様付きとおっしゃいましたが」
「かっすみ様ぁ? おいおいやめろよ。そんな呼ばれ方、全身に鳥肌が立っちまう!」
 両腕を抱き、夏澄は本当に不快そうに身をよじらせた。
「ですが、あの、鬼人様ですし」
「はぁ、人間ってのは妙にへりくだった生き物なんだな。ばあちゃんの言った通りだ」
「月花、さん、も、様はつけなくていいとおっしゃっていましたが……」
「あ? ああ、あの人はそういう人だから。僕は立場上そうお呼びするしかないけど。とにかく僕のことは様呼びするな」
「えっと、では、夏澄、さん?」
「何だかなぁ……。君でいいよ、君で。とにかく二時間もすれば月花様が戻られる。それまでは、この部屋で大人しくしていろよ」
「月花さんはどちらへ?」
「魔物の討伐に決まってるだろ」
 呆れたように言って、夏澄は窓の外を指差した。
「あの湖が『影霞(かげかすみ)』だ」
 やはりそうかと千晴は窓の外に顔を戻した。
 影霞。魔物の生息する、巨大な湖の名称。
 けれど。
「こんなに町に近くて、大丈夫なんですか?」
「魔物がいるのは湖の対岸だよ。常に霧が出ていてここからじゃ見えない。結界を張ることもできないから、夜叉隊が直接討伐に向かうんだ」
 千晴は影霞に目を凝らした。対岸は、確かにくぐもっていて景色が見えない。光の加減か目の錯覚か、深い闇が歪んでいるようにも見える。
「そういやお前、目の色が違うんだな」
 夏澄にも言われ、やはり誰もが指摘するのだなと、千晴は心の中で自嘲した。
「これは生まれつきなんです」
「ふーん。まあ、いいや。とにかくまた呼びに来るから、ここにいろよ」
 やや急いだ風で夏澄は部屋を出て行った。
(……夏澄君、でいいんだよね……?)
 夏澄の様子から、過度な敬意はかえって夏澄を遠ざけてしまう気がした。
(でも、私より長く月花さんにお仕えしている。失礼のないようにしないと)
 月花とのやり取りからも信頼関係が感じられた。
 異界へ来たのだ。失態は犯せない。
 千晴は窓の外に目を向けた。
 見上げた月は恐ろしく美しい。この美しさの下に魔物が潜んでいることが嘘のように感じられた。