目の前に現れたのは草原だった。黒い空には大きな満月が浮かんでいる。眩い光に千晴は思わず目を細めた。
(ここが異界……? なんて月のきれいな……)
 冷たい風が吹き、足元に広がる草が柔らかに揺れ動いた。
(桜子は、いない……? もう鬼人と出会って、どこかへ行ってしまったのかしら……)
 風に吹かれる髪を押さえながら、千晴は辺りを見回した。

 さく、さく、さく。

 草を踏む音がして、千晴は背後を振り返った。

 若い男が立っていた。

 白髪に青白い肌、灰色の瞳。着物の丈は短く、腰帯に刀を差している。袴はゆとりのない形で、足首までぴたりと覆われている。全身黒ずくめの服装が、男の白さを際立たせていた。
(月と同じだわ。なんて美しい……)
 儚げな存在感が千晴の目を奪う。
「……人間?」
 男が呟いた。千晴は我に返った。
「わ、私は鬼咲千晴と申します。鬼目として本日鬼道入りしました」
「……鬼目……」
「あなたは、鬼人様ですか?」
「……そうだ」
「鬼目は鬼道入りし最初に出会った鬼人様に仕えます。私はあなた様にお仕え致します」
 気が急いて、やや早口になりながら千晴は伝えた。しくじってはならないという意識が強く出る。
 白髪の鬼人が灰色の目で千晴を見つめる。やがて静かに言った。
「必要ない、と言ったら?」
 動揺が走った。
(拒否された? 私が片眼の鬼目だから?)
 体が冷たくなり、すぐに熱くなる。何を言えばよいのか考えあぐねる。

――いったい誰が鬼目だと認めるのかしら?
 桜子に言われた。鬼人も自分を認めないのか。
――自分で、認めるわ。

 千晴は声を振り絞った。
「私は鬼目です。あなた様に仕えるのが私の役目です」
 恐れるな。自分に言い聞かせ、千晴は白髪の男を見つめ返した。
「……仕えて何をする?」
「それは……」
 鬼目は鬼人と出会い、自ずと役目を理解するもの。けれど千晴の中には何も浮かんでこない。
 鬼人は――フッと、千晴から視線を外す。やはりダメなのかと絶望した。しかしよく見ると、男は何かに気がついた風でどこかを見つめている。
 千晴は男の視線を追った。
 草原の一段高い場所から、せり出す岩の洞窟があった。
「何しに来た、ユウマ」
 男が言った。
 洞窟の中から、ユウマと呼ばれた男が姿を現わす。この男もまた同じ黒装束だ。金木犀に似た髪と瞳の色をしている。
「任務の前に軽く散歩だよ。お前の方こそ何をしているんだ、ゲッカ」
 ユウマが言った。
(ゲッカ? それが、この方の名前?)
 白髪の鬼人――ゲッカは警戒した様子でユウマを見つめる。反対に、ユウマという鬼人はにやりと笑みを浮かべた。
「その人間は?」
 ユウマは千晴を見た。
「鬼目だ」
 ゲッカが答える。
「鬼目? へぇ。確かに目は鬼目色だけど、どうして片側だけ?」
 隠すことはできない。千晴は正直に口を開く。
「これは生まれつきで。ですが私は鬼目として」
 千晴はハッとする。
 ユウマの両肩から、黒煙が上がっていた。目の錯覚かと瞬きをくり返したが、煤のように舞うそれは消えなかった。
(あれはなに……?)
 ユウマは笑顔のまま首を傾げる。
「鬼道入りと言ったっけ? 鬼目が彼の世から渡ってくること。本当に突然やって来るんだな。じゃあこの子はゲッカのものってわけだ」
 両肩の黒煙が量を増す。
 千晴の鼓動が速くなる。
(……何だろう。この人は危ない気がする……)
「どうかしたい?」
 ユウマが一歩近づいて来る。千晴は小さく後ずさりした。
「おや。鬼人が恐ろしいか?」
 ユウマは千晴に向けて手を伸ばした。だが、それ以上の接近をゲッカが阻んだ。
「やめろ、ユウマ。お前」
「しかしこの子は本当にお前のものかね?」
 ゲッカの言葉を遮り、ユウマは千晴を覗き込んだ。
「一番に鬼目を見つけた奴がその鬼目をもらうことができるんだろう? 俺の方が先にその子を見つけたと思わないか?」
「違うだろう。お前の気配は後から現れた」
「そうか。それは残念だ」
 はははは。
 何が愉快なのか、ユウマは声を上げて笑う。笑いの調子に合わせて黒煙は濃さを増し、肩から腕へと広がっていく。
 ぞわぞわとした恐怖が千晴の全身を這って回った。
「お前、祓いを受けていないのか」
 ゲッカが、腰の刀に手を添える。
「受けているぞ。受けているはずなんだがなぁ」
 ユウマもまったく同じだった。刀の柄を握る。そして舌なめずりをして言った。
「どうも月がきれいだと、暴れたくなるみたいでな」
 ちょうど流れてきた雲が、月の光を薄くした。
 二つの刀がぶつかり合う。いつ抜いたのか、千晴には見えなかった。気づけば、もといた場所から後退し地面に尻もちをついていた。腹に残る鈍い感覚に、ゲッカに押し退けられたのだと理解する。
 二人の鬼人は距離を取り、それから一気に間合いを詰めた。刀が激しくぶつかり合う。ユウマの動きに合わせて、体の黒煙も揺れ動く。
「なあゲッカ。お前はどうしたって純潔だよなぁ」
 斬りかかりながらユウマが尋ねる。
「それはやはりセッキだからなのか?」
「関係ない」
 攻めているのは明らかにユウマの方だ。
「どうした? 俺を斬らないのか? ゲッカ」
「……愚問だ」
 受け止めた刀をゲッカが押し返す。たたらを踏んだユウマの前から、ゲッカが消える。
 ゲッカは背後に回り込んでいた。
(あの人、斬られる……!)
 千晴は息をのんだ。
 けれどゲッカは刀ではなく、手刀でユウマの首に打撃を与えた。
「がっ……」
 短く喘ぎ、ユウマは草の中へ倒れ込んだ。

 草原に風が吹く。

 ゲッカは刀を鞘に収め、千晴の方へ振り向いた。
「ケガはないか?」
「は、はいっ」
 千晴は立ち上がり、着物についた草を払った。そうしてそっと、倒れたユウマを確認する。黒煙はだいぶ色を薄めたが、まだ両肩から立ち上っている。
 ゲッカはしゃがみ込むと、ユウマの刀も鞘に収めた。
「気を失っているだけだ」
「……この黒い煙は何ですか?」
「……お前、邪気が見えるのか?」
 ゲッカが驚いた顔で千晴を仰ぎ見る。
「えっ?」
「人間に邪気は見えないと聞いた。なぜ見える。鬼目には見えるのか?」
「わ、わかりません。あの、邪気とは、鬼人様に宿る力のことですよね?」
 鬼人には生まれながらに邪気が宿っており、これが増殖すると凄まじい力を発揮することができる。が、代償として自我を失い暴れ狂う悪鬼に堕ちるという。そのため鬼人は邪気を祓う清めの儀式を受けなければならない。鬼人の特性として学んだことだ。
 しかし、鬼目に邪気が見えるという話は聞いたことがない。
「この黒い煙が邪気なのですか?」
「そうだ。今も見えているのか?」
「は、はい。うっすらとですが」
「……俺も目はいい方だが、これが見えるとは相当だな」
 千晴はゲッカの全身にも目を走らせたが、邪気らしきものは見えない。
「……邪気は鬼人を悪鬼に変えると聞きました。この方は、大丈夫なのですか……?」
「祓い場へ連れて行く。……行くぞ」
「えっ」
「俺に仕えるんだろう?」
「は、はい。でも、その、よろしいのですか?」
「鬼人は出会った鬼目を引き受けなければならない。これを破ると面倒そうだからな」
(面倒……)
 言葉は気になったが行き場を失うよりはいい。千晴は姿勢を正した。
「あの、あなたはゲッカ様でよろしいでしょうか?」
「ああ」
「もしよろしければ、どういう字を書くのかお聞きしてもよろしいですか?」
「……なぜそんなことを聞く?」
「あ、あなたは私の主ですから、知っておきたくて」

「……月の花と書いて月花だ」

 風が吹き、空の雲が流れた。
 露わになった月の光が月花の白髪を照らした。眩いほどの白だった。
(きれい……本当に月の花みたい……)
 草原に咲く白い花のよう。優美な姿に、千晴は心の中でため息を漏らした。
「これ、持ってろ」
 月花がユウマの刀を突き出す。受け取った千晴はズシリとした重さに驚き、そしてあることを思い出した。
(刀と、黒い装束……もしかして……)
 月花がユウマを担ぎ上げる。千晴は尋ねた。
「月花様は、もしや夜叉隊の方なのですか?」
「ああ」
 千晴はごくりと唾を飲んだ。
(実際に魔物の討伐を行うという夜叉隊。鬼人の精鋭集団と聞いたわ)
 異界は鬼人の国。そこにはごく普通に生活を送る鬼人もいる。夜叉隊は魔物退治のために結成された専門組織だ。
「行くぞ」
 月花が歩き出す。千晴は後ろに続いた。