屋敷の裏に広がる森は鬼咲家の所有する土地だ。四月の夜。森へ続く一本道に提灯が揺れる。先頭を行くのは当主である伯父と祖母、次いで伯母、後ろに千晴の父と母、そして桜子、千晴の順。
鬼目の生まれる家は鬼咲家だけではないが、全国に数えるほどしか存在せず、その中で鬼目が生まれるかどうかは誰にもわからない。三年連続で生まれたという家がああれば、一度生まれただけで以降は途絶えたという家もある。今回鬼咲家に鬼目が生まれたのは、実に六十年ぶりのことだった。
――二人同時に鬼目が生まれたとなれば、さぞ名誉なことだったろうに。
千晴が片眼であると知った人は誰も残念だと嘆いた。特に祖母は、千晴を半端な鬼目だと言って認めようとしなかった。
「片眼だなんて気味の悪い。有希枝さん、あんたバチ当たりな血でも引いていないだろうね?」
産後浴びせられた暴言は千晴の母の心を蝕んだ。父は祖母につかみかかる勢いで怒ったが、祖母は素知らぬ顔。そんな両者の間に入ったのが当時の鬼咲家当主、祖父だった。
「大馬鹿者! この子は立派な鬼目ではないか!」
祖父は祖母を一喝し、千晴を鬼目として育てると宣言する。祖父は優しく愛情深い人だった。
「千晴の目にはきっと意味がある。顔を上げなさい。大丈夫だ」
そう言って祖父は千晴を励まし続けた。千晴が十歳の時に病気で亡くなったが、その遺言にもしっかりと千晴を鬼道入りさせるように記されていた。
けれど祖父亡き後の鬼咲家は、桜子の父親である伯父と祖母が中心となり、千晴の味方をする者は減っていった。気性の洗い祖母を気にしてのことだろう。千晴の味方は両親だけになった。
祖母は桜子を蝶よ花よと育てる代わりに千晴には厳しく接した。祖父の遺言に従い鬼目として接する一方、家の手伝いを強い、桜子と同等の贅沢を許さなかった。両親は千晴をかばい何度も抗議したが、祖母の態度は一層に酷くなるばかりだった。
桜子と千晴は地元の小中学校に通ったが、学校で特別扱いされるのも桜子だけだった。千晴は時に腫れ物のように扱われ、出来損ないなどといった陰口を叩かれた。それでも側にいてくれた友人はいたので通い続けることができ、中学を卒業すると、二人は進学せずに屋敷の中で鬼目修行に入った。修行は異界について学び教養を深めること。とは言え、異界の文化はこの世が土台となっている。誰の目に留まっても恥ずかしくない所作や教養を学ぶ日々だった。
千晴は懸命に修行に努めた。例え片眼の鬼目でも、鬼人の目に留まるように。
(何でもこなせたのは、桜子の方だったけど……)
桜子が特別なのは鬼目だからという理由だけでなく、本人が有能であったためだ。勉強も運動も作法も芸術も、千晴は何一つ桜子に敵わなかった。器量のいい桜子と比較しては余計に惨めになる。気持ちに区切りをつけ、千晴は今夜の鬼道入りまでを真摯に過ごした。
提灯の火が止まる。
現れたのは石を積み上げた門だ。鬼道入りの晩にのみ開く異界への扉。門の先に明かりが届かないのは、そこに見えない結界があるためで、吸い込まれそうな闇だけが存在している。
夜空に満月が浮かぶ。
月に照らされながら、千晴と桜子は並んで前に出た。
(ここを通れば、異界に……)
緊張に喉が鳴った。そんな千晴を見て、桜子が小さな笑いをこぼす。
「大丈夫よ。もし異界へ渡れなくても、お父様が使用人として働かせてくれるから」
「そんなことは……」
「ないと言い切れる? 半端な鬼目なのに?」
桜子がくすりと口元を歪ませる。桜子もまた千晴を蔑んできた。
「千晴を鬼目と言ったのはおじい様。でもおじい様は鬼目ではないし鬼人様でもない。本物の鬼目かどうかなんてわからない。それならいったい誰が鬼目だと認めるのかしら?」
祖父がいなければ千晴は鬼目として扱われなかった。祖父の亡き後は、両親が鬼目だと認めてくれた。異界へ渡ればその両親もいない。では鬼人が認めてくれるのか、その確証はない。
それなら。
「……、自分で、認めるわ」
信じられるのは自分の身ひとつ。千晴は言葉を振り絞った。
気に入らないと、桜子は顔を歪ませる。
「先に行くわね。あんたが拒まれて、門が閉じたら困るもの」
桜子は門へ近づき振り返った。
「鬼目桜子、鬼人様のもとへ参ります」
花が咲くような笑顔だった。堂々と宣言し、桜子は門をくぐった。真っ白な着物はすぐに闇に溶け見えなくなった。
(次は私の番……)
震える両手を握りしめ、千晴も門に近づいた。
大きく息を吸い、静かに吐いて、ゆっくりと振り返る。父と母の、緊張と心配に満ちた顔が見えた瞬間に、あらゆる感情がこみ上げた。
「鬼目千晴、鬼人様のもとへ参ります」
臆する姿は見せてはならない。千晴は感情をのみ込んだ。前を向く最後まで笑顔のままで、胸を張って門をくぐる。
自分の体が闇に溶けるのがわかった。真っ暗闇で何も見えなくなる。足の感覚が消えて意識だけが前に進んでいく。
(……大丈夫、よね?)
このまま意識も消えてしまうのではないか。自分は異界にたどり着けないのではないか。拒絶されているのではないか。不安が押し寄せる。
(この先で最初に出会った鬼人が仕える相手。出会った瞬間に、鬼目は己の役目を理解する)
鬼目の啓示を心に唱え不安を掻き消す。
(私は鬼目。最初に出会った鬼人に仕え役目を果たす。大丈夫。必ずできる。私は鬼目だから――)
暗闇の中で、千晴は一度目を閉じた。そして開く。
黒い霧が晴れていく。徐々に視界が開け、不意に風が吹いた。
鬼目の生まれる家は鬼咲家だけではないが、全国に数えるほどしか存在せず、その中で鬼目が生まれるかどうかは誰にもわからない。三年連続で生まれたという家がああれば、一度生まれただけで以降は途絶えたという家もある。今回鬼咲家に鬼目が生まれたのは、実に六十年ぶりのことだった。
――二人同時に鬼目が生まれたとなれば、さぞ名誉なことだったろうに。
千晴が片眼であると知った人は誰も残念だと嘆いた。特に祖母は、千晴を半端な鬼目だと言って認めようとしなかった。
「片眼だなんて気味の悪い。有希枝さん、あんたバチ当たりな血でも引いていないだろうね?」
産後浴びせられた暴言は千晴の母の心を蝕んだ。父は祖母につかみかかる勢いで怒ったが、祖母は素知らぬ顔。そんな両者の間に入ったのが当時の鬼咲家当主、祖父だった。
「大馬鹿者! この子は立派な鬼目ではないか!」
祖父は祖母を一喝し、千晴を鬼目として育てると宣言する。祖父は優しく愛情深い人だった。
「千晴の目にはきっと意味がある。顔を上げなさい。大丈夫だ」
そう言って祖父は千晴を励まし続けた。千晴が十歳の時に病気で亡くなったが、その遺言にもしっかりと千晴を鬼道入りさせるように記されていた。
けれど祖父亡き後の鬼咲家は、桜子の父親である伯父と祖母が中心となり、千晴の味方をする者は減っていった。気性の洗い祖母を気にしてのことだろう。千晴の味方は両親だけになった。
祖母は桜子を蝶よ花よと育てる代わりに千晴には厳しく接した。祖父の遺言に従い鬼目として接する一方、家の手伝いを強い、桜子と同等の贅沢を許さなかった。両親は千晴をかばい何度も抗議したが、祖母の態度は一層に酷くなるばかりだった。
桜子と千晴は地元の小中学校に通ったが、学校で特別扱いされるのも桜子だけだった。千晴は時に腫れ物のように扱われ、出来損ないなどといった陰口を叩かれた。それでも側にいてくれた友人はいたので通い続けることができ、中学を卒業すると、二人は進学せずに屋敷の中で鬼目修行に入った。修行は異界について学び教養を深めること。とは言え、異界の文化はこの世が土台となっている。誰の目に留まっても恥ずかしくない所作や教養を学ぶ日々だった。
千晴は懸命に修行に努めた。例え片眼の鬼目でも、鬼人の目に留まるように。
(何でもこなせたのは、桜子の方だったけど……)
桜子が特別なのは鬼目だからという理由だけでなく、本人が有能であったためだ。勉強も運動も作法も芸術も、千晴は何一つ桜子に敵わなかった。器量のいい桜子と比較しては余計に惨めになる。気持ちに区切りをつけ、千晴は今夜の鬼道入りまでを真摯に過ごした。
提灯の火が止まる。
現れたのは石を積み上げた門だ。鬼道入りの晩にのみ開く異界への扉。門の先に明かりが届かないのは、そこに見えない結界があるためで、吸い込まれそうな闇だけが存在している。
夜空に満月が浮かぶ。
月に照らされながら、千晴と桜子は並んで前に出た。
(ここを通れば、異界に……)
緊張に喉が鳴った。そんな千晴を見て、桜子が小さな笑いをこぼす。
「大丈夫よ。もし異界へ渡れなくても、お父様が使用人として働かせてくれるから」
「そんなことは……」
「ないと言い切れる? 半端な鬼目なのに?」
桜子がくすりと口元を歪ませる。桜子もまた千晴を蔑んできた。
「千晴を鬼目と言ったのはおじい様。でもおじい様は鬼目ではないし鬼人様でもない。本物の鬼目かどうかなんてわからない。それならいったい誰が鬼目だと認めるのかしら?」
祖父がいなければ千晴は鬼目として扱われなかった。祖父の亡き後は、両親が鬼目だと認めてくれた。異界へ渡ればその両親もいない。では鬼人が認めてくれるのか、その確証はない。
それなら。
「……、自分で、認めるわ」
信じられるのは自分の身ひとつ。千晴は言葉を振り絞った。
気に入らないと、桜子は顔を歪ませる。
「先に行くわね。あんたが拒まれて、門が閉じたら困るもの」
桜子は門へ近づき振り返った。
「鬼目桜子、鬼人様のもとへ参ります」
花が咲くような笑顔だった。堂々と宣言し、桜子は門をくぐった。真っ白な着物はすぐに闇に溶け見えなくなった。
(次は私の番……)
震える両手を握りしめ、千晴も門に近づいた。
大きく息を吸い、静かに吐いて、ゆっくりと振り返る。父と母の、緊張と心配に満ちた顔が見えた瞬間に、あらゆる感情がこみ上げた。
「鬼目千晴、鬼人様のもとへ参ります」
臆する姿は見せてはならない。千晴は感情をのみ込んだ。前を向く最後まで笑顔のままで、胸を張って門をくぐる。
自分の体が闇に溶けるのがわかった。真っ暗闇で何も見えなくなる。足の感覚が消えて意識だけが前に進んでいく。
(……大丈夫、よね?)
このまま意識も消えてしまうのではないか。自分は異界にたどり着けないのではないか。拒絶されているのではないか。不安が押し寄せる。
(この先で最初に出会った鬼人が仕える相手。出会った瞬間に、鬼目は己の役目を理解する)
鬼目の啓示を心に唱え不安を掻き消す。
(私は鬼目。最初に出会った鬼人に仕え役目を果たす。大丈夫。必ずできる。私は鬼目だから――)
暗闇の中で、千晴は一度目を閉じた。そして開く。
黒い霧が晴れていく。徐々に視界が開け、不意に風が吹いた。
