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 二限と三限の中休み、三限と四限の中休みに小野寺君は保健室に姿を見せるようになった。たった数分で大した会話はできないが、私の言うとおりに彼はまず佐倉さんと挨拶を交わすことからはじめた。
 佐倉さんは当然動かしているペンを止めない。それでも、小野寺君はめげずにいろんな話をして、あらゆる話題を振ってみせる。最近読んだ本だとか、最近買ったものだとか、最近ハマっている食べ物だとか、近況報告を大袈裟に話す。佐倉さんの声が聞ける日は少ないが、たまに口角が緩む時はあった。少しずつではあるが、小野寺君の健気な優しさに佐倉さんの冷えた心が溶けつつあるのは目に見えてわかった。

 佐倉さんが保健師登校をするようになって二週間が経とうとしていた日だった。
 窓から外を覗けば、久しぶりにしとしとと雨が降っていた。雨雲の薄暗さと同化するようにいつも元気に登場していた小野寺君が今日は珍しく落ち着いていた。それどころか、憂愁さを纏っている。

 「たまにさ、朝起きた時、何も変わってないって錯覚する日があるんだ」
 小野寺君は肘をつきながら、気だるげにポツポツと声を落とす。

 「何もかも変わったのに、一番つらかった時期も乗り越えたのに、それ全部忘れて目が覚める日がある。違うだろって思ったときに一気に思い出してマジで死にたくなる」
 小野寺君は重たいため息を吐いた。

 雨は湿気だけでなく、憂愁な色味もお気持ち程度に持ってくる。

 「……わかる」
 優しい声がリンと鳴った。

 佐倉さんを見ると、彼女は向かい合わせで勝手に座る小野寺君をまっすぐと見つめていた。視線が交じる。

 「私もたまにあるよ」
 頭を撫でられているような優しい口調に、小野寺君が半開きの口で固まる。

 「死にたくなるよね。朝が来ると必ず覚める夢なんて見せなくていいのにね」

 共感を投げかけ、また課題に視線を落とした。佐倉さんのペンが円滑に動きはじめる。
 小野寺君が静かに私へと視線を飛ばす。初めて口を利いてくれた嬉しさと、自分の苦しみにただ共感してくれる人がいるという安堵感で、彼の目は水分を纏っていた。唇が僅かに震えている。
 佐倉さんの何気ない言葉は、小野寺君にとって綻びが顔に出るほど情感に訴えかけられたのだとわかる。

 「小野寺君、もう少しでチャイム鳴りますよ」
 「うわっ、マジだ!じゃあな、佐倉!」
 いつものように慌ただしく保健室を出ようとする小野寺君の背中に、佐倉さんの小さな声が追いかける。

 「またね」
 案の定、小野寺君は戸惑い固まっている。

 「小野寺君、早く行きなさい」
 「あ、はい。……佐倉、また明日」
 小野寺君は覚束ない足取りで保健室を出て行った。いつものバタバタと走って教室に戻る足音が今日は聴こえなかった。

 「先生、課題です。終わりました」
 佐倉さんは解き終わった課題を私に提出する。

 「……もしかして、結構前に終わっていました?」
 今日の課題は準備不足であまり用意できなかったと佐倉さんの担任が言っていたため、普段から発揮している佐倉さんの実力だと四限目に入る前に終わってしまうだろうと想定していた。案の定、彼女は四限目がはじまる直前に提出した。ただ、小野寺君が帰ったあとに。

 「小野寺君の話を聞くのは楽しいです。昔も、今も変わっていないです。ずっと喋っていて、話している間に話題があちこち飛んで、本人ですら今なんの話しているのかわからなくなっているところとか」
 「そうね」
 同じ空間で聞いている私も小野寺君の一人喋りについつい笑ってしまう日があった。思い当たる節がありすぎて小さく笑みをこぼすと、佐倉さんも釣られて笑う。

 「小野寺君を怖いと思ったことはありません。服装とか髪色が変わっても、変わらないものがあることは知っているから」
 「うん」
 「もちろん怒ってもいません。ただ、こんな形で小野寺君が私を覚えていてくれたと知るきっかけになったことが嫌だなって思っただけです。今までで小野寺君を嫌ったことは一度もないです」
 語尾が僅かに震えていた。なんでもないのだと取り繕いたくて喉を絞めている。そのせいで声が小さいのだ。握りしめた拳は爪が皮膚に食い込むほどに強い。

 今、佐倉さんは必死に話そうとしている。今なら本人の気持ちが聞けるかもしれない。
 依田さんの言葉が呪縛になって、もたもたするなと私を急かす。手遅れになっていいのかと脅す。彼女の表情や言葉が頭の中で何度も反芻される。
 模範にならないといけない教師が一生徒の言動に一喜一憂している。もうすでに気持ちで負けている。認めざるを得ない。私は、依田さんに怯えているのだ。

 「先生」

 伏せがちの目を上げると、佐倉さんが私を見ていた。

 「まだ、ここにいてもいいですか」
 「……え」
 「もう少しだけ保健室にいたいです」
 顔色を窺うような不安げな顔で佐倉さんは想いを口にした。少しずつでも佐倉さんの心は変化しているんだ。

 私は慌てて点頭する。
 「もちろんです」

 人の意見に耳を傾けすぎると、どうしても心は揺れてしまう。自分の言動に迷いが生じ、矛盾や焦りが生まれる。それでは依田さんの思うツボだ。
 私には審美眼なんてものはない。誰もそんなものは持っていない。だからこそよそ見をしてはいけないのだ。目の前に立っている、その人だけを見る。
 私は簡単に揺られてはいけない。彼女たち、生徒の前では揺れてはいけない。

 「なあ、先生」
 佐倉さんが帰ったあと、昼休憩にまた小野寺君が保健室に顔を出した。回る椅子に座ってクルクル回りながら、所在なさげに周囲を見渡す。

 「なんですか」
 「俺が出会った時の佐倉って、いつも本持ち歩いてたんだよね」
 「そうなんですか?」
 「うん。いつも本ばっか読んでてさ、移動教室の時にペンケース忘れるのに小説は持ってくるようなちょっと抜けた話とかしてくれてさ、家に一人でいることが多かった佐倉にとって本は友達みたいな特別な物だったんだよ」
 「でも、今は持っていない」

 中学時代から図書委員を務めているくらいだから、相当な本好きだったのだろう。実際肌身離さず持ち歩くほど、佐倉さんにとって本の存在は大きかった。なのに、本好きな自分を裏切ってまで本を破いたのはなぜだろう。

 「いつから本を読まなくなったのでしょうか」

 保健室で課題や自習をしている時も、佐倉さんの鞄から本が出てきたことは一度もなかった。小野寺君が最近読んだ本を話題に出しても、食いついたりもしなかった。
 熱中していたものに対して突然冷めてしまう人もいるが、佐倉さんの場合本の存在は物心ついた頃からある幼馴染のような特別枠だ。歳をどれだけ重ねてもつかず離れずの関係はそう簡単に切れない。

 すると、小野寺君は天を仰いだ。
 「読めなくなったんじゃないか、って俺は思ってる」
 「……何か思い当たる節でも?」
 「いや、ないんだけどだ。俺、母さんの闘病中に花が嫌いになったことがあるんだ。母さんと働いている職場の女とか、上司っぽいおっさんとか、めったに会わない親戚とかが、それっぽい花選んで見舞いに来るんだ。花持って現れたらさ、なんか全員いい人そうに見えんじゃん?百均のシンプルな花瓶に溢れそうになっている見舞い花を見た時、吐きそうになった。しばらくは花を踏み荒らしてストレス発散してた」
 こうやって自虐のように話せるようになるまで、どれだけの苦悩があったのだろうか。そんな小野寺君の隣には誰かいてくれたのだろうか。

 「だからさ、佐倉も俺と同じで本を読めなくなった過去があるんだと思う。本気で好きなものこそ傷つけてしまうんだ。人間ってバカだから」
 ついでに言うと俺もバカだしと付言して、自嘲交じりの笑みを吐く。

 「小野寺君は馬鹿ではありません。思い立ったら闇雲にでも走ってしまう行動力がうまく作用せずに、空騒ぎしてしまっているだけです」
 「先生、それを向こう見ずのバカって言うんすよ」
 「……フォローは難しいですね」
 「そんなことしなくていいから」
 小野寺君が吹き出すように笑った。

 笑う時に出る目尻のシワを密かに見つめていると、ふと依田さんが去り際に言い残した言葉を思い出した。

 「小野寺君は、佐倉さんが書いた読書感想文読んだことがありますか?」
 「読書感想文?知らないけど。ていうか、読書感想文なんて高校の課題で出なくね?」
 「そうなんですよね」
 じゃあ、依田さんの言っていた読書感想文というのは何だったのだろうか。

 沈思している横で、小野寺君はスマホを操作しはじめる。そして「あ」と声を上げた。
 「読書感想文コンクールじゃね?ほらっ」
 小野寺君はスマホの画面を私に突き出し、読書感想文全国コンクールと大きく表記されたサイトを見せた。対象は青少年で、学校を通じて応募できる。

 「そういえば、毎年古典の葛西が読書感想文コンクールに興味がある生徒がいたら声をかけてくださいとかなんとか授業中に言ってたの思い出したわ」

 本校は課題として読書感想文を書くことを推奨していないが、葛西先生筆頭に毎年興味がある生徒や文章力のある生徒に声をかけ、読書感想文コンクールの参加を募っていた。おそらく、それに佐倉さんも参加したのだろう。

 「まぁ図書委員やってたらみんな一度は葛西に捕まるだろうな。でも、なんで今さら読書感想文?」
 「少し気になることがありまして……教えてくれてありがとう、小野寺君」
 今度、葛西先生に会ったら訊いてみよう。

 淹れた紅茶を飲み干してから立ち上がると、私の動向に合わせ視線が付いてきているのに気づく。振り返れば、案の定すぐに小野寺君と目が合った。

 「どうかしましたか?」
 神妙な面持ちで見つめる小野寺君に首を傾ける。

 「こんなこと言うのはよくないってわかってるんだけどさ、佐倉が問題起こしてくれたから俺はまた佐倉と話す勇気が持てたんだって思うんだ」
 だからさ、とつづける。
 「俺は、佐倉が悪いことしたとは思ってない」

 私たちは大人であり、教師だから、佐倉さんの間違いを正さないといけない。駄目なことは駄目だと叱らないといけない。すべてを肯定してあげることは叶わない。だからこそ、小野寺君がいてくれてよかったと思う。私たちも、彼に救われている。

 「これって変だよな」
 「全然変じゃないです」
 言下に否定すると、小野寺君はその速度に目を見張る。

 「小野寺君が毎日保健室に来てくれるおかげで佐倉さんの表情も徐々に柔らかくなっています」
 ならよかったと安堵に肩を下ろす。

 「先生に言われてから、どうやったら佐倉のこと救えるんだろうってずっと考えてた。俺にできることってなんだろうって」
 私の論じた言葉を素直に受け止め、自分なりに咀嚼しようとしている。考える努力を怠らない人は強い。

 「そんな時、依田に言われたんだ」
 「え」
 「佐倉は今自分が孤独だって思い込んで塞いでいるから佐倉を一人にしないほうがいいと思うって。その言葉で、悩む時間あるならとりあえず側にいるべきだって気づかされたんだ」
 「依田さんが、そんなことを?」
 信じられないと言いたげな顔でもしてしまったのだろう。小野寺君はクスッと笑う。

 「アイツちょっと変だよな。依田には、俺のだっせえプライドとか本当は臆病なとことか、全部見透かされている気がする」
 小野寺君の言葉にひどく共感を覚える。

 私たちはことごとく依田さんの手のひらで踊らされているようだ。彼女にとってこれまでの経過は想定内であるかのような悠々とした態度や余裕の笑みがずっと脳裏に貼りついている。先手をずっと読まれている恐怖が纏わりついている。

 「依田って良い奴なのか悪い奴なのかハッキリしないとこが気味悪いけど、間違ったことは言ってないんだよな」

 そう言い残す小野寺君をいつどんなふうに見送ったのか憶えていなかった。
 気づくと、彼は保健室からいなくなっていて、昼休憩が終わるチャイムがいつもより高く鳴り響いていた。