傷を舐めてもおいしくない

 *

 あの一本の電話を境に、佐倉一花は学校を休んでいる。

 話を聞きに担任が何度か自宅を訪れたようだが、佐倉さんは部屋に閉じ籠ったまま顔を見せてはくれなかったらしい。
 その後、教員と母親の間で何度か話し合いを重ね(私も同席した)、佐倉さんは保健室登校をすることになった。問題を起こした後の教室に入るのは、今の佐倉さんの精神状態では厳しいという判断だった。行ける時に行ける範囲で学校に登校し、徐々に精神面や身体面を強化させることが目的だ。今はまだ周囲の好奇の目も新しい。もう少し日が経てば、三年生徒は本格的に受験勉強に取り組み、他の生徒のことなど気に留めなくなるだろう。
 佐倉さんは成績も上位で、内申点も高い。おそらく受験が迫る三年生というプレッシャーやストレス、緊張で癇癪を起してしまったのだろう。今の彼女には体を休ませることが先決だ。きっとまた普通に学校に登校できる日が来る。彼女は優秀だから。
 そう教頭先生は言って、保健室に来たら気にかけるようにと私に釘を刺した。
 いまだ部屋に籠り、まともに話も聞けていないというのに、どうして彼女の起こした問題が精神面からくる癇癪だと思ったのだろうと、私は不思議でたまらなかった。
 悶々としながら備品管理をしていると、保健室の扉を叩く音が響く。今は二限の授業の真っ只中だった。
 返事をすると、扉が恐る恐ると開く。現れたのは佐倉さんだった。

 「佐倉さん、おはようございます。月曜日から登校してくるなんて偉いですね」

 内心驚いていたが、知らぬ間に染みついた素知らぬ対応が私に平然さと冷静さを繕わせる。さぁさぁと急かすような手招きはしない。誰の手も頼らず、佐倉さんの意思だけでここまで己を動かしてきたのだと自分の強さに気づいてほしかったから。
 佐倉さんがゆっくりと保健室に足を踏み入れる。

 「どこで勉強しますか?こっちの机使ってもいいですし、一人の世界に入りたかったらカーテン閉めてベッドで勉強してもいいですよ」

 ベッドがすべて体調不良者で埋まることは、感染症が流行りだした時期くらいしか起きない。
 私の提案に、佐倉さんはしばらく沈思する。

 「じゃあ、机で」
 「はい」
 四つ席の椅子に腰かけると、教材を鞄から取り出す。

 「担任の先生は今日登校していること知っていますか?」
 首を左右に振る。

 「課題が出されると思うので、私が先生に一報入れても大丈夫ですか?」
 課題を提出しない限り登校して来ても出席日数には加算されないことは佐倉さんの耳にも伝わっているはずだ。ただ単に職員室に行きにくかったのだろうという安易な思考で融通を利かせてみたら、彼女はバツが悪そうに唇を噛んでみせた。

 「顔を合わせたくないのですね」
 目を見張り、顔を上げる。その反応は図星を意味する。

 「わかりました。じゃあ今日は、自分のやりたいことをやりましょう。疲れたら、ベッドで休んでも大丈夫ですから」

 社会人として基本の報連相を無視することは、周囲からの信頼を損なってしまうことに繋がると十分わかっていたが、佐倉さんの気持ちを優先することのほうが重要だと判断した。これが、今の佐倉さんにとって最善だと信じて動く。

 「あの、先生」
 「はい」
 「小野寺君は、どうしていますか?」
 佐倉さんの口から小野寺君の名前が出たことに、山の澄んだ空気が肺中に巡るほどの安堵感を覚える。

 「謹慎処分はすぐに解かれ、今は普通に教室で授業を受けていますよ」
 「……そうですか」
 「小野寺君、佐倉さんのこと心配していました。保健室に来たら教えてほしいと懇願されています。会ってみませんか?」

 フルフル、とまた首を左右に振って拒否する。だが、さっきの会いたくないという確かな拒絶とは違って、どちらかと言えば、合わせる顔がないという意味合いが含まれたような不安が窺える。

 「今の自分は昔と随分変わってしまったからもうこんな自分とは話したくないのではないかと勇気が出ず、なかなか話しかけられなかったのだと小野寺君が言っていました。佐倉さんと向き合うのが怖かったんだと思います」
 眉尻を下げたまま、佐倉さんは考え込むように俯いてしまう。

 「小野寺君が今の佐倉さんをわかっていなかったように、佐倉さんも今の小野寺君をわかっていないのではないですか?だからこそ、彼は佐倉さんのことをもう一度わかりたいと思っています。当然、佐倉さんがそれを拒否しても誰も責めません。ただ、彼が救いたいと思って動いたことは、彼なりの優しさであり、佐倉さんに向けた誠意だったと思って、どうか信じて受け取ってほしいのです」

 小野寺君の言動は、エゴであり偽善だったかもしれない。それでも、その中に半分の優しさが入っていれば十分なのではないだろうか。

 「もちろん今すぐに答えを出さなくてもいいです。だけど、考えてほしいです」

 佐倉さんにどう届いたかはわからない。
 うんともすんとも言わず、彼女は何事もなかったかのように教材を開きはじめてしまう。殻に閉じこもった人の心を開くことは難しい。だからこそ、心配してくれている人がいるってことをちゃんと知っていてほしい。今はただそれだけでいいのだ。
 ゆっくり、慎重に。焦っては駄目だ。骨が折れることでも、ここにいる限り私は最善を尽くさないといけない。

 「好きにしてくれていいです」
 気持ちを切り替えてパソコンに向き合った時、佐倉さんが教材に向かって声を落とした。エアコンの運転音と混じり、危うく聞き逃してしまいそうな細い声だったが、なんとか拾えた。

 「保健室は私の場所じゃないし、来たい時に来たらいいと思います」
 ぶっきらぼうに言い放つ。

 これが佐倉さんなりの今出せる精一杯の歩み方なのだろう。頬が弛緩し、空気がほぐれた。
 その後はお互いに何も話さず、ただ目の前のできることに取り組んだ。授業と授業の間に挟まれる中休みでも佐倉さんはひたすら机にかじりつき勉強に集中していた。心配になるくらいののめり込みっぷりに、わざと熱めのお湯で作った緑茶を差し出し婉曲に休憩を促がしてみるものの、それでも佐倉さんのペンを持つ手は止まることはなかった。
 やがて昼休憩に入り、寝不足だという生徒が保健室に現れる。
 佐倉さんはいそいそと帰り支度をはじめ、「今日はこれで帰ります」と言って颯爽と帰路についた。
 こんな風に、二限頃に登校して昼休憩のチャイムと同時に保健室を出るような日が数日つづいた。
 本人の意志に反してしまうが、このまま誰にも報告せずにひっそりと登校しつづけるのは心配している佐倉さんの担任や他の先生方に申し訳が立たないので、午前中だけ登校している旨は伝えた。審議の結果、今は本人の意志を尊重し、私のほうから課題を渡すことで折り合いがつく。

 「────これ課題です。お願いします」
 今日も今日とて佐倉さんとは大した会話をすることもなく、彼女は解き終わった課題を私に提出する。
 なかなかの量の課題を、毎度佐倉さんは二時間で解き終わってしまう。成績優秀と言われていたとおりの実力だ。出席日数なんかで入試を受けられないってことになるのは避けたいと言っていた先生たちの声を思い出し納得する。

 「じゃあ帰ります」

 最近では課題を提出したらそそくさと保健室を出て行ってしまうので、どこか名残惜しい。

 「気をつけてくださいね」

 体は扉へと向けたまま、頭だけを捻り会釈する。微笑みで返すと、正面へ向き直り躊躇なく保健室の扉を開ける。その時、「うおっ」と驚く声が鼓膜に飛び込んでくる。小野寺君だった。

 「あ、佐倉。久しぶり」
 小野寺君のぎこちない挨拶が気まずい空気感を連れてくる。

 「もう帰るのか?」
 「……ん」
 「そ、そっか……気をつけてな」
 佐倉さんは「ん」の一言だけを発し、小野寺君の横を通り過ぎて行ってしまう。

 「またタイミング合わなかったですね」
 佐倉さんに出したカップを片しながら小野寺君に声をかける。所在なさげに立ち尽くし、彼女の背中を追う彼の目がなんとも切ない。

 「先生、昼休憩までなんとか足止めしてくれよ。今日だって、漏れそうだって嘘ついてチャイム鳴る前に教室出て、廊下ダッシュしてきたっていうのに、それでも間に合わねえとかもうサボるしかねーじゃん」
 佐倉さんが保健室登校をするようになってから、小野寺君は昼休憩に毎日のように保健室に現れるが、タイミングが合わずにずっと空振りで終わっていた。

 嘆きながら保健室に入って来ると、力尽きたようにベッドに寝転がる。唸り声を上げながら、もっと早く廊下を走らなかった自分を悔いている。

 「廊下を走るような元気のいい生徒はベッドに横にならないでください」
 「心が泣いてるんすよー」
 わざとらしい泣き真似で顔を覆う。

 「中休みに来たらどうですか?」
 昼休憩だけでなく、三限前の中休みでもどの時間帯でも保健室は開放している。別に昼休憩に限らなくてもいいのだ。

 「たった数分で何かを話せる自信がない」
 「何も特別なことは話さなくていいんですよ。笑顔で挨拶をするだけでも相手の記憶には残ります。ゆっくり距離を縮めてみてはどうですか」
 「あのさ、先生」
 小野寺君は上半身を起こし、私を見据える。

 「俺がゆっくりしても、佐倉はゆっくりしないかもしれないだろ?」
 ハッとした。

 デリケートな問題こそゆっくり慎重に行うべきだと思う。うっかり逆鱗に触れたらもう取り戻せないからだ。でも、ゆっくりしている間に失っていくものもあった。

 「踏み込んで間違えたとしてもさ、同じ学校にいるまでは仲直りできるかもしれないだろ。ゆっくりして何もできずに卒業するほうが後悔する。俺は、佐倉ともっと話したいんだよ」

 彼らは不思議だ。
 突いたら壊れてしまいそうなほど脆いと感じた日もあったのに、どうしてそんなに立ち直りが早いんだと感心さえ覚える日もある。
 彼らを壊し、また彼らを突き動かしているのは何なのだろうか。私は、そんな彼らに何をしてあげられるのだろうか。

 「でも、先生の言うとおり、会えないなら会える時間にやれることだけでもやるしかないよな。よっしゃ!また明日もリベンジするから、先生も仲介役頼むな!」
 つい数秒前まで萎れていた小野寺君だが、私が瞬きしたその一瞬で元気を取り戻していた。すでに明日の話をしている。

 肥料や水をやっても、日光を浴びせても萎れた花が立つことはなく、私は同じ部屋で朽ちていくのを待った。それでも、人は立つ。花が枯れても、私は立っている。私が今もまだこうして立っていられるのは、彼らのエネルギーに救われているからだろうか。
 小野寺君は、犬のように部屋中を駆け回ったかと思うと、こんな小さな空間では飽き足らずに保健室を飛び出して行ってしまった。バタバタと慌ただしい足音が遠ざかっていく。

 ふと目を遣った先は、体調不良で保健室を訪れた際に書く記録紙だった。スペースにはもう空きがないことに気づく。
 生徒の名前で埋め尽くされた記録紙を手に取り、過去の記録を保管しているファイルに挟んだ。記録は三年保管で、私がこの学校に赴任して来てからまだ三年経っていないので一度も過去の記録をリセットしたことはない。
 なんとなく思い立ち、私はページを捲って過去の記録を遡ってみた。そんなに多くはない記録はあっという間に去年へと移り変わる。さらに一昨年へと。
 一昨年、今から二年前の四月。私はこの学校に養護教諭として赴任してきた。慣れない学校に最初は戸惑いつつ、生徒たちに嫌悪感を抱かれぬように必死に清廉潔白な顔をして保健室に座っていたことを思い出す。
 一昨年の記録の中に、丸々一ヶ月記録がない月が存在する。まだ寒さに凍える二月だった。この二月が記録に残っていないのは、単に体調不良者がいなかったという理由ではない。学校が急遽休みになった二月だったのだ。
 私は一月の最後のページを捲って裏面を確認する。手持無沙汰で紙の裏面に落書きをするかのように、ある生徒の名前が隅に綴られていた。
 【2/6 一年三組 櫻間真織】
 私がこれに気づいたのは、彼女が亡くなってすぐのことだった。
 筆跡は、葛西先生に見せてもらった手紙の筆跡と酷似していた。
 その時、保健室の扉がノックされる。
 ファイルを手にしたまま、ゆっくりと開かれる扉を見つめる。扉の先から現れたのは依田さんだった。動揺がバレないように、静かに息を呑む。

 「先生、手切っちゃったんで絆創膏ください」
 そう言って、依田さんは見せびらかすように手のひらを突き出した。彼女の手のひらには綺麗な一直線で切傷が入っており、そこから真新しい赤い血が流れていた。

 「大変」
 私は慌ててファイルを棚に戻し、ガーゼで出血箇所を押さえる。

 「血が止まるまでしばらく押さえていてください」
 止血を依田さんにバトンタッチして、消毒液やテープを救急箱から取り出す。

 「手元を誤ってペインティングナイフで切ってしまったんです」
 「それは、こんな切れ味のあるナイフなんですか?」
 「やすりで削ったりするので、使い込んだペインティングナイフだと包丁の刃先のように徐々に薄くなっていくんです」
 「それは、新しくしないのですか?」
 「手に馴染んでしまって、なかなかお別れできないんです」
 傍から見れば使い込まれたものは劣化に見えるが、本人の手にしっかりと馴染んだものは特別となる。なかなか捨てられないのは当然のことだ。

 「くれぐれも気をつけてくださいね。消毒するので手を貸してください」
 私は依田さんの手に触れ、コットンに湿らせた消毒液を傷口にあてがう。

 「いてて」
 痛みに顔を歪ませる彼女に構わずつづけた。

 「昼休憩も描いているのですか?」
 「たまに、です。こう描けばよかったって授業中にふと思いついて、そうなってしまったらもう落ち着かなくなって、放課後まで待てずについつい描きに行ってしまうんです」

 絵を描くことが依田さんの一部になっている。そして、彼女の絵に魅せられ、評価をつける人たちがいる。だけど、彼女は二年生になってから一度もコンクールに作品を提出していないと聞いている。

 「佐倉さん、保健室登校してるって聞きました」
 思わず手が止まった。

 「佐倉さんがどうして図書本を破ったのか、本人は話してくれましたか?」
 顔を上げると、品定めするような目が向けられていた。探られているのだ。

 「いえ、難しいです」
 正直に答えると、正直ですねと返された。

 「どれだけ考えても、私は依田さんの言動の意味が理解できません。佐倉さんの秘密を暴いて、あなたに何のメリットがあるのか。その答えもわかっていません」
 消毒した傷口にメッシュ素材の絆創膏を丁寧に貼りながら言う。依田さんは手当された手のひらを呆然と眺めている。

 消毒液やらガーゼやらを救急箱に片し終えたあと、依田さんはようやく口を開いた。
 「強いていうなら、優越感……でしょうか」
 語尾には小さなハテナの絵文字が見えた。

 本人ですら、自分がやった言動の意味を把握していない。それでも彼女は、数ある感情の中から確実に不信感を抱く単語を選び取った。
 「優越感」
 声に出して反芻すると、全身が粟立つのを感じた。

 「人が傷つくのを見ると、優越感みたいなどっぷりとした感情を覚えるんです。ああ、今私が彼女を傷つけたんだ、だから彼女はこんなに泣きそうな顔で私を睨んでいるんだって、どこか嬉しさすら湧いてくるんです」

 人を傷つけても罪悪感のない人がいる。それどころか快感を覚えている。他人の不幸は蜜の味と言うように、依田さんにとって傷口から出る出血は蜜なのかもしれない。

 「私は、佐倉さんの心を傷つけて、優越感を得ようとしていたんだと思います」
 宣誓のごとく、高らかに言い放った。恐ろしいと思った。

 依田さんにはいろんな側面が存在している。芸術的センスを持っていて、不眠症を患っていた過去があって、人を傷つけて優越感に浸る毒々しさも備わっている。どれが本当で、どれが嘘なのか。もうわからない。

 「怯えた顔していますよ、男乕先生」
 口の中は乾いているのに、唾を求めるように喉が動く。

 「それより、私のことばかり考えていていいんですか」
 「え」
 「私がつけた傷はもしかしたら深いかもしれませんよ。死んじゃうかもしれませんね、櫻間さんみたいに」
 「馬鹿なこと言うのはやめなさい!」
 衝動的に𠮟りつけていた。

 言って良いことと悪いことの判断がつけられる年齢で、私を挑発する材料として櫻間さんの死を出したことに怒った。
 私の怒声で、依田さんから透けて見えていた余裕がスンと一瞬にして消える。

 「軽率な発言をしたことは謝ります。でもね、先生。進む歩幅は人それぞれかもしれませんが、落ちる速度はみんな一緒なんです。もたもたしていたら手遅れになりますよ」
 そんなことはわかっている。小野寺君のおかげでとっくに目は覚めている。

 「先生は佐倉さんの読書感想文読んだことがありますか?」
 「読書感想文?」
 佐倉さんは重たそうに腰を上げ、椅子から立ち上がった。

 「じゃあ戻ります。消毒ありがとうございます」
 「えっ」

 戸惑う私を置いて、さっさと足を進める。だが、「あ」という声と同時に足が急停止する。何かを言い忘れていたのか、振り返り様に「そういえばー」と前置きする。

 「先生、今日の服装も上品で似合ってますね」

 小首を傾げながらあどけない表情で身だしなみを褒めた。純粋に喜べなかったのは、容姿に対する捉え方を自身で卑屈に変換してしまう癖があるからだ。私を攻撃したというサインだと体が勝手に構える。
 私は依田さんに何かしただろうか。恨まれるような何かを言ったのだろうか、気づかないうちに逆鱗に触れてしまったのだろうか。
 過去を振り返っても、記憶を探っても、思い当たる節はない。
 もう傷つきたくない。誰にも傷つけられたくない。
 私は自分を守るように自分を抱いて、しばらく動けずにいた。