*
私は意を決し、扉を開ける。
塗料の染みついたこの教室は、保健室とはまた違う穏やかな時間が流れていた。
彼女は毎日この教室で絵を描いていた。美術部の正式な活動日は週二日なはずだが、毎日のように鍵を借りに来る彼女のため、放課後の美術室はほぼ開放状態にされているようだった。
一歩、また一歩と足を踏み入れる。ギシッと床が軋む音がしたが、彼女はいまだ背中を向けたまま一向に振り向こうとはしない。人の気配に気づいていないのか、目の前のキャンバスに一心不乱で色を乗せている。今にも絵の中に取り込まれそうになっている。
「依田さん」
おずおずと彼女の名前を呼んだ。絵筆の動きが止まる。
そのまま構わず背中の依田さんに話しかける。
「小野寺君から聞きました」
彼女の絵は彼女の上半身に隠され、よく見えない。
「依田さんは初めから佐倉さんが図書本を破っていたことを知っていたのですね」
手に持っていた絵筆をようやく下ろし、そのままパレットの上に乱雑に置く。そして、振り返る。寄り道することなく、真っ黒な双眸は私に狙いを定め、まっすぐに捉える。
「いつから佐倉さんの異変に気づいていたんですか」
「一年前くらい、からでしょうか。ハッキリとは憶えていません」
依田さんは正直に白状する。
「どうしてもっと早くに知らせてくれなかったんですか。気づいていた時点で教えてくれていたら……」
「対処できたのに。ですか?」
小馬鹿にするように小さく笑みを落とす。
私の知っている依田さんが、その一瞬の表情で崩れてしまう。内臓物を素手で握られ、うっかり口を滑らせれば握り潰されてしまうような瀬戸際に立たされる恐怖を感じた。
「本って高いと思いません?私は、一冊買うだけで迷ってしまいます。これ面白そう読んでみよう、で買えるほど学生のお財布事情は厳しいんです。でも、図書本はそうではない。どれだけ存外に扱ってもあまり罪悪感とか抱かないんですよ」
脈絡なくはじまる冒頭に余計な声は入れない。息を殺すように静かに耳を傾ける。
「自分でお金を払って買った本じゃないし、もうすでにいろんな人の手に行き渡った本だから、何かの拍子で汚れたり破れたりしても自分のせいだとは思わない。だから劣化も損傷も激しい。それを佐倉さんは丁寧に直していたんです。彼女、本の修繕が上手なんですよ。あの時も、本棚が全壊して、その拍子に折れたり破れたりした本を彼女は毎日少しずつ修繕していました。そんな人が本を破っているって伝えて、先生たちは信じられますか?」
適当に置かれた机上の絵具を手に取りながら、自分の絵と見比べ、見定めている。
「そうですね、信じられないかもしれないです。佐倉さんの普段の様子を見ていたら、彼女はそういうことをする子じゃないって私でも断言すると思います」
「はは、先生って正直ですね」
「でも、だからと言って、依田さんがこのことを別の人に話して、事を荒立てたことが正しかったとは思えないです」
発した声に怒りがいた。今、自分は怒っているのだと知る。久しぶりの感情だった。
「あー小野寺君ですね。彼、たまに図書室に現れるんですよ。本なんて興味ないのに、四つ席の机をひとり占めして寝るんです。その席って、貸出カウンターがちょうど見えるか見えないかの位置で、彼いつも寝たフリして佐倉さんのこと盗み見ていたんです。キモいですよね~」
そう言って、軽口を叩くように毒を吐く。
「まさか、彼があんな簡単に私の思い描いたストーリーに乗ってくるとは思わなかったなあ。馬鹿は単純でいいですよね」
ヒュッと自分の喉が締まった。
依田さんの仮面がボロボロと剥がれていく。まるで、この外面のいい顔が垢であるかのように、凄い勢いで新たな面が姿を見せる。
構わず佐倉さんは赤の絵具を手に取る。自分がいかに怖い発言をしたか、まるでわかっていないような顔で、淡々と作業を進めている。せめてこっちを見て話しなさいと叱りたくなるのをぐっと抑えて待つ。
「先生、人って簡単に操れるんですよ。知ってました?」
「……操る?」
「小野寺君が佐倉さんを好きなのはわかっていました。だから、教えてあげたんですよ。人はネガティブな話こそ信じる傾向にある。それが話したこともない赤の他人から聞いた話でも、好意を持っている相手が何か悪いことをしていると知ったらそれを馬鹿正直に疑ってしまう。疑えば、すべての行動が怪しく感じる。どうにか守ってあげたいという気持ちに駆られる。追い打ちをかけるように先生たちが勘づきはじめているってちょっとだけ話を盛ったら、彼はすぐに隠蔽工作をはじめた。自分なら彼女に寄り添えるはずだと驕った彼がすることなんて、罪を被ることくらいですから。まあでも、やっぱり馬鹿の頭ですよね。普段図書室で本を借りない生徒が、正式な貸出ルート使って本を借りるなんて突然すぎて違和感ありまくりの話じゃないですか。でも、先生たちはその違和感に疑いもしなかった。彼がやったことにしたほうが、都合がよかったんでしょうね」
もうすでにかなり潰れているチューブを指圧でさらに潰し、絵具をパレットに捻りだしながら経緯を説明する。最後まで出し終えると、不要になった空の容器をゴミ箱へと捨てた。
そんな何の変哲もない普段の動作にも、何か意図があるのではないかと窺っている自分はもう彼女に手のひらで踊らされているのかもしれない。
「依田さんは、小野寺君のやったことにしたかったから、彼にそのことを教えたんじゃないんですか?なのに、どうして佐倉さんが破いていると私にも教えたのですか?」
「私は別に小野寺君のやったことにしたいとは言っていませんよ。彼のエゴを、ただ利用しただけです」
「……エゴ?」
「私思うんですよ。人って、救われるより救うほうが自己肯定感高まる節ありません?」
「え?」
「自分よりも苦しんでいる人見ると安心しませんか?自分の腕の中で泣く人がいると、自分がその人にとって必要不可欠なんだって錯覚したりしませんか?誰かに自分を肯定されるより、誰かを自分が肯定するほうがその人の一部になれたようで満たされる気がしませんか?小野寺君もきっとそうだったと思うんです。佐倉さんを救いたい。佐倉さんの味方になってあげられるのは俺だけかもしれない。今しかない。今、佐倉さんを救えるのは俺だけなんだ。そういう強いエゴが彼を無価値に走らせた。押しつけがましい善意ですよね」
小野寺君も『佐倉を救えるのは俺だけだと思った』と言っていた。それはよく言えば正義感でもあり、悪く言えば彼女の言うとおり押しつけがましい善意となる。
自分だけが知っているという事実は、自分だけしか守れないのだという使命感へと繋がってしまう。依田さんはそんな人の心理を利用したのだ。
「対等なはずなのに、いや、確実に小野寺君のほうが下だったのに、突然目の前に現れて守ってあげるなんて言われても佐倉さんは嬉しくないですから。私は、佐倉さんを怒らせたかったんです。小野寺君の偽善を利用して、佐倉さんの正体を暴くのが私の目的でした」
種明かしするかのように両手を広げ、清々しい顔つきで微笑する。
「こんなことして誰が得するのですか?あなたが面白半分で二人を突いたせいで二人の間に大きな溝ができてしまったかもしれないんですよ」
「まさか、間違った処分を下した先生たちが私を責めるんですか」
煽るように核心を突く言葉が耳奥で響き、ビリビリと脳が痺れる。
「私がこの目で見て知った真実を、どこでどう振り回そうが、私の自由じゃないですか?」
自由?……違う。私は首を振る。
「誰かの痛みをあなたの自由として振り回してはいけない」
負けじと苦言を呈すが、依田さんは悪びれる様子もなく、むしろ精悍な顔つきで大いに開き直って見せる。
「別にいいじゃないですか。最終的に佐倉さんは自責の念に駆られ自白した。彼も謹慎処分は解かれた。本来そうなるべきところに収まったんです。結果オーライしゃないですか」
それは、ゴールすればその過程はどうでもいいと言っているようなものだ。大事なのは努力や苦労をした過程の部分だというのに。
それでも、小野寺君に間違った処分を下し、佐倉さんの異変に誰も気づけなかった大人側に立っている私には、それらを棚に上げて依田さんを責められない。
「溝、できてしまったなら先生が埋めてあげたらどうですか?」
そう吐き捨てると、依田さんはパレットを手に取り、また絵描きの世界へと戻っていく。
絵を横から覗いた。彼女は、先ほど出した赤の絵具をペインティングナイフでキャンバスにベタ塗りしていく。赤。また赤。赤。赤。赤。
キャンバスはあっという間に赤の海に染まっていく。
あの日、見た赤だった。鮮血のような赤が廊下にまで散っている光景を思い出す。
依田麻央の絵はあの日を境に不気味と化していったのを、私は思い出していた。
私は意を決し、扉を開ける。
塗料の染みついたこの教室は、保健室とはまた違う穏やかな時間が流れていた。
彼女は毎日この教室で絵を描いていた。美術部の正式な活動日は週二日なはずだが、毎日のように鍵を借りに来る彼女のため、放課後の美術室はほぼ開放状態にされているようだった。
一歩、また一歩と足を踏み入れる。ギシッと床が軋む音がしたが、彼女はいまだ背中を向けたまま一向に振り向こうとはしない。人の気配に気づいていないのか、目の前のキャンバスに一心不乱で色を乗せている。今にも絵の中に取り込まれそうになっている。
「依田さん」
おずおずと彼女の名前を呼んだ。絵筆の動きが止まる。
そのまま構わず背中の依田さんに話しかける。
「小野寺君から聞きました」
彼女の絵は彼女の上半身に隠され、よく見えない。
「依田さんは初めから佐倉さんが図書本を破っていたことを知っていたのですね」
手に持っていた絵筆をようやく下ろし、そのままパレットの上に乱雑に置く。そして、振り返る。寄り道することなく、真っ黒な双眸は私に狙いを定め、まっすぐに捉える。
「いつから佐倉さんの異変に気づいていたんですか」
「一年前くらい、からでしょうか。ハッキリとは憶えていません」
依田さんは正直に白状する。
「どうしてもっと早くに知らせてくれなかったんですか。気づいていた時点で教えてくれていたら……」
「対処できたのに。ですか?」
小馬鹿にするように小さく笑みを落とす。
私の知っている依田さんが、その一瞬の表情で崩れてしまう。内臓物を素手で握られ、うっかり口を滑らせれば握り潰されてしまうような瀬戸際に立たされる恐怖を感じた。
「本って高いと思いません?私は、一冊買うだけで迷ってしまいます。これ面白そう読んでみよう、で買えるほど学生のお財布事情は厳しいんです。でも、図書本はそうではない。どれだけ存外に扱ってもあまり罪悪感とか抱かないんですよ」
脈絡なくはじまる冒頭に余計な声は入れない。息を殺すように静かに耳を傾ける。
「自分でお金を払って買った本じゃないし、もうすでにいろんな人の手に行き渡った本だから、何かの拍子で汚れたり破れたりしても自分のせいだとは思わない。だから劣化も損傷も激しい。それを佐倉さんは丁寧に直していたんです。彼女、本の修繕が上手なんですよ。あの時も、本棚が全壊して、その拍子に折れたり破れたりした本を彼女は毎日少しずつ修繕していました。そんな人が本を破っているって伝えて、先生たちは信じられますか?」
適当に置かれた机上の絵具を手に取りながら、自分の絵と見比べ、見定めている。
「そうですね、信じられないかもしれないです。佐倉さんの普段の様子を見ていたら、彼女はそういうことをする子じゃないって私でも断言すると思います」
「はは、先生って正直ですね」
「でも、だからと言って、依田さんがこのことを別の人に話して、事を荒立てたことが正しかったとは思えないです」
発した声に怒りがいた。今、自分は怒っているのだと知る。久しぶりの感情だった。
「あー小野寺君ですね。彼、たまに図書室に現れるんですよ。本なんて興味ないのに、四つ席の机をひとり占めして寝るんです。その席って、貸出カウンターがちょうど見えるか見えないかの位置で、彼いつも寝たフリして佐倉さんのこと盗み見ていたんです。キモいですよね~」
そう言って、軽口を叩くように毒を吐く。
「まさか、彼があんな簡単に私の思い描いたストーリーに乗ってくるとは思わなかったなあ。馬鹿は単純でいいですよね」
ヒュッと自分の喉が締まった。
依田さんの仮面がボロボロと剥がれていく。まるで、この外面のいい顔が垢であるかのように、凄い勢いで新たな面が姿を見せる。
構わず佐倉さんは赤の絵具を手に取る。自分がいかに怖い発言をしたか、まるでわかっていないような顔で、淡々と作業を進めている。せめてこっちを見て話しなさいと叱りたくなるのをぐっと抑えて待つ。
「先生、人って簡単に操れるんですよ。知ってました?」
「……操る?」
「小野寺君が佐倉さんを好きなのはわかっていました。だから、教えてあげたんですよ。人はネガティブな話こそ信じる傾向にある。それが話したこともない赤の他人から聞いた話でも、好意を持っている相手が何か悪いことをしていると知ったらそれを馬鹿正直に疑ってしまう。疑えば、すべての行動が怪しく感じる。どうにか守ってあげたいという気持ちに駆られる。追い打ちをかけるように先生たちが勘づきはじめているってちょっとだけ話を盛ったら、彼はすぐに隠蔽工作をはじめた。自分なら彼女に寄り添えるはずだと驕った彼がすることなんて、罪を被ることくらいですから。まあでも、やっぱり馬鹿の頭ですよね。普段図書室で本を借りない生徒が、正式な貸出ルート使って本を借りるなんて突然すぎて違和感ありまくりの話じゃないですか。でも、先生たちはその違和感に疑いもしなかった。彼がやったことにしたほうが、都合がよかったんでしょうね」
もうすでにかなり潰れているチューブを指圧でさらに潰し、絵具をパレットに捻りだしながら経緯を説明する。最後まで出し終えると、不要になった空の容器をゴミ箱へと捨てた。
そんな何の変哲もない普段の動作にも、何か意図があるのではないかと窺っている自分はもう彼女に手のひらで踊らされているのかもしれない。
「依田さんは、小野寺君のやったことにしたかったから、彼にそのことを教えたんじゃないんですか?なのに、どうして佐倉さんが破いていると私にも教えたのですか?」
「私は別に小野寺君のやったことにしたいとは言っていませんよ。彼のエゴを、ただ利用しただけです」
「……エゴ?」
「私思うんですよ。人って、救われるより救うほうが自己肯定感高まる節ありません?」
「え?」
「自分よりも苦しんでいる人見ると安心しませんか?自分の腕の中で泣く人がいると、自分がその人にとって必要不可欠なんだって錯覚したりしませんか?誰かに自分を肯定されるより、誰かを自分が肯定するほうがその人の一部になれたようで満たされる気がしませんか?小野寺君もきっとそうだったと思うんです。佐倉さんを救いたい。佐倉さんの味方になってあげられるのは俺だけかもしれない。今しかない。今、佐倉さんを救えるのは俺だけなんだ。そういう強いエゴが彼を無価値に走らせた。押しつけがましい善意ですよね」
小野寺君も『佐倉を救えるのは俺だけだと思った』と言っていた。それはよく言えば正義感でもあり、悪く言えば彼女の言うとおり押しつけがましい善意となる。
自分だけが知っているという事実は、自分だけしか守れないのだという使命感へと繋がってしまう。依田さんはそんな人の心理を利用したのだ。
「対等なはずなのに、いや、確実に小野寺君のほうが下だったのに、突然目の前に現れて守ってあげるなんて言われても佐倉さんは嬉しくないですから。私は、佐倉さんを怒らせたかったんです。小野寺君の偽善を利用して、佐倉さんの正体を暴くのが私の目的でした」
種明かしするかのように両手を広げ、清々しい顔つきで微笑する。
「こんなことして誰が得するのですか?あなたが面白半分で二人を突いたせいで二人の間に大きな溝ができてしまったかもしれないんですよ」
「まさか、間違った処分を下した先生たちが私を責めるんですか」
煽るように核心を突く言葉が耳奥で響き、ビリビリと脳が痺れる。
「私がこの目で見て知った真実を、どこでどう振り回そうが、私の自由じゃないですか?」
自由?……違う。私は首を振る。
「誰かの痛みをあなたの自由として振り回してはいけない」
負けじと苦言を呈すが、依田さんは悪びれる様子もなく、むしろ精悍な顔つきで大いに開き直って見せる。
「別にいいじゃないですか。最終的に佐倉さんは自責の念に駆られ自白した。彼も謹慎処分は解かれた。本来そうなるべきところに収まったんです。結果オーライしゃないですか」
それは、ゴールすればその過程はどうでもいいと言っているようなものだ。大事なのは努力や苦労をした過程の部分だというのに。
それでも、小野寺君に間違った処分を下し、佐倉さんの異変に誰も気づけなかった大人側に立っている私には、それらを棚に上げて依田さんを責められない。
「溝、できてしまったなら先生が埋めてあげたらどうですか?」
そう吐き捨てると、依田さんはパレットを手に取り、また絵描きの世界へと戻っていく。
絵を横から覗いた。彼女は、先ほど出した赤の絵具をペインティングナイフでキャンバスにベタ塗りしていく。赤。また赤。赤。赤。赤。
キャンバスはあっという間に赤の海に染まっていく。
あの日、見た赤だった。鮮血のような赤が廊下にまで散っている光景を思い出す。
依田麻央の絵はあの日を境に不気味と化していったのを、私は思い出していた。

