三年四組、佐倉一花。
大人しい性格で、教室では友達と談笑して過ごすことよりも、机にかじりついて勉強していることのほうが多かったという。特別仲のいい友達もいなかったようだ。
佐倉さんは真面目な生徒であり、実際委員の中で一番の仕事量だと言われている図書委員を、彼女だけがサボらず真面目にこなしていた。ただ、真面目だから図書委員を頑張っていたのではなく、純粋に本が好きで、楽しんでやっていた。図書室の出入り口に【図書委員厳選、今月のおすすめ小説】というコーナーで陳列する提案をしたのは当時入学して日も浅い一年生の佐倉さんだったという。
毎年図書委員に立候補し、三年目になるとおのずと図書委員長になり、司書教諭からの信頼も厚く、自然と図書室の管理も任されるようになる。
彼女にとって本がどれほどの価値であるかは想像に容易い。そんな彼女が、図書本を故意で破損させたという事実は、周囲が不可思議に思うほど結びつかない事実だった。
「おはようございます、小野寺君」
目の前にいる彼は、保健室の扉を開けた時から気だるそうにしていた。今は、豪快に背中を背もたれに預け、欠伸を噛み殺している。
佐倉さんが保護者を通して自白した翌日、小野寺君の謹慎処分はあっさりと解かれた。
「お話をしたくて、担任の先生に許可をもらいました。少しだけ、私にあなたの時間をください」
実際は「話をしてもらえませんか」という小野寺君の担任と佐倉さんの担任からの要望だったが、そんなことを馬鹿正直に言ったら彼の心は一生開かれないままだろうから黙っておく。
「……なんすか」
ため息交じりに渋々というような態度を取られる。
「小野寺君が、佐倉さんを庇っていたと聞きました。本当ですか?」
俯いたまま、彼は答えない。
「佐倉さんが図書本をどうして破ったか知っていますか?なんでもいいです。何か彼女の身におかしな点は見られませんでしたか?」
これも答えない。
「他の生徒が、二人は面識も接点もなかったと言っていました。なのに、小野寺君は佐倉さんを庇って、罪を被っていた。その理由がわからないのです。教えてくれませんか?」
小野寺君はうんともすんとも言わなかった。唇を固く結び、目も合わせてはくれない。遅すぎたのかもしれない。完全に心を閉ざしている。
仮に心を開いてくれる余地がまだ残されていたとしても、ほぼ初対面の相手に何を語るというのか。訊かれたことに素直に答えられるなら、小野寺君も佐倉さんもはなからこんな問題を起こしていない。
────『男乕先生が生徒たち全員の味方であることを、切に祈っています』
早くも諦めそうになった時、頭の中で叩くように依田さんの言葉が響いた。内側から強制的に起こされるほどの強い衝撃が走り、一瞬だけ眩暈がした。
私だって、と思う。私だって、生徒の味方でいたいと思っている。
羊を数えるようにそんな言い訳がましい言葉をいくつも並べて生きてきた。
弱音や言い訳も自分のことを正当化させるためにあらゆる思考回路を駆使している。こんなことにも脳はてきぱきと働くと思うと滑稽だった。
「怒って、いいです」
少しくらい誠意を見せてみろよ、と櫻間さんに言われているような気がして、静かに拳を握る。
「黙っていては誰にも伝わりません。小野寺君が浴びた心ない誹謗中傷や、踏みにじられるような白い目に対して怒るべきです」
怒りは時に背中を押す。
伏せられた小野寺君の顔がゆっくりと前を向き、私を捉えた。小さな瞳が揺れている。
もしかしたら、小野寺君は罪を被っていたのではなく、周囲の圧に否定することを諦めてしまったのかもしれない。生徒ですら感じる違和感を、教員たちは誰一人声には上げなかった。私も然りだ。教員免許を持っていても、所詮は養護教諭扱いだからと自分を卑下し、対応も判断も職員室に席を持っている教員たちに任せていた。
違う、丸投げしていたのだ。
まず私がやらなければいけないことは、問い質すことでもしつこく訊き出すことでもない。教師と生徒の立場ではなく、一人対一人という対等な立場で向き合うことなのではないのか。
「どうしてなのでしょうか……」
「……は?」
「人はみんな、自分には審美眼が備わっていると思い込んでいる。どれが美しくてどれが汚いか、どれが正しくてどれが間違っているか、正しく選び取れているとすぐに思い込んでしまう。人の心は疑うくせに、自分の目は信じているんです」
都合が悪くなれば手のひらを返して、歪に曲がったその背中を辛かったねと優しく撫でるのだ。
「反省しています。小野寺君の話を自分の耳で聞かなかったこと後悔しています。すみませんでした」
気づくと、私は額がテーブルにつきそうになるまで彼に頭を下げて詫びていた。髪が垂れ、テーブルの上に力無く横たわる。自分の髪から皮脂の匂いがした。いつも身だしなみには極端なほどに気を遣っているが、今日は何もできなかった。風呂にも入れず、昨晩から悶々と自分の言動を悔いるばかりだった。
中津君も依田さんも、生徒たちのほうがよっぽどこの問題に慎重に考えていた。
自分で決められない、自分を信じられない、一歩をなかなか踏み出せない、臆病な生徒たちを大人はいつも高みの見物でアドバイスする。大人から見れば、彼らは優柔不断で曖昧でどっちつかずだと思えてしまうものだが、人をちゃんと見るという面ではその慎重さは大事なことなのかもしれない。
「俺が守らないと、って思ったんだよ」
囁くような声だった。
顔を上げると、対照的に小野寺君はさらに顔を俯かせた。反省、懺悔、後悔、自責を感じた時にする思い詰めた表情をしていた。
「佐倉を救えるのは俺だけだと思った」
そう言うと、小野寺君は過去をポツリポツリと話しはじめた。
小野寺君と佐倉さんは中学校が同じだった。
当時の彼は、園芸委員。佐倉さんは、今と変わらず図書委員をやっていた。同じクラスにもなったことがなかった二人が交わったのは、図書室を囲むように花壇がある間取りのおかげだった。
昼休憩中、図書委員の仕事をする佐倉さんと、花壇の水やりをする小野寺君。話したことはなくとも、図書室の窓からお互いの存在を認識し合っていた。だからか、二人が会話をするようになるまでにはさほどの時間はかからなかった。そして、意気投合するにも時間はかからなかった。
互いに母子家庭で育ち、鍵っ子。甘えられない環境で育った孤独な二人は、大人にも友達にも言えない気持ちを打ち明け合っていた。
二人にとって、たった四十五分の昼休憩は特別な時間だったのだろう。
だが、その二人の関係性に亀裂が入る。
中三の秋、小野寺君の母親が病気でしばらく入院することになったのだ。しばらく学校に行けない日々がつづき、学校の花を世話している場合ではなくなっていた。小野寺君が花壇に足が向かなくなってから、佐倉さんとの距離は開き、縮まることのないまま二人は卒業を迎えてしまう。
卒業式を終えた一週間後、小野寺君の母親は桜の開花を見ることはなく亡くなってしまう。その後、小野寺君は離婚した父親に引き取られることになった。
「母親の病気で受験勉強も大してできなくて、高校受験失敗して、滑り止めで受けていたこの高校に入学した。そしたら、佐倉がいて嬉しかった。話しかけたかったけど、なんて言えばいいかわからなかった。俺、こう見えて中学の時は結構真面目だったんだよ。でも、今こんなんで、だから話しかける自信もなかった」
小野寺君の鋭利に尖った喉仏が上下に何度も動く。本音を打ち明けてくれていても、きっと三分の二ほどの想いは飲み込まれ、底に溜まっていくのだろう。
「そんな時、佐倉の様子が変だって教えてくれた奴がいたんだ。今こそ動くべきだって思った。今さら遅いかもしれないけど、今までの会いに行かなかった分をこれで埋められるなら、犯人でもなんでも喜んでなってやるって。だから、本を借りて破った」
立派な自己犠牲だ。でも、それは正しくはない。
学校で問題を起こしたと知って、小野寺君の亡き母親はどう思うか。そして今一緒に暮らしている父親はどう思うか。罪を庇ったと知って佐倉さんはどう思うか。そんなことを考える余裕もないほどに彼は一瞬にして救うことだけに囚われてしまった。
衝動的に行動した結果、小野寺君なりの仁義を佐倉さんは裏切る形で罪を自白した。要するに、彼女にとって小野寺君の行動は求めているものではなかったということになる。
小野寺君は、どうしてこんな形で佐倉さんを救おうとしてしまったのだろうか。
中学時代、二人の距離が縮まったのは、誰にも言えない孤独を初めて他人と共有できたからだ。小野寺君が佐倉さんを救える方法は一択しかないはずなのに、どうして自分を犠牲にしてしまったのだろう。歯痒い。
「小野寺君」と何も見えていない彼の名前を呼ぶ。
「人を救うというのは、誰かが犠牲になることではありません」
彼の瞳が揺れた。
「人を救うというのは、同時に自分も救われるものです。まず、あなた自身を救うことを考えてください。そうすれば、佐倉さんにも小野寺君の気持ちが届くはずです」
小野寺君の優しさがこういう形で消化されるのはもったいないと思った。だからか、偉そうなことを口にしていた。
「……よくわかんねえよ」
投げやりに呟き、頭を抱えるように逡巡する。
小野寺君と話したのは初めてだった。保健室に縁遠かった彼だが、恐ろしいほどに繊細だった。小突いたら簡単に崩れてしまう飴細工のように、繊細でいて透明だった。
「最後に一つだけ訊いていいですか」
「……なに」
「その、佐倉さんの様子が変だと教えてくれたのは誰ですか?」
彼の口が開く。動く口がスローモーションに見えるも、鼓膜は確かに正常なリズムで音を拾う。
「依田だよ、一組の」

