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 ふと外を見遣ると、小野寺君が中庭で黙々と草むしりをしていた。最近の彼はずっとそうだった。
 図書本を破損させたことで学校側は正式に小野寺君に二週間の謹慎処分を言い渡した。みんなが授業を受ける中、彼は罰として校内の清掃を一時間行い、その後別室で与えられた膨大な課題をこなし、最後に今日一日を通しての感想文と反省文の二枚を提出して帰ることが彼に与えられた謹慎処分の過ごし方だった。
 ボランティア活動に参加してくれた時も、今も、彼は従順だった。文句など一切吐かず、言われたことを言われたままにやっていた。
 これでよかったのか、という白にも黒にもならない濁った感情が腹の底に溜まっていた。

 違和感は複数あった。
 今までの小野寺君の貸出記録を確認したところ、授業で使用した資料本と犯人特定に至った新本しか記録には残っていなかった。これは、彼があまり本を読む生徒ではなかったことになる。その破損した状態で返ってきた新本だが、今までは正式な貸出ルートを通っていなかったのに対し、この本だけは、まるで犯人は自分ですと自白するように貸出記録に残されていたことも不可解な点の一つでもあった。
 また、今回の問題行動だけが小野寺君の単独だったこと。彼は一人で問題を起こすような生徒ではなかったことを他の生徒が教えてくれた。
 そして、三年になってから進路を確立し、その進路に向けて勉強を頑張っていた矢先の出来事だったこと。中津君におすすめの参考書を訊くくらい積極的に取り組んでいたのに、それを放棄し自ら可能性の芽を摘むなんてどう考えてもおかしい。
 考えれば考えるほど、違和感は生まれた。でも、勉強のストレスで行ってしまった突発的な行動だったと本人が言うのであれば、それらの違和感は簡単に噛み砕かれてしまう。
 どんなに裏腹であっても、本人が認めてしまえば決定づけられてしまうもの。白か黒かで決められるのであれば決めてしまいたい。曖昧なんて胃に残るものは消化させたい。

 とっくに集中力は切れていた。キーボードを叩く手がずっと止まったまま、ついに午前の授業が終わるチャイムが鳴った。
 一息つこうとお茶を淹れたタイミングで、誰かが保健室の扉をノックする。返事をすると、ゆっくり扉は開かれ、扉の向こうから現れた人物に一瞬目を見張る。

 「依田さん、どうしましたか」
 依田さんが保健室に来るのは初めてのことだった。

 「少し頭痛がして、薬をもらえませんか」
 彼女はこめかみを押さえながら言った。

 「もちろん。そこの記録用紙に名前と症状を書いて、座って待っていてください」
 「はい」
 「少し横になりますか?」
 「大丈夫です。そこまでひどくはないので」

 依田さんはペン立ての中から無難なペンを選び取り、指定した記録用紙に書いていく。

 「今、ちょうど一息つこうと思っていたところなんです。依田さんもどうですか?」
 「じゃあ、いただきます。私もちょうど先生と話したかったので」
 電気ポットに一人分の水を足し、スイッチを入れる。

 「暑いのに、温かいのですか?」
 不満げな声が背中に伝わる。

 「手先足先冷えていませんか?」
 「……ずっと教室にいたので多少は」
 「今日はいつもより暑いですから、教室のクーラーが効きすぎているのかもしれません。体を冷やしすぎると反動で片頭痛を引き起こしやすいですから。温かいものを一口飲むだけでも血の巡りがよくなって片頭痛も改善しますよ」

 電気ポットに入った水がボコボコと暴れ出した頃合いでスイッチを切る。
 依田さんは「へー」とか「はあ」とか曖昧な相槌を打ちながら聞いている。

 「保健室、誰もいないんですね」
 「いつもこんな感じですよ。ベッドが全部埋まることはないですから」
 「確か、ベッドって増えましたよね?」
 手元を動かしながら依田さんの問いに頷く。

 ちょうど今から一年前、保健室は隣の資料保管室の壁を取り壊し、保健室と統合させる工事が行われた。それにより、二つしか置けなかったベッドが今では四つ置けるようになり、余裕を感じられるほど保健室は拡張した。

 「埋まらないなら広くしなくてもよかったんじゃないですか?」
 「そうですね。でも、空いてないより空いているほうがいいです。さあ、できましたよ」

 出来上がった飲み物をテーブルの上に置くと、依田さんは不思議そうに顔を歪ませ、上から覗き込んだ。ほんのりと立つ湯気が彼女の顔を湿らせる。

 「これは?」
 「ほうじ茶ソイラテです」
 間髪入れずに答えると、依田さんは初めて知った言葉みたいに一語一語丁寧に反芻する。
 「少量のカフェインは頭痛の痛みを和らげる効果があります。ほうじ茶の香りはリラックス効果、疲労回復作用もあり受験生にはピッタリの飲み物です」
 「は、はあ」
 「どうぞ、試飲してみて気に入らなかったら薬を渡しましょう」

 早々に薬を渡せばいいものを、と言いたげな顔をしている。だが、厚意で出された物を拒めない日本人特有の気遣いが彼女を突き動かす。一口、二口と飲む私の目の前で、彼女はゆっくりと一口目を啜る。

 「あっ、甘い」
 そうこぼした彼女の頬が一瞬にして緩む。

 「少しだけ蜂蜜を入れています。甘味にも痛みを和らげる効果があるのですよ。生理痛にもおすすめの飲み物です」

 続けてもう一口飲む彼女に倣って、満足げに私も口に含んだ。ほろ苦く、それでいて甘さがじんわりと口の中で広がり、鼻呼吸するとお茶の香ばしい香りを感じる。

 「気に入りましたか?」
 「はい、美味しいです」
 「よかったです。ゆっくり飲んで体を温めてください。薬に頼ることは悪くないですが、薬があるからという安心感は体のSOSを無視してしまいます。時には、面倒なことをしてでも体を労わって下さい」

 依田さんは浮かぶミルクの水面を見ながら静かに頷いた。

 「保健室って、こういうところだったことを思い出しました。暗くないけど明るくもなくて、いつも最低限度の光だけを取り込んでいる。静かだけど遠くで声が聞こえて、どことなく安心する。眠たくなるような場所」

 午前はカーテンを開けているが、午後は薄手のカーテンで余分な光を遮っていた。太陽は私たちを照らしてくれる光だが、否応なしに当てられると暴力と化すことを知っている。生徒が眠ってしまうからと教師の許可なしでカーテンを自由に閉められない教室は、こういう縛りのルールが無数にある。
 目を閉じても眩しい太陽、個性がないと死ぬ教室(せかい)、なのにある程度の均衡は持っておかないと省かれる教室(せかい)で生きる生徒たち。そういうものに嫌気がさした子たちのために保健室は安らげる場所でありたい。

 「日の当たらない場所は比較的優しい」
 「優しい?」
 「眩しく明るい場所にずっといるのは疲れます。常に騒がしく荒々しく刺々しいですから。その点、日の当たらない空間は潜り込めます」
 でも、潜り込みすぎると落とし穴にはまってしまう。完全な真っ暗闇は不安を煽るだけだが、すぐそばに光があるだけで自分が陰だとしてもどことなく安心するものだ。

 狭い空間で依田さんの息遣いが耳に残る。かすかに立つ湯気に息を吹きかけ、穏やかに飲んでいた。気に入ってくれたようでよかった。
 しばらく、無言でほうじ茶ソイラテを飲む時間を過ごした。
 先に完飲した依田さんはマグカップをテーブルに置いた。コツンと、テーブルに触れた音が合図のように彼女はポツポツと話し出した。

 「小学生の頃、ずっと思っていました。教室に行けなくなった子たちはみんなどうして保健室に行くんだろうって。保健室が安心するからなんですね」
 他人事のような口ぶりに違和感を覚えた。

 「依田さんは、教室に行きたくないって思ったことはありませんか?」
 「ありません」
 一呼吸も感じさせない速さで否定した。

 「私には保健室は必要ありませんでした。あまり怪我もしなかったですし、保健室に入り浸るほど脆くもなかったので」
 「脆い、ですか」

 確かに少し廊下を走るだけで熱を出してしまうような体が弱い子はいた。でも、依田さんが今言っている脆いというのは、おそらく身体面だけの話ではない。
 精神面。近年では、“繊細さん”という言葉をよく目にするようになっていた。不登校や保健室登校を訴える生徒も年々加速している。実際、本校にも不登校生徒が複数人いる。

 「でも、最近思います。脆いって何だろうって。教室に行けなかった子たちは本当に脆かったのか。心の不調を訴えれば、守られて、与えてもらえると思っている節はないだろうか。打たれ弱かっただけで打撃は所詮一つや二つだけだったのではないだろうか。教室に行きたくないって言える子ってある意味強いんじゃないのか」
 「依田さん」
 「わかっています。他人の痛みを測ったり、勝手に比較したりすることはよくないってこと。でも、疑わずにはいられないんです。櫻間真織が書いた手紙を読むまで、それほどまでに追い詰められていた彼女を私は知らなかったから」

 あの手紙がどこに行ってしまったのか、いまだに見つかってはいない。
 日が経つにつれ、櫻間さんの綴った文面は虫食い問題のように空欄が増える。櫻間さんの心の声が徐々に消えていく。依田さんはそれらを必死で打繰り寄せ、蓋をしないように反芻しているのかもしれない。
 何かを言わないといけない。脆い人とは、という依田さんの見解に否定か肯定をして、大人が導いてあげないといけない。櫻間さんの死について思うことがまだあるのではないか、そう話を広げて聞いてあげないといけない。それなのに、黙ってしまう自分は心底情けなかった。

 「先生」
 呼びかけに顔を上げた時、自分が俯いていたことを知る。

 「最初に話があるって言いましたよね。今日、私がここに来たのは先生に相談したいことがあったからです」
 「相談?」
 息を呑む。

 依田さんは、スカートのポケットの中を漁りはじめ、取り出した物をテーブルの上にそっと置いた。それは、クーラーのそよ風で今にも飛んでいきそうなほどの小さな紙だった。破られた跡が残った切れ端。

 「これは?」
 「先月図書室の本棚に並べられたばかりの新本の欠片です。もっと大きい欠片は担任の葛西先生に渡しました。先生と一緒にゴミ袋を持って行ったあの日、図書委員長の佐倉さんが持ってきたゴミ袋の中に入っているのを見つけました」
 思わず目を見張る。

 「ゴミ当番だったので、ゴミ袋の中身にペットボトルや缶が混ざっていないか目を光らせていたおかげで見つけました」
 「このページの欠片が、図書室の本だってどうしてわかるの?」
 「小説には奇数ページの左上に章タイトルが入っているんです。章タイトルを見たとき見覚えがあったので本のタイトルがすぐにわかりました。学校新聞には新本一覧が載るので確認したところ、その本が最近本棚に並べられたことを知りました。先ほど、葛西先生に確認とってもらい、この欠片の本体が小野寺君の仕業だと断定された証拠の本だということがわかりました。破られているページも同じでした」

 依田さんはただ破損されていた本の欠片を見つけ、それがどのように結びついているのか知り得た情報だけを淡々と私に伝えているだけだった。彼女に対して疑う余地などない。だけど、大量にあるゴミ袋の中からこんな小さな欠片を見つけることはできるのだろうか、という漠然と浮かび上がった疑問が嫌な感じで胃に残る。
 信じたくなかったのだ。これでは、佐倉さんが犯人だと言っているようなもので、私たちは罪のない生徒に処罰を下したということになる。

 「これだけでは、佐倉さんがやったという断定は難しいはずです。彼女はただゴミ箱に入っているゴミを捨てただけなのですから」
 すぐに首を振った。さっきと打って変わり饒舌に否定する自分は、生徒を信じる教師の面を被りたいのかもしれない。
 依田さんの肩が少しだけ下がった気がした。落胆したのだろうか。

 「はい、そうです。指紋でも採取しない限り証拠としてはまだ薄いです。でもここは警察じゃない。何を信じて、どれを疑い、どう対応するかを決めるのは先生たち次第です」

 じゃあ、どうしてここに来たのか。
 でも先生、と依田さんはそこだけが問題ではないと言うようにつづける。

 「この問題が本当に図書委員長である佐倉さんの仕業だと踏まえれば、彼女なら図書本を誰にもバレずに破り捨てることも、誰かに罪を擦り付けることも簡単にできてしまうってことです」

 依田さんの言うとおりだった。佐倉さんがやったことだとしたら、今までに湧いたいくつもの違和感はすべて解消される。
 佐倉さんかもしれない。そう疑うことは容易い。それでも、行動に移すことは難儀だ。この疑いが勘違いだったら、取った行動が間違っていたら、その後を想像するだけで怖気づいてしまう。

 「同級生を売るようなこと、私だって本当はしたくなかったんです。でも、動かないとまた犠牲者が出ると思って、だから勇気を出して先生に相談しに来たんです。だってここは、そういう場所なんですよね?」

 助けを乞うような口ぶりで、何もかもわかっているような顔をした。これを私に訴えたところで何も解決されないということを、依田さんはわかっているようだった。その表情に確かに私は傷ついた。
 実際そうだ。所詮はいまだ臨時の養護教諭。私が学校の方針に口を出せる立場ではないし、問題が起きたことの最終的な判断は管理職の一部教員だけ。私が任されることなんて、問題を起こした生徒のその後のメンタルケアといった対応。それは、生徒によっては骨が折れるし、時間もかかるというのに、一部教員においては君の出番だと言うようにさじを投げてきたりする。私の立場はこの学校では低い。
 上げた顔がまた下がっていく。ギリギリ俯かないで済んだのは、依田さんの「先生」と発するまっすぐな口調と精悍な面構えだった。

 「見たいんです」
 そう高らかに言う。さらに付言した。

 「先生たちがこの問題にどう向き合うのかを私は知りたい。男乕先生が佐倉さんとどう向き合っていくのかを見たい」

 逃がしてくれそうにない目で見つめられた。
 唾を飲んだ。体の内側だけが温められホカホカと熱かったが、私を覆う皮膚は恐怖で粟立っていた。依田さんのまっすぐな目が怖かったのだ。

 「男乕先生が生徒たち全員の味方であることを、切に祈っています」
 そう捨て台詞を吐いて腰を上げる。私に向かって深々と一礼してから、顔だけを残し背を向ける。

 「ほうじ茶ソイラテありがとうございました。美味しかったです」

 依田さんは嫣然な微笑みを作り、颯爽と保健室を出て行った。
 刺さるような静寂の中、遅れて扉の開閉音が聴こえた。
 終始、礼儀正しくて、そこが気持ち悪かった。ちゃんと玄関扉から入り、お邪魔しますと挨拶して、脱いだ靴の踵を揃える一連の正しい所作をしたあとに、ちゃんと踏み荒らしてくるような不可解な気持ち悪さだった。
 その後、なんとか気持ちを切り替えてから職員室へと向かった。案の定、教頭先生や学年主任の姿は見られず、依田さんの担任である葛西先生ももちろんいなかった。おまけに、彼女一人だけでなく三年のクラスを受け持っている教員はみんな不在だった。
 その時、職員室にある固定電話が鳴る。電話の近くに立っていた私は、衝動的に受話器を取った。
 学校名を名乗ると、電話の相手も遠慮がちに名乗る。

 『三年四組の佐倉一花の母です。担任の山城先生はいらっしゃいますか』
 「すみません、山城はただ今席を外しておりまして……」

 電話の対応をしている時、ちょうど葛西先生たちが奥の会議室からゾロゾロと職員室へと戻ってくる。そこには山城先生の姿もあった。

 『あの、一花が、うちの娘が、学校を早退して帰って来まして、学校の公共物を壊したって言っているんですけど、何か聞いていませんか?』
 「……え」

 小さな声が洩れ、その場で固まった。
 佐倉一花(さくらいちか)。佐倉。図書委員長の佐倉さん。

 『あの子、もう学校に行かないと言っていて……』


 節々で苦しそうに声が切れる。
 私も困惑していたが、電話をかけてきた佐倉さんの保護者も困惑しているようだった。

 佐倉さんは、今のタイミングで図書本を破ったことを自白した。小野寺君が罪を被ってくれていることも、彼女の口からでなく電話越しの母親の口から知らされることとなった。