*
週初め、朝のHRが終えた頃、ある一人の男子生徒が教師に連れられ、生徒指導室に入って行くのを目撃した。
紛失した櫻間さんの手紙が未だ見つからない中、週一で行われる職員会議にて新たな問題が浮上した。
学校司書として働いている事務職員から、返却された図書本が立て続けに破損しているという報告があったのだ。最初は誤って破ってしまったと思われるような小さな破損だったものの、最近では一ページ丸ごと破られていたり、文字を黒く塗り潰されていたり、保護フィルムを引き裂いて表紙が破られていたりと、明らかな故意でやったと思われる破損が相次いでいた。
破損している本はどれも正式な貸出ルートを辿っておらず、誰かが破損する目的で勝手に持ち出して、何事もなかったかのように返却ボックスに返しているようだった。なので、貸出履歴からの犯人の特定は不可能になる。
朝のHRで生徒たちに周知することで一旦図書本破損の問題は保留となった。心当たりがある生徒が自ら名乗り出てくれることを祈ろうという校長先生のパッとしない方向性に全教員は首肯するしかなかった。生徒を疑いたくないという想いはみんな同じなのだ。
その後もつづくようであれば、図書室の監視カメラを増やす対策も検討することで、職員会議は終わった。
その数日後、今度は入荷したばかりの新本がボロボロの状態で返却ボックスに入れられているのを図書委員長が見つけた。いよいよ対策せざるを得ない状況に変わり、改めて貸出記録を確認したところ、新本ということもあり一人の男子生徒の名前だけが記録されていた。返された記録が残っていないことから、ひとまず彼に話を聞いたところ、彼は自分の口で犯行を認めたそうだ。
彼は、三年生で小野寺君といって、学校内では有名な生徒だった。評価されて有名になったわけではなく、素行が悪く何度も生徒指導されている悪いほうでの有名な生徒だった。
二年の頃、教師と揉め、その教師に怪我を負わせたことで謹慎処分を言い渡された前科があり、教師間では彼がほぼ黒だと結論づけている空気があった。
小野寺君が担任に呼び出され、生徒指導室に連行されたことはすぐに生徒間で広まった。今までの素行の悪さのせいで、彼に対する印象はひどく、侮辱する言葉や揶揄する言葉が「また何かやらかした」という噂と共に羅列していた。
小野寺君は、処分が下るまで明日から自宅待機となった。
「────棗ちゃん!」
廊下に響く溌剌とした声に呼び止められる。振り返ると、女子生徒数人が駆け寄ってきた。私を気に入っているのか、鉢合わせたら必ず声をかけてくれる明るい子たちだ。
「なんか棗ちゃんに久しぶり会った!やった!」
彼女たちは、私を『棗』と下の名前で呼ぶ。呼び方に対して顔を顰めたことは一度もない。教員免許は持っているものの、今まで教壇に立って授業を教えた経験が少なく、養護教諭という名目で雇われている身ということもあり、どこか自分には教員という認識が薄い。
「あら、かわいい巻き髪ですね」
フワフワに巻かれた髪を褒めると、彼女は花が咲いたように笑顔になる。
「でしょ~、でも担任にこれ以上きつく巻いたら水で濡らしてもらうからって怒られちゃった。マジだるい」
制限がかかる学校で、彼女たちは負けじと普段からオシャレを楽しんでいる。成績で褒められるよりも、メイクやヘアセットで「かわいい」と褒められた時のほうが嬉々とした反応を見せる彼女たちにとって、自分を着飾るという行為は個性を出すことに繋がっているのかもしれない。
「彼氏と放課後デートする日くらいは許してほしいよね」
「わかる~」
教師への不満を身振り手振りで激しく賛同し合う彼女たちは、うんざりしながらもどこか楽しげな表情を見せる。
「いいですね、放課後デート」
「いいでしょ~!」
「棗ちゃんはデートする相手いないの?」
「あー!それ気になる!」
突然、興味がこちらに向く。知りたいという欲望の眼差しが眩しい。
「教えません」
「えー、つまんない!」
言下に拒否すると、彼女たちからブーイングの嵐が起こる。それでも教えて教えてとせがみ、なかなか食い下がらない生徒にやや気圧されていると、一人の生徒が私の肩を叩く。
「ねね、棗ちゃん」
「ん?」
「小野寺が図書本破ってたってマジ?」
瞬間、しつこかった他の生徒も口を閉じた。突然の静寂に喉が鳴った。
聞くと、小野寺君は彼女たちのクラスメイトだった。
「最近真面目に勉強してるから改心したのかと思ったのに、なんかガッカリ」
「私的には納得だけど。今までの素行の悪さ知ってるから、やっぱまだ懲りてなかったかーって感じ。人はそう簡単には変われないってことだよ」
「でも、今まで三人一緒で悪さしてたのに、今回は小野寺単独なんだよね。なんか意外。小野寺があの中で一番まともだったのにさ」
小野寺君は、いつも仲のいい同級生二人と過ごしていた。指導を受けるのも大抵三人一緒だったが、今回の図書本破損の件は小野寺君だけの犯行で、二人はまったく関与していなかった。小野寺君が図書室を利用していることも知らなかったという。
「どうしてまともだって思うの?」
「んー、なんだかんだ言って優しいんだよね」
「そうそう、体育祭準備の時もテントの組み立てとか変わってくれたし、掃除当番の時も率先してゴミ捨て行ってくれるし」
「私二年の時も同じクラスだったけど、先生怪我させたの小野寺じゃないし、むしろ小野寺止めに入ってたほうだから、謹慎処分は完全なる巻き添えだったよね」
彼女たちの見てきた印象では、小野寺君は断定するほどの悪い生徒ではなかったようだ。
その時、ピコンと軽快な音が鳴った。放課後デートだと言う生徒がスマホを操作しはじめる。
「やば、もう彼氏校門で待ってるって!」
「早く行かなきゃじゃん!」
「じゃあ行くね、棗ちゃん!」
バタバタと足音を立てながら先を急ぐ彼女たちの背中を見送っていると、一人の生徒が思い出したように振り返る。
「棗ちゃん!」
「なに?」
「今日のスカートヒラヒラでかわいい!」
小さな親指を立て、力いっぱい突き上げる。彼女につづいて、他の生徒も「似合ってるよ!」と親指の平を見せる。それぞれの形をした親指は、木漏れ日のようにキラキラと光って見えた。
肯定されない彼女たちは、いつだって私を肯定してくれる。屈託のない生徒たちの笑顔に何度救われてきただろうか。この笑顔に嘘はないのだと信じられる。
「ありがとう」
彼女たちは満足げに手を振り、仲良く腕を絡めながら楽しそうに去って行った。
姿が見えなくなるまで見送ってから振り返り、また廊下を歩きだす。
帰りのHRが終わり、今の教室棟では掃除が行われている。週替わりで回っているのか、掃除当番じゃない生徒は、さっきの彼女たちのように早く帰ることができる。
ふと顔を上げると、依田さんがゴミ袋を片手に一つずつ持ちながら歩いて来ていた。
あの日以来、依田さんが保健室に来ることはなかった。ただ、よく見かけるようにはなった。おそらく、目についているのは私だけだ。知らず知らずのうちに依田さんを探してしまうほど、ほぼ無意識的に気に留めてしまう生徒になっているのかもしれない。
彼女も私を視界に入れた。どちらからともなく足を止める。
「依田さんはゴミ当番ですか?」
「はい。私一応クラス副委員長なので」
クラスにはそれぞれクラス委員長と副委員長が必ずいる。その役職を担ったものは強制的に生徒会役員の一員となり、学校行事では職務が課せられることになる。その中でのゴミ当番も生徒会役員が担う職務の一つであった。ペットボトルや缶がちゃんと分別されているかをゴミ袋の外から確認していくのだ。
依田さんのクラス委員長は櫻間さんだった。まだ後任が決まっていないのだろう。
「お供していいですか?」
依田さんはキョトン顔で首を傾けた。そんな彼女から空のペットボトルだけが入ったゴミ袋を一つ奪い取る。
「え、いいですよ!」
「大丈夫です、暇なので」
本当は来月に控えている喫煙・薬物乱用防止の啓発活動の一環として全校集会が行われるため、その準備に追われている。だが、依田さんへの心配は捨てきれなかった。
「ありがとうございます」
「いえいえ」
踵を返し、辿ってきた道を引き返す。依田さんと肩を並べ、ゴミ取集場所まで目指す。
「最近はどうですか、眠れていますか」
「はい、大丈夫です」
依田さんの顔を窺うが、顔色には変わった変化は見られない。目の下の隈はそれなりにあるが、特別濃いわけではないことが眠れているという事実と結びつき、私は静かに安堵の色を浮かべた。
「依田さんは美術部に所属していましたよね?」
「はい」
他愛のない話題を出す。
「大学は美術専門に進むんですか?」
依田さんが一年生の頃、なんらかの絵画コンクールで受賞したことは有名だ。その絵に強く感銘を受けた理事長が生徒たちにも見てもらおうと、昇降口前の壁に大々的に立て掛けたことがあった。
「まさか。美大はお金かかりますし、美大に通ったからといって将来絵だけで生活できるとも思えないし」
「でも、絵を描く仕事は他にもありますよ」
たかが養護教諭で、クラスを受け持ったことがない私が生徒の進路に簡単に口出ししていい立場ではない。今まで弁えてきたはずなのに、認められている才能を捨てようとしていることに歯痒く感じ、衝動的に声にしてしまった。
依田さんの絵を初めて見た時、鈍器で殴られたような痛みと、体の芯から凍えるような寒さを感じたのだ。あの感覚だけは鮮明に体が憶えている。
「私は誰かの指示で描きたくない。誰かのために描きたくない。私は、私のために描きたいんです。だから、仕事にはしません」
依田さんの泰然とした主張は、私の胸を衝く。自分のやりたいことに白黒つけられるのは、誰の言葉にも揺るがない強さを持っているということ。
十代でそんな強さを抱えて、これから彼女は何に寄り掛かって生きていくのだろうか。
「みんなそうですよね」
「え」
「みんな自分のために生きていくことを望んでいますよね」
確かめるように問われた。
依田さんの言う通り、みんな誰しも“自分のために”という気持ちは持っている。そう生きたいと思って行動するし、そう生きられることを神にだって祈る。それなのに、人は生きていく限り何度も見失っていく。
「自分のために生きていくこと、何も間違っていない考え方です。依田さんの気持ちはとても大切なことですね。これからも忘れないで自分を大事にしてください」
会話しているうちに、気づけばゴミ収集場所に着いていた。手に持っているゴミ袋をゴミ置き場に投げ込む。
「男乕先生」
依田さんは私をじっと見つめていた。彼女の絵を初めて見た時に体を這った妙な感覚が、今一度私の体をなぞる。
「ゴミ、ありがとうございます」
生徒たちの笑顔は信じられる。でも依田さんの笑顔は、危うさを纏っていて薄ら怖い。
「では、また明日」
「はい、さようなら」
お決まりの別れの挨拶を交わし、依田さんの前から立ち去る。
掃除を終えたクラスが、続々とゴミ袋を手に依田さんのところへと向かっていく。背後から彼女の「ペットボトル入ってるよ!」という指摘する勇ましい声が聞こえた。振り返らず歩く。
まだ寒気がしている。気圧が下がると起こる偏頭痛のように、気持ちが沈んで心がざわざわと痛みだす。
掃除時間が終わり、活動する部活動生の喧噪が聞こえはじめる。
閑散とした学校内を移動中、ふと廊下の窓から外を覗くと、下校中の生徒が見えた。それが依田さんだとすぐに気づく。
依田さんはゆっくりと足を止めた。そして、空に向かって手を伸ばす。彼女に釣られ、空に視線を放てば、いつもと変わらない普遍的な空が広がっているだけだった。
その行為にどんな意味があるかはわからない。何かを掴もうとしているようで、何かを手放そうとしているようにも見える。そんな指先が、切なげに下りた。
週初め、朝のHRが終えた頃、ある一人の男子生徒が教師に連れられ、生徒指導室に入って行くのを目撃した。
紛失した櫻間さんの手紙が未だ見つからない中、週一で行われる職員会議にて新たな問題が浮上した。
学校司書として働いている事務職員から、返却された図書本が立て続けに破損しているという報告があったのだ。最初は誤って破ってしまったと思われるような小さな破損だったものの、最近では一ページ丸ごと破られていたり、文字を黒く塗り潰されていたり、保護フィルムを引き裂いて表紙が破られていたりと、明らかな故意でやったと思われる破損が相次いでいた。
破損している本はどれも正式な貸出ルートを辿っておらず、誰かが破損する目的で勝手に持ち出して、何事もなかったかのように返却ボックスに返しているようだった。なので、貸出履歴からの犯人の特定は不可能になる。
朝のHRで生徒たちに周知することで一旦図書本破損の問題は保留となった。心当たりがある生徒が自ら名乗り出てくれることを祈ろうという校長先生のパッとしない方向性に全教員は首肯するしかなかった。生徒を疑いたくないという想いはみんな同じなのだ。
その後もつづくようであれば、図書室の監視カメラを増やす対策も検討することで、職員会議は終わった。
その数日後、今度は入荷したばかりの新本がボロボロの状態で返却ボックスに入れられているのを図書委員長が見つけた。いよいよ対策せざるを得ない状況に変わり、改めて貸出記録を確認したところ、新本ということもあり一人の男子生徒の名前だけが記録されていた。返された記録が残っていないことから、ひとまず彼に話を聞いたところ、彼は自分の口で犯行を認めたそうだ。
彼は、三年生で小野寺君といって、学校内では有名な生徒だった。評価されて有名になったわけではなく、素行が悪く何度も生徒指導されている悪いほうでの有名な生徒だった。
二年の頃、教師と揉め、その教師に怪我を負わせたことで謹慎処分を言い渡された前科があり、教師間では彼がほぼ黒だと結論づけている空気があった。
小野寺君が担任に呼び出され、生徒指導室に連行されたことはすぐに生徒間で広まった。今までの素行の悪さのせいで、彼に対する印象はひどく、侮辱する言葉や揶揄する言葉が「また何かやらかした」という噂と共に羅列していた。
小野寺君は、処分が下るまで明日から自宅待機となった。
「────棗ちゃん!」
廊下に響く溌剌とした声に呼び止められる。振り返ると、女子生徒数人が駆け寄ってきた。私を気に入っているのか、鉢合わせたら必ず声をかけてくれる明るい子たちだ。
「なんか棗ちゃんに久しぶり会った!やった!」
彼女たちは、私を『棗』と下の名前で呼ぶ。呼び方に対して顔を顰めたことは一度もない。教員免許は持っているものの、今まで教壇に立って授業を教えた経験が少なく、養護教諭という名目で雇われている身ということもあり、どこか自分には教員という認識が薄い。
「あら、かわいい巻き髪ですね」
フワフワに巻かれた髪を褒めると、彼女は花が咲いたように笑顔になる。
「でしょ~、でも担任にこれ以上きつく巻いたら水で濡らしてもらうからって怒られちゃった。マジだるい」
制限がかかる学校で、彼女たちは負けじと普段からオシャレを楽しんでいる。成績で褒められるよりも、メイクやヘアセットで「かわいい」と褒められた時のほうが嬉々とした反応を見せる彼女たちにとって、自分を着飾るという行為は個性を出すことに繋がっているのかもしれない。
「彼氏と放課後デートする日くらいは許してほしいよね」
「わかる~」
教師への不満を身振り手振りで激しく賛同し合う彼女たちは、うんざりしながらもどこか楽しげな表情を見せる。
「いいですね、放課後デート」
「いいでしょ~!」
「棗ちゃんはデートする相手いないの?」
「あー!それ気になる!」
突然、興味がこちらに向く。知りたいという欲望の眼差しが眩しい。
「教えません」
「えー、つまんない!」
言下に拒否すると、彼女たちからブーイングの嵐が起こる。それでも教えて教えてとせがみ、なかなか食い下がらない生徒にやや気圧されていると、一人の生徒が私の肩を叩く。
「ねね、棗ちゃん」
「ん?」
「小野寺が図書本破ってたってマジ?」
瞬間、しつこかった他の生徒も口を閉じた。突然の静寂に喉が鳴った。
聞くと、小野寺君は彼女たちのクラスメイトだった。
「最近真面目に勉強してるから改心したのかと思ったのに、なんかガッカリ」
「私的には納得だけど。今までの素行の悪さ知ってるから、やっぱまだ懲りてなかったかーって感じ。人はそう簡単には変われないってことだよ」
「でも、今まで三人一緒で悪さしてたのに、今回は小野寺単独なんだよね。なんか意外。小野寺があの中で一番まともだったのにさ」
小野寺君は、いつも仲のいい同級生二人と過ごしていた。指導を受けるのも大抵三人一緒だったが、今回の図書本破損の件は小野寺君だけの犯行で、二人はまったく関与していなかった。小野寺君が図書室を利用していることも知らなかったという。
「どうしてまともだって思うの?」
「んー、なんだかんだ言って優しいんだよね」
「そうそう、体育祭準備の時もテントの組み立てとか変わってくれたし、掃除当番の時も率先してゴミ捨て行ってくれるし」
「私二年の時も同じクラスだったけど、先生怪我させたの小野寺じゃないし、むしろ小野寺止めに入ってたほうだから、謹慎処分は完全なる巻き添えだったよね」
彼女たちの見てきた印象では、小野寺君は断定するほどの悪い生徒ではなかったようだ。
その時、ピコンと軽快な音が鳴った。放課後デートだと言う生徒がスマホを操作しはじめる。
「やば、もう彼氏校門で待ってるって!」
「早く行かなきゃじゃん!」
「じゃあ行くね、棗ちゃん!」
バタバタと足音を立てながら先を急ぐ彼女たちの背中を見送っていると、一人の生徒が思い出したように振り返る。
「棗ちゃん!」
「なに?」
「今日のスカートヒラヒラでかわいい!」
小さな親指を立て、力いっぱい突き上げる。彼女につづいて、他の生徒も「似合ってるよ!」と親指の平を見せる。それぞれの形をした親指は、木漏れ日のようにキラキラと光って見えた。
肯定されない彼女たちは、いつだって私を肯定してくれる。屈託のない生徒たちの笑顔に何度救われてきただろうか。この笑顔に嘘はないのだと信じられる。
「ありがとう」
彼女たちは満足げに手を振り、仲良く腕を絡めながら楽しそうに去って行った。
姿が見えなくなるまで見送ってから振り返り、また廊下を歩きだす。
帰りのHRが終わり、今の教室棟では掃除が行われている。週替わりで回っているのか、掃除当番じゃない生徒は、さっきの彼女たちのように早く帰ることができる。
ふと顔を上げると、依田さんがゴミ袋を片手に一つずつ持ちながら歩いて来ていた。
あの日以来、依田さんが保健室に来ることはなかった。ただ、よく見かけるようにはなった。おそらく、目についているのは私だけだ。知らず知らずのうちに依田さんを探してしまうほど、ほぼ無意識的に気に留めてしまう生徒になっているのかもしれない。
彼女も私を視界に入れた。どちらからともなく足を止める。
「依田さんはゴミ当番ですか?」
「はい。私一応クラス副委員長なので」
クラスにはそれぞれクラス委員長と副委員長が必ずいる。その役職を担ったものは強制的に生徒会役員の一員となり、学校行事では職務が課せられることになる。その中でのゴミ当番も生徒会役員が担う職務の一つであった。ペットボトルや缶がちゃんと分別されているかをゴミ袋の外から確認していくのだ。
依田さんのクラス委員長は櫻間さんだった。まだ後任が決まっていないのだろう。
「お供していいですか?」
依田さんはキョトン顔で首を傾けた。そんな彼女から空のペットボトルだけが入ったゴミ袋を一つ奪い取る。
「え、いいですよ!」
「大丈夫です、暇なので」
本当は来月に控えている喫煙・薬物乱用防止の啓発活動の一環として全校集会が行われるため、その準備に追われている。だが、依田さんへの心配は捨てきれなかった。
「ありがとうございます」
「いえいえ」
踵を返し、辿ってきた道を引き返す。依田さんと肩を並べ、ゴミ取集場所まで目指す。
「最近はどうですか、眠れていますか」
「はい、大丈夫です」
依田さんの顔を窺うが、顔色には変わった変化は見られない。目の下の隈はそれなりにあるが、特別濃いわけではないことが眠れているという事実と結びつき、私は静かに安堵の色を浮かべた。
「依田さんは美術部に所属していましたよね?」
「はい」
他愛のない話題を出す。
「大学は美術専門に進むんですか?」
依田さんが一年生の頃、なんらかの絵画コンクールで受賞したことは有名だ。その絵に強く感銘を受けた理事長が生徒たちにも見てもらおうと、昇降口前の壁に大々的に立て掛けたことがあった。
「まさか。美大はお金かかりますし、美大に通ったからといって将来絵だけで生活できるとも思えないし」
「でも、絵を描く仕事は他にもありますよ」
たかが養護教諭で、クラスを受け持ったことがない私が生徒の進路に簡単に口出ししていい立場ではない。今まで弁えてきたはずなのに、認められている才能を捨てようとしていることに歯痒く感じ、衝動的に声にしてしまった。
依田さんの絵を初めて見た時、鈍器で殴られたような痛みと、体の芯から凍えるような寒さを感じたのだ。あの感覚だけは鮮明に体が憶えている。
「私は誰かの指示で描きたくない。誰かのために描きたくない。私は、私のために描きたいんです。だから、仕事にはしません」
依田さんの泰然とした主張は、私の胸を衝く。自分のやりたいことに白黒つけられるのは、誰の言葉にも揺るがない強さを持っているということ。
十代でそんな強さを抱えて、これから彼女は何に寄り掛かって生きていくのだろうか。
「みんなそうですよね」
「え」
「みんな自分のために生きていくことを望んでいますよね」
確かめるように問われた。
依田さんの言う通り、みんな誰しも“自分のために”という気持ちは持っている。そう生きたいと思って行動するし、そう生きられることを神にだって祈る。それなのに、人は生きていく限り何度も見失っていく。
「自分のために生きていくこと、何も間違っていない考え方です。依田さんの気持ちはとても大切なことですね。これからも忘れないで自分を大事にしてください」
会話しているうちに、気づけばゴミ収集場所に着いていた。手に持っているゴミ袋をゴミ置き場に投げ込む。
「男乕先生」
依田さんは私をじっと見つめていた。彼女の絵を初めて見た時に体を這った妙な感覚が、今一度私の体をなぞる。
「ゴミ、ありがとうございます」
生徒たちの笑顔は信じられる。でも依田さんの笑顔は、危うさを纏っていて薄ら怖い。
「では、また明日」
「はい、さようなら」
お決まりの別れの挨拶を交わし、依田さんの前から立ち去る。
掃除を終えたクラスが、続々とゴミ袋を手に依田さんのところへと向かっていく。背後から彼女の「ペットボトル入ってるよ!」という指摘する勇ましい声が聞こえた。振り返らず歩く。
まだ寒気がしている。気圧が下がると起こる偏頭痛のように、気持ちが沈んで心がざわざわと痛みだす。
掃除時間が終わり、活動する部活動生の喧噪が聞こえはじめる。
閑散とした学校内を移動中、ふと廊下の窓から外を覗くと、下校中の生徒が見えた。それが依田さんだとすぐに気づく。
依田さんはゆっくりと足を止めた。そして、空に向かって手を伸ばす。彼女に釣られ、空に視線を放てば、いつもと変わらない普遍的な空が広がっているだけだった。
その行為にどんな意味があるかはわからない。何かを掴もうとしているようで、何かを手放そうとしているようにも見える。そんな指先が、切なげに下りた。

