*
櫻間真織が書いたと思われる手紙が見つかったことは、学校内に瞬く間に広がった。
すぐに手紙は遺書へと変換され、櫻間さんが本当は自殺だったのだと断定づけるような噂が生徒間で交わされはじめていた。真実は本人以外誰もわからないはずなのに、本当の真実が事故死ではないことだけはわかっているかのように、今もありとあらゆる噂が出回りつづけている。その噂は校長の耳にも入り、急遽、全教員参加の職員会議が行われることになった。
「今回、櫻間さんの引き出しから手紙が見つかったことで、遺書だという単語が生徒間でまことしやかに囁かれていることはご存じでしょう。一部では櫻間さんの死に大きくショックを受け、悄然としている生徒もいます。今回の手紙の件でさらに動揺が走っている生徒もいることでしょう。先生方にはいつも以上に生徒たちに気を配っていただく必要があります。特に、葛西先生。とても大変な状況だと思います。我々、他の教員もできる限りサポートしてまいりますが、担任である葛西先生にしか気づけないことがたくさんあると思います。どうか気持ちを強く持って、生徒に向き合っていただきたい」
校長の話を真摯に受け止める葛西先生の横顔を見つめていると、「男乕先生」と突然名指しされる。
「男乕先生にも、保健室に休みに来る生徒には今以上に気を配ってほしいと思っています。保健室に来る生徒は怪我や突発的な体調不良だけではないでしょう。休みたいという理由で現れる生徒は、なんらかのSOSを出している可能性があります。臨床心理士の資格も持っている男乕先生にしかできないこともあるはずです。今後、クラスを受け持っている先生だけでなく、全員の教員となるべく連携を取った体制が必要不可欠になるでしょう。今一度引き締め直し、生徒たちは私たちで守っていきましょう」
校長の声掛けに、その場にいる全員が同じ気持ちで呼応した。
「男乕先生」
保健室に戻る廊下で、葛西先生に呼び止められる。
「男乕先生のこと、信用しています。だから、よろしくお願いします」
突然深々と頭を下げられ面食らう。
「もちろん私にしかできないことがあるって信じているけれど、男乕先生だから話せるという生徒もきっといるはずです。だから、もし何か相談を受けた場合は、できる限り寄り添ってほしいんです。それと、できる範囲でいいので私にも情報を共有してほしいんです」
「ええ、それはもちろん。異変を感じた生徒がいたら互いに様子を報告し合い、長い目で寄り添っていきましょう」
「よかった、同じ気持ちで」
私の言葉を聞いて、葛西先生は安堵の表情を浮かべた。
手紙が紛失した一件で、自責の念に駆られていた葛西先生は見るからに落ち込んでいたが、たった今校長先生の話を聞いてどうやら心を持ち直したようだ。いつもの生気が少しずつ戻っていっているように感じた。
「生徒は私たちで守っていきましょう。では、よろしくお願いします」
校長先生の言葉をそのまま引用し気持ちを高めた葛西先生は、また私に深々と頭を下げ、急ぎ足で職員室へと戻っていく。
葛西先生は生徒だけでなく教員にも誠実で、真面目な人なのだろうと接するたびにひしひしと伝わってくる。おそらく、根すらも真面目だ。
廊下を歩きながらゆっくりと強張っていた体を解放していると、角で曲がってきた一人の生徒が私の視界に合流してきた。後ろに私がいることに気づいていない様子で、生徒は鞄を漁りながら前方をゆったりと歩いている。探し物をしているのか鞄の中に意識が集中し、若干右に寄れたり、今度は左に寄れたりとまっすぐ歩けていない。止まればいいのにと思っていた矢先、案の定生徒の鞄の口から何かが落ちた。
「ちょっと、落ちましたよ」
それを何のけなしに拾い上げようと屈んだ。指先に触れる数センチのところで落としたものが薬だと気づく。手にした時、薬の包装シートに印字された文字が目に飛びこんでくる。必死に動揺を隠し、顔を上げた。
「すみません」
薬を落とした生徒が慌てて駆け寄り、手のひらを向ける。その上に薬を置く。軽いはずなのに、ドスンという音が聴こえた。悪意のない顔をした、小さくて丸い薬が生徒の小さな拳に収まる。
「ありがとうございます」
彼女の溌剌とした声が、閑散とした廊下でよく響いた。
背を向けた生徒が、数歩歩いてまたこちらを振り向く。そして、首を傾けた。私は無意識に「待って」と彼女を呼び止めていたのだ。一瞬の逡巡の末、思い切って踏み込むことにした。
「それ、睡眠薬ですよね?」
職業上、薬には多く触れてきた。知人が飲んでいた薬だったし、私もまったく同じではないが睡眠薬を服用していた経験がある。十中八九、あれは睡眠薬だ。
単刀直入に訊ねてみたが、はたして彼女はどういう反応を示すのだろうか。高校生は意外にも慎重だ。こうなる未来の予想もしているはず。婉曲に聞いて言い逃れでもされたら、警戒心は高まり、より一層慎重になってしまうだろう。踏み込むなら今。単刀直入が一番動揺を誘いやすいと見た。
「やっぱり男乕先生にはバレますよね」
そんな私の慎重さとは打って変わったように、彼女は舌をペロっと出して、するりと吐いた。でも油断はしない。彼女たちは嘘つきだから。
櫻間さんも彼女のように陽気な自分を装い、嘘をついてきたから、死ぬ間際まで誰にも気づかれなかったのだ。櫻間さん自身がバレないよう常に慎重に行動していたとしたら、こちら側が暴かない限り本心は見えてこない。恐れていては、また手遅れになる。羽交い絞めにしてでも暴かないといけない。
目の前の彼女が、救えなかった櫻間さんと重なり、彼女の手を取った。
「少しお話できませんか」
もう同じ二の舞は踏むわけにはいかない。
このまま帰せないという気持ちが先立ち、半ば衝動的に彼女を保健室にまで連れてきた。
椅子に促し、彼女と向き合う形で腰かける。
午後になると保健室は西日に当てられ、暴力的な光が差し込む。カーテンを閉めていても突き抜ける日差しが室内を明るく灯す。わずかに開いたカーテンの隙間から光が顔を出し、テーブルには光芒が伸びていた。それを、彼女は静かに見つめている。
彼女の名前は依田麻央。偶然にも櫻間さんと同じ三年一組の生徒だった。
「拾う時に見えてしまったんだけど、あの薬は薬局では買えないもののはずです。もしかして、定期的に通院しているのですか?それか、過去に通院履歴があるとか」
依田さんの鞄から落ちた薬は、医師が直接処方箋を出した時にしか受け取れない処方箋医薬品だった。薬の包装シートに印字された【ハルシオン】という文字。即効力のある睡眠薬で間違いない。
「中学の時に不眠症で通院していました。でも、今は眠れています。だから飲んでいません。この薬はお守りみたいなもので、持っていると心が落ち着くんです」
医師から休薬を勧められ、薬が手放せられる体になったとしても完治したとは言えない。薬なしで眠れるようになったという嬉々とした安堵感で包まれるのは休薬に成功した最初だけで、眠れなかった日が一日でも訪れると一気に不安が顔を出す。また眠れなくなったらどうしようという不安障害に襲われ、また再発する。そんな時、心の拠り所があると不安を和らげることができる。依田さんは、睡眠薬を持つことで不安を軽減させてきたのだろう。
「これもある意味、薬に依存している状態なのかもしれません」
「人は何かにちょっとずつ依存しないと生きていけないものです。だから、今手放せないものを無理に手放す必要はありませんよ」
伸びていた依田さんの背筋が緩み、猫背になる。彼女の緊張がスルスルと抜けていく。
彼女は大丈夫だ。依田さんは、櫻間さんではない。彼女は彼女自身で不安と戦い、乗り越え、今を懸命に生きている。
私もまた、依田さんと同じように緊張を解放した。
「ぜひ保健室も依田さんの心の拠り所に追加してくれると嬉しいです。上手く寝付けなくて授業に支障をきたすほどの眠気が昼間に襲ってきたら、遠慮なく保健室に休みに来てください。いつでも歓迎しています」
「ありがとうございます」
依田さんは丁寧にお辞儀をして保健室を去って行った。
外の喧噪が聞こえる。グラウンドでは部活動生の声が飛んでいて、上の階では吹奏楽部員が楽器を鳴らしている。晴れ間を思わせるようなトランペットの豪快で軽やかな音は、落ち込み気味だった心を晴れやかにさせた。
櫻間真織が書いたと思われる手紙が見つかったことは、学校内に瞬く間に広がった。
すぐに手紙は遺書へと変換され、櫻間さんが本当は自殺だったのだと断定づけるような噂が生徒間で交わされはじめていた。真実は本人以外誰もわからないはずなのに、本当の真実が事故死ではないことだけはわかっているかのように、今もありとあらゆる噂が出回りつづけている。その噂は校長の耳にも入り、急遽、全教員参加の職員会議が行われることになった。
「今回、櫻間さんの引き出しから手紙が見つかったことで、遺書だという単語が生徒間でまことしやかに囁かれていることはご存じでしょう。一部では櫻間さんの死に大きくショックを受け、悄然としている生徒もいます。今回の手紙の件でさらに動揺が走っている生徒もいることでしょう。先生方にはいつも以上に生徒たちに気を配っていただく必要があります。特に、葛西先生。とても大変な状況だと思います。我々、他の教員もできる限りサポートしてまいりますが、担任である葛西先生にしか気づけないことがたくさんあると思います。どうか気持ちを強く持って、生徒に向き合っていただきたい」
校長の話を真摯に受け止める葛西先生の横顔を見つめていると、「男乕先生」と突然名指しされる。
「男乕先生にも、保健室に休みに来る生徒には今以上に気を配ってほしいと思っています。保健室に来る生徒は怪我や突発的な体調不良だけではないでしょう。休みたいという理由で現れる生徒は、なんらかのSOSを出している可能性があります。臨床心理士の資格も持っている男乕先生にしかできないこともあるはずです。今後、クラスを受け持っている先生だけでなく、全員の教員となるべく連携を取った体制が必要不可欠になるでしょう。今一度引き締め直し、生徒たちは私たちで守っていきましょう」
校長の声掛けに、その場にいる全員が同じ気持ちで呼応した。
「男乕先生」
保健室に戻る廊下で、葛西先生に呼び止められる。
「男乕先生のこと、信用しています。だから、よろしくお願いします」
突然深々と頭を下げられ面食らう。
「もちろん私にしかできないことがあるって信じているけれど、男乕先生だから話せるという生徒もきっといるはずです。だから、もし何か相談を受けた場合は、できる限り寄り添ってほしいんです。それと、できる範囲でいいので私にも情報を共有してほしいんです」
「ええ、それはもちろん。異変を感じた生徒がいたら互いに様子を報告し合い、長い目で寄り添っていきましょう」
「よかった、同じ気持ちで」
私の言葉を聞いて、葛西先生は安堵の表情を浮かべた。
手紙が紛失した一件で、自責の念に駆られていた葛西先生は見るからに落ち込んでいたが、たった今校長先生の話を聞いてどうやら心を持ち直したようだ。いつもの生気が少しずつ戻っていっているように感じた。
「生徒は私たちで守っていきましょう。では、よろしくお願いします」
校長先生の言葉をそのまま引用し気持ちを高めた葛西先生は、また私に深々と頭を下げ、急ぎ足で職員室へと戻っていく。
葛西先生は生徒だけでなく教員にも誠実で、真面目な人なのだろうと接するたびにひしひしと伝わってくる。おそらく、根すらも真面目だ。
廊下を歩きながらゆっくりと強張っていた体を解放していると、角で曲がってきた一人の生徒が私の視界に合流してきた。後ろに私がいることに気づいていない様子で、生徒は鞄を漁りながら前方をゆったりと歩いている。探し物をしているのか鞄の中に意識が集中し、若干右に寄れたり、今度は左に寄れたりとまっすぐ歩けていない。止まればいいのにと思っていた矢先、案の定生徒の鞄の口から何かが落ちた。
「ちょっと、落ちましたよ」
それを何のけなしに拾い上げようと屈んだ。指先に触れる数センチのところで落としたものが薬だと気づく。手にした時、薬の包装シートに印字された文字が目に飛びこんでくる。必死に動揺を隠し、顔を上げた。
「すみません」
薬を落とした生徒が慌てて駆け寄り、手のひらを向ける。その上に薬を置く。軽いはずなのに、ドスンという音が聴こえた。悪意のない顔をした、小さくて丸い薬が生徒の小さな拳に収まる。
「ありがとうございます」
彼女の溌剌とした声が、閑散とした廊下でよく響いた。
背を向けた生徒が、数歩歩いてまたこちらを振り向く。そして、首を傾けた。私は無意識に「待って」と彼女を呼び止めていたのだ。一瞬の逡巡の末、思い切って踏み込むことにした。
「それ、睡眠薬ですよね?」
職業上、薬には多く触れてきた。知人が飲んでいた薬だったし、私もまったく同じではないが睡眠薬を服用していた経験がある。十中八九、あれは睡眠薬だ。
単刀直入に訊ねてみたが、はたして彼女はどういう反応を示すのだろうか。高校生は意外にも慎重だ。こうなる未来の予想もしているはず。婉曲に聞いて言い逃れでもされたら、警戒心は高まり、より一層慎重になってしまうだろう。踏み込むなら今。単刀直入が一番動揺を誘いやすいと見た。
「やっぱり男乕先生にはバレますよね」
そんな私の慎重さとは打って変わったように、彼女は舌をペロっと出して、するりと吐いた。でも油断はしない。彼女たちは嘘つきだから。
櫻間さんも彼女のように陽気な自分を装い、嘘をついてきたから、死ぬ間際まで誰にも気づかれなかったのだ。櫻間さん自身がバレないよう常に慎重に行動していたとしたら、こちら側が暴かない限り本心は見えてこない。恐れていては、また手遅れになる。羽交い絞めにしてでも暴かないといけない。
目の前の彼女が、救えなかった櫻間さんと重なり、彼女の手を取った。
「少しお話できませんか」
もう同じ二の舞は踏むわけにはいかない。
このまま帰せないという気持ちが先立ち、半ば衝動的に彼女を保健室にまで連れてきた。
椅子に促し、彼女と向き合う形で腰かける。
午後になると保健室は西日に当てられ、暴力的な光が差し込む。カーテンを閉めていても突き抜ける日差しが室内を明るく灯す。わずかに開いたカーテンの隙間から光が顔を出し、テーブルには光芒が伸びていた。それを、彼女は静かに見つめている。
彼女の名前は依田麻央。偶然にも櫻間さんと同じ三年一組の生徒だった。
「拾う時に見えてしまったんだけど、あの薬は薬局では買えないもののはずです。もしかして、定期的に通院しているのですか?それか、過去に通院履歴があるとか」
依田さんの鞄から落ちた薬は、医師が直接処方箋を出した時にしか受け取れない処方箋医薬品だった。薬の包装シートに印字された【ハルシオン】という文字。即効力のある睡眠薬で間違いない。
「中学の時に不眠症で通院していました。でも、今は眠れています。だから飲んでいません。この薬はお守りみたいなもので、持っていると心が落ち着くんです」
医師から休薬を勧められ、薬が手放せられる体になったとしても完治したとは言えない。薬なしで眠れるようになったという嬉々とした安堵感で包まれるのは休薬に成功した最初だけで、眠れなかった日が一日でも訪れると一気に不安が顔を出す。また眠れなくなったらどうしようという不安障害に襲われ、また再発する。そんな時、心の拠り所があると不安を和らげることができる。依田さんは、睡眠薬を持つことで不安を軽減させてきたのだろう。
「これもある意味、薬に依存している状態なのかもしれません」
「人は何かにちょっとずつ依存しないと生きていけないものです。だから、今手放せないものを無理に手放す必要はありませんよ」
伸びていた依田さんの背筋が緩み、猫背になる。彼女の緊張がスルスルと抜けていく。
彼女は大丈夫だ。依田さんは、櫻間さんではない。彼女は彼女自身で不安と戦い、乗り越え、今を懸命に生きている。
私もまた、依田さんと同じように緊張を解放した。
「ぜひ保健室も依田さんの心の拠り所に追加してくれると嬉しいです。上手く寝付けなくて授業に支障をきたすほどの眠気が昼間に襲ってきたら、遠慮なく保健室に休みに来てください。いつでも歓迎しています」
「ありがとうございます」
依田さんは丁寧にお辞儀をして保健室を去って行った。
外の喧噪が聞こえる。グラウンドでは部活動生の声が飛んでいて、上の階では吹奏楽部員が楽器を鳴らしている。晴れ間を思わせるようなトランペットの豪快で軽やかな音は、落ち込み気味だった心を晴れやかにさせた。

