*
「なんで俺たちまで部活動停止なんだよ!」
誰かの怒号が聞こえた。
声のするほうへ視線を向けると、職員室の扉の前で数人の生徒と教員が押し問答しているのが見えた。
「アイツらが勝手にやったことだろ!こんな時まで連帯責任とかふざけんなよ!」
「俺たちの最後のインターハイどうなんだよ!」
どうやら彼らは全員陸上部員の三年生で、今回の盗撮事件には全く関与していない生徒たちだった。
突然の盗撮騒ぎ、学校側は内密に犯人特定に奮起する中で陸上部員の犯行だと判明し、その日のうちに陸上部の部活動停止が言い渡されていた。何も知らない目の前の彼らにとっては、瞬きしている間の出来事だったのだろう。彼らも等しく盗撮事件の被害者であった。
「陸上部の今後の活動については、今も継続で審議中だ。今はまだなんとも言えん」
「ふざけんなよ!審議っていつまでかかんだよ!結果が出るまで俺たちは大人しく待ってろってことかよ!」
「そうだ」
「なんでだよ!俺たち何もしてねぇじゃん!学校は何もしてない生徒のことも同じように処分するのかよ!」
巻き込み事故で理不尽な処罰が下ろうとしている。彼らは喉が掠れ、声が裏返ってしまうほどの声量で訴えていた。悲痛な心の叫びは、声を大きくすることでしか示せないことにやるせなさを覚え、どうすることもできない悔しさで胸が痛んだ。
おそらく陸上部の活動停止は免れないだろう。
今後、学校側は保護者説明会を開き、監督不行き届きとして保護者に誠心誠意の謝罪をすることになる。そうなると、必然的に学校の不祥事としてこのことはすぐに公になるだろう。メディアの餌食となり、記事には学校の名前だけでなく、陸上部員と載る可能性は高い。学校に非難が集まるのは仕方のないことだが、加害者全員が陸上部員の犯行だと知られれば、関与していない陸上部員も盗撮の加害者だという目を向けられてしまう。ましてや本校の陸上部は全国で結果を出したことのある生徒が在席している強豪だ。盗撮した生徒がいる陸上部をこのままインターハイに出場させていいのかと訴える人は必ず出てくる。今はネット社会だ。そういうものに飛びつく不届き者は必ずいる。
この日本は自分を裁判官だと思い込んでいる人が多い。コメンテーター気取りで「私個人の見解では」と口にする人が山ほどいる。ここは、赤の他人に非難され、ネットに顔を晒され、SNSで悪態を吐かれる世界だ。
全く関与していない陸上部員が叩かれるのだけは避けたい学校側は、心を鬼にして陸上部の活動停止を表明するだろう。生徒の気持ちを優先して、インターハイに出場させるのは現地点で広く見ても得策だとは言えない。
「なんでこうなるんだよ!俺たちが一体何したって言うんだよ!」
彼らは断腸の思いで叫んでいた。
「私たちの存在ってちっぽけですよね」
同じく騒ぎを聞きつけた嗣永先生が私の隣で弱音をポロッとこぼした。彼女とは盗撮動画の確認でここ最近頻繁にコミュニケーションをとっている。
「本当ですね」
嗣永先生の言うとおり、私たちの存在なんてちっぽけだ。生徒を正しい方向へと導くこともできなければ、彼らの叫びに何て言葉を返していいかもわからない。それなのに、監督者として選択しなければいけない。
「葛西先生、今日は休みだそうです」
「え?」
「無理もないですよ。昨日、犯行を認めた彼らの話を聞いてひどく落ち込んでいたし、夏のインターハイも気合い入っていましたから。休日出勤して陸上部員のサポートも献身的に行っていましたし、今年は葛西先生のおかげで他校との練習会も多かったみたいですよ。有名な指導者が数回にわたり本校の陸上部に足を運んだのは、葛西先生が何度も頭を下げてお願いしたからと聞いています。尽力した分、心が折れてしまったんでしょう」
「……そうかも、しれないですね」
葛西先生は面倒見がよかった。何事にも全力で、間違いなく葛西先生の良いところである。だが、それは良い面から見た葛西先生であって、別の面から見れば一概にも良いとは言えなかった。
葛西先生の熱が陸上部に入れば入るほど、他の業務が疎かになってしまうところを度々職員会議で指摘されていたのだ。以前、生徒会役員が行うボランティア活動の引率を忘れていたことがあった。その他にも、授業速度が他の先生よりも遅れていたり、校長先生や教頭先生に提出する書類を指摘されるまで忘れていたりと、ミスが明らかに増えた。葛西先生は決して器用な人ではなかった。一つの事柄に没頭すると、他のことを見落としがちなところが葛西先生の弱点だと言えるだろう。
その弱点が生徒へと働いたら、と考えたことがあった。ある生徒を贔屓すれば、他の生徒の異変に気づきづらくなってしまうのではないかと。
私は慌ててかぶりを振った。
よくない思考回路だ。これでは、葛西先生に責任転嫁しているのと同じだ。
「棗先生聞きましたか?保護者説明会の日程、今週の日曜日になったそうです」
嗣永先生だけは私を“棗先生”と下の名前で呼んでいる。いつの間にかそう呼ばれていた。
「迅速な対応ですね」
「はい、平日だと仕事で来られない保護者にも考慮して日曜日にしたみたいです。被害に遭った女子生徒には各々担任から直接保護者に連絡を入れていくそうです。三者面談も行うことで話が進んでいます。棗先生も被害者生徒のケアをこれから進めていくそうですね」
「ええ、大丈夫だと訴える生徒にも一度話を聞くつもりです」
「それがいいです。高校生ってやたらと我慢強くて、なぜか強がる節がありますから」
「そうですね。私自身至らない点ばかりなのに、任せてくれる先生方の期待を裏切らないよう慎重に彼女たちと対話していくつもりです」
「私たちは、棗先生が棗先生なりのやり方で生徒たちと向き合う姿をたくさん見てきたので、期待を裏切るなんていう心配はしていないですよ。どうか、生徒たちのことだけを考えてください。棗先生が自分の価値を下げてはダメです」
彼女は外国語を担当科目にしている。一時期アメリカに住んでいたことがあるせいか、どんな局面でも人懐っこい笑顔を崩さない陽気な先生だ。表情から滲み出る明朗なところが生徒にも好かれている。
今の緊迫した状況化での嗣永先生から放たれる朗らかな空気は、間違いなく私の滋養になっていた。
「ありがとうございます、嗣永先生」
「いーえ」
嗣永先生は私にニコリと微笑むと、騒ぎの場へと近づいていく。
憤りが収まらない彼らを必死に宥め、この場をなんとか収めようとしている。彼らにもケアは必要だ。
調査はつづき、保護者も交えての加害者生徒との面談が行われた。彼らは事の重大さを日に日に思い知っているのかどんどん気落ちしているのが目に見えてわかった。
面談の記録を私も読ませてもらった。
どうして盗撮したのかという質問には、彼らの本音が綴られていた。
二年生になってから記録が伸び悩んでおり終始イライラしていた。拍車をかけるように、推薦で入学した後輩の勢いのある追い上げに焦りを感じ、さらに記録は悪くなる一方だった。
顧問でありコーチの的場先生は、好記録を出した生徒ばかりに付きっきりで自分たちのことなど二の次。二軍の自分たちには陸上経験がまったくない葛西先生ばかりがタイムキーパーとして付き、付け焼き刃で覚えたような基礎知識をアドバイスされ、尽力しているような顔で立つ葛西先生にも苛立っていた。
なんでもいいからストレスを発散させたかった。息抜きがほしかった。意外とバレなくて、女子更衣室に入るスリルを止められなかった。
矢野君が話してくれたことと大体同じ供述が記録に記されていた。
読み進めていくと、矢野君が供述した日にわかった食い違いがここで触れられた。
「それ、やっぱり変ですよね」
私が顔を顰めた箇所に、嗣永先生も反応する。
【元陸上部の谷口、広瀬と、現陸上部の矢野、伊佐木、松下、双方同じく盗撮動画をメッセージアプリで共有していないと否定する】
ここが食い違っているのだ。
盗撮動画が送られてきたのは五月。矢野君には谷口君から、伊佐木君と松下君には広瀬君から送られてきており、辞めた二人とは距離を置いていた三人はその動画を無視した。一方、谷口君は伊佐木君から、広瀬君は松下君から盗撮動画が送られてきており、陸上部を辞めて関わりを絶った二人も同じくその動画を無視した。
それぞれの供述どおり、送られてきた動画はトーク履歴として証拠に残されており、どちらかが嘘をついているわけではなかった。だが、送った形跡は誰一人として残されていなかった。
「どちらかが嘘をついているということは?ほら、トーク履歴は簡単に消せますし、消したい部分を指定して消すこともできるので」
「その可能性も視野に入れていますが、そもそも彼らの誰もビデオカメラをスマホに転送していないと言い切っているんです。それぞれのメッセージアプリに動画が送られてきたのが五月ですが、ビデオカメラが突然紛失したのは去年の冬頃だと彼らは言っていて、そこの主張は全員が一致しているんです」
「ということは、去年の冬から彼らは誰一人としてカメラに触れていないということですか?」
「彼らの発言を信じるのであれば、そうなります。実際、警察が復元したデータ元を遡ってみたんですが、去年の冬の十二月の盗撮を機に、一切の撮影が行われていませんでした。その時期が彼らの言う、ビデオカメラが紛失した時期だと思うんです。そこから使用履歴は五月十日へと飛んでいます。そして、それぞれのスマホに動画が送られてきたのは五月十五日。五日後の出来事です。二つの動画を見比べてみたところ同じ動画だということもわかりました」
「となると、ビデオカメラが紛失したと思い込んでいる彼らは、クラスマッチの日の盗撮も彼らの誰でもないということになりますよね」
「そうです。それも否定しています。だから、全員最初は否定していたんです。この盗撮には自分は関与していないということだったのかと」
その主張が事実なのだとすれば、あの時の彼らの飄々とした態度も肯ける。
私は記録に戻る。
動画が送られてきた時、陸上部の三人は「ビデオカメラを見つけた谷口たちがまた盗撮して、見せびらかすために俺たちにも送ってきたのかと思った」と答え、陸上部を辞めた二人も同様に「どこかでビデオカメラを見つけた矢野たちが撮影して、仲間感覚で俺たちにも送ってきたとばかり思っていた」と答えた。
どちらも同じようなことを言っているが、確かに食い違っている。
私は、頭を抱えた。
誰かが嘘をついているのかもしれない。そうやって生徒を疑いつづけなければいけないことに罪悪感がストレスとなって降りかかってくる。
「なんか、想像以上にややこしくなっていますよね」
「はい、かなり。スマホだとこうはならなかったです」
盗撮している物がスマホだったら、見つかった段階でおのずと持ち主もわかっていた。だが、部費で購入し部全体で使っているビデオカメラでの盗撮なら、部員だけでなく誰でも「借りるね」の一言でカメラを使用することができる。
ビデオカメラの存在が見つかっても、自分たちが盗撮していたことがバレないよう、彼らは悪い知恵をつけて行動に移していたのだ。結果、複雑化してしまった。
「そろそろ被害者生徒との面談時間ですよね」
「はい」
「長居してしまってすみません。では、私はこれで失礼します」
嗣永先生は煮え切らない顔で保健室を退室していった。
血を舐めた時のような舌に残る嫌な味がしていた。口の中を洗い流すようにグラスに入った緑茶を一気に飲み干し、気持ちを切り替える。
今日から保健室では被害者生徒の面談とケアを行うことになっていた。
盗撮された動画の中に映り込んでいた女子生徒の保護者にはすでに事情を説明し、おそらく生徒にも担任が報告をいれているだろう。
何度か深呼吸をしていると、扉をノックする音が聞こえた。恐る恐る開かれた扉から女子生徒が現れる。
「こんにちは。閨谷伊月さんですね」
「……はい」
「授業中なのに呼び出してしまってすみません。担任の先生から話は伺っているかと思います。今日はそのことであなたにいくつかの質問をしたいと思って来てもらいました。お話を伺いたいので、楽にして座ってください」
冒頭に説明を入れると、女子生徒は椅子に腰かける。
私は保健室の扉に【面談中のため入室禁止】という看板を掲げてから、彼女と向い合わせで腰かけた。
面談は三年生からはじまった。受験生ということもあり早めにケアをするべきだと主張して許可をもらった。他の教員にも理解してもらい、協力を要請した。
決してスムーズとは言えないが、被害者生徒の理解もあって面談はそれほどまでに長引くことはなかった。
昼休憩に入って、面談した生徒の記録を再度振り返りながらまとめ直す。
盗撮と聞いた彼女たちの捉え方は、想像通り人それぞれだった。
「ネットに回っていないなら、退学みたいな大きな処分は望まない」と彼らに同情心を見せる生徒もいれば、「男子生徒の視線が気持ち悪く感じるようになった」と心の不調を訴える生徒もいた。後者の生徒は数回にわたってのケアが必要になるだろう。
午後の授業がはじまり、また扉がノックされる。次は誰だったかと確認する暇もなく、扉は開かれた。瞬間、空気の色が変わる。
「どうも、男乕先生」
そうだ。彼女も、被害者生徒の一人だった。
「依田さん、こんにちは」
先日での依田さんの言葉の鋭さに圧倒されたこともあり、緊張感が思い出したようにぶり返す。しばらく尾を引いていた恐怖がこれ見よがしに纏わりつく。
それでも私は大人だから、身につけた対応力で大人ぶる。
「こんにちはー」
しっかりと舐められてしまったのか、間延びした声で挨拶を返された。
「面談って授業中にやるんですね」
そう言いながら早々に椅子へと腰かける。
「すみません、貴重な時間をいただいてしまって」
「先生が謝る必要なんてないですよ。この面談も大事な時間なんですよね?」
「はい。今回の件、お話は親御さんから伺っていますか?」
「盗撮に私も映り込んでいたって話ですよね。聞いています」
「いくつか質問をさせてください。もちろん答えたくなければ、答えたくないと拒否してもらっても構いません。依田さんが今感じている率直な気持ちを教えてほしいのです」
「そうですね。盗撮されていたと聞いて驚きはしましたけど、自分の体が誰かの目を惹くほどの魅力を持っているとは思えないので、映っていたとしても盗撮犯の目には映っていないだろうなっていうのが率直な感想です」
自分の体が不当に消費されたというのに、依田さんは特に傷つけられた様子を見せず、いつもの淡々とした口調で意思表示する。自分の気持ちの話をしているのにどこか他人事のような感情を向けられて少々戸惑う。
「この件で依田さんが自分を卑下する必要はありません。加害者生徒が怖いだとか、怒っているだとか、学校に来るのが不安だとか、そういった心に負荷がかかるような気持ちは持っていないですか?」
「んー、あまり実感が湧かないんですよね。着替え中の自分が映り込んでいたと言われても、どんな感じで映っているかもわからないし。そうだ。その動画って私の部分だけ見せてもらうことってできますか?」
「え?」
初めての要望だった。
「私が映り込んでいる箇所だけでいいんです。私が私の体を見るのは何も問題ないですよね。先生も私たちの動画を見て確認したんですから」
「……わかりました。確認してみるので、少しだけここで待っていてください」
「お願いします」
依田さんの突拍子のない言葉はいつも私の心をざわつかせてくる。
職員室に着くと、教頭先生にこのことを伝え、渋々データを持ち出す許可をもらった。
持ち出し禁止となっているパソコンを大事に抱え保健室に戻ると、それまで一人だった依田さんは優雅に天井を仰いで私を待っていた。
パソコンを起動し、閲覧するためのパスワードを入力する。依田さんが映っていたのは今年の五月に撮影された動画だった。再生バーを右へと動かし、依田さんの姿を探す。
再生準備を整え、ようやく依田さんにパソコン画面を向けると、再生ボタンを押した。
「先生も見ていいですよ」
依田さんがパソコンを私のほうへ少し向けてきたので、条件反射で目を逸らす。
「気にしないでください」
「私がいいって言ったんです。先生にもちゃんと確認してほしいです」
気遣いや同情なんかではない。純粋にそうしてほしいという顔をしていた。
私は彼女の言葉を受け入れ、恐る恐るパソコン画面に目を向けると、タイミングよく着替えを持った依田さんが動画内に映り込んできた。
依田さんは組んだ腕をテーブルに置き、前のめりの体勢で動画を凝視しはじめる。
制服を脱ぎ、キャミソール姿になった依田さんは素早く体操服を被った。スカートの中から体操ズボンを着用したのち、スカートも脱衣する。
依田さんの着替えは比較的肌の露出が少ないほうだったようだ。被害者生徒の中には、薄手のキャミソールによりブラが透けていたり、発育のいい生徒は上からの盗撮で谷間が見えてしまっていたりと、被害の度合いはさまざまだった。
「先生、ちょっと戻してください」
「戻す?」
「十秒ほど」
言われるまま巻き戻し、再生ボタンを押した。依田さんはさらに顔を近づけ動画を確認する。何か怪しいものでも見つけたのだろうかと注意深く依田さんの顔を見つめていると、その目がやけに熱心であるような気がした。それは、依田さんが絵を描くことに没頭している時の目と似ていたからだ。疑問に思った瞬間、依田さんが突然手を伸ばし勝手に画面を停止させた。
「ちょ、ちょっと!勝手に触らないでください!」
盗撮データが入ったパソコンだ。むやみに操作され情報漏洩などしたら、学校にさらなる法的責任が問われる可能性がある。つい大きい声を出してしまった。
「先生、これ見てください」
依田さんは私の指摘を無視して、パソコン画面を指差した。綺麗な指先を辿って画面に視線を向ける。停止された映像には、着替え中の依田さんがブレて映っている。
でも、これが一体なんだと言うのか。何か映り込んでいるのかと視線を配らせる。
感が鈍い私に、依田さんが痺れを切らしたように人差し指を画面に押し当てた。彼女の爪が接触し、カツという音が鳴る。
「櫻間真織がこっちを見ています」
息が洩れた。
依田さんの指を見つめるように、櫻間さんが顔を向けていたのだ。
動画の確認作業中、教員の一人が悲しげにボソリと呟いていたのを思い出した。
────『この時は、まだ櫻間さん生きていたのよね』
櫻間さんも盗撮の被害者生徒だった。だが、彼女はもう存在しない。
私たちは、まるで過ちから目を逸らすように櫻間さんを視界に入れなかった。亡くなった彼女が手足を動かしているのを見るのが辛かったのだ。だから、見落としてしまった。櫻間さんがカメラの場所を知っているかのようにこちらを見ていたことに。
「まるで、カメラの存在を知っているみたい」
依田さんが独り言の声量で呟いた。ひどい憶測だ。だが彼女は性懲りもなく、さらなる憶測を口にするのだ。
「もしかして、陸上部の彼らじゃなく櫻間真織がカメラを置いていたりして」
まさか。
そんなことはありえない話だ。憶測で並び立てるのもいい加減にしてほしい。
そう鼻で笑ってみせるも、心中ざわついていた。
加害者生徒の肩を持つわけではないが、今年の五月の犯行だけは五人全員が否定していて、その事実は記録として残っている。
だからと言って櫻間さんの犯行だとは言えない。別の人の犯行だという推測は立てられても、名指しで彼女の名は出すのはあまりにも不謹慎だ。
────『先生、人って簡単に操れるんですよ、知ってました?』
もしかしたらと思うと、粟立った。
依田さんは故人でさえも優越感の道具にしてしまうのかもしれない。
「単なる憶測で櫻間さんの名前を出すのはよくないです」
「先生は、不慮の事故で死んだ人間のことを白だと思っているんですね。生前にやっていた悪行が死んだら全部真っ白になるとか、そんなのないですよ」
グッと拳を握る。
怒りや憎しみは死んでも忘れないのと同等に、死んで償っても罪が許されることはない。
「ちょっと先生、顔怖いですよ。冗談ですって。さすがにこれだけの情報で死んだ人を犯人扱いするのは先生の言うとおりよくないですよね。死人に口なしもいいとこです」
そうとぼけ口調で肩を竦めた。
意表を突くように核心に触れたり、将棋の駒を動かすように着実に詰めたり、言葉遊びを楽しんでいる依田さんが笑ってみせるだけで悪寒が走る。
「先生大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫です」
ゆっくりと深呼吸し、波立った気持ちを落ち着かせる努力をする。
「もうパソコン閉じても大丈夫ですか?」
「はい。確認できたんで。ありがとうございます。それにしても、あんまり映ってなくてよかったです。安心しました」
依田さんが背もたれに体を預けると、パイプ椅子から錆びた音が鳴る。
「盗撮した生徒はどうなるんですか?やっぱり退学ですか?」
指のささくれを気にしながら、世間話でもするように訊きにくい話題を上げる。
「私には、まだなんとも」
「秘密ですかー」
依田さんは立てた人差し指を唇にあてると、そのまま人差し指の先端を私に向ける。
「私の見解では、退学はないと思っています」
依田さんは続けて、その理由を語る。
「秩序や規律を重要視する学校は三年生の生徒だろうともちろん速攻で退学ですけど、校訓の一つに正しさを掲げている以上は彼らを正しく更生させて卒業させることを見据えている、みたいな?でも、これはあくまで偽善の部分、言わば表向きですよね?犯罪行為を許容したと思われることを避けたい学校側は、彼らにそれとなく自主退学を勧めることを考えているんじゃないですか?まあ、どちらに転んでも先生たちにとっては大変なことに間違いはないですよね。この問題が公になれば監督不行き届きで確実にバッシングを受けるわけだし、親たちの憤慨も収めないといけない。経営も傾いて、給料ダウンとかだったら心身共に死にますよね。先生、辞めるなら今なんじゃないですか?」
依田さんの見解は八割方当たっていたが、動揺はそこではなかった。彼女はラストに私の精神にトドメを刺したのだ。
体の至る所に穴が空いたかのように隙間風が通っていく。自分が崩れていっているのではないかと感じ、咄嗟に自分の体を両腕で抱きしめた。
「あー別に先生の退職を希望しているわけじゃないですよ。ただ、これから先大変だと思うので先生の身を案じてアドバイスしただけです。でも、大人は子供のアドバイスなんて求めてないですよね。すみません、余計なお世話でした。じゃあ、そろそろ失礼しますね。あっ、二回目の面談とかいいんで、私全然気にしてないので」
必死で私が私を取り繕っている間に、依田さんは思い思いにしゃべり倒して気づけば私に背を向けていた。
「あ、はい。貴重な時間を割いていただきありがとうございます」
慌ててお礼を言うと、依田さんは口角を緩めフッと笑った。
「どこまでも低姿勢ですね。前世で何かしたんですか」
最後までこけ下ろすように私を嘲笑って、保健室を去って行った。
依田さんが退室しても彼女の匂いが消えるまで緊迫した空気は続いた。霞んできた頃に、ようやく張り詰めていた糸が一気に緩んだ。
反動で思わず倒れそうになるのを、全身の力を足に送ってなんとか踏みとどまった。
「なんで俺たちまで部活動停止なんだよ!」
誰かの怒号が聞こえた。
声のするほうへ視線を向けると、職員室の扉の前で数人の生徒と教員が押し問答しているのが見えた。
「アイツらが勝手にやったことだろ!こんな時まで連帯責任とかふざけんなよ!」
「俺たちの最後のインターハイどうなんだよ!」
どうやら彼らは全員陸上部員の三年生で、今回の盗撮事件には全く関与していない生徒たちだった。
突然の盗撮騒ぎ、学校側は内密に犯人特定に奮起する中で陸上部員の犯行だと判明し、その日のうちに陸上部の部活動停止が言い渡されていた。何も知らない目の前の彼らにとっては、瞬きしている間の出来事だったのだろう。彼らも等しく盗撮事件の被害者であった。
「陸上部の今後の活動については、今も継続で審議中だ。今はまだなんとも言えん」
「ふざけんなよ!審議っていつまでかかんだよ!結果が出るまで俺たちは大人しく待ってろってことかよ!」
「そうだ」
「なんでだよ!俺たち何もしてねぇじゃん!学校は何もしてない生徒のことも同じように処分するのかよ!」
巻き込み事故で理不尽な処罰が下ろうとしている。彼らは喉が掠れ、声が裏返ってしまうほどの声量で訴えていた。悲痛な心の叫びは、声を大きくすることでしか示せないことにやるせなさを覚え、どうすることもできない悔しさで胸が痛んだ。
おそらく陸上部の活動停止は免れないだろう。
今後、学校側は保護者説明会を開き、監督不行き届きとして保護者に誠心誠意の謝罪をすることになる。そうなると、必然的に学校の不祥事としてこのことはすぐに公になるだろう。メディアの餌食となり、記事には学校の名前だけでなく、陸上部員と載る可能性は高い。学校に非難が集まるのは仕方のないことだが、加害者全員が陸上部員の犯行だと知られれば、関与していない陸上部員も盗撮の加害者だという目を向けられてしまう。ましてや本校の陸上部は全国で結果を出したことのある生徒が在席している強豪だ。盗撮した生徒がいる陸上部をこのままインターハイに出場させていいのかと訴える人は必ず出てくる。今はネット社会だ。そういうものに飛びつく不届き者は必ずいる。
この日本は自分を裁判官だと思い込んでいる人が多い。コメンテーター気取りで「私個人の見解では」と口にする人が山ほどいる。ここは、赤の他人に非難され、ネットに顔を晒され、SNSで悪態を吐かれる世界だ。
全く関与していない陸上部員が叩かれるのだけは避けたい学校側は、心を鬼にして陸上部の活動停止を表明するだろう。生徒の気持ちを優先して、インターハイに出場させるのは現地点で広く見ても得策だとは言えない。
「なんでこうなるんだよ!俺たちが一体何したって言うんだよ!」
彼らは断腸の思いで叫んでいた。
「私たちの存在ってちっぽけですよね」
同じく騒ぎを聞きつけた嗣永先生が私の隣で弱音をポロッとこぼした。彼女とは盗撮動画の確認でここ最近頻繁にコミュニケーションをとっている。
「本当ですね」
嗣永先生の言うとおり、私たちの存在なんてちっぽけだ。生徒を正しい方向へと導くこともできなければ、彼らの叫びに何て言葉を返していいかもわからない。それなのに、監督者として選択しなければいけない。
「葛西先生、今日は休みだそうです」
「え?」
「無理もないですよ。昨日、犯行を認めた彼らの話を聞いてひどく落ち込んでいたし、夏のインターハイも気合い入っていましたから。休日出勤して陸上部員のサポートも献身的に行っていましたし、今年は葛西先生のおかげで他校との練習会も多かったみたいですよ。有名な指導者が数回にわたり本校の陸上部に足を運んだのは、葛西先生が何度も頭を下げてお願いしたからと聞いています。尽力した分、心が折れてしまったんでしょう」
「……そうかも、しれないですね」
葛西先生は面倒見がよかった。何事にも全力で、間違いなく葛西先生の良いところである。だが、それは良い面から見た葛西先生であって、別の面から見れば一概にも良いとは言えなかった。
葛西先生の熱が陸上部に入れば入るほど、他の業務が疎かになってしまうところを度々職員会議で指摘されていたのだ。以前、生徒会役員が行うボランティア活動の引率を忘れていたことがあった。その他にも、授業速度が他の先生よりも遅れていたり、校長先生や教頭先生に提出する書類を指摘されるまで忘れていたりと、ミスが明らかに増えた。葛西先生は決して器用な人ではなかった。一つの事柄に没頭すると、他のことを見落としがちなところが葛西先生の弱点だと言えるだろう。
その弱点が生徒へと働いたら、と考えたことがあった。ある生徒を贔屓すれば、他の生徒の異変に気づきづらくなってしまうのではないかと。
私は慌ててかぶりを振った。
よくない思考回路だ。これでは、葛西先生に責任転嫁しているのと同じだ。
「棗先生聞きましたか?保護者説明会の日程、今週の日曜日になったそうです」
嗣永先生だけは私を“棗先生”と下の名前で呼んでいる。いつの間にかそう呼ばれていた。
「迅速な対応ですね」
「はい、平日だと仕事で来られない保護者にも考慮して日曜日にしたみたいです。被害に遭った女子生徒には各々担任から直接保護者に連絡を入れていくそうです。三者面談も行うことで話が進んでいます。棗先生も被害者生徒のケアをこれから進めていくそうですね」
「ええ、大丈夫だと訴える生徒にも一度話を聞くつもりです」
「それがいいです。高校生ってやたらと我慢強くて、なぜか強がる節がありますから」
「そうですね。私自身至らない点ばかりなのに、任せてくれる先生方の期待を裏切らないよう慎重に彼女たちと対話していくつもりです」
「私たちは、棗先生が棗先生なりのやり方で生徒たちと向き合う姿をたくさん見てきたので、期待を裏切るなんていう心配はしていないですよ。どうか、生徒たちのことだけを考えてください。棗先生が自分の価値を下げてはダメです」
彼女は外国語を担当科目にしている。一時期アメリカに住んでいたことがあるせいか、どんな局面でも人懐っこい笑顔を崩さない陽気な先生だ。表情から滲み出る明朗なところが生徒にも好かれている。
今の緊迫した状況化での嗣永先生から放たれる朗らかな空気は、間違いなく私の滋養になっていた。
「ありがとうございます、嗣永先生」
「いーえ」
嗣永先生は私にニコリと微笑むと、騒ぎの場へと近づいていく。
憤りが収まらない彼らを必死に宥め、この場をなんとか収めようとしている。彼らにもケアは必要だ。
調査はつづき、保護者も交えての加害者生徒との面談が行われた。彼らは事の重大さを日に日に思い知っているのかどんどん気落ちしているのが目に見えてわかった。
面談の記録を私も読ませてもらった。
どうして盗撮したのかという質問には、彼らの本音が綴られていた。
二年生になってから記録が伸び悩んでおり終始イライラしていた。拍車をかけるように、推薦で入学した後輩の勢いのある追い上げに焦りを感じ、さらに記録は悪くなる一方だった。
顧問でありコーチの的場先生は、好記録を出した生徒ばかりに付きっきりで自分たちのことなど二の次。二軍の自分たちには陸上経験がまったくない葛西先生ばかりがタイムキーパーとして付き、付け焼き刃で覚えたような基礎知識をアドバイスされ、尽力しているような顔で立つ葛西先生にも苛立っていた。
なんでもいいからストレスを発散させたかった。息抜きがほしかった。意外とバレなくて、女子更衣室に入るスリルを止められなかった。
矢野君が話してくれたことと大体同じ供述が記録に記されていた。
読み進めていくと、矢野君が供述した日にわかった食い違いがここで触れられた。
「それ、やっぱり変ですよね」
私が顔を顰めた箇所に、嗣永先生も反応する。
【元陸上部の谷口、広瀬と、現陸上部の矢野、伊佐木、松下、双方同じく盗撮動画をメッセージアプリで共有していないと否定する】
ここが食い違っているのだ。
盗撮動画が送られてきたのは五月。矢野君には谷口君から、伊佐木君と松下君には広瀬君から送られてきており、辞めた二人とは距離を置いていた三人はその動画を無視した。一方、谷口君は伊佐木君から、広瀬君は松下君から盗撮動画が送られてきており、陸上部を辞めて関わりを絶った二人も同じくその動画を無視した。
それぞれの供述どおり、送られてきた動画はトーク履歴として証拠に残されており、どちらかが嘘をついているわけではなかった。だが、送った形跡は誰一人として残されていなかった。
「どちらかが嘘をついているということは?ほら、トーク履歴は簡単に消せますし、消したい部分を指定して消すこともできるので」
「その可能性も視野に入れていますが、そもそも彼らの誰もビデオカメラをスマホに転送していないと言い切っているんです。それぞれのメッセージアプリに動画が送られてきたのが五月ですが、ビデオカメラが突然紛失したのは去年の冬頃だと彼らは言っていて、そこの主張は全員が一致しているんです」
「ということは、去年の冬から彼らは誰一人としてカメラに触れていないということですか?」
「彼らの発言を信じるのであれば、そうなります。実際、警察が復元したデータ元を遡ってみたんですが、去年の冬の十二月の盗撮を機に、一切の撮影が行われていませんでした。その時期が彼らの言う、ビデオカメラが紛失した時期だと思うんです。そこから使用履歴は五月十日へと飛んでいます。そして、それぞれのスマホに動画が送られてきたのは五月十五日。五日後の出来事です。二つの動画を見比べてみたところ同じ動画だということもわかりました」
「となると、ビデオカメラが紛失したと思い込んでいる彼らは、クラスマッチの日の盗撮も彼らの誰でもないということになりますよね」
「そうです。それも否定しています。だから、全員最初は否定していたんです。この盗撮には自分は関与していないということだったのかと」
その主張が事実なのだとすれば、あの時の彼らの飄々とした態度も肯ける。
私は記録に戻る。
動画が送られてきた時、陸上部の三人は「ビデオカメラを見つけた谷口たちがまた盗撮して、見せびらかすために俺たちにも送ってきたのかと思った」と答え、陸上部を辞めた二人も同様に「どこかでビデオカメラを見つけた矢野たちが撮影して、仲間感覚で俺たちにも送ってきたとばかり思っていた」と答えた。
どちらも同じようなことを言っているが、確かに食い違っている。
私は、頭を抱えた。
誰かが嘘をついているのかもしれない。そうやって生徒を疑いつづけなければいけないことに罪悪感がストレスとなって降りかかってくる。
「なんか、想像以上にややこしくなっていますよね」
「はい、かなり。スマホだとこうはならなかったです」
盗撮している物がスマホだったら、見つかった段階でおのずと持ち主もわかっていた。だが、部費で購入し部全体で使っているビデオカメラでの盗撮なら、部員だけでなく誰でも「借りるね」の一言でカメラを使用することができる。
ビデオカメラの存在が見つかっても、自分たちが盗撮していたことがバレないよう、彼らは悪い知恵をつけて行動に移していたのだ。結果、複雑化してしまった。
「そろそろ被害者生徒との面談時間ですよね」
「はい」
「長居してしまってすみません。では、私はこれで失礼します」
嗣永先生は煮え切らない顔で保健室を退室していった。
血を舐めた時のような舌に残る嫌な味がしていた。口の中を洗い流すようにグラスに入った緑茶を一気に飲み干し、気持ちを切り替える。
今日から保健室では被害者生徒の面談とケアを行うことになっていた。
盗撮された動画の中に映り込んでいた女子生徒の保護者にはすでに事情を説明し、おそらく生徒にも担任が報告をいれているだろう。
何度か深呼吸をしていると、扉をノックする音が聞こえた。恐る恐る開かれた扉から女子生徒が現れる。
「こんにちは。閨谷伊月さんですね」
「……はい」
「授業中なのに呼び出してしまってすみません。担任の先生から話は伺っているかと思います。今日はそのことであなたにいくつかの質問をしたいと思って来てもらいました。お話を伺いたいので、楽にして座ってください」
冒頭に説明を入れると、女子生徒は椅子に腰かける。
私は保健室の扉に【面談中のため入室禁止】という看板を掲げてから、彼女と向い合わせで腰かけた。
面談は三年生からはじまった。受験生ということもあり早めにケアをするべきだと主張して許可をもらった。他の教員にも理解してもらい、協力を要請した。
決してスムーズとは言えないが、被害者生徒の理解もあって面談はそれほどまでに長引くことはなかった。
昼休憩に入って、面談した生徒の記録を再度振り返りながらまとめ直す。
盗撮と聞いた彼女たちの捉え方は、想像通り人それぞれだった。
「ネットに回っていないなら、退学みたいな大きな処分は望まない」と彼らに同情心を見せる生徒もいれば、「男子生徒の視線が気持ち悪く感じるようになった」と心の不調を訴える生徒もいた。後者の生徒は数回にわたってのケアが必要になるだろう。
午後の授業がはじまり、また扉がノックされる。次は誰だったかと確認する暇もなく、扉は開かれた。瞬間、空気の色が変わる。
「どうも、男乕先生」
そうだ。彼女も、被害者生徒の一人だった。
「依田さん、こんにちは」
先日での依田さんの言葉の鋭さに圧倒されたこともあり、緊張感が思い出したようにぶり返す。しばらく尾を引いていた恐怖がこれ見よがしに纏わりつく。
それでも私は大人だから、身につけた対応力で大人ぶる。
「こんにちはー」
しっかりと舐められてしまったのか、間延びした声で挨拶を返された。
「面談って授業中にやるんですね」
そう言いながら早々に椅子へと腰かける。
「すみません、貴重な時間をいただいてしまって」
「先生が謝る必要なんてないですよ。この面談も大事な時間なんですよね?」
「はい。今回の件、お話は親御さんから伺っていますか?」
「盗撮に私も映り込んでいたって話ですよね。聞いています」
「いくつか質問をさせてください。もちろん答えたくなければ、答えたくないと拒否してもらっても構いません。依田さんが今感じている率直な気持ちを教えてほしいのです」
「そうですね。盗撮されていたと聞いて驚きはしましたけど、自分の体が誰かの目を惹くほどの魅力を持っているとは思えないので、映っていたとしても盗撮犯の目には映っていないだろうなっていうのが率直な感想です」
自分の体が不当に消費されたというのに、依田さんは特に傷つけられた様子を見せず、いつもの淡々とした口調で意思表示する。自分の気持ちの話をしているのにどこか他人事のような感情を向けられて少々戸惑う。
「この件で依田さんが自分を卑下する必要はありません。加害者生徒が怖いだとか、怒っているだとか、学校に来るのが不安だとか、そういった心に負荷がかかるような気持ちは持っていないですか?」
「んー、あまり実感が湧かないんですよね。着替え中の自分が映り込んでいたと言われても、どんな感じで映っているかもわからないし。そうだ。その動画って私の部分だけ見せてもらうことってできますか?」
「え?」
初めての要望だった。
「私が映り込んでいる箇所だけでいいんです。私が私の体を見るのは何も問題ないですよね。先生も私たちの動画を見て確認したんですから」
「……わかりました。確認してみるので、少しだけここで待っていてください」
「お願いします」
依田さんの突拍子のない言葉はいつも私の心をざわつかせてくる。
職員室に着くと、教頭先生にこのことを伝え、渋々データを持ち出す許可をもらった。
持ち出し禁止となっているパソコンを大事に抱え保健室に戻ると、それまで一人だった依田さんは優雅に天井を仰いで私を待っていた。
パソコンを起動し、閲覧するためのパスワードを入力する。依田さんが映っていたのは今年の五月に撮影された動画だった。再生バーを右へと動かし、依田さんの姿を探す。
再生準備を整え、ようやく依田さんにパソコン画面を向けると、再生ボタンを押した。
「先生も見ていいですよ」
依田さんがパソコンを私のほうへ少し向けてきたので、条件反射で目を逸らす。
「気にしないでください」
「私がいいって言ったんです。先生にもちゃんと確認してほしいです」
気遣いや同情なんかではない。純粋にそうしてほしいという顔をしていた。
私は彼女の言葉を受け入れ、恐る恐るパソコン画面に目を向けると、タイミングよく着替えを持った依田さんが動画内に映り込んできた。
依田さんは組んだ腕をテーブルに置き、前のめりの体勢で動画を凝視しはじめる。
制服を脱ぎ、キャミソール姿になった依田さんは素早く体操服を被った。スカートの中から体操ズボンを着用したのち、スカートも脱衣する。
依田さんの着替えは比較的肌の露出が少ないほうだったようだ。被害者生徒の中には、薄手のキャミソールによりブラが透けていたり、発育のいい生徒は上からの盗撮で谷間が見えてしまっていたりと、被害の度合いはさまざまだった。
「先生、ちょっと戻してください」
「戻す?」
「十秒ほど」
言われるまま巻き戻し、再生ボタンを押した。依田さんはさらに顔を近づけ動画を確認する。何か怪しいものでも見つけたのだろうかと注意深く依田さんの顔を見つめていると、その目がやけに熱心であるような気がした。それは、依田さんが絵を描くことに没頭している時の目と似ていたからだ。疑問に思った瞬間、依田さんが突然手を伸ばし勝手に画面を停止させた。
「ちょ、ちょっと!勝手に触らないでください!」
盗撮データが入ったパソコンだ。むやみに操作され情報漏洩などしたら、学校にさらなる法的責任が問われる可能性がある。つい大きい声を出してしまった。
「先生、これ見てください」
依田さんは私の指摘を無視して、パソコン画面を指差した。綺麗な指先を辿って画面に視線を向ける。停止された映像には、着替え中の依田さんがブレて映っている。
でも、これが一体なんだと言うのか。何か映り込んでいるのかと視線を配らせる。
感が鈍い私に、依田さんが痺れを切らしたように人差し指を画面に押し当てた。彼女の爪が接触し、カツという音が鳴る。
「櫻間真織がこっちを見ています」
息が洩れた。
依田さんの指を見つめるように、櫻間さんが顔を向けていたのだ。
動画の確認作業中、教員の一人が悲しげにボソリと呟いていたのを思い出した。
────『この時は、まだ櫻間さん生きていたのよね』
櫻間さんも盗撮の被害者生徒だった。だが、彼女はもう存在しない。
私たちは、まるで過ちから目を逸らすように櫻間さんを視界に入れなかった。亡くなった彼女が手足を動かしているのを見るのが辛かったのだ。だから、見落としてしまった。櫻間さんがカメラの場所を知っているかのようにこちらを見ていたことに。
「まるで、カメラの存在を知っているみたい」
依田さんが独り言の声量で呟いた。ひどい憶測だ。だが彼女は性懲りもなく、さらなる憶測を口にするのだ。
「もしかして、陸上部の彼らじゃなく櫻間真織がカメラを置いていたりして」
まさか。
そんなことはありえない話だ。憶測で並び立てるのもいい加減にしてほしい。
そう鼻で笑ってみせるも、心中ざわついていた。
加害者生徒の肩を持つわけではないが、今年の五月の犯行だけは五人全員が否定していて、その事実は記録として残っている。
だからと言って櫻間さんの犯行だとは言えない。別の人の犯行だという推測は立てられても、名指しで彼女の名は出すのはあまりにも不謹慎だ。
────『先生、人って簡単に操れるんですよ、知ってました?』
もしかしたらと思うと、粟立った。
依田さんは故人でさえも優越感の道具にしてしまうのかもしれない。
「単なる憶測で櫻間さんの名前を出すのはよくないです」
「先生は、不慮の事故で死んだ人間のことを白だと思っているんですね。生前にやっていた悪行が死んだら全部真っ白になるとか、そんなのないですよ」
グッと拳を握る。
怒りや憎しみは死んでも忘れないのと同等に、死んで償っても罪が許されることはない。
「ちょっと先生、顔怖いですよ。冗談ですって。さすがにこれだけの情報で死んだ人を犯人扱いするのは先生の言うとおりよくないですよね。死人に口なしもいいとこです」
そうとぼけ口調で肩を竦めた。
意表を突くように核心に触れたり、将棋の駒を動かすように着実に詰めたり、言葉遊びを楽しんでいる依田さんが笑ってみせるだけで悪寒が走る。
「先生大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫です」
ゆっくりと深呼吸し、波立った気持ちを落ち着かせる努力をする。
「もうパソコン閉じても大丈夫ですか?」
「はい。確認できたんで。ありがとうございます。それにしても、あんまり映ってなくてよかったです。安心しました」
依田さんが背もたれに体を預けると、パイプ椅子から錆びた音が鳴る。
「盗撮した生徒はどうなるんですか?やっぱり退学ですか?」
指のささくれを気にしながら、世間話でもするように訊きにくい話題を上げる。
「私には、まだなんとも」
「秘密ですかー」
依田さんは立てた人差し指を唇にあてると、そのまま人差し指の先端を私に向ける。
「私の見解では、退学はないと思っています」
依田さんは続けて、その理由を語る。
「秩序や規律を重要視する学校は三年生の生徒だろうともちろん速攻で退学ですけど、校訓の一つに正しさを掲げている以上は彼らを正しく更生させて卒業させることを見据えている、みたいな?でも、これはあくまで偽善の部分、言わば表向きですよね?犯罪行為を許容したと思われることを避けたい学校側は、彼らにそれとなく自主退学を勧めることを考えているんじゃないですか?まあ、どちらに転んでも先生たちにとっては大変なことに間違いはないですよね。この問題が公になれば監督不行き届きで確実にバッシングを受けるわけだし、親たちの憤慨も収めないといけない。経営も傾いて、給料ダウンとかだったら心身共に死にますよね。先生、辞めるなら今なんじゃないですか?」
依田さんの見解は八割方当たっていたが、動揺はそこではなかった。彼女はラストに私の精神にトドメを刺したのだ。
体の至る所に穴が空いたかのように隙間風が通っていく。自分が崩れていっているのではないかと感じ、咄嗟に自分の体を両腕で抱きしめた。
「あー別に先生の退職を希望しているわけじゃないですよ。ただ、これから先大変だと思うので先生の身を案じてアドバイスしただけです。でも、大人は子供のアドバイスなんて求めてないですよね。すみません、余計なお世話でした。じゃあ、そろそろ失礼しますね。あっ、二回目の面談とかいいんで、私全然気にしてないので」
必死で私が私を取り繕っている間に、依田さんは思い思いにしゃべり倒して気づけば私に背を向けていた。
「あ、はい。貴重な時間を割いていただきありがとうございます」
慌ててお礼を言うと、依田さんは口角を緩めフッと笑った。
「どこまでも低姿勢ですね。前世で何かしたんですか」
最後までこけ下ろすように私を嘲笑って、保健室を去って行った。
依田さんが退室しても彼女の匂いが消えるまで緊迫した空気は続いた。霞んできた頃に、ようやく張り詰めていた糸が一気に緩んだ。
反動で思わず倒れそうになるのを、全身の力を足に送ってなんとか踏みとどまった。

