すれ違う生徒はどこか浮き足立っていた。
 それもそのはず今日は全授業を廃止して、一学期のクラスマッチが行われる。女子は体育館でのバスケ、男子はグラウンドでのサッカーと毎回代わり映えしない競技が組まれている。
 クラスマッチは主に生徒会が主導で動かすことになっていて、教員は少しばかりの休息を得る。職員室から一歩も出てこない教員もいれば、監督者の立ち位置で居座る教員もいる。中には生徒に混じってクラスマッチに参加する教員もいて、生徒との距離感は教員それぞれだった。
 私はというと変わらず保健室に在席している。普段の授業カリキュラムと違いクラスマッチは運動であり競技なので、怪我で保健室に訪れる生徒は当然増える。そのため、今日のような行事ごとでは保健室から出ないことが好ましいのだ。

 保健室の窓からはグラウンドが見え、生徒のはしゃいだ姿や声が確認できる。
 生徒たちの威勢のいい声に笑みをこぼしながら、気持ちを切り替え手元へと視線を落とす。
 私の手には葛西先生から借りた佐倉さんの読書感想文がある。葛西先生に佐倉さんが書いた読書感想文を読みたい旨を伝えると、保管していたファイルから抜き出して渡してくれたのだ。
 彼女が読書感想文を書いたのは今からちょうど一年前の二年生の時だ。作文用紙二枚にわたって、読んだ小説についての見解と共感を述べていた。何百万という応募数の中から表彰されるのは難しく、当然結果は残念で終わった。
 佐倉さんの読書感想文は葛西先生から見て、著者が綴った物語や文章の着眼点は興味深かったものの、審査員が評価をつけるほどの読書感想文にはまだ遠く、詰めが甘い箇所が多かったそう。再度手直しを促してみたが、佐倉さんは首を縦には振らず、提出期限も迫っていたためこのまま提出せざるを得なかったと惜しそうな顔で葛西先生が当時のことを振り返り教えてくれた。
 さらに目を通していく。
 佐倉さんが選んだ本は、古本屋を趣味で営む店主の孫が主人公だった。いくつもの物語を読んでいる少年が、本の価値を疎かにする人たち一人一人にあった特別な一冊を贈り、その人と真正面で向き合い対話を重ねることで、本を愛していた頃の記憶を取り戻してもらうという情感に訴えてくる物語だった。
 本のあらすじ、展開、それに伴い感じた佐倉さんの見解、共感が丁寧な字で書かれていた。その読書感想文の中でも、最後に書かれた一節に目が留まる。

 【たとえこの主人公が、どれだけの本を読んでいて、どれだけの活字を愛していて、どれだけの物語と出会い、いくつもの価値観を得たとして、それでも人は簡単に言葉で人を殺すことができる。それを主人公は知っておくべきだと思いました】

 本の素晴らしさ、本への敬意、本に救われた共感を綴った佐倉さんだったが、最後にはそれらをすべて投げ払うような否定的な文章で締められていたのだ。
 人生は物語のように綺麗事では収まらないことは読書をする者としては誰もが承知の上。物語は所詮物語であると割り切りながらも、人は共感や救いや痛みを求めて手を伸ばしている。佐倉さんもそうだったはずだ。なのに、彼女は今さら一物語の主人公の雄弁さに敵意を向けているのだ。物語の世界に「ありえない」と異議を唱えている。その変動は違和感でしかない。
 もしかしたら、佐倉さんはこの読書感想文で何かを伝えようとしていたのではないだろうか。気づいてほしい痛みがあったのではないだろうか。
 思案顔で作文を睨んでいると、廊下を踏む無数の足音が聴こえてくる。足音は徐々に近づいてきているのか、よりハッキリと聞こえるようになり、やがて足音が止んだと思えば息つくまもなく保健室の扉が勢いよく開いた。
 目を見張り扉へと視線を移すと、廊下でよく話しかけてくれる女子生徒たちが息を上げて私を見つめる。

 「棗ちゃん!助けて!」
 彼女たちの切羽詰まった表情から、ただならぬ予感が鼻を衝く。

 「女子更衣室でカメラが見つかった!」
 「……え」
 「盗撮されてるの!ちゃんと起動していて、私たち盗撮されていたみたいなの!」
 一人が声を荒らげた。

 私は弾けるように立ち上がる。その拍子に椅子が倒れ、ガシャンという鈍い音が響く。
 “学校内で盗撮”。言葉にするのも恐ろしい問題がまた新たに発生する。非常事態を伝えるかのように、全身の毛が逆立っていた。


 生徒に報告を受けてから、すぐに職員室に在席している教員に一報を入れた。その結果、状況確認のため急遽クラスマッチは一時中断されることとなった。

 カメラが置いてあると報告を受けた女子更衣室、そして男子更衣室は共に一階である第一体育館室の離れとして隣接する形で建てられていた。
 名前のとおり、体育の授業を控えた女子生徒が着替える場所として使われており、放課後は女子バスケ部と女子陸上部の部室としても利用していた。だからなのか、ロッカーの上には部員の部活着やシューズ、整備品や救急箱が雑然と置かれていた。
 一方、教室で堂々と着替える男子は男子更衣室など必要なく、完全に部室と化していた。どうやら男子バスケ部と男子陸上部が空間を譲り合って使っているようだった。
 一報を受け、女性教員は報告しに来た女子生徒と一緒に女子更衣室を確かめに行くと、確かに女子更衣室の真ん中のベンチ椅子にビデオカメラが異物のようにポツンと置かれていた。彼女たちの言う通り、起動中である赤いランプが点灯しており、今もなおカメラはしっかりと撮影されている。

 彼女たちの言い分では、最初ビデオカメラはロッカーの上に置いてあり、扉を強く閉めた拍子にロッカーの上に置かれた物と一緒にビデオカメラも落ちてきたことで発見に至ったという。
 その状況では断定して盗撮があったとは認められない。もしかすると、誤って起動した状態でロッカーの上に放置されていた可能性だって捨てきれない。
 一度撮影終了ボタンを押し、女性教員でフォルダの中身を確認したところ、可能性はあっさりと消え去った。見切れることなく、確かに着替えを行っている女子生徒の姿がハッキリと映っていたのだ。誰がどう見ても盗撮で間違いなかった。

 「すぐに警察に連絡しましょう」
 逸る教員に、教頭先生はその行動を制止させ、まずは校長先生と理事長に一報を入れることを優先する。その後、理事長が顧問弁護士に連絡を入れ、ここからは弁護士の判断を仰ぎながら進めていくこととなった。

 盗撮被害が起こった時、重要視されるのは加害者側が盗撮をしていたという物的証拠だ。
 本来であれば、スマホやタブレットでの盗撮が主流であるが、女子更衣室で見つかったのは部で使用している誰のものでもなく、誰も管理していなかったビデオカメラだった。誰のものでもないということは誰でも使用することができるということ。要するに、犯人を特定できないことになる。そこが厄介なところだった。
 重ねて、女子更衣室で見つかったカメラに女子生徒たちは当然騒ぎ立て、盗撮騒動が起きたという事実はすごい速さで学校内を回っていた。加害者が騒動を聞いて証拠を削除したり、隠したりするのを避けるため、盗撮事件は内密に進めていく必要があったが時すでに遅い。内密に進めていくことが不可能になったため、学校は警察の協力を得ることにした。警察が動きだしたらもう仲良くクラスマッチどころではない。全生徒は各自教室で自習をするよう命じられることになった。
 突然のクラスマッチ中止に生徒たちの不平不満は大きく膨れ上がる。だが、校内に入って来る警察車両を見て事の重大さを知り、騒いでいた生徒たちは徐々に口を噤みはじめた。

 警察同伴の上、 ビデオカメラを見つけた女子生徒にも協力してもらい、今一度カメラを見つけた状況を確認した。
 撮影されたデータも確認する。録画開始時刻は午後一時頃。立て続けの試合で汗をかいた女子生徒が汗拭きシートで拭いに女子更衣室を訪れた時の出来事だったそうだ。クラスマッチで女子更衣室を使用することをわかっていての意図的犯行だと見受けられる。
 「このビデオカメラに見覚えがないですか?」という警察の問いかけにその場にいた教員は首を振る。念の為生徒にも聞いたところ、ある一人が気まずそうに声を上げた。

 「このビデオカメラ、うちの部活で使っていたカメラかもしれないです」

 その女子生徒は陸上部に所属していた。
 よくよく話を聞くと、男子と女子共に陸上部ではフォーム確認のためビデオカメラをよく利用していたという。
 本校の男子陸上部は全国に出場するほどの強豪校であり、そのビデオカメラは主に男子が使っていた。だが、そのビデオカメラが今年に入って紛失していたのだ。
 今は新しいビデオカメラが支給され、それもまた男子が我が物顔のように頻繁に使っているという。
 録画データは今日撮影された動画だけだったが、今年に入って紛失していたのなら長期にわたってこのビデオカメラで盗撮されている可能性も大いに有り得ると警察は判断し、削除データの復元のためビデオカメラを押収して行った。
 警察車両が学校から遠のいても、その日はクラスマッチが再開されることはなく、解放時間までの残り二時間は自習となった。後半戦序盤での中断は、生徒たちにとって不完全燃焼だったが、やむを得ない事態に目を瞑るしかなかった。

 早くも翌日には、削除したデータが復元された。
 警察は「何か手がかりが映り込んでいるかもしれないので学校のほうで動画を確認してほしい」と復元データを渡された。
 女子生徒の言う通り、復元されたデータの中にはいくつにもわたって生徒が走りこむ姿が撮影されていた。陸上部コーチであり顧問の的場先生と、副顧問である葛西先生双方に確認をとったところ、走り込みをしている生徒は陸上部員で間違いないと断定される。
 それと、削除されたデータ内には女子更衣室を映している動画が新たに五つ見つかった。
 最初の日付は去年の九月頃。その日から紛れもなく盗撮は行われていたのだろう。
 警察は、カメラが置かれていた近辺やビデオカメラの指紋採取を行ったが、女子更衣室には朝から生徒が往来しており、ビデオカメラもすでに何人もの生徒や教員が触っていたため犯人特定は難しかった。更衣室付近の廊下に設置されている監視カメラも確認したが、クラスマッチの日に忍び入る怪しい人物は映り込んでいなかった。
 盗撮では犯人が見つからないことはざらにあると、警察はこれ以上の捜査は行ってくれないような口ぶりで説明した。

 すでに生徒の口から複数人の保護者へと話が回っており、その対応にも追われることになるが、いまだ状況整理に追われている段階では説明できることはなく、「確認中です」の一点張りで押し切るしかなかった。
 犯人特定の手がかりがない以上、手探りでの犯人捜しに時間は費やせない。

 まず学校側としては、被害者のケアを何より優先する必要がある。
 そのため動画の内容を見て、被害者が何人いるのか、同時にどこまで肌が映っているのか一人一人確認する必要があった。被害の大小はうやむやにしてしまえば楽だが、あとで保護者に詰められでもしたら学校側の信用は地の底だ。よって、その確認作業は女性教員で行われることになり、養護教諭の私も記録係として確認作業にあたるよう許可が下りた。
 それと並行し、教員の聞き取り調査が行われる。陸上部を指導している的場先生と葛西先生の聞き取りから入り、まったく繋がりのない教員まで全職員に行われるも、不審な点が露骨に現れるほどの怪しい教員は見つからなかった。
 そうなると、自然と疑いは生徒へと向かざるを得なくなる。
 警察の話によると、SNSの普及によって近年では女子生徒の盗撮動画がSNSの個人チャットで簡単に売買できるようになり、そのせいで金銭欲を満たしたいという安直な理由で盗撮行為を行う生徒が増えているのだという。その話も踏まえ、学校側は生徒への聞き取り調査も進めていく方針で動くこととなる。

 「男乕先生」
 初めてぶつかる事態に慌ただしく動いていると、廊下で教頭先生に話しかけられる。

 「昨日の職員会議では驚きました」
 「勝手なことを言ってすみません」
 「いいえ。生徒に向き合おうと熱心なのはとてもいいことです。だからお願いしたいと思ったんですから」
 「本当にありがとうございます。よろしくお願いします」
 深々と頭を下げた。

 無意識に力んでいた肩を、教頭先生の小さな手がフワリと音を立てながら乗る。

 「男乕先生の仕事はまだたくさんあります。被害に遭った女子生徒へのケアに努めなければならないのですから。大変だとは思いますが、生徒たちが負った傷をできるだけ癒せるよう根気強く、献身的に向き合っていただきたいです。こちらこそ、よろしくお願いいたします」

 教員歴四十年にもなる教頭先生でも警察が立ち会うような事態は片手で数える程度でしか経験したことがなかった。それでも重鎮として構え、教員たちを導いてくれている。時には私という一教員にも頭を下げる姿勢の低さと、どの局面で誰が対応するのが最善かを考える柔軟性も持ち合わせている。心強かった。

 「もちろんです。私にできることがあればなんでもするつもりです」
 強い意志を示すと、教頭先生は顔を綻ばせた。

 「男乕先生にしか気づけない部分もあると思います。期待しています」
 そう言い残し、背中を向けて去っていく。

 「私にしか気づけないこと……」

 ふっくらと膨らむ古びた背中を眺めながら、言われたことを自分の口で小さく反芻した。
 こんな私にも期待を持ってくれる人がいることを知ると、生きていてよかったと思う。でも、それが贅肉のように着実と私の体に纏わりつくこともまた事実だった。
 普通の人と変わらない人生を送ってきたつもりだった。少しばかり苦悩を知っていて、少しばかり苦痛を味わっていて、少しばかり傷つけられてきた人生ってだけで、大して他の人たちと変わらない。だけど、人によっては私という存在をどこか特別視する者がいた。
 私は特別なのだろうか。他の人は特別ではないのだろうか。何が違うのだろう。どこが違うのだろう。
 期待と酷似した“こういう感情”を向けられる度に、漠然と違和感が湧いてくる。
 私たちは、誰かに選ばれないと特別にはなれないのだろうかと。

 「先生」

 すると、廊下の奥で声が聞こえてきた。奥の部屋は保健室で、保健室登校をしている佐倉さんが心配そうな表情で私を見つめていた。
 気持ちを切り替え、佐倉さんに駆け寄る。

 「こんにちは。今日は課題もらえていないから保健室で自習してくれますか」
 「先生……クラスマッチの日、盗撮があったって本当ですか?」

 学校はまだ公表していないが、クラスマッチの日に警察が学校に来たことによりおそらく全生徒が事情をなんとなく耳にしている。クラスマッチの日は欠席していた佐倉さんにも、どこかしらで耳に入る機会があったのだろう。

 「今調査中だから詳しくはまだ言えません」

 保健室の扉を開けて中に入ると、佐倉さんも私のあとにつづく。

 「犯人が誰なのか目星はついているんですか?」
 今まで何事にも興味を示さず、必要最低限しか話さなかった佐倉さんが立て続けに質問を投げた。

 私は小首を傾げる。
 「何か気になることでもありました?」
 「いや……なんでもないです」
 今度は口ごもる。

 異変を感じつつも、徐々に重くなる空気を換えるため話題を変えた。

 「そういえば、佐倉さんの読書感想文を読みました」
 「え……」
 鞄から教材を取り出しはじめる佐倉さんの手がピタリと止まり、慄いたような表情を浮かべて、ギョッとこちらを見据える。

 「少し気になった文章がありまして……最後の方の」
 「やめてください」
 確かな拒絶が矢のように頬を掠めた。驚いて静止する。

 「なんで今さら読書感想文なんて引っ張り出してくるんですか」
 ただの疑問を投げかけただけで、佐倉さんに責められるとは思ってもいなかった。

 「今さら興味本位で聞いたりしないでください」
 「興味本位だなんて……私は、佐倉さんの気持ちを知りたくて」
 「先生にはわからないです。先生みたいな、他人にどう思われても自分を塗り潰さない強い大人には、私の気持ちはわからないです」
 そう吐き捨てると、佐倉さんは出したばかりの教材を逆再生のように鞄へとしまう。
 「佐倉さん、待ってください」

 私の制止する声を無視し、佐倉さんは保健室を出て行ってしまった。
 無価値のように立ち尽くす。
 静かになったはずの保健室はうるさかった。静寂の轟音が押し寄せるように、私の鼓膜を容赦なく叩いていた。


 「────失礼します」
 視聴覚室に入室すると、三人の女性教諭と目が合った。

 「お待たせしました」
 私待ちだったようで、挨拶も兼ねての軽い詫びを入れると、私たちはすぐに取りかかった。一つだけのパソコンを立ち上げるのは、教頭先生だ。

 盗撮のデータが入ったパソコンはこれ一台。パスワードで厳重にロックがかけられていて、そのパスワードを知っているのは、理事長、校長先生、教頭先生の三人だけだ。
 これから、警察の協力を経て復元された動画の確認を行っていく。
 主な確認項目は、動画内に映し出された女子生徒の顔と名簿を見比べ一致させること。そして、被害者生徒の肌がどれだけ映し出されてしまったのかを確認することだ。
 これに関して、教員間でも様々な言論が飛び交った。
 他者に肌を見られることの嫌悪感をさらに上乗せしてまで確認する必要があるのか。被害者生徒の名簿を確認するだけで十分ではないのか。それに対し、自分が被害者だと知った時、どれだけ露出した格好で映っていたのか気になる生徒だっているはず。そういう微かな恐怖と嫌悪感は人間不信を膨張させる恐れもある。どこまで映ってしまったのかは、せめて保護者には伝えるべきで、本人に伝えるかどうかの判断は今ここで私たちが決めるべきではない。話はそこで落ち着いた。

 「はじめましょうか」という教頭先生の声掛けで、私以外の教員がパソコンを凝視しはじめる。私は、言われた情報をそのまま記録していくことになっている。
 再生ボタンを押す音が、キーボードから鳴った。
 この生徒は誰か。何年何組か。
 名簿を捲りながら、ひたすら確認していく。

 「あっ」
 動画を確認しはじめて三十分程経った頃、突然先生たちが声を上げた。

 終始、記録用紙に視線を落としていた私は彼女たちの声にワンテンポ遅れて顔を上げると、パソコン画面を見つめる全員の顔が険しくなっていた。

 「男乕先生も。大丈夫な映像ですから」
 教頭先生に手招きされ、体を寄せ画面を覗く。

 「カメラを落としたんだわ」
 その場の一人が口にして、やっと映し出されている場所が床だと把握する。

 動画はすべて、決まった場所で設置されてから録画ボタンを押されている。押した盗撮犯はカメラに映らない死角を縫って女子更衣室を退室していたため、手がかりは何も映っていないと決め込んでいた。だが、今回確認していた動画の最後で、盗撮犯は録画ボタンを停止する際に手を滑らせたか何かで、カメラを誤って床に落としてしまったのだ。
 カメラはいまだ色褪せた床を映している。その瞬間、カメラ内に盗撮犯の靴が映り込んできた。

 「トレーニングシューズ」

 早押しのように一人が素早く声を上げる。
 映り込んだ靴は、男物のトレーニングシューズだった。外装が黒で、差し色にオレンジが入っている。一瞬にして、生徒の靴だとわかる。

 「誰か校長先生を呼んできてもらえますか?確認してもらいます」
 「私呼んできます!」

 そう言い放ち、飛び出すように教室を出て校長室へと向かう。
 校長室は職員室を通り過ぎ、まっすぐ進んだ先にある。
 証拠が歩くわけでもないのに、急かされるように早足で廊下を歩く。
 すると、「棗ちゃん!」と数人の女子生徒に呼び止められた。職員室を目の前にして彼女たちに道を塞がれてしまう。

 「どうしたの?もうすぐ授業はじまりますよ」
 「棗ちゃん、ちょっといい?ちょっとだけ七海の話を聞いてほしいの」

 そう言う彼女たちの後ろで隠れるように立っていた内気そうな女子生徒がおどおどしながら一歩距離を詰める。

 「どうかしましたか?」
 「先生、あの……盗撮に使われたビデオカメラが赤いカメラだって聞いたんですけど」
 「それね、まだ調査中なので詳しくことは言えないんです」

 確かに外装は赤色のビデオカメラだったが、それも含めてどこまで生徒に教えていいものかいまだハッキリしていないので、調査中だからという理由でまたもや口を噤むしかなかった。でも、彼女は引き下がらなかった。

 「もし私の勘違いでなければ、去年の冬頃に赤いビデオカメラを持っている人たちを見かけたことがあります」
 「え?」
 「放課後の教室で、不自然なくらい壁際に数人固まってビデオカメラを覗き込んでいる男子陸上部員を見ました。なんていうか……歓声のような声を上げて楽しそうに手を叩いたり、口笛を鳴らしたりしてよほど面白い動画を見ているんだなって思ってその時は気にも留めなかったんですけど、今考えたらスマホじゃなくてビデオカメラを覗き込んで歓声を上げるってちょっと変だなって……」
 「これって盗撮動画を見ていたんじゃないかと思って、先生に報告しに来たらちょうど棗ちゃんがいて」
 「七海の言ったとおりだとしたら、隣の男子更衣室を部室にしている陸上部なら間違ったとかなんとか言い訳して女子更衣室に入るのって簡単じゃない?」

 彼女たちの言うことも一理あった。
 そして、さっきのトレーニングシューズが頭を過り、現段階では部活動生がやったという憶測はかなりの信ぴょう性を持つ。

 「あなたが見たビデオカメラは確かに赤色でしたか?」
 「廊下から見ていただけなのでどの機種でどんな形だったかは説明できないですけど、確かに赤色だったのは憶えています」
 「その生徒全員の顔を憶えていますか?」
 「憶えています。全員陸上部員だなって思って廊下を通り過ぎたので」

 見るからに真面目な生徒だ。適当なことを言って状況を二転三転させるような意地悪いことを好む生徒ではなさそうだ。

 それに、と彼女はつづける。
 「その日は雨で、グラウンドが使えない陸上部員は廊下でトレーニングしていて、そんな彼らを探している当時の陸上部部長と廊下ですれ違いました。その後、教室にいる彼らを見つけて『サボるな!』って叱っていたのも見ました。だから、全員陸上部です。間違いないです」
 そう伝える彼女の目に曇りはなかった。

 「ちょっとだけここで待機していてください。今、他の先生に状況を説明してきます。もう少し詳しく聞かせてほしいので」
 「は、はい」

 彼女の表情が一層強ばった。
 それもそのはず、このことを伝えることはすごく勇気と度胸のいることだからだ。見たことをそのまま伝える行為は、今のこの状況では誰かに疑いを向ける、または向けさせる行為と同等になる。彼女の言動を善悪で区別することは難しいだろう。下手すれば同級生の人生が自分の発言で狂わされてしまうのだから。善であっても、罪悪感が後を引き悪と化してしまうことだってある。
 私は、彼女の肩に優しく触れる。なるべくフラットに、葉がユラユラと落下飛行を楽しんで地面に落ちるような柔らかさを意識して。

 「今みたいにあなたは見たことを見たままに伝えてください。わからないことはわからないで大丈夫です。答えたくないことは答えられないと言って大丈夫です」
 「はい……わかりました」
 「次の授業はなんですか?担当先生には私から説明しておきます」
 「えっと、物理です」
 「香川先生ですね、伝えておきます」

 私は、一つの動画にトレーニングシューズが映り込んでいたことと、彼女の証言の二つをすぐに校長先生へと打ち上げると、別室にて彼女の聞き取り調査が迅速に行われた。
 私に説明した内容を教頭先生や学年主任、彼女の担任が在席する前でもう一度説明する。
 こういった経緯の末、陸上部に所属する男子部員全員の聞き取り調査が内密に行われる運びとなった。

 「先生、もしかしたら彼らは本当にフォームを確認していただけなのかもしれないです。私の思い違いで、彼らが犯人扱いされたとしたら本当に申し訳ないです」

 聞き取り調査が終わった彼女の背筋はいまだに丸く曲がったままだった。不審な光景を見たという情報提供をしただけだが、彼女にとっては同級生を売るような行為も同然なのだろう。ひどく憔悴した様子で隣を歩いており、発する言葉からは罪悪感や自責感が滲み出ていた。

 「仮にあなたが感じた不審感が思い違いだったとしても、この一件で巻き込まれて傷ついた生徒がいることは紛れもない事実です。追及することは傷ついてしまった彼女たちを守ることにも繋がります。善悪の区別を有耶無耶にしても救われるものはないですよ」

 どうか勇気を出して伝えにきた自分ばかりを責めないでほしい。あなたの行動は何も間違っていないのだから。そう、信じる。信じさせるしかない。

 「男乕先生!」

 その時、怒号のような圧で私たちを引き留める声が飛んでくる。振り返ると、葛西先生が切羽詰まった顔で駆け寄るのが見えた。

 「男乕先生、どういうことですか!?」
 大きな動揺により、いつもの穏やかな表情は歪んでいた。微かに怒りの色すら窺える。

 「優先的に陸上部員を聞き取り調査していくって本当なんですか?」
 「葛西先生、声が大きいです。少し落ち着いてください」

 葛西先生は陸上部の副顧問を請け負っており、彼らの遠征時や他校との合同練習では必ず同行していた。陸上の面では役に立てないからせめてもと裏方として献身的に彼らをサポートしていたのだ。そんな彼らが盗撮犯として疑われていることを耳にして冷静でいられる訳もなく、葛西先生は血相を変えて私に詰め寄ってきた。

 「彼らが盗撮なんてするはずありません!高校総体で素晴らしい結果を残した彼らは、夏のインターハイでさらなる高い目標のために追い込みの猛練習をしている最中なんです!盗撮をして出場できなくなったら元も子もないのに、そんなことするはずがないんです!」

 私の後ろにいる生徒が怯えたように身を縮こまらせる。そんな彼女を体躯のいい自分の背中で隠した。

 「葛西先生の言い分はわかります。何も葛西先生以外の教員で彼ら陸上部員を犯人に仕立てあげようなんて毛頭も思っていないですから。私たちの杞憂で終わるのならそれがいいとみんな思っています」
 「だったら彼らを疑う余地はなんですか。ねえあなた、あなたは本当に彼らを疑っているの?彼らが持っていたのは本当に部で使っていたビデオカメラだった?スマホとかじゃなかった?そもそも本当に陸上部員だったの?顔は?よく見たの?」
 自我を忘れたように次から次へと生徒を問い質す葛西先生に、慌てて割って入り距離をとる。
 「葛西先生!それを確かめるために聞き取り調査を行うんです。彼女の言葉を疑う前に、彼らを信じてあげるほうをまずは優先すべきではないんですか」

 前屈みで迫ってくる葛西先生の肩を掴み諌めると、力を強く込めすぎたのか苦痛に顔を歪めるので慌てて手を離す。
 「すみません、痛かったですか?」

 葛西先生の頬が小刻みに痙攣していた。怒りを必死に抑えている時に出る心因性の震えだ。
 「葛西先生?」

 力なくしたように固まる葛西先生を心配して声をかけると、わかりやすくハッと我に返り勢いよく頭を下げた。
 「ああ、すみません!取り乱してしまいました!」
 「あ、いや、大丈夫です」
 「本当に男乕先生の言うとおりです。まずは彼らのことを信じることが大事ですよね。もちろん信じてないわけではないんです。彼らがそんなことするはずないってわかっていても、不安が過ってしまってついつい男乕先生やあなたを責めるような言い方をしてしまいました。謝ります」
 「それはもう大丈夫ですから。葛西先生が不安になる気持ち、生徒たちと関わっている身の私にも少なからずわかるつもりです」
 「ありがとうございます。すみません、次の授業の準備があるので失礼します。本当に騒がしくしてすみませんでした」
 葛西先生は何度も私たちに頭を下げながら、腰を低くして職員室へと戻って行く。

 「あなたにも怖い思いをさせてしまいました。先生たちも予期せぬ事態に困惑している状況で、葛西先生もつい気が急いでしまっただけなのだと思うんです。あまり気にしないでください」

 生徒たちを心配させることはこれ以上吐けないが、教員たちも不安に押し潰されそうなのだという同等な気持ちをあえて口にすることで、彼女の恐怖心を少しでも和らげられたらと思った。

 「ここまで勇気を出して来てくれてありがとうございます」
 「勇気?」
 「伝える行為は等しく勇気がいることだと思います。それがどんな形に変わろうとも救われる人は必ずいます」
 「はいっ……先生、話を聞いてくださりありがとうございます」
 丁寧に頭を下げ、彼女も背中を向け教室へと戻っていく。

 やっと空気が落ち着きを取り戻し、息をついたと同時だった。
 「相変わらず耳触りのいいことばかり言ってますね」

 一体どこから現れたのか、いつから聞いていたのか。
 振り返ると、依田さんがいつもの悠然たる態度で背後に立っていた。もう何度か話して、彼女には耐性がついているとばかり妄信していたが、対面すれば体は正直に強張りを見せる。

 「依田さん、驚かせないでください。いつからいたんですか?」
 「……葛西先生もあんなに動揺したりするんですね」
 葛西先生が取り乱し、私たちに詰め寄る光景から見ていたようだ。廊下で騒いでしまった私たちも悪い。

 「『救われる人は必ずいます』って信仰者が言いそうですよね。信じる者は救われる、的な。先生にはいつもガッカリさせられます」

 はなから期待などしていないくせに、裏切られたような口ぶりで幻滅の表情を浮かべながら私の横を通り過ぎていく。
 依田さんはいつも痛いところをついてくる。


 女子生徒の証言の元、陸上部員から男子生徒三人と元陸上部から二人の生徒の聞き取り調査が優先的に行われることに決まった。彼ら五人は三年生だった。
 カメラに映りこんだトレーニングシューズは持ち物検査によって陸上部員の物で間違いないことが判明した。だが、彼らは犯行を認めようとはしなかった。
 「他にも持っている奴はいるかもしれないし、過去に持っている奴もいたかもしれない」というのが彼らの主張だった。
 このままでは話も進まないため、スマホに盗撮動画が残されていないか確認させてもらうことになったが、彼らが加害者という証拠は残されてはいなかった。

 彼らは聞き取り調査の間、ずっと飄々とした態度で座っていたが、中でも矢野という男子生徒だけは違った。
 矢野君は運動後のような汗の量を額に浮かべ、落ち着きなく手や足を動かし、頻繁に座り直したりしていた。おまけに黒目はキョロキョロと動き、口の中が乾き切っているのか話すときに何度も言葉をつかえたり噛んだりしていた。
 加害者の証拠もなく、本人たちも認めないため五人を解放しようとした時、矢野君は思いつめたように声を上げた。彼は真っ青な顔で盗撮を認めたのだ。
 矢野君はつづけて、女子更衣室にカメラを設置したことのある生徒を二人挙げ、その動画を一緒に視聴した生徒を二人挙げた。それらは聞き取り調査を行った矢野君含めた生徒五人の名前だった。
 さらなる聞き取り調査の結果、彼らの誰かがビデオカメラに保存した動画をスマホに転送し、メッセージアプリ内で動画を送り合ったことも明らかになった。
 矢野君はメッセージアプリ内で行われた個人のトーク履歴を見せてくれた。写真フォルダに盗撮動画は残されていなかったが、メッセージアプリ内には盗撮動画が残されていた。

 「アイツら二年になってから部活サボるようになって、俺も二年の半ばの頃に少しだけサボってアイツらと遊んでいました。あの頃は、タイムが伸び悩んでいた時期で、ストレス発散みたいな感じで一度だけ女子更衣室にカメラを置きました。アイツらもそんな感じの理由だったと思います。でも、後から罪悪感が押し寄せて来て、すぐにアイツらとは距離を置きました。三年になる前に、谷口と広瀬が陸上部辞めて、伊佐木と松下は俺と同じで三年最後のインターハイになるし頑張ろうってことで部活に参加していました。それからは二人も盗撮はやっていないと思います。だから、谷口から動画が送られてきた時はホントに驚きました。もうこういうのはやってないって勝手に思ってたけど、辞めた二人はまだやっていたんだって知って、巻き込まれたくない一心で俺はその動画を無視しました。伊佐木と松下も無視したってあとから聞いて、なるべく関わらないようにしようって決めて……でも、そうやって隠そうとすればするほど後悔もすごくて……本当にすみませんでした」

 今までしどろもどろな口調だった矢野君は、本音を吐露したことで張りつめていた糸が切れたのか、ポツポツと懺悔しはじめ、最後には頭を下げた。
 矢野君の自供のおかげで、メッセージアプリ内で動画の共有が行われていたことがわかり、矢野君だけでなく他四人のSNSも確認したところ共有した履歴が残されていた。
 幸いにも、拡散はこの五人で留められており、ネットやSNSに出回るなどの大きな被害には至らなかった。金銭目的の盗撮ではないことが不幸中の僅かな幸いであった。
 当然、学校側は彼らの保護者に連絡を入れ、盗撮の旨を一から説明した。電話越しで何度も謝る保護者もいれば、信じられないのか声を震わせ泣きはじめる保護者もいたそうだ。
 この一連の騒動を学校側は包み隠すことなく、市の教育委員会に報告した。
 正式な処分が下るまで五人は自宅待機となり、今後の陸上部の活動は学校側で審議するとのことで、その結果が出るまでは陸上部の活動も一時停止となった。
 これから学校側は弁護士と共に対応に追われることとなる。職員室内は、異様なほどの緊迫感と焦燥感で今にも破裂しそうなくらいの重い空気が漂っていた。