雑然としたペン立てに見覚えのないペンがあった。そのペンは上品な赤色をしていた。
 また生徒が忘れていったのだろうか。
 男乕(おのとら)がペンに手を伸ばしたタイミングで、扉のノック音が響く。

 「失礼します、男乕先生」
 返事を待たず扉は開かれ、息を切らした教員が保健室に現れる。

 「どうしたんですか、葛西(かさい)先生」
 「手紙、ここに忘れていってないですか」

 表情だけでなく声からも切羽詰まった様子に、ただ事ではないことが起きているのだと危惧する。

 「手紙って、あの?」
 「そうです」
 「いえ、葛西先生が持ち帰りましたよ」
 「そうですよね……私も持ち帰った憶えはあります」

 わずかな希望が打ち砕かれように、葛西先生はその場で悄然と項垂れた。

 「一体どうしたんですか」

 端に追いやられていた椅子を持ってきて、葛西先生に座るよう促す。彼女は乾いた唇を舐め、一瞬考えるも諦めたようにゆっくりと腰かけた。

 現在、葛西先生は三年一組のクラスを受け持っており、古典の授業を担当している。彼女とは本校の教員の中でもよく話をするほうで、頻繁に生徒のことで相談を受けている。
 きっかけは、現在三年生の生徒たちが二年生で、葛西先生が二年三組のクラスを受け持っていた頃、三学期が始まった時期に一人の生徒が突然学校を休むようになったのだ。いわゆる不登校だ。普段から休みがちだという予兆もなかった真面目な生徒だったため、葛西先生は心底心配して毎週のように生徒の家へと伺い、何度も話をしたそう。だが、一向に心を開こうとしない生徒に、葛西先生は助けを求めるように保健室へと現れたのが話をするきっかけだった。

 太股辺りで指を絡めている葛西先生の手は青白かった。

 「櫻間真織さんの机から出てきた手紙が紛失したんです」
 「え」
 思わず声が洩れた。

 櫻間真織(さくらままおり)とは、葛西先生が現在受け持っている三年一組の生徒だ。だが、彼女は一週間前に不慮の事故で亡くなっている。そんな彼女の机の引き出しから、今朝彼女本人が書いたと思われる手紙が見つかる。葛西先生はその手紙を紛失したと言っているのだ。

 「先生に手紙を見せたあと、教頭先生にも報告し、櫻間さんの保護者に電話をかけ、放課後に手紙を持っていく約束をしていたんです。今から櫻間さんのご自宅へ伺おうと引き出しを開けたところ、あるはずの手紙がなくなっていて」
 「それは、確かですか?」
 「はい。デスク周りは隈なく探したのですが、やっぱりどこにもなくて」

 葛西先生は、明らかに焦っていた。それもそのはず。あの手紙は、生前の櫻間さんが残した遺書のようなものだったからだ。

 今日は、朝のHRを潰して全校集会が行われることになっていた。終わった直後、櫻間さんの引き出しから手紙が入っているのを生徒が見つけた。三年一組の生徒たち全員はその封を切ることにした。何も知らない葛西先生が教室に入ると、教室内は一箇所に集まる生徒たちと重たい空気で充満していた。生徒会長である生徒から事の経緯を訊き、とりあえず葛西先生が手紙を預かることで一旦話は終結する。
 こうして、櫻間さんの手紙は葛西先生の手元に渡るこことなった。だが、この手紙をどうすることが一番の最善なのか判断できずにいた葛西先生は、まず私のところへ手紙を持って相談しに来た。そこで私も手紙を拝読した。
 葛西先生が上司に報告すべきか悩んだ理由が、手紙を読んでわかった。手紙の最後に【これを読んだら捨ててください】という櫻間さんの意思が綴られていたからだ。
 だが、櫻間さんが亡くなっている以上話は別だ。
 私は報告した方がいいという判断を一意見として主張した。
 当然遺品は家族の元に返すべきであり、仮に櫻間さんが書いた手紙ではなかったとしても、その確証を得るには保護者に見てもらう必要もあった。
 櫻間さんの手紙が、誰かに向けて送られるはずで、送り先にしか見せたくないという旨の内容が書かれていたとしても、勝手に私たちが手紙をどうこうすることはできない。たとえ、教師であっても、友人である生徒たちの頼みであっても、私たちの一存で決められないことを勝手に決めてはいけない。
 そういった旨を伝えると、葛西先生も納得してすぐに上司へと打ち上げた。
 紆余曲折の末、手紙は収まるところに収まろうとしていた。だが、その手紙がまさか紛失することになるとは。思ってもいない方向へと進んでしまったことに、私も葛西先生も困惑していた。

 「職員室に残っている先生たちにも身の回りを探してもらったのですがどこにもなくて、そもそも櫻間さんの手紙は教頭先生と三年生の学年主任にしか話していなくて、あっ、あと養護教諭の男乕先生の三人だけだったんです。なくさないよう、あまり出し入れしない一番下の引き出しに入れていたんです。手紙を入れてからは一度も開けてはいなかったので、どこかに紛れ込んでいるというのもありえないんです。でももちろん他の書類に紛れ込んでいないかの確認もしました。ありえないと思っても、確認しない理由にはならないので」

 よほど焦っているのか、普段の鷹揚な口調とは打って変わった早口で状況を捲し立てる。感情の波が大きく揺れている人を見ると、逆にこちらは落ち着いてくる。人の心理というものは割と均衡に保たれているものだ。

 「そこまで探してないのなら、もう職員室にはないのかもしれません」
 「え?じゃあどこに」
 「これこそありえないかもしれませんが葛西先生が誤って捨ててしまったか」
 「そんなことは……!」
 「それか、誰かが盗んだか。手紙が見つかったと知っているのは、何も私たちだけではありませんから」

 葛西先生は視線を泳がせると、ハッとしたように私にまたピントを合わせる。

 「まさか、三年一組の生徒が盗んだと言いたいんですか」
 「別の角度で考えた場合の、単なる憶測です。とりあえず、櫻間さんのご両親に一報を入れておいたほうがいいと思います。今後の対応はそれから」
 「そうですよね、急に押しかけてすみません。職員室戻ります」

 葛西先生は深く一礼してから、力無い足取りで保健室を後にした。
 櫻間真織。彼女の死は、生徒だけではなく、教員にも大きな動揺を生んだ。
 死因は階段からの転落による脳挫傷だった。階段前の監視カメラには、フラついた足取りで歩く櫻間さんが映っていた。警察の調べと櫻間さん保護者の供述では、櫻間さんは中学生の頃から不眠症に悩まされており、三年弱通院していたそうだ。一向によくならない不眠症で、即効性のある睡眠薬を処方されていたこともわかった。これらの事柄から、事故当時の櫻間さんが極度の睡眠不足で、不運にも階段で足を滑らせ転落してしまったのだろうと警察は説明した。彼女の死は不慮の事故だった。
 なのに、あの手紙はまるで自殺を思わせるような内容だった。
 生前の櫻間さんが不眠症で通院していることを知っている教員は誰もいなかった。保健室にも彼女は一度も来たことがなかった。彼女は授業中に居眠りをする生徒でもなかったそうだ。担任の葛西先生から見た彼女も、クラス委員長として生徒を引っ張っていく頼もしい存在で、常に明るく笑顔を絶やさない気さくな生徒だったと言う。誰もが彼女の睡眠不足を見抜けなかったのだ。それほど彼女の仮面が厚かったのだろうか。
 櫻間さんが書いたと思われる手紙の内容を思い出す。

 【ここ最近、ずっと夢と現実の境目がわからなくて、眠りながら生きているような気がしています。誰かに追いかけられている夢、誰かに見られている夢、自分が罪を犯す夢、それらを交互に見ている。多分、あなたと一緒で、私もどこかで死んだのだと思う】

 彼女は本当に事故死だったのだろうか。
 一体、この手紙を誰に渡そうとしていたのだろうか────。