大きな栗色の目いっぱいに涙を溜めたくぅは、夜さまらしき黒猫を抱えている人物の進行方向へ回り込み、ビシィと人差し指を突きつけ叫んだ。

「ちょっとぉ! 夜さま返してっ!」
「よるさま?」
「その黒猫っ。()()()()夜さまなんだからぁっ!」

 向けられた幼い人差し指を見つめきょとんと首を傾いでいるのは、薄汚れた水浅葱(みずあさぎ)色のつなぎ作業着をオーバーサイズで着用している若い女性。見た目年齢は蘇芳と同じか、わずかに上のようだ。赤茶けたセミロングヘアを耳の後ろで左右に分けて括り、ゴツゴツとしたゴーグルをヘアバンドのように着けている。

「『妹』がいきなりすんません!」

 くぅの後を追いかけようやく追いついた蘇芳は、くぅの剣幕に「見てられねぇ」と慌てて割り入った。

「失礼なんスけど、それ、アンタの猫です?」
「どうして?」

 くぅの指先から蘇芳へ視線を変えた彼女は、人好きする笑みで口を開いた。相手の反応が柔らかかったことで安堵した蘇芳は、自身ができる限りの低姿勢かつ冷静な姿勢で彼女へ問う。

「実は、俺らの連れ猫がさっき急にいなくなっちまって、そんで小一時間捜してたんスよ。で、アンタが抱えてるその猫に似てるなって思って、ちょっと見せてもらいてぇなって」
「あら、そうだったの。このコ、空から降ってきたのよ」
「そ、空から?」
「ええ、びっくりしたわぁ。それでね、このゴーグルに体打ち付けちゃったみたいで、それからぐったりしちゃって。だから今から知り合いのお医者に診てもらうつもりだったのよ」
「ウソッ、夜さま大丈夫なの?! だったらホント早く返してっ!」
「見てみる? じゃあ、そっと覗いてね」

 彼女は蘇芳よりもわずかに身長が低いものの、一七〇センチを超える高身長である。そのため、腰を屈めてくぅへそっと黒猫を向けた。
 黒猫はたしかに目を閉じたまま、笑みを(たた)える彼女の腕の中で動かない。命の危機の可能性に肝を冷やした蘇芳だが、黒猫の柔らかそうな脇腹がかすかに上下している様子を認め、胸を撫で下ろす。
 ビロード様の毛艶(けづや)、角度のはっきりした三角耳、ほんのりとピンク色の小さな鼻と、アンテナのようにピンとした長い髭。

「あの、多分っつーかほぼほぼっつーか、やっぱウチの猫に見えるんです。拾って保護してもらっといてアレなんスけど、返してもらってもいいスか?」
「ええ、いいわよ……て言いたいところだけれど、なんだか渡してしまうのが惜しくなっちゃったなーぁ」
「ちょっとお、ちゃんと返して! ドロボーだよっ!」
「まー。随分な言われようね」

 抱えている黒猫を隠すように、上半身をゆっくりと捻る。

「だってぇ、昔飼っていた猫ちゃんにそっくりなんだもの。特にこの目。気持ちごと吸い込まれちゃうみたいでイチコロって感じだったのよねぇ。懐かしいっていうかぁ」

 ヨシヨシ、と黒猫の小さな頭を撫でる彼女。反して、蘇芳の太ももの辺りを強く握りながら鼻息を荒くしているくぅ。このままでは長くなりそうだと察した蘇芳は、フゥーと長く細い溜め息を吐き出し、訊き方を変えることにした。

「コイツの目の色、変わってるっしょ」
「ええ。とっても綺麗だったわ」
「俺らの連れだって証拠、その色で確認ってことにしてくんねぇスか」
「へぇ、策士ねぇ。いいわ。じゃあ『せーの』で言い合いましょ」

 彼女は流れのまま「せーの」と続け、すると蘇芳や彼女のみならずくぅも声を発した。「紫」「藤色」「アメジスト色」と三様の答えが重なったが、いずれも同じ色相である。しばしの沈黙の中見つめ合っていた三人。やがて、黒猫を抱えた彼女が声高らかに「アッハッハ」と大きく笑い始めたことで、蘇芳とくぅの顔から緊張がいくらか抜けた。

「負けたわ、降参よぅ。はーあ、おもしろ」
「おもしろくないっ! わかったんだから早く返して!」
「ふふふっ、そうねそうね、ええ、ごめんなさい」

 目尻の涙を指先で拭いながら、くぅの目線に合わせ膝を折る彼女。「はい、どーぞ」と差し出された黒猫を、くぅは優しく、しかし強引に彼女から引き剥がし、途端に蘇芳の後ろへと逃げ隠れた。

「保護してくれてありがとうございました」
「ううん。こちらこそ意地悪しちゃってごめんなさい。ただ――」

 言いながらしゃがんでいた脚を伸ばし、蘇芳に向き直る彼女。

「――ふたつ教えて欲しいことができちゃった。答えてもらってもいいかしら」
「まあ、俺で答えられることなら」

 彼女の笑みがスッと落ち着くのを見て、蘇芳はじわりと警戒して顎を引く。

「じゃあひとつめ。空からそのコが降ってきたのって、まさかとは思うけれど、動物をイジメてた……とかじゃないわよね?」
「は、はあ? どういうこ……まさか、俺らがコイツを高いとこからぶん投げたのかって意味?!」
「そんなことするわけないでしょっ、あたしの(・・・・)大事な夜さまに!」
「くぅ、いいから。えと、マジで俺もコイツもそんなことやってねぇよ。まぁ、猫が降ってくるなんて普通ねーことだから信じらんねーだろうし、簡単に信じてもらえるとは思ってねーけど」
「ふふ、信じるわよ。くぅちゃん……でいいのかしら、こんなに必死に牙を剥いているんだもの、ありえないってわかるわ。確認よ、確認。本当に大事にされていたのかの確認」

 クスクスと上品に笑う彼女の仕草に郷愁的な既視感があり、蘇芳は改めてまじまじと彼女を観察してしまった。
 見覚えのある黒真珠のような双眸、芯のあるまっすぐなまなざし、聡明で凛とした佇まい――気持ちの奥底が強く握られるような苦しさをおぼえ、眉間に皺が寄る。

「じゃあふたつめ。お名前、教えてくれない?」
「へ? あ、あぁ。『妹』のくぅと、猫の夜さま。俺は蘇芳です」
「す……え?」

 それまで崩れることのなかった微笑みを凍らせた彼女は一転、中性的な低い声で問い返してきた。

「本当に、蘇芳さん?」
「……逆に何だったらよかったっスか」
「年齢おいくつ?」
「はぁ? じゅ、一七だけど」
「コウ……そ、そう、なるほど。一七歳の蘇芳さん、ね」
「あの、なんスか? これどういう質問……」
「いーのいーの、気にしなくていいの! わたしがちょっと知っときたかっただけなの。あー、そっかぁ、蘇芳さんかぁ」

 声色も表情もパアと明るいものに戻った彼女は、赤茶けたツインテールをパッと散らし、目の前にした蘇芳にガバリと抱きついた。

「ずっと会いたかったわ」

 首に手を回し、頬と頬を合わせるように近付けた彼女は、蘇芳の耳にそう静かに囁いた。
 彼女からは、爽やかな洗濯物の匂いがした。まるで陽射しをいっぱいに浴びて気持ちよく乾いた布団の匂い。耳にかかった吐息は優しく、どこか幼く、つい頭を撫でてやりたくなる庇護欲が湧く。

「ちょ、ちょっとぉ! すぅちゃんまで持ってこーとしないでぇ!」

 戸惑いで停止していた思考が、くぅのひと言でようやく再始動した蘇芳。彼女の肩を掴んでガバリと引き剥がし、顔を真っ赤に距離を取る。

「そそ、そっそ、そーだそーだっ! 何なんだアンタマジでっ!」
「んふふ、どうってことないわ。ただの挨拶よ。くぅちゃんもぎゅーってしてあげましょーか?」
「いっ、いらないっ!」
「あははっ、かわいい。ねえ、あなたに話さなきゃならないことができたわ、蘇芳さん。くぅちゃんも猫ちゃんも一緒でいいから、今からわたしに着いてきてくれないかしら」
「な、どっ……内容による」
「やだ、すんごい警戒されちゃってる。そうねぇ、簡単に言えば――」

 小さな顎に左手をやる。そしてどこか楽しげに小さく首を傾いだ。

「――あなたたちが潜ってきたであろう『時を超える扉について』」

 ヒュンと息を呑む蘇芳とくぅ。彼女の絶えぬ微笑が今更不気味に思えてきた。

「な、なんのこ――」
「とぼけなくていいわ。わたしもだいぶ前にそれを潜って、この時代に来たんだから」

 スラックスパンツの太もも部分を強く握るくぅが、怯えたように「すぅちゃん」と呼びかける。自身の背面にくぅを寄せつつ、対面する彼女へ警戒の睨みを深めていく蘇芳。

「わたしもね、アレを何度か潜ったことがあるの。最初に出たのは砂の国。次に中国三国時代。そして、ここ」

 顎にやっていた左人差し指を煉瓦道へ差し向ける彼女。胸の内がザワザワと波立つ蘇芳。

「けど、どうやらここに来たときに仕組みが変わっちゃったみたいで、次のアレに出逢えなくなっちゃってね。ここには四年くらいいるわ。足止めってやつね。で、ボーッとしてても仕方がないから、事業をやりつつある人を待つことにしたの」

 直感的に、蘇芳にはその『ある人』の見当がついてしまった。自身の背面に隠した気配に意識が向く。まさか、と言いかけて呑み下す。

「その話の続きの前に、アンタの名前教えろ」
「そうね、まだ名乗ってなかったわ。いいわよ。わたしはね――」

 濃く立ち込めていた霧が、わずかばかり晴れた気がした。

「――わたしは『サニー』。あなたを愛しているひとりよ、蘇芳さん」