押し開けたノブから手が外れると、途端に『ドア』は背後でバタンと閉まった。砂粒の感触が突然立ち消えた気がして、そっとみずからの頬を撫ぜた。
ここは『狭間』世界。ただ闇のみが広がる空間である。
前も後ろも左も右も奥行きすらもわからない。やはり自身の身体だけは薄ぼんやりと光って見えている。
足元、胴体、そして腕へ視線をゆっくりと移していくと、蘇芳の衣服はよく見慣れたものへ戻っていた。
汚れが目立つようになってきた白いスニーカー、光に当たるとほんのりと赤く見える黒い学ラン、中に着ている真っ赤な無地の長袖Tシャツ――すべてが蘇芳の私物である。砂の砦国で五日間着ていた未来の衣服は、既に見る影もない。
「あったか、よかった」
加えて、前の『狭間』で肩に掛けたあの薄汚れた小袖を感じ取り、そっと右手で触れる。不意に出た長い溜め息は、心の底からの深い安堵のもの。
なくさないように、と袖に腕を通す。膝上丈の小袖は羽織には丁度良かった。当然彼女の温もりは既に無かったが、蘇芳には想い出がある。それだけがあれば、変わらず前へ進めると思えた。
辺りを一周だけ見渡す。やはり前回のように、くぅの姿も夜さまの姿もない。腹の底まで溜まるような深呼吸の後に、可能な限りの大声を出した。
「夜さまーっ! くーぅ!」
その発した声が反響し反ってくる様子もなければ、果てしない広がりも耳には感じられない。しかし、響かぬまま消えようとも構わないと思えた。もう前回のように怖くはないのだから。
「夜さまーっ、よーるーさーまー。くーうー」
こうして声を上げてさえいれば、二人はこの声に誘われやがて再会できる。絶対だ、大丈夫なのだ、と蘇芳は声を上げることを止めない。
「くーぅっ、返事し――」
「やっほ、すぅちゃん」
不意に背後から声がかかる。「おっ」と振り返ると、案の定くぅであった。手を後ろに組み、小首を傾げ柔く笑んでいる。しかしやはり重力がおかしい。以前同様くぅは蘇芳から見て真横に地があるように立っている。
「おかえり、くぅ」
「ふふっ、ただいま!」
最初の『狭間』で見たときのまま、くぅはアイボリーのセーターをやはりワンピース様に着、つつじ色とたんぽぽ色のボーダー柄靴下と、その先端には真っ赤なエナメルの靴を着用していた。「あぁ、そうだそうだ」と思い出し、心のどこかでホッとする。
「セピアさまに悪いことしちゃったよね、あたしたち」
「けど、今思いつく方法っつったらあれしかなかったしな……」
すぐそこに不安があるようなくぅの薄い笑顔に、蘇芳は言葉を切った。つられて瞼を伏せ、くぅのその視線から逃れる。
数多ある分岐した未来像のひとつ――それが先のあの世界。蘇芳が元の時代に戻ったとて、そのままあの未来に繋がる確率は限りなくゼロに近い。
「ただ、セピアはあんとき、ちゃんと笑ってたよ。苦しそうな感じじゃねぇ、普通の感じで」
セピアの最後の表情を思い出すと、言葉が勝手に飛び出していた。くぅはその出方を窺うように蘇芳を見上げる。
「くぅが寝てる間に夜さまと話したことなんだけど。さっきの未来の世界って、俺たちの生きてる時代は全然関係ねぇんだと。だからホントは、俺たちがわざわざ恩義とかいろんなことやってやる必要なんかなんもなかったんだ」
「そんなこと……」
「でもさ」
くぅと再び視線がかち合う。
「たしかに関係ねぇかもしんなくても、ただ夜さまの残りの魔力を取り戻すためだけにあの世界に出たのかもしんなくても、知っちゃったじゃん俺たち。関わったじゃん、セピアに」
くぅの眉間から力が抜けていく。蘇芳の言いたいことの察しがつくのは、みずからも同じ考えであるがため。
「無意味だってわかっててもいい。俺はただ、俺たちのせいで掻き乱れた代わりに、余裕とか余白を返したかったんだ。笑顔でい続けてほしいとか平和を取り戻したいとか思ってても、そんな大それたもんで返せる技量は俺たちにねぇじゃん。だからせめてそんくらいはっていうか。俺も前に、恩師からそういうのしてもらったから」
蘇芳が困ったように後頭部を掻き、くるりと直角に他を向く。ゆっくりと息を吐きながら肩から力を抜いたくぅは「そっか」と柔く口角を上げた。
「セピアさまが笑ってたなら、ちょっとはよかったのかな」
「かなりよかったろ。セピアはくぅのこと、結構大事に想ってたしな」
「ふふ。すぅちゃんは、そのお世話になった先生にやってもらって嬉しかったことを、すぅちゃんが関わった人たちに返してくんだね」
「え? あ、まあ……先生に返そうとしたら、そう言われたからっつーか」
「そうやってちゃんと回ってるね、すぅちゃんの優しさ」
言われてむず痒くなり、蘇芳は横目でジトリとくぅを睨む。にこにこと無垢に笑むくぅに返す言葉を失い、小さく「フン」と肩を竦めた。
「さっきあたし起こされる直前までさぁ、夢視てたじゃん」
「あー、うなされてたり暴れてたやつな?」
「あの夢でね、すぅちゃんがあたしを『ドア』あったとこに連れてってくれたの。だからね、『ドア』見つけられたのはすぅちゃんのおかげなの」
小さな手を後ろに組み「ありがとね」と小首を傾げて笑む。蘇芳はしかし甘く首を横に振った。
「いや、それも多分俺じゃねぇと思う」
「も?」
「俺も夢一緒に見たわけじゃねーし、ホントはどうだったのかなんてわかんねーけど。あの世界で俺に似てるっつったら、十中八九セピアの旦那さんだったと思うぞ」
「え? でも、ホントにすぅちゃんそのままで」
「さっき金ピカの納骨堂の話したろ。あの奥の資料室に、資料だけじゃなくてデケェ肖像画もあってな――」
資料室で見た、ビスタという名のセピアの伴侶の肖像画。あれは、本人すらうろたえるほど蘇芳に酷似していた。夢とはいえ、ラグエルを案内するような幻影ともなれば、蘇芳というよりもビスタである方が可能性は非常に高い。
それをくぅに説明すると、くぅはポカンとしたまま「はぁ……」と溜め息のように息を吐いた。
「たしかに、そっちのが信憑性高いかもって思うね。幽霊とかそういうの全力で信じてるわけじゃないし、不思議な話だけどさぁ」
夢に現れた彼は、常に優しげな笑みを湛えていた。それは日常の蘇芳からは見たことがないほど穏やかであり、蘇芳本人とは繋がりにくい、とくぅは思い直す。
加えて、夢の彼は最後に「友人たち」と告げてきた。例えばあれが蘇芳であったのなら固有名詞を告げるはずで、しかしわざわざそう言ったのはこちらの真相を見抜けてしまえたからでは、と推察した。
「あのゆるゆる警備の部屋に置かれることになったのは、俺が旦那に似てたからっつーのが大きかったわけだし……そう考えたらつまり俺のおかげってのも間違ってねーかっ」
「ええ、なにそれぇ? ふふっ! 急に調子のりまくりじゃあん」
「るせぇ。でもこれだけは確実に言える」
胸の前で腕を組んでいた蘇芳は、ニィと笑んでワシワシとくぅの小さな頭を撫でまわした。
「視た夢から城の外を怪しんだくぅが、今回はきっちりエラかったっつーことっ」
「きゃー! あはははっ」
色素の薄い髪の毛が頭頂部を中心にくしゃくしゃになる。「やめてよぅ」と嬉しそうに笑んだくぅが、髪の乱れをゆっくりと直した。
「あたし、あの世界で寝てばっかだったのに、こんなふうに役に立ったなんて」
「『必要な眠りだ』って夜さま言ってたぞ。つか、くぅが寝てたからセピアの旦那の夢視れて在り処わかったんだ。功労賞だ、功労賞」
「――然様」
蘇芳の左側から割り込んだその声に、二人揃って顔を向ける。ボウ、と仄かな灯を纏い、四つ足で音もなく静かにやって来る小さく黒い物体――夜さまである。
「儂とすぅのみではホログラムに気付けなんだ。くぅには礼を言わねねばな」
ただ、夜さまの天地は逆転していた。蘇芳とくぅに近付くにつれ徐々に重力が合致していくので、蘇芳は「やっぱ慣れねぇな」と苦笑する。
「でも、すぅちゃんと夜さまのが身体張って、ずっと大変な想いして……」
「当然のことじゃ」
ある程度のところでピタリと止まり、夜さまはその場に腰を下ろす。
「すぅはともかく、儂がヌシらのためにみずからを酷使するのは当然のこと。この旅に巻き込んどる以上、それぞれの目的を達するまで儂の贖いは続くよって」
その単語にそれぞれが眉をひそめる。蘇芳は言葉の意味がわからないのみだが、くぅは裏の意味まで引き出した上で疑問をおぼえている。
「して。すぅがなぜ先代頭首に酷似していたのかについては既に見当がついとる」
二人同時に「えっ?」と反応したあとで、ぐるんと夜さまを注視する。くぅはその場に膝を抱えて腰を下ろし、蘇芳も四つん這いになって夜さまに詰め寄った。
「な、なんじゃ二人同時に」
「だって気になるもんっ。生き写しだったよ? 雰囲気以外は」
「おいくぅ」
「しかしな、まったく重要ではないぞ? ヌシらの議題になっとったゆえ、雰囲気で加わってみたにすぎん」
「だーもうっ! なんでもいいからとにかく教えろっ」
「ほんに、知りたがりの野次馬どもめ。あれはの、すぅの遠い子孫の転生先じゃった」
「子孫……って、マジ? あんな俺に似てたのに? つか遠い子孫っつーことは俺あんま関係なくなってね?」
「まぁ、無数にある未来のうちのひとつゆえ、そうであってもおかしくはないということじゃな。ちなみにセピアは儂の転生先のひとつじゃったが、これも大したことではな――」
「えええええっ?! せ、セピアさまが、夜さまのぉー?!」
両頬に手を当てて叫び倒すくぅ。まん丸の目をスイと細め、夜さまが「声が大きい」と小さく諌める。
「いやいや。なにが『大したことではない』だよ! そーゆーのはもっと早く教えろよ!」
「だぁからあんなにセピアさまから昔馴染みみたいな雰囲気がしたんだぁ、夜さまとおんなじ魂だったから! わあ、なんか素敵ぃ!」
「つーか、なんでセピアが自分の転生先だってわかったんだよ? 撫子のときも似たようなこと言ってたけど、そういうのどーやってわかんの?」
「魔力を保有するだけで魂の形も視えるのじゃ。此度は儂とセピアの魂の形が合致しとることにすぐ気付いた。ゆえに、セピアと直に会うのを避けたんじゃ。直接話をすると、魂が決壊する恐れがあるよって」
魂の決壊とはどういうことだろう、と蘇芳は簡単に想像を巡らせる。転がってきたふたつの生卵がぶつかり合い、黄身の割れた中身がでろんと流れ出る様を思い描いたところで、ブンブンと首を振り吹き飛ばした。
「ところで。ヌシら何ともないかの? 記憶が過剰に戻ったやら、身体に異変があるやら」
「俺は平気」
「あたしも。ラグエルに居たときと変わりないよ。夜さまこそ大丈夫?」
「ん、多少違和感がの。代償にした感情が急激に戻ったらしく処理が追い付いとらん。複雑な気分じゃ」
「眠い? あたし抱っこしとく?」
くぅが手を広げると、夜さまは大人しく瞼を伏せくぅの腕の中に収まった。妙に素直だ、と蘇芳は笑いそうになる口元を隠す。
「サニーの真名が、記憶に戻った」
躊躇うような、夜さまのひと言。一気に張りつめる空気に蘇芳の頬から笑みは消える。
「真名……つまり、夜さまがゴールに近付いたってこと?」
「え、スゴい! 夜さまよかったねぇ!」
「安堵できたわけではない。未だ儂の真名も思い出せんし、それに――」
「何言ってんのぉ、喜んでよぅ! リスクたくさん負ってまで捜してる人のこと、名前を聞いてもわかんないなんて悲しいなーって思ってたの。あたしはまだ名前も姿も思い出せないけど……でも、よかったぁ。夜さまがちゃんと思い出せて」
くぅは嬉しそうに夜さまに頬擦りをした。くすぐったそうに身を捩った夜さまは、ややあってから小さく「すまん」と呟いていた。しかしくぅにはそのひと言は届かず、そして蘇芳にはその意味がよくわからなかった。
ふと、左側がほのかに明るくなったのが目の端に映り込んだ。全員でそちらへ顔を向けると、くぅが真っ先に黄色い声をあげる。
「あっ、次の『ドア』!」
まるで板状チョコレートのような形状。左側に黒色の丸ノブ。高さはおおよそ二メートル二〇センチ。幅は大人が二人並んで通れる程度――蘇芳らがしゃがみこんでいる場所から三メートルほど離れた位置にぼんやりと浮かんで見える様は、まるで蜃気楼だ。
「行くかの、次の世に」
「あいよ」
「夜さま、あたしが抱っこしたままでもいい?」
「く、くぅがよいなら、儂は構わぬ」
「ふふっ、やったぁ! じゃ、すぅちゃんも手、繋いでくれる?」
右隣に並んだくぅがくるりと蘇芳を見上げてきた。
わずかに濃くなったくぅの栗色の双眸が、わずかに不安に揺らめいている。どれだけ気丈にしていても、くぅでさえ不安がまったくないわけではないのだと気が付く。
「おう。痛ぇとか言うなよ?」
「あははっ、ぎゅうぎゅうしすぎぃ!」
身を寄せているだけで不安が和らぐことはある。こんなことで一助になるなら、と蘇芳はくぅの左掌を掴んだ。
なんと柔らかく小さな手か。きめ細やかなすべすべの肌質にドキリとして、しかしただちに頭を切り替える。
「大丈夫だ、絶対。くぅの記憶も、もうすぐ全部戻る」
一歩一歩を、くぅと同時に進み行く。
「くぅが言ったんだぞ。『ドア』潜り続けてりゃ絶対帰れるって」
そうだろ? と横顔を覗く。浅く見上げたくぅが小さく弱く「そう、だね」と返してきた。
絶対とは言ってなかったか、と表情に出さずにひっそりと思う。しかし、強く願ってやまなかった。「コイツらを不安にはさせない。自分がいる限り、絶対に」と。
「いや、うん。そうなんだよ、絶対。ありがとね、すぅちゃん」
眼前にした『ドア』の一歩手前で立ち止まる。くぅの腕に右腕に抱かれている夜さまが、顔を上げる。
「さ、すぅ。開けよ」
うん、と頷き、蘇芳がノブに手をかける。
「その内に秘めし想いを遂げさせよ」
「内に、秘めし想い」
「何のため、この『ドア』を開けるか。いつだってそこを忘れてはならぬ」
「当然っ」
そうして『ドア』を押し開けると、再び見たこともない景色が広がっているのだ。
◆ ◆ ◆
二人の想いを遂げさせたい。
これ以上、大切な人を忘れたままでなんていさせない――。
◆ ◆ ◆
ここは『狭間』世界。ただ闇のみが広がる空間である。
前も後ろも左も右も奥行きすらもわからない。やはり自身の身体だけは薄ぼんやりと光って見えている。
足元、胴体、そして腕へ視線をゆっくりと移していくと、蘇芳の衣服はよく見慣れたものへ戻っていた。
汚れが目立つようになってきた白いスニーカー、光に当たるとほんのりと赤く見える黒い学ラン、中に着ている真っ赤な無地の長袖Tシャツ――すべてが蘇芳の私物である。砂の砦国で五日間着ていた未来の衣服は、既に見る影もない。
「あったか、よかった」
加えて、前の『狭間』で肩に掛けたあの薄汚れた小袖を感じ取り、そっと右手で触れる。不意に出た長い溜め息は、心の底からの深い安堵のもの。
なくさないように、と袖に腕を通す。膝上丈の小袖は羽織には丁度良かった。当然彼女の温もりは既に無かったが、蘇芳には想い出がある。それだけがあれば、変わらず前へ進めると思えた。
辺りを一周だけ見渡す。やはり前回のように、くぅの姿も夜さまの姿もない。腹の底まで溜まるような深呼吸の後に、可能な限りの大声を出した。
「夜さまーっ! くーぅ!」
その発した声が反響し反ってくる様子もなければ、果てしない広がりも耳には感じられない。しかし、響かぬまま消えようとも構わないと思えた。もう前回のように怖くはないのだから。
「夜さまーっ、よーるーさーまー。くーうー」
こうして声を上げてさえいれば、二人はこの声に誘われやがて再会できる。絶対だ、大丈夫なのだ、と蘇芳は声を上げることを止めない。
「くーぅっ、返事し――」
「やっほ、すぅちゃん」
不意に背後から声がかかる。「おっ」と振り返ると、案の定くぅであった。手を後ろに組み、小首を傾げ柔く笑んでいる。しかしやはり重力がおかしい。以前同様くぅは蘇芳から見て真横に地があるように立っている。
「おかえり、くぅ」
「ふふっ、ただいま!」
最初の『狭間』で見たときのまま、くぅはアイボリーのセーターをやはりワンピース様に着、つつじ色とたんぽぽ色のボーダー柄靴下と、その先端には真っ赤なエナメルの靴を着用していた。「あぁ、そうだそうだ」と思い出し、心のどこかでホッとする。
「セピアさまに悪いことしちゃったよね、あたしたち」
「けど、今思いつく方法っつったらあれしかなかったしな……」
すぐそこに不安があるようなくぅの薄い笑顔に、蘇芳は言葉を切った。つられて瞼を伏せ、くぅのその視線から逃れる。
数多ある分岐した未来像のひとつ――それが先のあの世界。蘇芳が元の時代に戻ったとて、そのままあの未来に繋がる確率は限りなくゼロに近い。
「ただ、セピアはあんとき、ちゃんと笑ってたよ。苦しそうな感じじゃねぇ、普通の感じで」
セピアの最後の表情を思い出すと、言葉が勝手に飛び出していた。くぅはその出方を窺うように蘇芳を見上げる。
「くぅが寝てる間に夜さまと話したことなんだけど。さっきの未来の世界って、俺たちの生きてる時代は全然関係ねぇんだと。だからホントは、俺たちがわざわざ恩義とかいろんなことやってやる必要なんかなんもなかったんだ」
「そんなこと……」
「でもさ」
くぅと再び視線がかち合う。
「たしかに関係ねぇかもしんなくても、ただ夜さまの残りの魔力を取り戻すためだけにあの世界に出たのかもしんなくても、知っちゃったじゃん俺たち。関わったじゃん、セピアに」
くぅの眉間から力が抜けていく。蘇芳の言いたいことの察しがつくのは、みずからも同じ考えであるがため。
「無意味だってわかっててもいい。俺はただ、俺たちのせいで掻き乱れた代わりに、余裕とか余白を返したかったんだ。笑顔でい続けてほしいとか平和を取り戻したいとか思ってても、そんな大それたもんで返せる技量は俺たちにねぇじゃん。だからせめてそんくらいはっていうか。俺も前に、恩師からそういうのしてもらったから」
蘇芳が困ったように後頭部を掻き、くるりと直角に他を向く。ゆっくりと息を吐きながら肩から力を抜いたくぅは「そっか」と柔く口角を上げた。
「セピアさまが笑ってたなら、ちょっとはよかったのかな」
「かなりよかったろ。セピアはくぅのこと、結構大事に想ってたしな」
「ふふ。すぅちゃんは、そのお世話になった先生にやってもらって嬉しかったことを、すぅちゃんが関わった人たちに返してくんだね」
「え? あ、まあ……先生に返そうとしたら、そう言われたからっつーか」
「そうやってちゃんと回ってるね、すぅちゃんの優しさ」
言われてむず痒くなり、蘇芳は横目でジトリとくぅを睨む。にこにこと無垢に笑むくぅに返す言葉を失い、小さく「フン」と肩を竦めた。
「さっきあたし起こされる直前までさぁ、夢視てたじゃん」
「あー、うなされてたり暴れてたやつな?」
「あの夢でね、すぅちゃんがあたしを『ドア』あったとこに連れてってくれたの。だからね、『ドア』見つけられたのはすぅちゃんのおかげなの」
小さな手を後ろに組み「ありがとね」と小首を傾げて笑む。蘇芳はしかし甘く首を横に振った。
「いや、それも多分俺じゃねぇと思う」
「も?」
「俺も夢一緒に見たわけじゃねーし、ホントはどうだったのかなんてわかんねーけど。あの世界で俺に似てるっつったら、十中八九セピアの旦那さんだったと思うぞ」
「え? でも、ホントにすぅちゃんそのままで」
「さっき金ピカの納骨堂の話したろ。あの奥の資料室に、資料だけじゃなくてデケェ肖像画もあってな――」
資料室で見た、ビスタという名のセピアの伴侶の肖像画。あれは、本人すらうろたえるほど蘇芳に酷似していた。夢とはいえ、ラグエルを案内するような幻影ともなれば、蘇芳というよりもビスタである方が可能性は非常に高い。
それをくぅに説明すると、くぅはポカンとしたまま「はぁ……」と溜め息のように息を吐いた。
「たしかに、そっちのが信憑性高いかもって思うね。幽霊とかそういうの全力で信じてるわけじゃないし、不思議な話だけどさぁ」
夢に現れた彼は、常に優しげな笑みを湛えていた。それは日常の蘇芳からは見たことがないほど穏やかであり、蘇芳本人とは繋がりにくい、とくぅは思い直す。
加えて、夢の彼は最後に「友人たち」と告げてきた。例えばあれが蘇芳であったのなら固有名詞を告げるはずで、しかしわざわざそう言ったのはこちらの真相を見抜けてしまえたからでは、と推察した。
「あのゆるゆる警備の部屋に置かれることになったのは、俺が旦那に似てたからっつーのが大きかったわけだし……そう考えたらつまり俺のおかげってのも間違ってねーかっ」
「ええ、なにそれぇ? ふふっ! 急に調子のりまくりじゃあん」
「るせぇ。でもこれだけは確実に言える」
胸の前で腕を組んでいた蘇芳は、ニィと笑んでワシワシとくぅの小さな頭を撫でまわした。
「視た夢から城の外を怪しんだくぅが、今回はきっちりエラかったっつーことっ」
「きゃー! あはははっ」
色素の薄い髪の毛が頭頂部を中心にくしゃくしゃになる。「やめてよぅ」と嬉しそうに笑んだくぅが、髪の乱れをゆっくりと直した。
「あたし、あの世界で寝てばっかだったのに、こんなふうに役に立ったなんて」
「『必要な眠りだ』って夜さま言ってたぞ。つか、くぅが寝てたからセピアの旦那の夢視れて在り処わかったんだ。功労賞だ、功労賞」
「――然様」
蘇芳の左側から割り込んだその声に、二人揃って顔を向ける。ボウ、と仄かな灯を纏い、四つ足で音もなく静かにやって来る小さく黒い物体――夜さまである。
「儂とすぅのみではホログラムに気付けなんだ。くぅには礼を言わねねばな」
ただ、夜さまの天地は逆転していた。蘇芳とくぅに近付くにつれ徐々に重力が合致していくので、蘇芳は「やっぱ慣れねぇな」と苦笑する。
「でも、すぅちゃんと夜さまのが身体張って、ずっと大変な想いして……」
「当然のことじゃ」
ある程度のところでピタリと止まり、夜さまはその場に腰を下ろす。
「すぅはともかく、儂がヌシらのためにみずからを酷使するのは当然のこと。この旅に巻き込んどる以上、それぞれの目的を達するまで儂の贖いは続くよって」
その単語にそれぞれが眉をひそめる。蘇芳は言葉の意味がわからないのみだが、くぅは裏の意味まで引き出した上で疑問をおぼえている。
「して。すぅがなぜ先代頭首に酷似していたのかについては既に見当がついとる」
二人同時に「えっ?」と反応したあとで、ぐるんと夜さまを注視する。くぅはその場に膝を抱えて腰を下ろし、蘇芳も四つん這いになって夜さまに詰め寄った。
「な、なんじゃ二人同時に」
「だって気になるもんっ。生き写しだったよ? 雰囲気以外は」
「おいくぅ」
「しかしな、まったく重要ではないぞ? ヌシらの議題になっとったゆえ、雰囲気で加わってみたにすぎん」
「だーもうっ! なんでもいいからとにかく教えろっ」
「ほんに、知りたがりの野次馬どもめ。あれはの、すぅの遠い子孫の転生先じゃった」
「子孫……って、マジ? あんな俺に似てたのに? つか遠い子孫っつーことは俺あんま関係なくなってね?」
「まぁ、無数にある未来のうちのひとつゆえ、そうであってもおかしくはないということじゃな。ちなみにセピアは儂の転生先のひとつじゃったが、これも大したことではな――」
「えええええっ?! せ、セピアさまが、夜さまのぉー?!」
両頬に手を当てて叫び倒すくぅ。まん丸の目をスイと細め、夜さまが「声が大きい」と小さく諌める。
「いやいや。なにが『大したことではない』だよ! そーゆーのはもっと早く教えろよ!」
「だぁからあんなにセピアさまから昔馴染みみたいな雰囲気がしたんだぁ、夜さまとおんなじ魂だったから! わあ、なんか素敵ぃ!」
「つーか、なんでセピアが自分の転生先だってわかったんだよ? 撫子のときも似たようなこと言ってたけど、そういうのどーやってわかんの?」
「魔力を保有するだけで魂の形も視えるのじゃ。此度は儂とセピアの魂の形が合致しとることにすぐ気付いた。ゆえに、セピアと直に会うのを避けたんじゃ。直接話をすると、魂が決壊する恐れがあるよって」
魂の決壊とはどういうことだろう、と蘇芳は簡単に想像を巡らせる。転がってきたふたつの生卵がぶつかり合い、黄身の割れた中身がでろんと流れ出る様を思い描いたところで、ブンブンと首を振り吹き飛ばした。
「ところで。ヌシら何ともないかの? 記憶が過剰に戻ったやら、身体に異変があるやら」
「俺は平気」
「あたしも。ラグエルに居たときと変わりないよ。夜さまこそ大丈夫?」
「ん、多少違和感がの。代償にした感情が急激に戻ったらしく処理が追い付いとらん。複雑な気分じゃ」
「眠い? あたし抱っこしとく?」
くぅが手を広げると、夜さまは大人しく瞼を伏せくぅの腕の中に収まった。妙に素直だ、と蘇芳は笑いそうになる口元を隠す。
「サニーの真名が、記憶に戻った」
躊躇うような、夜さまのひと言。一気に張りつめる空気に蘇芳の頬から笑みは消える。
「真名……つまり、夜さまがゴールに近付いたってこと?」
「え、スゴい! 夜さまよかったねぇ!」
「安堵できたわけではない。未だ儂の真名も思い出せんし、それに――」
「何言ってんのぉ、喜んでよぅ! リスクたくさん負ってまで捜してる人のこと、名前を聞いてもわかんないなんて悲しいなーって思ってたの。あたしはまだ名前も姿も思い出せないけど……でも、よかったぁ。夜さまがちゃんと思い出せて」
くぅは嬉しそうに夜さまに頬擦りをした。くすぐったそうに身を捩った夜さまは、ややあってから小さく「すまん」と呟いていた。しかしくぅにはそのひと言は届かず、そして蘇芳にはその意味がよくわからなかった。
ふと、左側がほのかに明るくなったのが目の端に映り込んだ。全員でそちらへ顔を向けると、くぅが真っ先に黄色い声をあげる。
「あっ、次の『ドア』!」
まるで板状チョコレートのような形状。左側に黒色の丸ノブ。高さはおおよそ二メートル二〇センチ。幅は大人が二人並んで通れる程度――蘇芳らがしゃがみこんでいる場所から三メートルほど離れた位置にぼんやりと浮かんで見える様は、まるで蜃気楼だ。
「行くかの、次の世に」
「あいよ」
「夜さま、あたしが抱っこしたままでもいい?」
「く、くぅがよいなら、儂は構わぬ」
「ふふっ、やったぁ! じゃ、すぅちゃんも手、繋いでくれる?」
右隣に並んだくぅがくるりと蘇芳を見上げてきた。
わずかに濃くなったくぅの栗色の双眸が、わずかに不安に揺らめいている。どれだけ気丈にしていても、くぅでさえ不安がまったくないわけではないのだと気が付く。
「おう。痛ぇとか言うなよ?」
「あははっ、ぎゅうぎゅうしすぎぃ!」
身を寄せているだけで不安が和らぐことはある。こんなことで一助になるなら、と蘇芳はくぅの左掌を掴んだ。
なんと柔らかく小さな手か。きめ細やかなすべすべの肌質にドキリとして、しかしただちに頭を切り替える。
「大丈夫だ、絶対。くぅの記憶も、もうすぐ全部戻る」
一歩一歩を、くぅと同時に進み行く。
「くぅが言ったんだぞ。『ドア』潜り続けてりゃ絶対帰れるって」
そうだろ? と横顔を覗く。浅く見上げたくぅが小さく弱く「そう、だね」と返してきた。
絶対とは言ってなかったか、と表情に出さずにひっそりと思う。しかし、強く願ってやまなかった。「コイツらを不安にはさせない。自分がいる限り、絶対に」と。
「いや、うん。そうなんだよ、絶対。ありがとね、すぅちゃん」
眼前にした『ドア』の一歩手前で立ち止まる。くぅの腕に右腕に抱かれている夜さまが、顔を上げる。
「さ、すぅ。開けよ」
うん、と頷き、蘇芳がノブに手をかける。
「その内に秘めし想いを遂げさせよ」
「内に、秘めし想い」
「何のため、この『ドア』を開けるか。いつだってそこを忘れてはならぬ」
「当然っ」
そうして『ドア』を押し開けると、再び見たこともない景色が広がっているのだ。
◆ ◆ ◆
二人の想いを遂げさせたい。
これ以上、大切な人を忘れたままでなんていさせない――。
◆ ◆ ◆
