「ん……」
ふと目が開いたとき、辺りはシンと静まりかえっていた。
蝋の燈はとうに消され、高い位置にあるフィックス窓から射している月明かりがさながら常夜燈の役割をしている。
吸い込んだ空気は澄み、無臭であり、わずかばかり生暖かい。手先も足先も不自由なく動かせる。それを自覚してから、くぅはむくりと起き上がった。しかし背は力なく丸まり、首は前に落ち気味になってしまう。
ここは何処であったか、独りか供がいたか、直近でせねばならぬことやそもそもの目的は何であったか――ゆっくりとまばたきを重ねるも、浮遊感を伴った夢心地が続く。
「いま、何時だろ」
不意に呟いた声は掠れていた。貼りつくように喉が渇いている。「水が欲しい」と思ったとき、視線の先に人影があることに気がついた。
それはくぅの足先のその向こう。くぅは瞼、鼻先、胸部の順で上向け、すると背がしゃんと伸びた。
「……すぅちゃん?」
自然と出た呼び名をみずから聞くことでサアと思考が冴えわたった。
此処は『ドア』で出た謎多き砂の国であり、独りではなく夜さまと蘇芳と共に旅を進めている途中であり、蘇芳は毒矢を受け重傷で、かつ軟禁状態に置かれていることを思い出す。
それにしても、とくぅは冷静であった。
「すぅちゃん大丈夫なの? もうすっかり立って歩けるの?」
足先の向こう――くぅが座している寝台から数歩先で、蘇芳がボウと立っている。くぅへ顔を向け、柔く笑み、そしてなぜか薄く透けている。
「すぅちゃん、だよね?」
掠れ声で問い、口元で笑みをつくったくぅを、不可思議に透けている蘇芳は黙って見つめ返すのみ。シンとした音が聴覚をこそばゆく刺激する。
そのうちにふらりと移動を始めた。くぅは慌てて寝台を降り、柔いブーツに脚をそれぞれ突っ込み、後を追う。
鬱金染めの長暖簾の向こうには見張り兵はじめ人間が誰もおらず、くぅは思わずたじろいだ。そうこうしているうちに透けている蘇芳が先を行ってしまうため、意を決し小走りに進む。
透けている蘇芳は一定の距離を保ち、くぅをどこかへ先導していた。いくつかの階段を上り、途中で脚が止まる。ゼェゼェと息を切らすくぅを、透けている蘇芳は表情を変えずただ遠巻きに眺めている。
「どこ行くの、すぅちゃん!」
どれだけ問えども返事はない。いつの間にか地上に出てしまったくぅは、砂地で脚をもつれさせながら透けている蘇芳を変わらず必死に追った。
はたして朝焼けか夕方か、薄暗がりの外の空気は室内同様生暖かい。光量少ないラクダの厩舎を横目に通り過ぎ、その奥の空の下で、透けている蘇芳はようやく動きを止めた。
膝に手を置きゼェゼェと息を整える。目線は足元の砂を向いており、吐く息ごとに表面の砂が細かく散りゆく。
「すぅちゃ、ハァ、なん……どうなってんの? ハァ、なんか変、じゃない?」
纏まらない言葉を言いながら顔を上げると、なぜか既に蘇芳の姿はなかった。ヒュンと肝が冷えたためにゼェゼェがサッと引く。幾度か恐る恐る呼ぶも応答がなく、生暖かい空気だけが弱く流れていた。
「もう、やだ。追っかけたら居なくなられるの、怖い」
消え入りそうな声で弱音を吐けば、途端にぐしゃりと表情が歪んだ。それが呼び水となったか、不安と恐怖の涙が続々と流れ出る。
しばらくその場で泣いていたくぅであるが、拭えども拭えども素肌の手首では拭いきれず、すっかり肘下までがべしょべしょになってから拭うことをやめた。口をへの字にし、不貞腐れた表情で来た道を戻ろうと試みる。
そのとき、生ぬるい突風がくぅに吹きかかり近くの砂がサアと巻き上がった。咄嗟に目や鼻と口を覆う。
「次に目を覚ましたら、またここにおいで。もちろんキミのご友人たちも共に」
突風の中に、そんな言葉を聞いた。低いが優しいその男声からは余裕や安定感をおぼえ、迷い事の解決を委ねてしまいそうになる不可思議さがあった。
突風は瞬く間にその場を後にしたらしい。くぅが髪の乱れを気にし手櫛を入れた頃には、いつの間にか先程抜け出したはずの寝台の上に戻っていた。
「あれっ?」
どうして、と混乱のまま自身の髪をくしゃりと握る。消えていたはずの蝋の燈は点いているし、月明かりはそれに霞んでいる。
状況把握に苦心していると、くぅの両肩をゆさゆさと揺らす他者の体温にようやく意識が向いた。
「くぅ、しっかりしろっ。こっち見ろ、おいっ!」
必死な形相、切羽詰まった声音。視界の焦点が合えば目の前には蘇芳がいた。
「……すぅちゃん」
「くぅ、マジでわかってっか? 俺も夜さまもわかる?」
しかし今度の蘇芳は透けていない。先の優しい笑みや穏やかな雰囲気はないものの、これまでの蘇芳であると認識できた。
「わか、るよ。わかる。それよりどうしたの? 急にいなくなるし、揺さぶったりして。びっくりだよ」
「こっちのセリフだっつの、しばらくうなされてたんだぞ。ちょい暴れたり泣いたりもあったからさすがにヤベーかなって、結構ビビって」
同調の「なぁ」をくぅの左隣へ落とす。そこには夜さまがちょこんと座っていた。くぅをじっと見上げ、険しい表情をしている。
「ヌシ、夢視が良くなかったかの」
「夢……」
なぞることでそれまでの言葉の意味をきちんと把握しきると、ようやくそれまでの浮遊感が消え去り、途端に現実へ引き戻る。
「もしかしてあたし、『いままで』ずっと寝てた?」
「まる三日間寝とったのじゃ」
「まる三日?」
「あぁ。メシも食わねぇ水も飲まねぇでな」
信じがたい、とくぅは視線が泳ぐ。
「じゃあすぅちゃんさっき、あたしと一緒に外出てないってこと?」
「出てねーよ。昨日一応セピアとは和解したけど、軟禁状態なのは変わってねぇしな」
蘇芳はそれまでのあらましを簡単にくぅへ告げた。その声量はあっという間に潜められてゆき、長暖簾の外には未だ兵士がいるのだとくぅはすぐに察する。夜さまは、コロコロと表情を変えながら一喜一憂するくぅを静かにじっと見つめていた。
「――で、いまは夜さまがコソコソ抜け出して『ドア』捜ししてくれてるとこなんだけどさ、なっかなか見つかんなくてよ」
「そっかぁ。いいなぁ、金ピカピンの納骨堂、あたしも見てみたいなぁ」
「いままでの話で一番気になったとこそこかよ」
「だってぇ。でも、夜さま凄く頑張ってるなって思ったよ。広い地下の街の中を一人で捜すのはさすがに限界あるよねぇ」
「めぼしいところには何度も訪れたが、依然気配が『薄い』のじゃ。鍵付きの部屋なぞも悠に開け入っとるが、追いきれとらんのが実状じゃな」
「いや、勝手に忍び込んでんのかよ。相変わらず極悪猫だな」
「フー……ではすぅが直々にセピアに掛け合いひとつひとつ解錠させ、儂以上に隈なく調べてくれるのじゃな?」
「だーから。それやろーとしたら周りの兵士たちにむっちゃ睨まれて凄まれて、なんかいろいろ酷かっただろっ。資料見せの約束まで無しにされかけたじゃねーかよ」
「ねぇ夜さま。『薄い』ってことは感じてないわけじゃない……だから少なくともこの辺のどこかにはある、ってことだったよね?」
小さな顎に手をやり口を挟むくぅ。言い合いをピタリと止め、夜さまはくぅを向き直り首肯した。
「すぅちゃんがセピアさま助けてからも、外って出てないんだよね? この建物の外。砂の上っていうか」
「地上の出入りもデジタルロックだったから尚更セピアか兵士と一緒じゃねぇと出らんねーんだよ、暗証番号の桁数も多かったし。さすがに夜さまも外までは行けてねぇだろ?」
「行こうとしたが、儂の術ですら破れなんだ」
よかった、となぜか安堵が先立った蘇芳。
「もしや外に在るのを『夢で視た』か?」
「ううん、そうじゃないんだけど。でももしかしたら『心当たり』かもしれないから、気になるっていうか」
途端に静まり返る室内。それぞれ顔を見合わせる。
「すぅの見聞きしてきた話とくぅの夢の話を併せ、大方察しがいった」
「マジかよ。俺全然わかんねーんだけど」
「いーのいーの。夜さまがわかったんならあたしもすぅちゃんもわかんなくて大丈夫」
「あっけらかんと言ってくれんなよな……」
「『ドア』の在り処へはセピアに案内をさせるのじゃ。小細工が効かんとわかればよもや正面突破しかない」
「夜さまの魔法でサクッとテレポート出来りゃなんの苦労もねーんだけどなぁ。ピョッとやってポンと移動できるような軽いやつ出来ねーの?」
「……まことに出来ると思うての発言なんじゃろな」
ギロリと鋭利な視線が向けられたので、蘇芳は被せるように「スンマセンデシタ」と萎縮した。
くぅの意識が戻った旨を敢えて長暖簾の向こうへ伝達する。それは、飲まず食わずでいたくぅのために食事を用意できないかという打診であるが、あわよくばセピアを呼び寄せられないかという画策でもあった。もちろん立案は夜さまである。
「やはり眠っていただけのようです、他に異常はみられません。食事を許諾いたします、セピアさま」
「わかった。おい、運び入れてくれ」
セピアや食事のみならず、医師までもが共に訪れたことは目論見以上であった。医師は相変わらず手際よくくぅを診てゆき、その見解をくぅでも蘇芳でもなくセピアへ告げ診察を終えた。蘇芳はこの数時間前に既に診終えているため、医師から視線すら向けられなかった。
運び入れられた食事は初日のものと似たような内容物であった。セピアの声掛けまもなく、使用人の女性が猫足の白い丸テーブルに食事を置いたため、セピアの介助で寝台を降りたくぅはそちらで食事となった。
「お前たちは先に戻れ、私は少し話をしてから戻る」
「し、しかしセピアさま」
「それから蒸し布の用意を頼む。二人分だ」
長暖簾の前でセピアの退出を待っていた医師と使用人の女性は、意見する隙も与えられず、ただ「かしこまりました」と退出するしかなかった。彼女らの足音がすっかり遠退くと、セピアは「遠慮せず食べろ」とくぅへ笑みを向けた。
「すまない、湯を浴びたりできないものだから蒸し温めた布で身体を拭かせてやることしかできないんだ」
「いいんですか? そんなことまでしてもらって」
「構わない。くぅが眠り続けていたのだってきっと旅の疲れが出たからだろう。慰め程度だが回復の一助にしてくれ」
セピアにニコリと笑まれ、瞬時にへにゃりと溶けるくぅの頬と「ありがとうございます」の声。
食事を始めたくぅを、セピアは頬杖で眺めている。寝台に寝転がったままフィックス窓の向こうに顔を向けていた蘇芳は、視線をそのままに「上手くいってんのか?」と何気ない訊ね方をした。脚の組み直しをしながら「ぼちぼちだな」と返すセピア。
「会合を重ねた結果、交渉と折り合いを持ち合い均等に譲歩するかたちでどうにか収まりそうだ。ドラヴに代わって代表を務めることになった者が今朝からこのラグエルに来ている。聞けばあちらにももう兵力なんてものはないんだと、疲れた顔で意見交換を提案されたんだ」
「結局お互いに似たような状況だったんだな。じゃあ好戦的だったのもアイツ個人の暴走だった、みたいな?」
「新代表の周りは必死にそう言っていたがな。正直、もうどっちでもいいよ。そんなことより、双方の明日が明るくなるために全力で行動し続けなければ。私はそれの筆頭になるよ」
だから引き続き気を抜かないようにしないとな、とセピアは肩の力を抜いた。
「父と祖父、曾祖母、そして私の伴侶が率いてきた国がこのラグエルだ。私も、歴代当主たちとお前のように、周りをよく見て、しつこく粘り強く話し合い、歩み寄りのチャンスを活かす長となるさ」
目を向けられた蘇芳は、つきものの取れたようなセピアへ「そっか」と緩く口角を上げた。
「セピアさま。あの」
匙を置き、くぅがモジモジと口を開く。
「あたし、お城の外観を見てみたいんですけど、そういうのってセピアさまの許可あれば、見せていただけますか?」
「外観? 別に構わないが、特段面白くはないと思うぞ?」
「えーっと! 砂の調査やりたかったのにすっかり忘れてたんだよな、俺。相手の頭とやり合ってたときにせっかく外出たくせにマジ何やってんだよーって! それもあって、だからちょっとだけでいいんだけどよ」
声を張りがちになってしまうのは、取り繕いや強行突破を叶えたい姿勢からである。
セピアはふぅんと顎をしゃくり、蘇芳とくぅの表情を見比べ、頬杖を解きいくらか思案し始める。
「私が自由に動けるのは今しかない。この機を逃せば恐らくまた明日の夜だ。せっかく汗や砂埃を拭ったあとになってはもったいないし、それなら今から上に出てみるか」
「ほ、ほんと、セピアさま?!」
「あぁ。お前たちが間者でないことも、ただ地質調査をしている学者だということもよくわかった。万一があったとしても門扉は閉めてあるし、城壁には見張り兵がいる。問題はないよ」
セピアの言葉に反射的に左脇腹をさする蘇芳。一方で「こうもあっさりと承諾してもらえるとは」と目を白黒させていた。歩み寄りや対話はもちろん、物事を頼む際にいかに信頼性が重要であるかを、蘇芳は身をもって理解した。
「失礼いたします。セピアさま、蒸し布をお持ちいたしました」
鬱金染めの向こうから使用人の声がして、セピアが「すまないが改めてくれないか」と立ち上がる。
その間に、蘇芳はギュンと寝台を降りそそくさとローブを着る。寝台の影に隠れていた夜さまは、目に留まらぬ速さで蘇芳の左肩へよじ登り改めて身を潜めた。くぅは目の前の食事を咀嚼の合間に口に詰め、まんまるになった頬をもぎゅもぎゅしながら席を立った。そこへ蘇芳がスポンとローブを着せれば、砂の国からの出立準備が整った。
「蘇芳、くぅ。蒸し布は改めて持ってこさせ――」
鬱金染めから室内へ顔を戻したセピアは、そこで言葉を止めぎょっとした。
「ひゅんひれきあいあ!」
「口にもの詰めてんだから喋んな」
蘇芳とくぅはローブのフードをしっかりと被り、セピアのすぐ傍に並び立っていた。もごもごと咀嚼を見せるくぅを見て、セピアは「フフ!」と楽しげに笑んだ。
「本当に見てて飽きないな、お前たちは」
ふと目が開いたとき、辺りはシンと静まりかえっていた。
蝋の燈はとうに消され、高い位置にあるフィックス窓から射している月明かりがさながら常夜燈の役割をしている。
吸い込んだ空気は澄み、無臭であり、わずかばかり生暖かい。手先も足先も不自由なく動かせる。それを自覚してから、くぅはむくりと起き上がった。しかし背は力なく丸まり、首は前に落ち気味になってしまう。
ここは何処であったか、独りか供がいたか、直近でせねばならぬことやそもそもの目的は何であったか――ゆっくりとまばたきを重ねるも、浮遊感を伴った夢心地が続く。
「いま、何時だろ」
不意に呟いた声は掠れていた。貼りつくように喉が渇いている。「水が欲しい」と思ったとき、視線の先に人影があることに気がついた。
それはくぅの足先のその向こう。くぅは瞼、鼻先、胸部の順で上向け、すると背がしゃんと伸びた。
「……すぅちゃん?」
自然と出た呼び名をみずから聞くことでサアと思考が冴えわたった。
此処は『ドア』で出た謎多き砂の国であり、独りではなく夜さまと蘇芳と共に旅を進めている途中であり、蘇芳は毒矢を受け重傷で、かつ軟禁状態に置かれていることを思い出す。
それにしても、とくぅは冷静であった。
「すぅちゃん大丈夫なの? もうすっかり立って歩けるの?」
足先の向こう――くぅが座している寝台から数歩先で、蘇芳がボウと立っている。くぅへ顔を向け、柔く笑み、そしてなぜか薄く透けている。
「すぅちゃん、だよね?」
掠れ声で問い、口元で笑みをつくったくぅを、不可思議に透けている蘇芳は黙って見つめ返すのみ。シンとした音が聴覚をこそばゆく刺激する。
そのうちにふらりと移動を始めた。くぅは慌てて寝台を降り、柔いブーツに脚をそれぞれ突っ込み、後を追う。
鬱金染めの長暖簾の向こうには見張り兵はじめ人間が誰もおらず、くぅは思わずたじろいだ。そうこうしているうちに透けている蘇芳が先を行ってしまうため、意を決し小走りに進む。
透けている蘇芳は一定の距離を保ち、くぅをどこかへ先導していた。いくつかの階段を上り、途中で脚が止まる。ゼェゼェと息を切らすくぅを、透けている蘇芳は表情を変えずただ遠巻きに眺めている。
「どこ行くの、すぅちゃん!」
どれだけ問えども返事はない。いつの間にか地上に出てしまったくぅは、砂地で脚をもつれさせながら透けている蘇芳を変わらず必死に追った。
はたして朝焼けか夕方か、薄暗がりの外の空気は室内同様生暖かい。光量少ないラクダの厩舎を横目に通り過ぎ、その奥の空の下で、透けている蘇芳はようやく動きを止めた。
膝に手を置きゼェゼェと息を整える。目線は足元の砂を向いており、吐く息ごとに表面の砂が細かく散りゆく。
「すぅちゃ、ハァ、なん……どうなってんの? ハァ、なんか変、じゃない?」
纏まらない言葉を言いながら顔を上げると、なぜか既に蘇芳の姿はなかった。ヒュンと肝が冷えたためにゼェゼェがサッと引く。幾度か恐る恐る呼ぶも応答がなく、生暖かい空気だけが弱く流れていた。
「もう、やだ。追っかけたら居なくなられるの、怖い」
消え入りそうな声で弱音を吐けば、途端にぐしゃりと表情が歪んだ。それが呼び水となったか、不安と恐怖の涙が続々と流れ出る。
しばらくその場で泣いていたくぅであるが、拭えども拭えども素肌の手首では拭いきれず、すっかり肘下までがべしょべしょになってから拭うことをやめた。口をへの字にし、不貞腐れた表情で来た道を戻ろうと試みる。
そのとき、生ぬるい突風がくぅに吹きかかり近くの砂がサアと巻き上がった。咄嗟に目や鼻と口を覆う。
「次に目を覚ましたら、またここにおいで。もちろんキミのご友人たちも共に」
突風の中に、そんな言葉を聞いた。低いが優しいその男声からは余裕や安定感をおぼえ、迷い事の解決を委ねてしまいそうになる不可思議さがあった。
突風は瞬く間にその場を後にしたらしい。くぅが髪の乱れを気にし手櫛を入れた頃には、いつの間にか先程抜け出したはずの寝台の上に戻っていた。
「あれっ?」
どうして、と混乱のまま自身の髪をくしゃりと握る。消えていたはずの蝋の燈は点いているし、月明かりはそれに霞んでいる。
状況把握に苦心していると、くぅの両肩をゆさゆさと揺らす他者の体温にようやく意識が向いた。
「くぅ、しっかりしろっ。こっち見ろ、おいっ!」
必死な形相、切羽詰まった声音。視界の焦点が合えば目の前には蘇芳がいた。
「……すぅちゃん」
「くぅ、マジでわかってっか? 俺も夜さまもわかる?」
しかし今度の蘇芳は透けていない。先の優しい笑みや穏やかな雰囲気はないものの、これまでの蘇芳であると認識できた。
「わか、るよ。わかる。それよりどうしたの? 急にいなくなるし、揺さぶったりして。びっくりだよ」
「こっちのセリフだっつの、しばらくうなされてたんだぞ。ちょい暴れたり泣いたりもあったからさすがにヤベーかなって、結構ビビって」
同調の「なぁ」をくぅの左隣へ落とす。そこには夜さまがちょこんと座っていた。くぅをじっと見上げ、険しい表情をしている。
「ヌシ、夢視が良くなかったかの」
「夢……」
なぞることでそれまでの言葉の意味をきちんと把握しきると、ようやくそれまでの浮遊感が消え去り、途端に現実へ引き戻る。
「もしかしてあたし、『いままで』ずっと寝てた?」
「まる三日間寝とったのじゃ」
「まる三日?」
「あぁ。メシも食わねぇ水も飲まねぇでな」
信じがたい、とくぅは視線が泳ぐ。
「じゃあすぅちゃんさっき、あたしと一緒に外出てないってこと?」
「出てねーよ。昨日一応セピアとは和解したけど、軟禁状態なのは変わってねぇしな」
蘇芳はそれまでのあらましを簡単にくぅへ告げた。その声量はあっという間に潜められてゆき、長暖簾の外には未だ兵士がいるのだとくぅはすぐに察する。夜さまは、コロコロと表情を変えながら一喜一憂するくぅを静かにじっと見つめていた。
「――で、いまは夜さまがコソコソ抜け出して『ドア』捜ししてくれてるとこなんだけどさ、なっかなか見つかんなくてよ」
「そっかぁ。いいなぁ、金ピカピンの納骨堂、あたしも見てみたいなぁ」
「いままでの話で一番気になったとこそこかよ」
「だってぇ。でも、夜さま凄く頑張ってるなって思ったよ。広い地下の街の中を一人で捜すのはさすがに限界あるよねぇ」
「めぼしいところには何度も訪れたが、依然気配が『薄い』のじゃ。鍵付きの部屋なぞも悠に開け入っとるが、追いきれとらんのが実状じゃな」
「いや、勝手に忍び込んでんのかよ。相変わらず極悪猫だな」
「フー……ではすぅが直々にセピアに掛け合いひとつひとつ解錠させ、儂以上に隈なく調べてくれるのじゃな?」
「だーから。それやろーとしたら周りの兵士たちにむっちゃ睨まれて凄まれて、なんかいろいろ酷かっただろっ。資料見せの約束まで無しにされかけたじゃねーかよ」
「ねぇ夜さま。『薄い』ってことは感じてないわけじゃない……だから少なくともこの辺のどこかにはある、ってことだったよね?」
小さな顎に手をやり口を挟むくぅ。言い合いをピタリと止め、夜さまはくぅを向き直り首肯した。
「すぅちゃんがセピアさま助けてからも、外って出てないんだよね? この建物の外。砂の上っていうか」
「地上の出入りもデジタルロックだったから尚更セピアか兵士と一緒じゃねぇと出らんねーんだよ、暗証番号の桁数も多かったし。さすがに夜さまも外までは行けてねぇだろ?」
「行こうとしたが、儂の術ですら破れなんだ」
よかった、となぜか安堵が先立った蘇芳。
「もしや外に在るのを『夢で視た』か?」
「ううん、そうじゃないんだけど。でももしかしたら『心当たり』かもしれないから、気になるっていうか」
途端に静まり返る室内。それぞれ顔を見合わせる。
「すぅの見聞きしてきた話とくぅの夢の話を併せ、大方察しがいった」
「マジかよ。俺全然わかんねーんだけど」
「いーのいーの。夜さまがわかったんならあたしもすぅちゃんもわかんなくて大丈夫」
「あっけらかんと言ってくれんなよな……」
「『ドア』の在り処へはセピアに案内をさせるのじゃ。小細工が効かんとわかればよもや正面突破しかない」
「夜さまの魔法でサクッとテレポート出来りゃなんの苦労もねーんだけどなぁ。ピョッとやってポンと移動できるような軽いやつ出来ねーの?」
「……まことに出来ると思うての発言なんじゃろな」
ギロリと鋭利な視線が向けられたので、蘇芳は被せるように「スンマセンデシタ」と萎縮した。
くぅの意識が戻った旨を敢えて長暖簾の向こうへ伝達する。それは、飲まず食わずでいたくぅのために食事を用意できないかという打診であるが、あわよくばセピアを呼び寄せられないかという画策でもあった。もちろん立案は夜さまである。
「やはり眠っていただけのようです、他に異常はみられません。食事を許諾いたします、セピアさま」
「わかった。おい、運び入れてくれ」
セピアや食事のみならず、医師までもが共に訪れたことは目論見以上であった。医師は相変わらず手際よくくぅを診てゆき、その見解をくぅでも蘇芳でもなくセピアへ告げ診察を終えた。蘇芳はこの数時間前に既に診終えているため、医師から視線すら向けられなかった。
運び入れられた食事は初日のものと似たような内容物であった。セピアの声掛けまもなく、使用人の女性が猫足の白い丸テーブルに食事を置いたため、セピアの介助で寝台を降りたくぅはそちらで食事となった。
「お前たちは先に戻れ、私は少し話をしてから戻る」
「し、しかしセピアさま」
「それから蒸し布の用意を頼む。二人分だ」
長暖簾の前でセピアの退出を待っていた医師と使用人の女性は、意見する隙も与えられず、ただ「かしこまりました」と退出するしかなかった。彼女らの足音がすっかり遠退くと、セピアは「遠慮せず食べろ」とくぅへ笑みを向けた。
「すまない、湯を浴びたりできないものだから蒸し温めた布で身体を拭かせてやることしかできないんだ」
「いいんですか? そんなことまでしてもらって」
「構わない。くぅが眠り続けていたのだってきっと旅の疲れが出たからだろう。慰め程度だが回復の一助にしてくれ」
セピアにニコリと笑まれ、瞬時にへにゃりと溶けるくぅの頬と「ありがとうございます」の声。
食事を始めたくぅを、セピアは頬杖で眺めている。寝台に寝転がったままフィックス窓の向こうに顔を向けていた蘇芳は、視線をそのままに「上手くいってんのか?」と何気ない訊ね方をした。脚の組み直しをしながら「ぼちぼちだな」と返すセピア。
「会合を重ねた結果、交渉と折り合いを持ち合い均等に譲歩するかたちでどうにか収まりそうだ。ドラヴに代わって代表を務めることになった者が今朝からこのラグエルに来ている。聞けばあちらにももう兵力なんてものはないんだと、疲れた顔で意見交換を提案されたんだ」
「結局お互いに似たような状況だったんだな。じゃあ好戦的だったのもアイツ個人の暴走だった、みたいな?」
「新代表の周りは必死にそう言っていたがな。正直、もうどっちでもいいよ。そんなことより、双方の明日が明るくなるために全力で行動し続けなければ。私はそれの筆頭になるよ」
だから引き続き気を抜かないようにしないとな、とセピアは肩の力を抜いた。
「父と祖父、曾祖母、そして私の伴侶が率いてきた国がこのラグエルだ。私も、歴代当主たちとお前のように、周りをよく見て、しつこく粘り強く話し合い、歩み寄りのチャンスを活かす長となるさ」
目を向けられた蘇芳は、つきものの取れたようなセピアへ「そっか」と緩く口角を上げた。
「セピアさま。あの」
匙を置き、くぅがモジモジと口を開く。
「あたし、お城の外観を見てみたいんですけど、そういうのってセピアさまの許可あれば、見せていただけますか?」
「外観? 別に構わないが、特段面白くはないと思うぞ?」
「えーっと! 砂の調査やりたかったのにすっかり忘れてたんだよな、俺。相手の頭とやり合ってたときにせっかく外出たくせにマジ何やってんだよーって! それもあって、だからちょっとだけでいいんだけどよ」
声を張りがちになってしまうのは、取り繕いや強行突破を叶えたい姿勢からである。
セピアはふぅんと顎をしゃくり、蘇芳とくぅの表情を見比べ、頬杖を解きいくらか思案し始める。
「私が自由に動けるのは今しかない。この機を逃せば恐らくまた明日の夜だ。せっかく汗や砂埃を拭ったあとになってはもったいないし、それなら今から上に出てみるか」
「ほ、ほんと、セピアさま?!」
「あぁ。お前たちが間者でないことも、ただ地質調査をしている学者だということもよくわかった。万一があったとしても門扉は閉めてあるし、城壁には見張り兵がいる。問題はないよ」
セピアの言葉に反射的に左脇腹をさする蘇芳。一方で「こうもあっさりと承諾してもらえるとは」と目を白黒させていた。歩み寄りや対話はもちろん、物事を頼む際にいかに信頼性が重要であるかを、蘇芳は身をもって理解した。
「失礼いたします。セピアさま、蒸し布をお持ちいたしました」
鬱金染めの向こうから使用人の声がして、セピアが「すまないが改めてくれないか」と立ち上がる。
その間に、蘇芳はギュンと寝台を降りそそくさとローブを着る。寝台の影に隠れていた夜さまは、目に留まらぬ速さで蘇芳の左肩へよじ登り改めて身を潜めた。くぅは目の前の食事を咀嚼の合間に口に詰め、まんまるになった頬をもぎゅもぎゅしながら席を立った。そこへ蘇芳がスポンとローブを着せれば、砂の国からの出立準備が整った。
「蘇芳、くぅ。蒸し布は改めて持ってこさせ――」
鬱金染めから室内へ顔を戻したセピアは、そこで言葉を止めぎょっとした。
「ひゅんひれきあいあ!」
「口にもの詰めてんだから喋んな」
蘇芳とくぅはローブのフードをしっかりと被り、セピアのすぐ傍に並び立っていた。もごもごと咀嚼を見せるくぅを見て、セピアは「フフ!」と楽しげに笑んだ。
「本当に見てて飽きないな、お前たちは」
