朝食が運ばれて来てから体内時間で六〇分が経過した頃、食器を下げに計三人が長暖簾を分け入ってきた。使用人の女性が二人と医師の女性である。手つかずになっているくぅのための朝食は、使用人の女性によって無感情的に下げられてしまった。
「見たところどちらの傷口も薄くだけれどひとまず塞がっています、ご自身の回復力に感謝を捧げるのね」
相変わらず医師は早口気味に感想と診察経過を述べた。上辺だけで話す医師の口ぶりは、何度聞いても慣れない。
「今日は抗生剤も投与していきます、ちょっと痛いけど騒がないように」
加えて判断も速いため、あらかじめ用意し持ってきていたであろう注射を、話しながらの動作でなんの躊躇いもなく右前腕へ刺した。蘇芳の覚悟は間に合わず、更に投与された抗生剤は細くピギピギとした痛みを伴ったため、「いでえぇああっ!」とまたもや叫んでしまう。
「はい終わりました、昨日と同じく傷が痛くないからといっても鎮痛剤の効果なので一時的ですから決して暴れ回らないように。開いてもいいのなら別ですけど」
「あり、ありがとう、ございました……」
「では私はこれで」
「待っ、も、もうひとり頼みたいんだけど、ダメ?」
立ち上がり、さっさと片付けを進めていた医師の手が止まる。
「『妹』が朝から起きねぇんだよ。気ィ失ってたりとか、なんか病気かもしんねーから、診てもらえねぇですか?」
懇願する蘇芳のまなざしを見て、医師は寝台をまわりくぅの寝台脇へと移動した。膝をつき、ただ眠りについている様子のくぅをできる範囲内で調べていく。
「熱もないし脈拍も正常です、心音にも異常はみられないわね。嘔吐もないでしょう?」
「はい」
「じゃあ、昨晩の時点で意識障害などの異常が特にないのなら本当に眠たいだけじゃないかしら」
「……そうスか」
医師はくるりと蘇芳を振り返る。
「とりあえず夕方にまた回診に来ますからそれまでにこれ以上の異常がみられたらすぐ声をかけて」
「あ、あのさ先生」
「なんでしょ」
「えと。昨日の夜のメシに、なんか……例えば睡眠薬的なのを大量に混ぜてた、とかじゃねぇよな、さすがに?」
苦笑で誤魔化しながら訊ねたそれに、医師はキッと鋭い視線を刺した。
「悪いけど、素性もわからないあなたたちに貴重な麻酔薬を分け与えられるほどこの国の物資は潤ってないのっ。この治療だって、セピアさまが仰るから施してやってるだけですっ。それにそもそもこんな小さな子一人を眠らせたりするくらいならあなたも一緒にやってます。ついでに言えば殺るならもっと確実な方法で瞬間的に殺れる方法を選んでるし、はじめから怪我の手当てなんかしてないわ!」
くぅが寝ていることを忘れてしまったかのように声を荒らげた医師は、蘇芳個人をというよりも他所者自体の受け入れに抵抗を示しているようであった。
その気迫にすっかり気圧された蘇芳は「わ、わーったよ、すんませんでした」と小さくしおらしくなる。途端に医師はハッと我に返り、咳払いで視線を外し「まぁ、いいわ」と態度をあらためた。
「あなたたちとは医療行為外の話をするのはセピアさまから禁止されてるの。いまの話、出来ればさっさと忘れてちょうだい」
蘇芳の寝台をまわり、そそくさと残りの片付けを終え、医師は足早に鬱金染めの長暖簾を抜けていった。その背に「あざっした」とかけたものの、医師は冷たく無反応であった。
長暖簾の向こうの兵士らに聞かれぬよう、蘇芳は細く静かに溜息をつく。
「よほど歓迎されておらんのじゃな、儂らは」
それまで寝台の下で身を潜めていた夜さまが、軽い跳躍で蘇芳の寝台に飛び乗ってきた。顔を合わせ、話し声はやはり抑えがちになる。
「しゃーねぇよ。戦争中みてぇだし、尚更誰も信じらんなくなってんだろ」
「ともあれここは近未来ゆえ、ヌシらの常識が通じないのはなんらおかしなことでもない。やはりとっとと『ドア』を見つけ出し、ヌシを動けるようにし、くぅを担いででも次の世界に移ったほうが賢明じゃな」
「でも捕まってる身分で好き勝手に建物ン中歩き回れねーし、動くとしたら夜さまが一人で『ドア』探すことになるぞ?」
「今更よ。すぅやくぅに出逢うまではそうして一人で探しておったんじゃ。それに、儂のサガシモノのひとつは既にこうして儂に戻ったゆえ、なんとでもなろう」
「夜さまがいいなら、俺は別に構わねーけど」
「明日どうなっているかもわからぬゆえ、どうにか二日中に『ドア』を見つけねばならん。見つけ次第、儂が『守』となればよい」
戦国時代でくぅと夜さまが昼夜で交代しながら守っていたようにか、と記憶から思い返す。
「『ドア』を見つけるより先にくぅが目覚めたなら、くぅがセピアに上手く交渉するやもしれん。さすればくぅと協力し『ドア』を探ろう。ともかく『ドア』がどこにあるやもわからん状態でこの国の者らに先に見つけられてしまうことだけは、なんとしても避けねばならん」
万が一関係のない者が『ドア』を開けば、否応なしに『狭間』に飛ばされる。出口は無い。そう夜さまが説明したことを思い出し、蘇芳は「確かに」と苦く同意する。
「そういう面でも、あんまのんびりしてらんねーか」
「然様。故にまずはヌシの矢傷を治す。そしてすぐに動けるよう気を張っておかねばならん」
「よく、わかったよ」
「起き上がらんでよい、そのままで『内側から更なる治癒を施す』」
話の流れのまま、前置きなく夜さまの術が発動した。
細く小さな黒い右前脚がゆっくり振りかざされると、そこから透明な薄紫色の球体が、まるでシャボン玉を膨らますかのように膨らみ出でた。間もなくポワンと右前脚を離れ、ゆっくりと肩傷へ吸い込まれていく。
次いでもうひとつ球体が膨らみ出で、同じようにポワンと右前脚を離れると、今度は左脇腹へ同じように吸い込まれていった。
それらには温度も重さも感じない。単に『シャボン玉が肩と脇腹に落ちて消えた』ようにしか見えないのである。
球体がすっかり身体に吸い込まれると、夜さまはかざしていた前脚を静かに下ろした。
「これで鎮痛剤に頼らずとも痛みは無くなるじゃろ」
「そっか。サンキュな」
「傷の見た目は敢えてそのままにしてあるからの。今夜までに『ドア』が見つからなんだらまた医師が回診に来るじゃろ? そのときに不自然でないようにせんとな」
「そーそー。怖ぇもん、あのセンセ」
夜さまの言うとおり、衣服を捲り見た腹部の傷口は未だはっきりと残っていた。魔法をかけられる前との違いなどはわからない。
「へぇ、スゲ。これならとりあえずは誤魔化せそうだな。『ドア』潜って『狭間』入ったら、この傷跡ちゃんと治してもらえるんだよな?」
「うむ、ヌシの言うとおりのタイミングで治そうぞ」
「つーか、マジで魔法頼り続けていい感じ?」
「気にするでない。ヌシとくぅへの助力は惜しまんよって」
首肯の夜さまの頬がきゅうと上がり、アメジストのような双眸が細く三日月型に変わった。
「あの、さっきから思ってたんだけど」
起き上がりながらおずおずと問いかける蘇芳。疑問を我慢し続けることにも限界であった。
「夜さまって、やっと笑えるようになったの? それとも、笑うこと『思い出した』的な感じ?」
「…………」
「な、なに?」
「『思い出した』か。フッ、なんとも的確な表現で言葉に詰まってしまったわ」
「そんなにドンピシャ表現した?」
やはり静かにくつくつと肩を震わす夜さまを、異形のものを見る目で見てしまう。
「やはりそろそろヌシにも言うておかねばならんな」
「なにを?」
「『ドア』にまつわる詳細と、儂の正体をじゃ」
「しょ、正体、って」
生唾を呑むも乾きは潤わない。夜さまの仰々しい言い方に背筋が寒くなる。
「儂はな、『時代の門』完成機の開発総指揮官なのじゃ」
「えっ。か、完、指揮か……ええっ?!」
うっかり大きな声を出したことで、長暖簾を分けて「なんなんだ一体」と兵士が一人入室した。咄嗟に「変な夢視ましたっ」と蘇芳が寝惚けている芝居をするも、兵士は訝しんだ渋面のまま蘇芳をしばし睨み、「騒ぎすぎるな」と低い声で忠告を刺した。
ガチャガチャと甲冑を鳴らし出て行く兵士を警戒しながら、右隣の夜さまへ「全体的にどういうことだよ?」と眉を寄せ、気迫たっぷりに詰め寄る。
「始まりは、政府から極秘に依頼され開発することとなった案件じゃった。いにしえより代々密やかに魔法を受け継ぐ我が一族のみが、時代転移装置の研究と開発を命じられ、永年携わっとった」
「さっそく全部ツッコミたいけど……時代転移ってつまり、タイムマシン?」
「まぁ、そういうことじゃ」
まさか魔法を用いて時代転移を試みようとする者がいるとは、と驚きすぎた蘇芳は口をあんぐりと開けている。
「どうにか儂の父が試作段階まで開発し、もうあとは儂が魔術を施せば完成となるところまでは、とりあえずよかったんじゃがな」
夜さまは次第に自身の揃えられた両前脚に視線を落としていく。まるで頭を垂れる格好になる。
「儂が魔術を施す前に、儂の捜し者が試作機に呑まれてしもうた」
低い声は悔恨の色が滲みている。蘇芳は首を浅く捻った。
「なんか、ソイツが自分から試作機を開けたわけじゃねーって雰囲気だな?」
「まぁ、不可抗力であったというべきか、儂が未熟じゃったからと言うべきか」
「じゃあそれって事故じゃね?」
「事故、とヤツが認識しておるなら事故じゃろうが……」
どうかな、と夜さまは自嘲的に弱く笑んだ。歯切れの悪い夜さまの様子から、何やら背徳感があるのかもしれないと察する。
「まぁ本人がどう思ってんのかは別問題として。ソイツ、夜さまの魔力半分と一緒に試作機潜ったのは、正直ラッキーだったと思うよ」
「…………」
「不幸中の幸いってやつ? だって『狭間で永遠を彷徨うことに』ってのしっかり回避できてんじゃん。だからこの時代に魔力半分置いてけたわけだし」
「いや、そもそも試作機には『狭間』が無いのじゃ」
あっけらかん、と夜さまは告げる。「どゆこと?」蘇芳はぎこちない苦笑いをした。
「あれは儂の魔法で施した人工的な空間ゆえ。じゃて完成機が出来るまでの期間、開ければすぐに次の世界へ直通するシステムのはずなのじゃ。まぁ、試作機を通ったことがあるのはヤツだけじゃて真実はヤツのみぞ知るところじゃが」
「……夜さまは、なんでわざわざ『狭間』なんつーもの組み込んで、選ばれた人間だけが潜れるようなシステムにしたわけ?」
「ふむ。いにしえより時代転移は難関を極め、達成はそう容易くなく、リスクが必要不可欠とされておった。ではリスクはどこで支払い、どこで戻るが効率的か」
「それが、『狭間』?」
瞼を伏せることで肯定とした夜さま。
「完成機の『ドア』では、それ自体よりも『狭間』を特殊なものとすることで、『ドア』を潜るための『代償』を支払うよう組み込んだのじゃ。まぁ、通行料に近いかの」
不穏な言葉が列んでいく。蘇芳は表情険しく夜さまを黙って見つめている。
「これらのことは、今朝までにようやっと思い出せたこと。いや、『取り戻せた記憶』と表すのが最適じゃな」
取り戻せただの思い出せただのという言葉に、無意識に眼輪筋がヒクついた。嫌な予感がする予兆である。
「儂はな、完成機を開けし最初の『狭間』で多くのものを代償にした。『それまでの記憶』『数種の感情』『真の名』『真の姿』。それらを支払い、ようやくヤツを捜す旅を始められたのじゃ」
「なん、だよそれ?!」
ただ恐怖を感じた。思わず声が大きくなる。反して夜さまの声はどんどん小さくなる。
「あ。だ、だから夜さまは、戦国時代で笑えなかったし、でも今朝魔力取り戻したから、ようやく笑えるように『戻った』……? てことは、夜さまはいろいろ隠してるわけじゃなくて、そもそも『まだ思い出せない』、っつーわけ?」
「どうしたのじゃ。突然物分りがよくなったではないか」
「なんかもういろいろ自分の常識取っ払って考えるしかねーからな。ほぼ鵜呑みだよ、鵜呑み」
そうじゃな、と夜さまがくつくつと笑うと、蘇芳は「これは良かったことなのか」と納得する。
「くぅも代償を支払い、途中より儂についてきた身ぞ」
「くぅも?」
チラリと、寝台で横たわるくぅへ視線を移す。とても静かな寝息をたて、もっちりとした白く丸い頬が上下している。それを見て、蘇芳はハッとした。
「あ、待て。てことは俺も、もしかしてちょっとどっかの記憶ねぇの?」
「いやヌシは違――」
「『ドア』から出る前にはわかってたことがいまわかんねぇとか、なんかそん――」
「落ち着け、すぅ」
ピシャリ。蘇芳の心へ直接刻み込むように、夜さまは強く遮る。気迫に驚いた蘇芳は、瞬時に冷静さを取り戻した。
「安心せい、ヌシはなにも失わん。ヌシはこの旅で何かを代償にする必要はない」
「う、うーん……なんかいまいち信じらんねぇっつーか、不安感残りまくりっつーか」
「ヌシは儂の『手伝い』を果たすことが目的ぞ。手伝いをすることが『代償』になっとる。既に、充分にの。撫子のこともヌシの時代のことも、現に忘れとらんじゃろ?」
「まぁ……あ、だからちょこちょこ『記憶は大丈夫か』って訊いてきてたのか」
「うむ。撫子の時代にて、儂はわずかばかり記憶を取り戻した。そして先刻、水源にて魔力を取り戻した際に感情のいくつかも取り戻せたのじゃ。実に様々な事柄を思い出すことができた」
馳せるように中空を眺める夜さまは、やはり寂しげである。
「てかさ、代償として支払ったのに戻ってくるんだな?」
「『ドア』での渡航は、その真の目的をひとつ果たす毎にきちんと戻るようになっておる。少しずつじゃがな。これは、くぅにはまだ伝えられとらん。儂が代償にした記憶情報のひとつであったためじゃ」
溜め息のように「うーん」と唸ると、蘇芳は考えを整理するため苦い顔で押し黙った。
「ひとまず。俺は記憶とか名前とか、特別『失うもの』は無くて、夜さまとくぅは『捜し者』のために『自分を削って』時代を越えてる……ってことな?」
目を上げ「合ってる?」と確認する。夜さまはどこか満足そうに「然様」と優しく口角を上げていた。
「くぅはなにを失くしたんだ」
「『捜し物に関する大切な記憶』と『真の姿』と『真の名』じゃ」
名前、と声に出さずなぞる。
「名とはすなわち、みずからを表わす最初のもの。この旅で一番最後に思い出すは、やはりみずから真名であろう。そうして――」
「代償が全部戻ったときが」
「『捜し者』が見つかったとき、じゃな」
互いの話す声が細く静かであることに、しばらくの間気が付かなかった。
「『くぅ』っていうのは、やっぱホントの名前じゃねぇんだな」
「気付いとったか」
「薄々な」
ふっ、と蘇芳は鼻で笑う。
「なんか、くぅはガキくさくねぇっつーか、どっかで見たことあるような気がしてンだよ」
「ほう? それは知らなんだな」
「つーか『夜さま』も、だよな?」
「うむ」
「そんでやっぱり、夜さまはホントは猫じゃねぇし、くぅはガキじゃねぇってわけか」
フゥと溜め息のように言う蘇芳へ、夜さまは目を伏せ小さくなった。
「すまん。騙すようなことを」
「しゃーねぇんだろ? 大事なひとを連れ戻すためなんだ。別にそこに腹立ったりはしてねぇよ。むしろ逆」
あぐらを組み直す蘇芳。
「試作機に呑まれた捜し者を助けるために、夜さまは『ドア』の試作機を完成させて、自分から潜ってきたんだ。指揮官みずから危険を冒して、普通にスゲーよ」
「そう、かの」
「そーじゃよ」
「フフッ、たわけが」
「俺あんま頭良くねぇから、夜さまの話してくれたことまだ全部理解できてねぇかもしんない。けどどんな状況でも、二人の力になりてぇから。撫子と別れる前にちゃんと決めてたから」
ホウ、と胸が暖まる感覚が湧き、そして残る。
「全然頼りねーし、喧嘩と『ドア』開けることくらいしか出来ないかもしんねぇけどさ。俺は夜さまとくぅの『代償』と『捜し者』を全部見つけるまで、ちゃんと付き合うから」
「あぁ。ありが――」
言葉途中に、スッと夜さまの顔つきが険しくなる。姿勢を縦に伸ばし、三角の耳とピンク色の小さな鼻をひくひくさせている仕草から、どうやら何かしらの気配を察知しているらしいと予測立てをした。
蘇芳が「どうした?」と訊ねかけた途端、かすかに悲鳴に似た号哭が耳に入ってきた。鬱金染めの長暖簾へ揃って顔を向ける。
「なんだ、いまの?」
「外ではあるが、砦の内側やもしれん。セピアが戻ってきたようじゃがどうも雲行きが怪しい」
夜さまの早口を聞くなり、蘇芳は寝台からガバリと飛び降りた。裸足のままではさすがにいけないと、ネジネジと脚先のみでかんじきのようなサンダルを履く。
「何処へゆくっ」
「見てくる!」
長暖簾を瞬時に掻き分け、蘇芳は部屋から飛び出した。途端に「おい貴様!」と見張りの兵士に強く制される。
「勝手に部屋を出――」
「外がワーワー言ってんの聞こえねぇのか! テメーらの大将がヤバいかもしんねぇぞ!」
「捕虜の分際で勝手なことは許さん、大人しく室内に戻れ!」
「バカッ、むしろテメーらが来い! 加勢行かねぇならなんでそんなかっこしてんだよッ」
鬱金染めの向こうで交わされる言葉が次第に遠くなるのを、夜さまは静かに聴いていた。そしてぽっかりと開いた口を、しばらくの後に静かに閉じた。
「見たところどちらの傷口も薄くだけれどひとまず塞がっています、ご自身の回復力に感謝を捧げるのね」
相変わらず医師は早口気味に感想と診察経過を述べた。上辺だけで話す医師の口ぶりは、何度聞いても慣れない。
「今日は抗生剤も投与していきます、ちょっと痛いけど騒がないように」
加えて判断も速いため、あらかじめ用意し持ってきていたであろう注射を、話しながらの動作でなんの躊躇いもなく右前腕へ刺した。蘇芳の覚悟は間に合わず、更に投与された抗生剤は細くピギピギとした痛みを伴ったため、「いでえぇああっ!」とまたもや叫んでしまう。
「はい終わりました、昨日と同じく傷が痛くないからといっても鎮痛剤の効果なので一時的ですから決して暴れ回らないように。開いてもいいのなら別ですけど」
「あり、ありがとう、ございました……」
「では私はこれで」
「待っ、も、もうひとり頼みたいんだけど、ダメ?」
立ち上がり、さっさと片付けを進めていた医師の手が止まる。
「『妹』が朝から起きねぇんだよ。気ィ失ってたりとか、なんか病気かもしんねーから、診てもらえねぇですか?」
懇願する蘇芳のまなざしを見て、医師は寝台をまわりくぅの寝台脇へと移動した。膝をつき、ただ眠りについている様子のくぅをできる範囲内で調べていく。
「熱もないし脈拍も正常です、心音にも異常はみられないわね。嘔吐もないでしょう?」
「はい」
「じゃあ、昨晩の時点で意識障害などの異常が特にないのなら本当に眠たいだけじゃないかしら」
「……そうスか」
医師はくるりと蘇芳を振り返る。
「とりあえず夕方にまた回診に来ますからそれまでにこれ以上の異常がみられたらすぐ声をかけて」
「あ、あのさ先生」
「なんでしょ」
「えと。昨日の夜のメシに、なんか……例えば睡眠薬的なのを大量に混ぜてた、とかじゃねぇよな、さすがに?」
苦笑で誤魔化しながら訊ねたそれに、医師はキッと鋭い視線を刺した。
「悪いけど、素性もわからないあなたたちに貴重な麻酔薬を分け与えられるほどこの国の物資は潤ってないのっ。この治療だって、セピアさまが仰るから施してやってるだけですっ。それにそもそもこんな小さな子一人を眠らせたりするくらいならあなたも一緒にやってます。ついでに言えば殺るならもっと確実な方法で瞬間的に殺れる方法を選んでるし、はじめから怪我の手当てなんかしてないわ!」
くぅが寝ていることを忘れてしまったかのように声を荒らげた医師は、蘇芳個人をというよりも他所者自体の受け入れに抵抗を示しているようであった。
その気迫にすっかり気圧された蘇芳は「わ、わーったよ、すんませんでした」と小さくしおらしくなる。途端に医師はハッと我に返り、咳払いで視線を外し「まぁ、いいわ」と態度をあらためた。
「あなたたちとは医療行為外の話をするのはセピアさまから禁止されてるの。いまの話、出来ればさっさと忘れてちょうだい」
蘇芳の寝台をまわり、そそくさと残りの片付けを終え、医師は足早に鬱金染めの長暖簾を抜けていった。その背に「あざっした」とかけたものの、医師は冷たく無反応であった。
長暖簾の向こうの兵士らに聞かれぬよう、蘇芳は細く静かに溜息をつく。
「よほど歓迎されておらんのじゃな、儂らは」
それまで寝台の下で身を潜めていた夜さまが、軽い跳躍で蘇芳の寝台に飛び乗ってきた。顔を合わせ、話し声はやはり抑えがちになる。
「しゃーねぇよ。戦争中みてぇだし、尚更誰も信じらんなくなってんだろ」
「ともあれここは近未来ゆえ、ヌシらの常識が通じないのはなんらおかしなことでもない。やはりとっとと『ドア』を見つけ出し、ヌシを動けるようにし、くぅを担いででも次の世界に移ったほうが賢明じゃな」
「でも捕まってる身分で好き勝手に建物ン中歩き回れねーし、動くとしたら夜さまが一人で『ドア』探すことになるぞ?」
「今更よ。すぅやくぅに出逢うまではそうして一人で探しておったんじゃ。それに、儂のサガシモノのひとつは既にこうして儂に戻ったゆえ、なんとでもなろう」
「夜さまがいいなら、俺は別に構わねーけど」
「明日どうなっているかもわからぬゆえ、どうにか二日中に『ドア』を見つけねばならん。見つけ次第、儂が『守』となればよい」
戦国時代でくぅと夜さまが昼夜で交代しながら守っていたようにか、と記憶から思い返す。
「『ドア』を見つけるより先にくぅが目覚めたなら、くぅがセピアに上手く交渉するやもしれん。さすればくぅと協力し『ドア』を探ろう。ともかく『ドア』がどこにあるやもわからん状態でこの国の者らに先に見つけられてしまうことだけは、なんとしても避けねばならん」
万が一関係のない者が『ドア』を開けば、否応なしに『狭間』に飛ばされる。出口は無い。そう夜さまが説明したことを思い出し、蘇芳は「確かに」と苦く同意する。
「そういう面でも、あんまのんびりしてらんねーか」
「然様。故にまずはヌシの矢傷を治す。そしてすぐに動けるよう気を張っておかねばならん」
「よく、わかったよ」
「起き上がらんでよい、そのままで『内側から更なる治癒を施す』」
話の流れのまま、前置きなく夜さまの術が発動した。
細く小さな黒い右前脚がゆっくり振りかざされると、そこから透明な薄紫色の球体が、まるでシャボン玉を膨らますかのように膨らみ出でた。間もなくポワンと右前脚を離れ、ゆっくりと肩傷へ吸い込まれていく。
次いでもうひとつ球体が膨らみ出で、同じようにポワンと右前脚を離れると、今度は左脇腹へ同じように吸い込まれていった。
それらには温度も重さも感じない。単に『シャボン玉が肩と脇腹に落ちて消えた』ようにしか見えないのである。
球体がすっかり身体に吸い込まれると、夜さまはかざしていた前脚を静かに下ろした。
「これで鎮痛剤に頼らずとも痛みは無くなるじゃろ」
「そっか。サンキュな」
「傷の見た目は敢えてそのままにしてあるからの。今夜までに『ドア』が見つからなんだらまた医師が回診に来るじゃろ? そのときに不自然でないようにせんとな」
「そーそー。怖ぇもん、あのセンセ」
夜さまの言うとおり、衣服を捲り見た腹部の傷口は未だはっきりと残っていた。魔法をかけられる前との違いなどはわからない。
「へぇ、スゲ。これならとりあえずは誤魔化せそうだな。『ドア』潜って『狭間』入ったら、この傷跡ちゃんと治してもらえるんだよな?」
「うむ、ヌシの言うとおりのタイミングで治そうぞ」
「つーか、マジで魔法頼り続けていい感じ?」
「気にするでない。ヌシとくぅへの助力は惜しまんよって」
首肯の夜さまの頬がきゅうと上がり、アメジストのような双眸が細く三日月型に変わった。
「あの、さっきから思ってたんだけど」
起き上がりながらおずおずと問いかける蘇芳。疑問を我慢し続けることにも限界であった。
「夜さまって、やっと笑えるようになったの? それとも、笑うこと『思い出した』的な感じ?」
「…………」
「な、なに?」
「『思い出した』か。フッ、なんとも的確な表現で言葉に詰まってしまったわ」
「そんなにドンピシャ表現した?」
やはり静かにくつくつと肩を震わす夜さまを、異形のものを見る目で見てしまう。
「やはりそろそろヌシにも言うておかねばならんな」
「なにを?」
「『ドア』にまつわる詳細と、儂の正体をじゃ」
「しょ、正体、って」
生唾を呑むも乾きは潤わない。夜さまの仰々しい言い方に背筋が寒くなる。
「儂はな、『時代の門』完成機の開発総指揮官なのじゃ」
「えっ。か、完、指揮か……ええっ?!」
うっかり大きな声を出したことで、長暖簾を分けて「なんなんだ一体」と兵士が一人入室した。咄嗟に「変な夢視ましたっ」と蘇芳が寝惚けている芝居をするも、兵士は訝しんだ渋面のまま蘇芳をしばし睨み、「騒ぎすぎるな」と低い声で忠告を刺した。
ガチャガチャと甲冑を鳴らし出て行く兵士を警戒しながら、右隣の夜さまへ「全体的にどういうことだよ?」と眉を寄せ、気迫たっぷりに詰め寄る。
「始まりは、政府から極秘に依頼され開発することとなった案件じゃった。いにしえより代々密やかに魔法を受け継ぐ我が一族のみが、時代転移装置の研究と開発を命じられ、永年携わっとった」
「さっそく全部ツッコミたいけど……時代転移ってつまり、タイムマシン?」
「まぁ、そういうことじゃ」
まさか魔法を用いて時代転移を試みようとする者がいるとは、と驚きすぎた蘇芳は口をあんぐりと開けている。
「どうにか儂の父が試作段階まで開発し、もうあとは儂が魔術を施せば完成となるところまでは、とりあえずよかったんじゃがな」
夜さまは次第に自身の揃えられた両前脚に視線を落としていく。まるで頭を垂れる格好になる。
「儂が魔術を施す前に、儂の捜し者が試作機に呑まれてしもうた」
低い声は悔恨の色が滲みている。蘇芳は首を浅く捻った。
「なんか、ソイツが自分から試作機を開けたわけじゃねーって雰囲気だな?」
「まぁ、不可抗力であったというべきか、儂が未熟じゃったからと言うべきか」
「じゃあそれって事故じゃね?」
「事故、とヤツが認識しておるなら事故じゃろうが……」
どうかな、と夜さまは自嘲的に弱く笑んだ。歯切れの悪い夜さまの様子から、何やら背徳感があるのかもしれないと察する。
「まぁ本人がどう思ってんのかは別問題として。ソイツ、夜さまの魔力半分と一緒に試作機潜ったのは、正直ラッキーだったと思うよ」
「…………」
「不幸中の幸いってやつ? だって『狭間で永遠を彷徨うことに』ってのしっかり回避できてんじゃん。だからこの時代に魔力半分置いてけたわけだし」
「いや、そもそも試作機には『狭間』が無いのじゃ」
あっけらかん、と夜さまは告げる。「どゆこと?」蘇芳はぎこちない苦笑いをした。
「あれは儂の魔法で施した人工的な空間ゆえ。じゃて完成機が出来るまでの期間、開ければすぐに次の世界へ直通するシステムのはずなのじゃ。まぁ、試作機を通ったことがあるのはヤツだけじゃて真実はヤツのみぞ知るところじゃが」
「……夜さまは、なんでわざわざ『狭間』なんつーもの組み込んで、選ばれた人間だけが潜れるようなシステムにしたわけ?」
「ふむ。いにしえより時代転移は難関を極め、達成はそう容易くなく、リスクが必要不可欠とされておった。ではリスクはどこで支払い、どこで戻るが効率的か」
「それが、『狭間』?」
瞼を伏せることで肯定とした夜さま。
「完成機の『ドア』では、それ自体よりも『狭間』を特殊なものとすることで、『ドア』を潜るための『代償』を支払うよう組み込んだのじゃ。まぁ、通行料に近いかの」
不穏な言葉が列んでいく。蘇芳は表情険しく夜さまを黙って見つめている。
「これらのことは、今朝までにようやっと思い出せたこと。いや、『取り戻せた記憶』と表すのが最適じゃな」
取り戻せただの思い出せただのという言葉に、無意識に眼輪筋がヒクついた。嫌な予感がする予兆である。
「儂はな、完成機を開けし最初の『狭間』で多くのものを代償にした。『それまでの記憶』『数種の感情』『真の名』『真の姿』。それらを支払い、ようやくヤツを捜す旅を始められたのじゃ」
「なん、だよそれ?!」
ただ恐怖を感じた。思わず声が大きくなる。反して夜さまの声はどんどん小さくなる。
「あ。だ、だから夜さまは、戦国時代で笑えなかったし、でも今朝魔力取り戻したから、ようやく笑えるように『戻った』……? てことは、夜さまはいろいろ隠してるわけじゃなくて、そもそも『まだ思い出せない』、っつーわけ?」
「どうしたのじゃ。突然物分りがよくなったではないか」
「なんかもういろいろ自分の常識取っ払って考えるしかねーからな。ほぼ鵜呑みだよ、鵜呑み」
そうじゃな、と夜さまがくつくつと笑うと、蘇芳は「これは良かったことなのか」と納得する。
「くぅも代償を支払い、途中より儂についてきた身ぞ」
「くぅも?」
チラリと、寝台で横たわるくぅへ視線を移す。とても静かな寝息をたて、もっちりとした白く丸い頬が上下している。それを見て、蘇芳はハッとした。
「あ、待て。てことは俺も、もしかしてちょっとどっかの記憶ねぇの?」
「いやヌシは違――」
「『ドア』から出る前にはわかってたことがいまわかんねぇとか、なんかそん――」
「落ち着け、すぅ」
ピシャリ。蘇芳の心へ直接刻み込むように、夜さまは強く遮る。気迫に驚いた蘇芳は、瞬時に冷静さを取り戻した。
「安心せい、ヌシはなにも失わん。ヌシはこの旅で何かを代償にする必要はない」
「う、うーん……なんかいまいち信じらんねぇっつーか、不安感残りまくりっつーか」
「ヌシは儂の『手伝い』を果たすことが目的ぞ。手伝いをすることが『代償』になっとる。既に、充分にの。撫子のこともヌシの時代のことも、現に忘れとらんじゃろ?」
「まぁ……あ、だからちょこちょこ『記憶は大丈夫か』って訊いてきてたのか」
「うむ。撫子の時代にて、儂はわずかばかり記憶を取り戻した。そして先刻、水源にて魔力を取り戻した際に感情のいくつかも取り戻せたのじゃ。実に様々な事柄を思い出すことができた」
馳せるように中空を眺める夜さまは、やはり寂しげである。
「てかさ、代償として支払ったのに戻ってくるんだな?」
「『ドア』での渡航は、その真の目的をひとつ果たす毎にきちんと戻るようになっておる。少しずつじゃがな。これは、くぅにはまだ伝えられとらん。儂が代償にした記憶情報のひとつであったためじゃ」
溜め息のように「うーん」と唸ると、蘇芳は考えを整理するため苦い顔で押し黙った。
「ひとまず。俺は記憶とか名前とか、特別『失うもの』は無くて、夜さまとくぅは『捜し者』のために『自分を削って』時代を越えてる……ってことな?」
目を上げ「合ってる?」と確認する。夜さまはどこか満足そうに「然様」と優しく口角を上げていた。
「くぅはなにを失くしたんだ」
「『捜し物に関する大切な記憶』と『真の姿』と『真の名』じゃ」
名前、と声に出さずなぞる。
「名とはすなわち、みずからを表わす最初のもの。この旅で一番最後に思い出すは、やはりみずから真名であろう。そうして――」
「代償が全部戻ったときが」
「『捜し者』が見つかったとき、じゃな」
互いの話す声が細く静かであることに、しばらくの間気が付かなかった。
「『くぅ』っていうのは、やっぱホントの名前じゃねぇんだな」
「気付いとったか」
「薄々な」
ふっ、と蘇芳は鼻で笑う。
「なんか、くぅはガキくさくねぇっつーか、どっかで見たことあるような気がしてンだよ」
「ほう? それは知らなんだな」
「つーか『夜さま』も、だよな?」
「うむ」
「そんでやっぱり、夜さまはホントは猫じゃねぇし、くぅはガキじゃねぇってわけか」
フゥと溜め息のように言う蘇芳へ、夜さまは目を伏せ小さくなった。
「すまん。騙すようなことを」
「しゃーねぇんだろ? 大事なひとを連れ戻すためなんだ。別にそこに腹立ったりはしてねぇよ。むしろ逆」
あぐらを組み直す蘇芳。
「試作機に呑まれた捜し者を助けるために、夜さまは『ドア』の試作機を完成させて、自分から潜ってきたんだ。指揮官みずから危険を冒して、普通にスゲーよ」
「そう、かの」
「そーじゃよ」
「フフッ、たわけが」
「俺あんま頭良くねぇから、夜さまの話してくれたことまだ全部理解できてねぇかもしんない。けどどんな状況でも、二人の力になりてぇから。撫子と別れる前にちゃんと決めてたから」
ホウ、と胸が暖まる感覚が湧き、そして残る。
「全然頼りねーし、喧嘩と『ドア』開けることくらいしか出来ないかもしんねぇけどさ。俺は夜さまとくぅの『代償』と『捜し者』を全部見つけるまで、ちゃんと付き合うから」
「あぁ。ありが――」
言葉途中に、スッと夜さまの顔つきが険しくなる。姿勢を縦に伸ばし、三角の耳とピンク色の小さな鼻をひくひくさせている仕草から、どうやら何かしらの気配を察知しているらしいと予測立てをした。
蘇芳が「どうした?」と訊ねかけた途端、かすかに悲鳴に似た号哭が耳に入ってきた。鬱金染めの長暖簾へ揃って顔を向ける。
「なんだ、いまの?」
「外ではあるが、砦の内側やもしれん。セピアが戻ってきたようじゃがどうも雲行きが怪しい」
夜さまの早口を聞くなり、蘇芳は寝台からガバリと飛び降りた。裸足のままではさすがにいけないと、ネジネジと脚先のみでかんじきのようなサンダルを履く。
「何処へゆくっ」
「見てくる!」
長暖簾を瞬時に掻き分け、蘇芳は部屋から飛び出した。途端に「おい貴様!」と見張りの兵士に強く制される。
「勝手に部屋を出――」
「外がワーワー言ってんの聞こえねぇのか! テメーらの大将がヤバいかもしんねぇぞ!」
「捕虜の分際で勝手なことは許さん、大人しく室内に戻れ!」
「バカッ、むしろテメーらが来い! 加勢行かねぇならなんでそんなかっこしてんだよッ」
鬱金染めの向こうで交わされる言葉が次第に遠くなるのを、夜さまは静かに聴いていた。そしてぽっかりと開いた口を、しばらくの後に静かに閉じた。
