夜さまが目を覚ますと、そこは暗がりであった。
 間もなく真夜中であることを覚り、いくつかの呼吸で精神を落ち着ける。ぐっと前にひと伸びした次のまばたきで視覚が完全に暗闇に慣れ、明かりのない周囲を確認できた。
 頭元に、パンのような楕円の塊とミルクのような液体が置かれている。「気をまわしたのはくぅだな」と夜さまは左側にあるくぅの寝台を見上げた。
 自身の小さな口に収まる程度にそれをかじり、ミルクにも口をつける。その味わいからキャメルミルクであることを覚り、喜ばしげに鼻を鳴らした。キャメルミルクは牛乳に比べ栄養価が高く、体力の回復にはもってこいである。
 食事を終え、口元を左前脚で拭い、右隣の寝台へ軽い跳躍で飛び乗る。そこでは穏やかな表情をした蘇芳が眠っていた。

「毒気は抜けたか」

 眉間も口元も緊張感が抜けている。半分握ったような開いているような手は顔の横で仰向けになっている。年齢のわりにはまるで赤子のようだと感じ、フッと小さく笑みが溢れた。

「すまなんだ、すぅ。儂のチカラが足りんばかりに、いたずらに傷つけてしもうた」

 黒く長細い尻尾をまるで指先のように動かし、それで蘇芳の左頬にそっと触れてみる。「うーん……」とくすぐったそうに顔を背けたので、慌てて尻尾を引っ込める。起こしてしまうことを懸念した夜さまは、寝台から音もなく飛び降りた。
 入口に下がる鬱金染めの長暖簾の間をスルリと抜けてみる。闇夜に紛れた駆体色のためか、張り付いている二人の見張りに気付かれることなくあっさりと収監室から抜け出すことができてしまった。

「用心深いのか平和ボケなのかわからんの」

 抜け出た先は通路であった。狭くも広くもない通路はシンと静まりかえっている。収監室がある通路にしては小綺麗で、人の気配は限りなく少ない。
 四つ足を止め、スンと小さな鼻でひと嗅ぎすると、昼間よりもより強くとある魔力を嗅ぎとることができた。

「まさか居るのか、ここに?」

 この魔力の香は、夜さまみずからのものと同じであった。原因や理由はわからない。ゆえにそれの正体を調べに行くことに決めた。

 夜さまは、嗅ぐことであらゆる気配の察知ができる。とりわけ『猫の身体』は魔法の嗅ぎわけに適していた。
 幼い頃から『古来より、魔術者に仕えし動物は決まって黒猫か烏である』と伝え聞いている。過去、夜さまの大切な人が飼っていた動物が黒猫だったこともあり、無意識的に黒猫を『選択』していたようだ。

「こっちか」

 長い通路を音もなく駆ける。途中いくつか階段を降り、見張りの人気がするたびに物陰に身を潜め、事なきを得る。
 人の気配も次第に増幅し、強まってゆく。しかし真夜中であることから一様に動きはない。寝静まっている証拠であった。

「……水か?」

 進み行く過程で幾度かスンスンと魔力を嗅ぎ、すると魔力の香に混ざって水流音がした。それは細く、ちょろちょろと弱く、極めて心許(こころもと)ない。
 香に忠実に道をゆけば、ほどなくして円形の広間に出た。
 美しさと清潔感が共存したその空間は、乳白色の滑らかな石ブロックで囲われている。壁面のところどころには金装飾が施されてあり、この国の民の水への敬意がいかほどのものかを実感した。

「祀られた水場、か」

 円形広間の中心は溜め池であった。そこから放射状に八本の水路が延びている。延びた水路にはガラスのような硬化プラスチックのような、無色透明の板が渡してある。蓋代わりかと夜さまは勘づいた。
 溜め池の真上には、小さな穴が空いていた。そこから狭く空が見えている。まだ暗く、凝らすとわずかに星の瞬きも見えた。気流も一律であることも含め、それが天窓であるとわかった。
 透明板を避けながら溜め池に近付いてゆき、その底を覗き込む。
 覗いた溜め池は井戸のように深く掘られてあった。溜まっている水は鏡面が出来上がるほどに澄み、静謐を保っている。
 なにより、井戸底からビシビシと刺さるように自身の魔力と香を感じてならない。それは身震いするほど強大で、自身の小さな猫の身体に収まりきるであろうかと疑問がよぎるほどであった。

「本人が()らん代わりに、こんなところに魔力だけが遺っとるとはな」

 溜め池は、壁材と同じ乳白色の滑らかな石ブロックとわずかな木材が組まれ、囲われている。その組み方が日本建築を想起させたので、魔力の『元持ち主』がこの国に立ち寄った経緯すら粗方読み解けてしまった。

「結局、どうあっても重荷を負わせてしもうたのじゃな」

 目を閉じ、その場に腰を下ろす。溜め池の囲いの石壁へ頭を寄せ、委ねるようにすり付ける。

「涼やかな魔力だ。まるで晴れた空のような……」

 ひとりごち、スゥと深呼吸をひとつ。するとその場に残り留まっていた魔力が勢いよく夜さまの体内へ戻っていった。まるでスポンジが水を吸収するかのように、一滴残らず夜さまへ吸い込まれてゆく。

「戻った、のか?」

 半信半疑に目を開け、すると身体にこれまでよりも重みを感じた。囲いの石壁から身体を離し、改めて井戸底を覗く。
 あれだけ溜まり留まっていた魔力はすっかりなくなっている。代わりに『残留思念』が残っていた。

「これが、ヤツのこの国に対する『願い』。なるほど、ゆえに水が延々と湧いておるわけか」

 つまり『あのとき』魔力は二分していた。一方は儂に残り、一方はヤツが持っていってしまったのやもしれん――魔力がすべて戻った夜さまに、突然そんな考えが降りてくる。
 半分であれど強靭である魔力に反応した『願い』は、元のかすかな水源を永遠の湧き水へと変えたらしい。それはラグエルの人々を救ったが、しかし現状では争いの火種になっている話を、夢うつつに聞いていた。このままでは願い主の意に反した状況が続き、どのみち滅びをみるであろう。

「仕方あるまい。ここは、ヤツの意思を尊重するか」

 瞼を伏せ、深呼吸をひとつ。そして残留思念を含めたこの水源の広間に『保護魔法』を施しておくことを決めた。

 夜さまの意識に沿い、淡い薄紫色の(まばゆ)い光が球体を模し、夜さまの全身から生まれ出でる。徐々に大きく膨らみながら上昇してゆき、あるところでポンと夜さまの耳先から離れた。
 保護魔法の球体は、空気の流れに乗ったシャボン玉のようにゆっくりと井戸底へ向かっていく。それはいずれ水に溶け、砂地と多くの民に吸われ、浸透するであろう。夜さまがこの水場に対し出来ることは、断続的な噴出を護ることのみなのである。

 開眼ののちに、保護魔法が正しく適度に滲みゆく様を見届け、腰を上げる。水の補償はした。あとは国の民らが解決しなければならない。
 そのとき、唐突に夜さまの頬がゆるりと笑みを取り戻した。

「おお、『笑うこと』が戻ったか」

 口角が上がると、次第に胸の内がソワソワし、更に笑みが深まっていく。遂には堪えきれずに声を上げて笑っていた。

「やはりすぅを呼び寄せたことは正解じゃったな」

 この時代で、どこまでを蘇芳とくぅに話すべきか――濃さを増したアメジストのような双眸に気力を宿した夜さまは、くるりと水場をあとにする。

「残るは『ドア』じゃの」

 取り戻した魔力のお陰で重たくなった身体であるが、その足取りは格段に軽かった。