押し開けたノブから手が外れると、途端に『ドア』は背後でバタンと閉まった。無くなってしまったものをいつまでも悔いることは蘇芳の性に合わないため、振り返ることなく前を向き続ける。後ろ髪を引かれる想いは、背後で霧散したであろう『ドア』と共に散らしたことにした。

 ここは『狭間』世界。ただ闇のみが広がる空間である。
 前も後ろも左も右も奥行きすらもわからない。やはり自身の身体だけは薄ぼんやりと光って見えている。
 足元、胴体、そして腕へ視線をゆっくりと移していくと、蘇芳の衣服はよく見慣れたものへ戻っていた。
 汚れが目立つようになってきた白いスニーカー、光に当たるとほんのりと赤く見える黒い学ラン、中に着ている真っ赤な無地の長袖Tシャツ――すべてが蘇芳の私物である。四日間着ていたあの薄汚れた小袖は、既に見る影もない。

 ただし幸いなことに、背負っていた荷と砥粉色の羽織はそのまま残ってあった。荷はずしりと重く、やはりどこか嬉しい。袖を通した羽織からは、彼女の甘い香が薄く匂いたつような気がする。

「はあ……」

 不意に出たその溜め息は、安堵も落胆も混在していた。
 この数日間を思い返せば、総じて純粋に楽しかった。喜怒哀楽のすべてが濃縮された、唯一無二の経験となったことであろう。嫁ぎゆく撫子の幸福を第一に願うと共に、澱のように沈殿している遺憾の心は、夜さまの漏らした『可能性』に一握の希望を託すことで払拭してゆかねばならない。

「あれ?」

 不自然さに気が付く。夜さまもくぅも姿が見えないのである。

「夜さま? くぅ?」

 眉を寄せ大きく発したその声は、一向に反ってくる様子がない。不自然にシンとする奥で、甲高い耳鳴りが神経を障る。まるでヘルメットを被ったまま話をしたときのようである。

「いや、マジかよ。はぐれたとかじゃねぇよな、笑えねぇよ」

 悪い想像が高速で脳内を回る。
 ヌシは儂らに付き従う以外、身動きひとつとれぬのじゃ。ここで今儂らとはぐれると、ヌシは死ねぬまま『狭間』でたった一人、生き続けることになろうて――夜さまが初めの『狭間』で冷たく言った言葉が、不意に鮮明に(よみがえ)る。

「夜さまーあ! くぅー! 返事しろーっ」

 焦燥のまま周囲をぐるぐると見渡す。もはや、どこから入ってきたかすらさだかではない。駆け出したいが、どこを駆けて行けばいいのかさえわからない。

「くぅー! 夜さまーっ! クソ、どこだ夜さまーっ!」
「ここじゃ」

 蘇芳の視界上方に、ボウとほのかな灯りがひとつ現れ出でた。まるで天井を歩いているかのようなそれは、音もなく静かに蘇芳へと近づいてくる。

「よ、夜さまか?!」

 注視しようやくわかったほの明かりは、上下逆さの夜さまであった。蘇芳同様やはりぼんやりと発光している。
 タッと駆け出せば二歩でその距離は縮まり、まばたきと共に重力は同一となった。「もとに戻った」とひとりごちたが、不可思議な重力には到底蘇芳の理解が及ばない。

「そうか、ヌシは最初の『狭間』で気を失っとったんじゃったな」
「誰かに後頭部撲られたからな」
「それより、すまんの。『狭間』に立ち入るとなぜか多少離れてしまうのじゃ。じゃて、声を頼りに互いを見つけ合う必要があってな」
「聞いてねぇけど」
「すっかり忘れとったゆえ。まぁ、ヌシの突発的な判断が間違っとらなんだということで」

 ラッキーで片付けようとしてる――蘇芳はジト目で夜さまを睨む。

「くぅは?」
「わからん。引き続き声をかけるしかあるまい」
「しゃーねぇな。おーい、くぅ! どこにいるー?! 返事しろ、く――」
「やっほ、すぅちゃん」

 背後からかかった幼い声に、肩を跳ね上げ慌てて振り返る。手を後ろに組み、小首を傾げ小さく笑んだくぅがいた。しかし同様に重力がおかしい。くぅは蘇芳から見て真横に地があるように立っている。

「はぁ、なんだよよかった。無事だったな」
「アリガトね、必死にくぅのこと呼んでくれて。おかげですぅちゃんの位置、すぐわかったよ」

 まるく白い頬をもったりと上げて笑む様はいつの時代でも変わらない。照れから視線を逸らした蘇芳は「別に」と首の後ろへ手をやった。
 一歩二歩と進めば、またもや瞬時に重力が均一になる。そのうち酔うのではと苦々しく思う蘇芳。

「夜さま、先にすぅちゃんと会えてたんだね」
「うむ。早々に集まれたことは幸いじゃった」

 くぅは最初の『狭間』で見たときのまま、アイボリーのセーターをやはりワンピース様に着、つつじ色とたんぽぽ色のボーダー柄靴下と、その先端には真っ赤なエナメルの靴を着用していた。「あぁ、コイツこんな格好だったな」と思い出し心のどこかでホッとする。

「ときに二人とも。それぞれ何ともないか?」

 輪になるようにそれぞれ立ち向き合った。蘇芳は肩にかけていた荷をその場に下ろし「『何とも』って?」と訊ね返す。

「特にすぅは、胸の周りなどに変化がないか確かめてみるのじゃ」
「胸周り? なんで」
「くぅはねぇ、ちょっと『戻った』気がするかな」
「ほお。具体的に何についてじゃ」
「特別ビックリすることじゃないけどォ――」

 顎に人差し指を当て、薄く笑む。夜さまと見つめ合う間は無言が占める。

「――『あたし』のこと、とか」

 二人の間にまばたきはない。夜さまは真剣そのものであるし、くぅはそれきり等身大フィギュアのように微動だにしない。

「…………」

 蘇芳は二人を黙って眺めていた。短い話の内容について一切わからなかったが、「何の話?」だのと口を挟む隙もないため様子覗いしか叶わない。

「そうか」

 ややあって、瞼を伏せた夜さまはくぅとの視線を切った。夜さま、くぅの順でその場に腰を下ろしたので、蘇芳もそれに倣う。

「すぅはどうじゃ」
「え……あ、いや、別になんともねぇかな。胸もイテぇとかねぇし」
「ふむ、良好か。では彼の者のことは覚えておるか?」
「彼の者? 撫子のこと?」
「よい。充分じゃな」

 何の確認かと首を捻るも最適解は見つからず。考えてもわからないモヤモヤを払拭すべく、目の前の荷の結び目を解いた。

「それ何入ってたの? くぅも気になってたのォ! 見せて見せてぇ!」
「待てっつの。つーか貰ったとき一緒にいたんだから俺だって中身知らねーのわかってんだろ?」

 包みを広げると、例の(カメ)よりひと回りほど大きな木箱が出てきた。重箱のように三段重ねになっている。それらにあらゆる品が詰め込まれていた。

「これ……なんだよおやっさん。結局返してきやがって」

 中身の七割が、銀次郎と共に広げ見た乾物屋の店主らから賜ったものであった。見覚えのないものは改めて加えれられたものだともわかる。
 売れば高値になりそうな反物、豊富な乾物。別の木箱には櫛と玉かんざしが入れられてあった。
 銀次郎と共に(カメ)から取り出した折に「こういうものを撫子に渡してもよかった」と、考えていたことを思い出す。結局持たせてくれたのか、と郷愁のような銀次郎の優しさをフワリと感じ、蘇芳は曖昧に笑んだ。

「見て見て夜さまぁ、竹筒だよ。水筒代わりになるよね、逆におしゃれ!」
「逆ってなんだよ。しっかしすげー干物あるなぁ」
「なんだろーね? イワシ? アジ?」
「わかんねーけど、これはずっと噛んでても飽きねぇって乾物屋のオヤジが言ってたやつだな。この玄米と雑穀の塊はおやっさんが入れてくれたっぽい」
「当分は困らずに済むようにとのことじゃろて」
「うん。感謝しねぇとな、マジでさ」
「ときにすぅよ、この頂戴した物は如何様にする」
「イカヨーにって、持ってく一択だろ」
「荷とし持ち行くか? それとも『想い』としヌシの内に埋めるか?」

 品々を持っていた手をピタリと止める二人。言われたことの意味がわからず、蘇芳は「え?」と首を傾いだ。

「荷とし、持ち行くか、想いの形とし、ヌシのその身に埋めるか、を訊いておるのじゃ」

 わざわざゆっくりと一言ずつ言ってはもらえたものの、まったく理解が追い付かない。

「あの、ごめん。また夜さまの話わかんねぇ」
「夜さまね、いろんな魔法が使えるんだよ」
「は?」

 手にしていた竹筒を戻すくぅの一言すら、わけがわからなかった蘇芳。

「大事なものなんだし、どうせなら埋めてもらえばぁ?」
「ふむ、そうじゃの」
「あ……あぁ、あははっ。そ、そうだよなぁ。夜さまはいろんな魔法が使えるし、埋め? る? とにかく魔法でいい感じにしてもらえたらいいよなぁ! うんうん。夜さま、魔法一発頼むわ!」

 目だけが笑っていない蘇芳は「あっはっは」とあぐら座りのみずからの左膝をバシバシと平手で打つ。それは初日の姿と重なる。しかし一転、蘇芳は再度声を低くし笑みを消した。膝を打つのをやめ、眉頭と瞼を限りなく近付ける。

「――ンなワケあるかっ。なんだその微妙な嘘!」
「え?」

 眉を上げ、瞳を真ん丸にし、きょとんと蘇芳を見つめ返すくぅ。

「ん?」

 同じようにきょとんとした夜さまは、淡く透明な薄紫色の糸のような光を、幾重にも螺旋状にその右前足から出していた。そうして荷をその光で包むと、数秒足らずで珊瑚色の小さな珠に変えてしまった。

「はっ?! マジなの?! え、いやいやいや、許可なくあっという間に変えんなよ!」
「もー、すぅちゃんがトロトロしてるからぁ」
「くぅが勝手に返事したんだろーがっ」
「これを持ち行くか? それとも身に埋めるか?」

 特段悪びれる様子もなく、首を傾げ蘇芳へ問う夜さま。

「え、なに。夜さまは『埋めてぇ』の?」
「落とすといかんじゃろ? 埋めれば落とさず失くさずで済むよってに」

 コロコロと、鼻先で珊瑚色の珠を蘇芳の膝先へ転がし渡す。近づいてくるそれはピンポン玉にしては大きく、テニスボールにしては小さい。真珠のようにも見えるが天然石のようでもある。

「埋めるはいつでも出来る。必要があらば申せ」
「う、うん……」

 まさかのうちに掌に納まるサイズになってしまった『善意の品々』を、蘇芳は悲しげに手に取った。つるりとした表面の珊瑚色の珠。そこに歪み映る自身の顔を眺め、深い溜息で肩を落とした。
 次の時代でも使える物はあったかもしれない、何よりこれは元に戻せるのだろうか。反して、訊ねる気力はすっかり削がれてしまっている。

「その羽織は如何様に──」
「これは絶っ対ダメ!」

 むき出しの蘇芳の怒気に、夜さまは目を丸くした。くぅは小さく口元を押さえフフッと零し、蘇芳の気持ちを密かに汲み取る。
 やり取りが区切りとなり、すると左側がほのかに明るくなったのが目の端に映り込んだ。全員でそちらへ顔を向けると、くぅが真っ先に黄色い声をあげる。

「あっ、次の『ドア』!」

 まるで板状チョコレートのような形状。
 左側に黒色の丸ノブ。
 高さはおおよそ二メートル二〇センチ。
 幅は大人が二人並んで通れる程度――蘇芳らがしゃがみこんでいる場所から三メートルほど離れた位置にぼんやりと浮かんで見える様は、まるで蜃気楼だ。

「さて、行くかの」

 腰を上げた夜さまは、黒く細長い尻尾をシュルリと(ひるがえ)し『ドア』へ四つ足で向かう。跳ねるようにして立ち上がったくぅに「行こ、すぅちゃん」と手を延べられる。

「…………」

 珊瑚色の珠を強く右手に握る。大切な|砥粉色の小袖の襟を左手で掴み、ようやく「あいよ」と腰を上げた。
 丸ノブを前にし立ち止まり、珠を持ち替え、空いた右手を伸ばしゆく。そうして『ドア』を押し開けると、再び見たこともない景色が広がっているのだ。


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 少しでも、二人の役に立ちたい。
 少しでも、意味のある存在でいたい――。

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