銀次郎の屋敷へ上がった撫子は、砥粉色の羽織を完全に身体から外し両腕に抱いた。それを眺めながら「どこに通したら」と考えあぐねていると、候補のひとつであった間借りしている四畳半をあっさりと通り過ぎてしまった。引き返すことは格好がつかないという思想がために、蘇芳はもうひとつの候補場所である薪割りをしていた屋敷裏まで連れ進むことにした。
「さっきまでここで薪割ってたんだよ、俺」
「そなたは力仕事まで悠にこなすのだな」
「ま、まぁ、な。どうせならあとでもうちょっと割っといて、おやっさんに負担かけねーようにしとこうとは思ってんだけどさぁ」
せめていい格好をと思ったときには、既に意志とは真逆の思惑が口から勝手に飛び出していた。割りかけだった薪の山を視界に入れげんなりとしたものの、顔に出さないよう懸命に堪え、数秒前の自分を呪う。
縁側に腰を下ろすよう促せば、撫子は静かな正座のあと、ところどころ苔生した踏石にみずからが履いてきた雪駄のような草履をやはり静かに置いた。抱いていた羽織は簡素に畳まれて、彼女の膝の上に乗っている。
撫子はどの仕草ひとつとっても品があり、非の打ち所がない――蘇芳の目には始終そう映るので、改めて淡い桃色の感情で彼女を心内で評した。
「多少落ち着いた?」
「あぁ。すまなかった、あのように取り乱して」
「いや。そもそも正直、俺にはよくわかんねーことばっかっつーか」
ボソボソと言いながら、撫子を真似て静かな正座を試みる。「そうだな」と撫子は感情のない横顔で相槌を返した。
「少し、嫁ぎ先のことを話してもよいか」
提案されるも、蘇芳は正直なところ聞きたくはなかった。連れ去りたいと考えるほど焦がれた相手の嫁ぎ先など、ただの嫉妬の対象でしかない。野次馬根性で目を輝かせウキウキと聞ける話ではないために、相槌はおろか撫子を見られず、ただ膝の上で固く握ったふたつの拳に視線を刺していた。
いくつか呼吸をおき、撫子は言えるところから発言していく。
「かの若君は、この乱世には珍しく情に厚い性分のお方らしい。銀次郎も申していただろう、ここのような小さな隣国の民の耳にまで入るほどの評判だ」
「……そう、かよ」
「明後日、ようやく初めてお目にかかる。どのようなお方か未だ想像でしかないが――」
「ちょ、ちょっと待って」
言葉を遮り、視線がかち合う。蘇芳は前のめりに問い直す。
「一回も会ったことねーの? そんで、結婚?」
「そうだ。一度もお会いしたことはない。然したる問題ではなかろう」
「い、いや……」
かなり問題なんじゃ? と出かかったものの、間もなく時代錯誤のそれを思い出し、前歯の手前でどうにか言葉を呑み込む。
撫子はフイと蘇芳から視線を外した。向こうに積み上がった薪を眺めている。
「あの方のご尊顔もお声も、未だ私は知らない。だがたとえどのようなお方であろうと、嫁ぐとなった以上はこの生涯を捧げ、委ね、添い遂げねばなるまい」
定型文のように『当たり前』を告げる横顔。しかし膝の上の羽織をいくつもシワが寄るほど、撫子はそれを固く握っている。
「なのに『弱く醜い心』を、私は未だ棄てきれずにいる。ゆえに躊躇う。理解している役目と比べてしまう」
「弱く、醜い心?」
「ああ。婚前にこんなことを、と自己嫌悪だ」
弱々しい笑みをした撫子は、右手を自身の胸部に添える。
「弱き心は、瞬く間に『姫の私』に棲みついた。このままでは、やがてこの身を陽の傾きと共に焦がし、月の居る間に喰らい尽くすことになろう」
ゆらりと揺れるように蘇芳を甘く向いていく。
「もしも、恋い慕う相手と添い遂げられる世であったなら……もしも此度がそうであったのなら何も迷わずに済んだのではないか。そのような考えがいつまでも拭えず、苦しかった。躊躇いも、不安も、個人の願望も、そなたと出逢ってから急速に増していったのだ」
三秒間見つめられ、まばたきで伏せられ、途切れる。胸部から手が外れ、上品に膝へ戻る。
「だがこのようなものは婚儀……いや、嫁ぎし先へは当然持ち込めない。そう、『持ち込んではならない』から、こんな幼き『想い』など、早々に殺しておかなくてはならないのだ」
「……ちょっと待て」
「そなたが授けたこの『想い』。そなたと並び歩き、言い合い、笑ったことで気が付いた『想い』。そなたの傍にいると、これまでにないほど安らぐ。ゆえに、きっといつまでも、この『想い』は棄てきれない」
「待てって」
「だから、今日そなたと会い言葉を交わすことで区切りとし、いち早く棄てねばならぬと思った。これを抱いたままでは若君の元へ嫁げぬだけでなく、確実にそなたさえ縛る」
「それって!」
力任せに右の手首を掴まえる。無理矢理に視線をみずからへ向けさせる。
「それって、アンタも――」
「言うなっ」
強く低く、撫子は言葉を被せた。声色とは裏腹に、その表情は脆く崩れていく。
「ならぬぞ、蘇芳。これより先はならぬ」
「けど俺はっ」
「『明確な言葉』にして確かめ合ってはならない。波風立てぬよう、辛抱しなければ。どうあっても、叶わぬのだから」
「なんで叶わないとか言うわけ。勝手に決めんな。俺の感情は無視かよ」
つられて揺れる、蘇芳の声。掠れた「そうだな」が返ってくると、はっきりとフラれたほうがマシだなと思えた。
息を呑み、溜息のように細く吐き、掴んだ右手をハラリと離す。
「私は姫で、そなたは流浪の旅人。はっきり申すが、国に利がない」
ぱたぱたと、彼女の紅潮した頬を伝い、また涙粒が滴る。
「姫は国のための駒だ。だから、いつまでも、我を徹してよい子どもではいられないと申しただろう」
「辞めちまえばいい、全部。そんで俺と城下を出――」
「……ありがとう」
涙で崩れた彼女の笑みを目の当たりにすると、今にも胸が裂けそうであった。
「数日の間、そなたと顔を合わせることを、楽しみにしていた。寝ても覚めても、そなたを忘れたことはなかった。蘇芳と話をしている時間が、とても楽しかったのだ」
「撫子……」
「嫁いだ先で、そなた以上の恋い慕う想いを向けてさしあげられるかだけが不安で不安で、たまらなかった。そなたを思い出すにつれ、次第に役割も果たせなくなるのではと怖くなった」
スンと鼻を啜った彼女は、等身大であった。自身と歳の変わらない未だ『少女』の代名詞が似合う一人の女の子。背負い込んだ責務が重すぎるがゆえに、大人びて見せていたにすぎないと改めて知る。
「そなたがこうして受け止め聞いてくれたこと、私の身を案じ意見してくれたこと、すべてに心から感謝している。どうかこれは、そなたの心内に留めおいてくれ」
にこ、と笑みが深まると、また涙がぱたぱたと滴った。
何を言ったところで、もう撫子は決めてしまっている。蘇芳と出逢うよりも前に決めた意思を覆すことは出来ないのだ。それは蘇芳の言葉が届かないのでなく、同意だからこそ苦しみ、迷いが生まれた。
深い溜め息を吐いて、頭を俯け、沈黙が重く漂う。反射的に奥歯をギリリと軋ませる。
逢いたいと思っていた人物に逢えたはずであった。夜さまの言う『会遇』は絶対的ではないのか? 彼女と共に生きること、この乱世に残り彼女の傍で骨を埋めること――撫子が幸せでいられるなら何も厭うことはないと考えていただけに、打ち砕かれた淡い想いは虚無を呼んだ。
「撫子はえらいな、マジでさ」
声になりきらない声で絞り出すように言葉にする蘇芳。撫子が発言したあと、どのくらい経ったかわからない。無言の空気を割いたそれは、撫子の重たくなった瞼を上向けた。
「ちゃんと葛藤して、ちゃんと最善を選べてる。そうやって一人で物事の優先順位を決めてける撫子は、スゴいヤツだよ」
フルフル、と小刻みに頭を振る。目の端にそれが見え、すぐにこの肩を抱けたらいいのにと思う。
「そんなこと誰にでもできることじゃねぇしさ。現にこうやって、きっちり決別しようとしてんじゃん? 自分一人よりみんなのこと優先で考えれるのは、やっぱ撫子にしかできねーことなんだよ」
代わりにしたか、彼女の右手の小指へ自身の左手の指先を寄せていく。
「スゲェダセェんだけど、ホントは俺、アンタをとられたくないっていうみっともねぇ嫉妬心でグズグズなんだ、今」
びくりと硬直を見せるも、躊躇いや背徳感を孕んだ冷えた指先はやがて弱く握り返してきた。
「どうやったらアンタのこと傍に置いとけるかとか、昨日からそんなことばっか考えてた。俺さ、正直、まだガキなんだよ。アンタみたいに他人さまのこと最優先でなんて考えれねーもん」
「大層なお節介やきなのに?」
「撫子のは俺みたいな『お節介やき』ですまねーっしょ」
「ふふ……」
触れ合っているところがピリピリと痛覚を刺激する。誰よりも近く繋がったのに、しかしずっと距離のある別離がべったりと意識づく。
「撫子が前向いて自分の役割を果たす覚悟決めてんなら、俺も見倣ってそうしなきゃだな」
甘く首を傾ぐと、見つめ合う格好になった。見せられたものではない顔を、この人にだけならという人物に見せ合えている不可思議な事実。
「今は、俺もやらなきゃなんねぇことあるんだ。だからアンタを見倣って、俺も先に進むことにする」
「蘇芳……」
「その先々でアンタみたいに、自分のことも周りのこともできる限り大事にして生きてけるように、努力してみる。そうすりゃさ、ちっとは俺の憧れた大人なヤツに、なれるかもしんねぇもんな」
瞼を上げると、またボロリと撫子の瞳から涙粒が溢れ落ちていた。努めて口角を上げ、極力自然な笑顔を向ける。
「撫子ならどこへ行っても、誰とだって、絶対にうまくやれるよ」
本心ではあったが、本意ではなかった。心の中心のその奥で、じんわりと滲む感覚に苛立つ。隠しきれない嫉妬心だった。
本当は今すぐに固く抱き締めてしまいたい。見知らぬ誰かから強引に奪い浚ってしまいたい――蘇芳はしかし堪え続ける。絡め合った指先を、優しく静かに解いていく。
「なぁ蘇芳、もしも。もしも生まれ変わりがあったとして――」
左手で目元を拭いながら、撫子は蘇芳を見上げる。
「――その先でまた、出逢えたなら。そのときこそ、私と共に生きてくれるか」
泣いたことで崩れた顔が蘇芳に笑みを向けたとき、淡く暖かな空気に包まれた心地を得た。どこかで嗅いだことがあるような花の匂いが、鼻先を触っていなくなる。それが背を押したか、蘇芳は語気を強く首肯した。
「うんっ。そんときこそ必ず、俺は撫子と一緒に生きてく」
子どものような上辺だけの口約束だと思われてよかった。懸命に笑ってみせた顔は、くしゃりと悲しげに歪んだ。
「そーだよな。『アレ』がマジで上手くいくんなら、俺は撫子を、生まれ変わった未来でも絶対に捜せるんだ」
「アレ?」
「うん。多分想像できねーくらい、なんかスゲーこと。だから、たとえそんときまた|隔たりがあったとしても、たとえどんな姿だろうと、何百年でも何千年でも、ずっとずっと、俺はまた撫子を捜すよ」
「なん、ぜんねん?」
「はてしない時間がかかってもってこと。だからそんとき俺は必ず撫子を見つけて、次こそ絶っ対に、撫子の傍にいる」
「ふふ……うん、うん」
その相槌はほどなくして嗚咽に変わっていった。口元を覆い俯く撫子の肩を抱く者にはなることができない。
「そうだな……そうだな、蘇芳」
花の匂いが濃くなって、しかしフワリと吹き込んだ風に巻かれてサアと消えた。
「また逢おう、必ず。どこかで……必ずっ」
「……うん。必ず」
不意に思い出したのは、夜さまの言う『結合術』。チラリとしか耳にしていないが、これまで夜さまの言葉に意味のないものなどなかった。具体的に何がどうなるのかさだかではないのに、今だけは夜さまの言うことに縋っていたいと思った。だから、もしも『ドア』を潜り行く過程で『結合術』とやらが効いてくるならば、いずれ撫子にもまた会えるのでは、と蘇芳は考え至ったのである。
会遇、結合、その後の別離。今は別れどもその先で――そんな可能性がスッと蘇芳の心に浮き、明るく照っている。半信半疑であったが、そもそも夜さまのすべてが半信半疑なのだ。ならば『疑』でなく『信』でありたい。蘇芳の考えが前向きに変わりつつあった。
「いつかまた、みつけて。私を、また」
嗚咽混じりの撫子の言葉は痛烈さを連れ、蘇芳の涙腺を容赦なく刺激した。
南中から傾いた陽が雲間からわずかに顔を覗かせて、それは二人のいる小さな中庭を照らしている。
「うん、必ずまた――」
それはまるで、白昼夢の幻影がごとく。
「――今度は、絶対に」
◆ ◆ ◆
これは約束の鍵だよ。また出逢えるように、お祈りを込めておくね。
だからもう、そんなに悲しまないで。いずれまた、こうして逢えますように――。
◆ ◆ ◆
「さっきまでここで薪割ってたんだよ、俺」
「そなたは力仕事まで悠にこなすのだな」
「ま、まぁ、な。どうせならあとでもうちょっと割っといて、おやっさんに負担かけねーようにしとこうとは思ってんだけどさぁ」
せめていい格好をと思ったときには、既に意志とは真逆の思惑が口から勝手に飛び出していた。割りかけだった薪の山を視界に入れげんなりとしたものの、顔に出さないよう懸命に堪え、数秒前の自分を呪う。
縁側に腰を下ろすよう促せば、撫子は静かな正座のあと、ところどころ苔生した踏石にみずからが履いてきた雪駄のような草履をやはり静かに置いた。抱いていた羽織は簡素に畳まれて、彼女の膝の上に乗っている。
撫子はどの仕草ひとつとっても品があり、非の打ち所がない――蘇芳の目には始終そう映るので、改めて淡い桃色の感情で彼女を心内で評した。
「多少落ち着いた?」
「あぁ。すまなかった、あのように取り乱して」
「いや。そもそも正直、俺にはよくわかんねーことばっかっつーか」
ボソボソと言いながら、撫子を真似て静かな正座を試みる。「そうだな」と撫子は感情のない横顔で相槌を返した。
「少し、嫁ぎ先のことを話してもよいか」
提案されるも、蘇芳は正直なところ聞きたくはなかった。連れ去りたいと考えるほど焦がれた相手の嫁ぎ先など、ただの嫉妬の対象でしかない。野次馬根性で目を輝かせウキウキと聞ける話ではないために、相槌はおろか撫子を見られず、ただ膝の上で固く握ったふたつの拳に視線を刺していた。
いくつか呼吸をおき、撫子は言えるところから発言していく。
「かの若君は、この乱世には珍しく情に厚い性分のお方らしい。銀次郎も申していただろう、ここのような小さな隣国の民の耳にまで入るほどの評判だ」
「……そう、かよ」
「明後日、ようやく初めてお目にかかる。どのようなお方か未だ想像でしかないが――」
「ちょ、ちょっと待って」
言葉を遮り、視線がかち合う。蘇芳は前のめりに問い直す。
「一回も会ったことねーの? そんで、結婚?」
「そうだ。一度もお会いしたことはない。然したる問題ではなかろう」
「い、いや……」
かなり問題なんじゃ? と出かかったものの、間もなく時代錯誤のそれを思い出し、前歯の手前でどうにか言葉を呑み込む。
撫子はフイと蘇芳から視線を外した。向こうに積み上がった薪を眺めている。
「あの方のご尊顔もお声も、未だ私は知らない。だがたとえどのようなお方であろうと、嫁ぐとなった以上はこの生涯を捧げ、委ね、添い遂げねばなるまい」
定型文のように『当たり前』を告げる横顔。しかし膝の上の羽織をいくつもシワが寄るほど、撫子はそれを固く握っている。
「なのに『弱く醜い心』を、私は未だ棄てきれずにいる。ゆえに躊躇う。理解している役目と比べてしまう」
「弱く、醜い心?」
「ああ。婚前にこんなことを、と自己嫌悪だ」
弱々しい笑みをした撫子は、右手を自身の胸部に添える。
「弱き心は、瞬く間に『姫の私』に棲みついた。このままでは、やがてこの身を陽の傾きと共に焦がし、月の居る間に喰らい尽くすことになろう」
ゆらりと揺れるように蘇芳を甘く向いていく。
「もしも、恋い慕う相手と添い遂げられる世であったなら……もしも此度がそうであったのなら何も迷わずに済んだのではないか。そのような考えがいつまでも拭えず、苦しかった。躊躇いも、不安も、個人の願望も、そなたと出逢ってから急速に増していったのだ」
三秒間見つめられ、まばたきで伏せられ、途切れる。胸部から手が外れ、上品に膝へ戻る。
「だがこのようなものは婚儀……いや、嫁ぎし先へは当然持ち込めない。そう、『持ち込んではならない』から、こんな幼き『想い』など、早々に殺しておかなくてはならないのだ」
「……ちょっと待て」
「そなたが授けたこの『想い』。そなたと並び歩き、言い合い、笑ったことで気が付いた『想い』。そなたの傍にいると、これまでにないほど安らぐ。ゆえに、きっといつまでも、この『想い』は棄てきれない」
「待てって」
「だから、今日そなたと会い言葉を交わすことで区切りとし、いち早く棄てねばならぬと思った。これを抱いたままでは若君の元へ嫁げぬだけでなく、確実にそなたさえ縛る」
「それって!」
力任せに右の手首を掴まえる。無理矢理に視線をみずからへ向けさせる。
「それって、アンタも――」
「言うなっ」
強く低く、撫子は言葉を被せた。声色とは裏腹に、その表情は脆く崩れていく。
「ならぬぞ、蘇芳。これより先はならぬ」
「けど俺はっ」
「『明確な言葉』にして確かめ合ってはならない。波風立てぬよう、辛抱しなければ。どうあっても、叶わぬのだから」
「なんで叶わないとか言うわけ。勝手に決めんな。俺の感情は無視かよ」
つられて揺れる、蘇芳の声。掠れた「そうだな」が返ってくると、はっきりとフラれたほうがマシだなと思えた。
息を呑み、溜息のように細く吐き、掴んだ右手をハラリと離す。
「私は姫で、そなたは流浪の旅人。はっきり申すが、国に利がない」
ぱたぱたと、彼女の紅潮した頬を伝い、また涙粒が滴る。
「姫は国のための駒だ。だから、いつまでも、我を徹してよい子どもではいられないと申しただろう」
「辞めちまえばいい、全部。そんで俺と城下を出――」
「……ありがとう」
涙で崩れた彼女の笑みを目の当たりにすると、今にも胸が裂けそうであった。
「数日の間、そなたと顔を合わせることを、楽しみにしていた。寝ても覚めても、そなたを忘れたことはなかった。蘇芳と話をしている時間が、とても楽しかったのだ」
「撫子……」
「嫁いだ先で、そなた以上の恋い慕う想いを向けてさしあげられるかだけが不安で不安で、たまらなかった。そなたを思い出すにつれ、次第に役割も果たせなくなるのではと怖くなった」
スンと鼻を啜った彼女は、等身大であった。自身と歳の変わらない未だ『少女』の代名詞が似合う一人の女の子。背負い込んだ責務が重すぎるがゆえに、大人びて見せていたにすぎないと改めて知る。
「そなたがこうして受け止め聞いてくれたこと、私の身を案じ意見してくれたこと、すべてに心から感謝している。どうかこれは、そなたの心内に留めおいてくれ」
にこ、と笑みが深まると、また涙がぱたぱたと滴った。
何を言ったところで、もう撫子は決めてしまっている。蘇芳と出逢うよりも前に決めた意思を覆すことは出来ないのだ。それは蘇芳の言葉が届かないのでなく、同意だからこそ苦しみ、迷いが生まれた。
深い溜め息を吐いて、頭を俯け、沈黙が重く漂う。反射的に奥歯をギリリと軋ませる。
逢いたいと思っていた人物に逢えたはずであった。夜さまの言う『会遇』は絶対的ではないのか? 彼女と共に生きること、この乱世に残り彼女の傍で骨を埋めること――撫子が幸せでいられるなら何も厭うことはないと考えていただけに、打ち砕かれた淡い想いは虚無を呼んだ。
「撫子はえらいな、マジでさ」
声になりきらない声で絞り出すように言葉にする蘇芳。撫子が発言したあと、どのくらい経ったかわからない。無言の空気を割いたそれは、撫子の重たくなった瞼を上向けた。
「ちゃんと葛藤して、ちゃんと最善を選べてる。そうやって一人で物事の優先順位を決めてける撫子は、スゴいヤツだよ」
フルフル、と小刻みに頭を振る。目の端にそれが見え、すぐにこの肩を抱けたらいいのにと思う。
「そんなこと誰にでもできることじゃねぇしさ。現にこうやって、きっちり決別しようとしてんじゃん? 自分一人よりみんなのこと優先で考えれるのは、やっぱ撫子にしかできねーことなんだよ」
代わりにしたか、彼女の右手の小指へ自身の左手の指先を寄せていく。
「スゲェダセェんだけど、ホントは俺、アンタをとられたくないっていうみっともねぇ嫉妬心でグズグズなんだ、今」
びくりと硬直を見せるも、躊躇いや背徳感を孕んだ冷えた指先はやがて弱く握り返してきた。
「どうやったらアンタのこと傍に置いとけるかとか、昨日からそんなことばっか考えてた。俺さ、正直、まだガキなんだよ。アンタみたいに他人さまのこと最優先でなんて考えれねーもん」
「大層なお節介やきなのに?」
「撫子のは俺みたいな『お節介やき』ですまねーっしょ」
「ふふ……」
触れ合っているところがピリピリと痛覚を刺激する。誰よりも近く繋がったのに、しかしずっと距離のある別離がべったりと意識づく。
「撫子が前向いて自分の役割を果たす覚悟決めてんなら、俺も見倣ってそうしなきゃだな」
甘く首を傾ぐと、見つめ合う格好になった。見せられたものではない顔を、この人にだけならという人物に見せ合えている不可思議な事実。
「今は、俺もやらなきゃなんねぇことあるんだ。だからアンタを見倣って、俺も先に進むことにする」
「蘇芳……」
「その先々でアンタみたいに、自分のことも周りのこともできる限り大事にして生きてけるように、努力してみる。そうすりゃさ、ちっとは俺の憧れた大人なヤツに、なれるかもしんねぇもんな」
瞼を上げると、またボロリと撫子の瞳から涙粒が溢れ落ちていた。努めて口角を上げ、極力自然な笑顔を向ける。
「撫子ならどこへ行っても、誰とだって、絶対にうまくやれるよ」
本心ではあったが、本意ではなかった。心の中心のその奥で、じんわりと滲む感覚に苛立つ。隠しきれない嫉妬心だった。
本当は今すぐに固く抱き締めてしまいたい。見知らぬ誰かから強引に奪い浚ってしまいたい――蘇芳はしかし堪え続ける。絡め合った指先を、優しく静かに解いていく。
「なぁ蘇芳、もしも。もしも生まれ変わりがあったとして――」
左手で目元を拭いながら、撫子は蘇芳を見上げる。
「――その先でまた、出逢えたなら。そのときこそ、私と共に生きてくれるか」
泣いたことで崩れた顔が蘇芳に笑みを向けたとき、淡く暖かな空気に包まれた心地を得た。どこかで嗅いだことがあるような花の匂いが、鼻先を触っていなくなる。それが背を押したか、蘇芳は語気を強く首肯した。
「うんっ。そんときこそ必ず、俺は撫子と一緒に生きてく」
子どものような上辺だけの口約束だと思われてよかった。懸命に笑ってみせた顔は、くしゃりと悲しげに歪んだ。
「そーだよな。『アレ』がマジで上手くいくんなら、俺は撫子を、生まれ変わった未来でも絶対に捜せるんだ」
「アレ?」
「うん。多分想像できねーくらい、なんかスゲーこと。だから、たとえそんときまた|隔たりがあったとしても、たとえどんな姿だろうと、何百年でも何千年でも、ずっとずっと、俺はまた撫子を捜すよ」
「なん、ぜんねん?」
「はてしない時間がかかってもってこと。だからそんとき俺は必ず撫子を見つけて、次こそ絶っ対に、撫子の傍にいる」
「ふふ……うん、うん」
その相槌はほどなくして嗚咽に変わっていった。口元を覆い俯く撫子の肩を抱く者にはなることができない。
「そうだな……そうだな、蘇芳」
花の匂いが濃くなって、しかしフワリと吹き込んだ風に巻かれてサアと消えた。
「また逢おう、必ず。どこかで……必ずっ」
「……うん。必ず」
不意に思い出したのは、夜さまの言う『結合術』。チラリとしか耳にしていないが、これまで夜さまの言葉に意味のないものなどなかった。具体的に何がどうなるのかさだかではないのに、今だけは夜さまの言うことに縋っていたいと思った。だから、もしも『ドア』を潜り行く過程で『結合術』とやらが効いてくるならば、いずれ撫子にもまた会えるのでは、と蘇芳は考え至ったのである。
会遇、結合、その後の別離。今は別れどもその先で――そんな可能性がスッと蘇芳の心に浮き、明るく照っている。半信半疑であったが、そもそも夜さまのすべてが半信半疑なのだ。ならば『疑』でなく『信』でありたい。蘇芳の考えが前向きに変わりつつあった。
「いつかまた、みつけて。私を、また」
嗚咽混じりの撫子の言葉は痛烈さを連れ、蘇芳の涙腺を容赦なく刺激した。
南中から傾いた陽が雲間からわずかに顔を覗かせて、それは二人のいる小さな中庭を照らしている。
「うん、必ずまた――」
それはまるで、白昼夢の幻影がごとく。
「――今度は、絶対に」
◆ ◆ ◆
これは約束の鍵だよ。また出逢えるように、お祈りを込めておくね。
だからもう、そんなに悲しまないで。いずれまた、こうして逢えますように――。
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