巨大な交差点で、心臓が人の流れとは逆に、激しく跳ねている。

 今日の天気はさほど暑くはない。

 だけど、透明なガラスの高層ビルのあいだを、小野は息を切らしながら駆け抜けている。

 汗が白いシャツを濡らしていく。

 あと少し――あと少しで、あの背中に手が届く。

 小野は必死に手を伸ばした。

 「先輩!」

 だが、その影はやがて人波のなかに溶けていく。

 まるで空の蒼に染み込んでいくように、果てのない空間の向こうへと遠ざかっていく。

 「先輩――!」

 差し伸べた手が、空を掴んだまま、止まる。

 視界に映るのは見慣れた天井。春の朝の柔らかな光がブラインドの隙間から差し込み、彼の眠たげな顔を照らしていた。

 この三年間、ずっと同じ夢を見続けている。

 夢はいつも、あの背中に触れる寸前で途切れる。

 けれど、今日だけは違う。

 今日、この蒼い夢に、ようやく終止符が打たれるのだ。

 小野は枕元のペンギン型の目覚まし時計を止めた。

 「先輩……やっと、会えるんだ。」

 胸の鼓動に背を押されるように、小野は布団を跳ね除け、部屋の外へと駆け出した。

 ――――

 「ねむ……死ぬほどねむっ……」

 あくびを噛み殺しながら、一森は校門をまたいだ。

 鞄を片手で肩に引っかける。

 その瞬間、桜の花びらがひとひら、枝の上から舞い降り、彼の短い髪にそっと落ちる。

 「おっ、裕也。春の最初の桜が、お前の頭にとまったぞ。」

 「は?」

 隣を歩く親友・涼太が、にやにやと笑いながら言う。

 「門をくぐるときに、最初に花びらを受けた奴は、入学式の日に恋が芽生えるんだってさ。」

 「どこの国の伝説だよ……」

 一森は頭を軽く振った。桜の花びらが風に乗って地面へと落ちる。

 「ちぇっ、ロマンねぇなぁ。」

 涼太は両手を頭の後ろで組み、退屈そうに口を尖らせた。

 「放っとけ。」

 くだらない噂よりも、一森にはもっと気がかりなことがある。

 少しだけ俯いて、一森は入学式の行われる礼拝堂へと足を踏み入れた。

 周りを見渡せば、自分より頭ひとつもふたつ低い新入生ばかり。

 知っている顔はひとりもいない。

 ――それでいい。

 誰も「過去の自分」を知らないこの場所。

 それが、一森裕也にとっては何よりの救いだった。

 「一森先輩!」

 「……は?」

 いつの間にか、隣の席に小さなオレンジ色の髪の少年が座っていた。

 彼も同じ白い制服を着て、両手で椅子の背を握りしめながら、きらきらした瞳で身を乗り出してくる。

 礼拝堂のステンドグラスを通した春の光が、彼の身体をやわらかく包み、破片のように色とりどりの模様を描き出していた。

 その欧風のリボンタイも、あどけない顔立ちによく似合っている――と、一森はぼんやり思った。

 「一森先輩、これ……お返しします。」

 彼が差し出してきたのは、蒼い表紙の本だった。

 「あ、いや、いいよ。」

 思わず本を押し返してしまう。

 そもそも、目の前の少年が誰なのか心当たりがない。

 本を借りた記憶などまったくなかった。

 「え……?」

 少年が大きな目を見開いて固まる。

 「あぁ?」

 涼太が慌てて耳元で囁く。

 「おいおい、この人、小野だろ! 三学年飛び級してきた天才だって噂の!」

 「は?」

 「さっき女子たちが群がってたぞ。彼のノートとか、制服の第一ボタンとか奪い合ってた!」

 涼太が肘で小突きながら、わざとらしく目を光らせる。

 ――入学式でボタンを欲しがる意味がわからない。

 「ほら、受け取れって。」

 「そこの二人、静かに!」

 黒髪をきっちりまとめたクラス委員が振り向き、「シーッ」と人差し指を立てる。

 涼太は両手を合わせて「ごめんなさーい!」と大げさに頭を下げた。

 一森はため息をつきながら、仕方なく本を受け取る。

 表紙には、美しい星の川が描いてる。

 蒼の夕陽のなかで、少年と白い兎が手を取り合っている。

 そして上部には、シンプルな書体で題名が綴られていた。

 ――「蒼い夕陽のなかで」。

 こめかみの奥がズキンと痛む。

 視界の端がかすかに揺れ、一森は思わず目を細めた。

 校長が壇上に上がり、マイクの音を調整する。

 小野は満足そうに微笑み、姿勢を正した。

 「ふふ、よかった。ちゃんと返せた。」

 「おい、この本……」

 一森が顔を上げたとき、小野の瞳の端――橙の髪の隙間に、微かに赤みが差しているのが見えた。

 思わず、指先が動く。

 一森の人差し指が、小野の目尻へと伸びていく。

 「えー、皆さん。おはようございます。命が芽吹くこの季節に――」

 「はっ!」

 我に返った一森は、慌てて手を引っ込めた。

 胸の高鳴りは、きっと気のせいだ。

 「……ちっ。」

 小さく舌打ちして、思考を振り払う。

 そのとき、小野の唇がかすかに笑みを描いたことには、一森は気づかなかった。