曇りの昼だ。窓は指の幅で開いている。金属の桟は朝より柔らかく、ひやりの底が浅い。外の空気は白く薄く、土と水の匂いが混ざる。
赤子は寝具の上で、胸の上下をそろえきれずにいる。
ベビーカーの布を張り、留め具の向きを確かめ、車輪の向きを一度だけ変える。玄関の鍵を胸のポケットに入れ、靴の踵を音を立てずに押し込む。台所でやかんの位置を端へ寄せ、火のつまみが元に戻っているのを指でなぞってから、居間へ戻って赤子を抱き上げる。重さは昨日と同じにはならない。
体の中心が、日ごとに少しずつ変わる。
外に出ると、風は弱い。ベビーカーを押す手に力は要らない。舗装の上に薄い砂があり、車輪が細い音を連れて進む。
角を曲がると、庇の影の端に猫がいる。距離は縮めない。首輪の金具が低い光を受け、毛の面が曇天の白を吸って、表面だけが柔らかく見える。
こちらを見ない。進行方向の先で、私たちの歩幅の拍を一つだけ待ってから、角の向こうへ消える。
その消え方を追わない。押す手の速度だけを均し、赤子の胸の上下の区切りに合わせる。
商店のガラスの前を過ぎる。内側に誰もいない。流し台が磨かれて、金具が細く光るのが見える。光は音を持たず、車輪の細い音だけが進む方向を保証する。電柱の影は短く、曇りのせいで輪郭がたわまない。
信号のない横断歩道で一度止まり、左右の気配を確かめる。風が一段だけ冷える。猫はもう先に行っていて、次の角の手前、植え込みの影に座っている。耳は遠くと近くの両方へ薄く開いて、鈴は鳴らない。
押す手をわずかに下げる。赤子は声を出さない。眠っているのではない。拍の帳尻を合わせているだけだ。
公園に着く。ベンチは乾いている。
座らない。ベビーカーを日陰に寄せ、ブレーキを確かめ、布を少しだけ上に上げる。頬の温度は良い。
ポーチから瓶を出し、手の甲の内側で温度を測る。冷えすぎている。温め直すものはない。
けれど、やかんの細い鳴りの高さを胸の奥で思い出す。あの高さの直前の温度が、吸う口にとってちょうどよかった。
瓶を両の手の内側でゆっくり包み、呼吸と合わせて数拍分だけ温度を移す。吸う口に触れる手前のぬるいが、手の節のあたりでわかる。
赤子は唇を探し、瓶の口を受け取る。吸う音は短くつながる。止まり、また吸う。
背を少し丸め、肩を下げる。公園の遠い方で、子どもの声が一度だけ跳ねて、すぐに静かになる。風が葉を擦る音が低く続く。
猫はフェンスの向こうの植え込みで座っている。
私を見ない。赤子のあたりの空気に耳を置いている。
声は出さない。瓶の角度だけを微調整する。吸ったあとでわずかに空気が入り、喉の奥の通りがよくなる。
手は震えない。震えなさを確かめないまま、拍に入っていく。
吸う量は多くない。ここまでで十分だと判断し、瓶を少し離す。
赤子は短く息を吐き、眠りのほうには行かない。目は薄く閉じたまま、口角がわずかに緩む。
布を戻し、ベビーカーの布をもう一度張り直す。
猫はその間も動かない。距離を保ったまま、私たちの時間に手を入れない。
礼は言わない。公園の入り口の表示と、ベンチの木のささくれを目で一度確認してから、押す手をまた前に出す。
帰り道、気配が一つだけ変わる。
赤子の胸の上下が浅くなり、喉の奥でかすかな鳴りが生まれる前の気配。歩幅の拍を崩さないように、速度を落とし、日陰に入る。
猫は先の角を曲がり、見えなくなる。見えなくなる直前、前脚が地面を柔らかく叩くのが遠くに見える。叩く音は届かない。代わりに胸の拍に、二つの無音が落ちる。
歩を止め、ベンチのない歩道の縁で、ベビーカーを少しだけ傾ける。角度が浅い。もう少し。車輪が沈む手前でとどめ、赤子の肩の下に入れた薄い布の端を指で探る。体の向きをわずかに変える。喉の奥の道が開く。鳴りは生まれずにほどける。
呼吸を一つだけ深くする。
家に戻る。玄関で靴を脱ぎ、ベビーカーを畳み、居間へ入れる。窓は朝のまま指の幅で開いている。金属の桟はさほど冷たくない。赤子を寝具へ移すと、胸の上下は浅く落ち着く。
台所へ行き、やかんを一度だけ持ち上げ、空の軽さだけを確かめてから元に戻す。流しの縁に残った水はない。布巾を開いて乾いた面を上にし、端をそろえる。整った面は、見ているだけで呼吸を低くする。
居間に戻る途中、窓のほうで小さな気配がする。ガラスがわずかに震えるほどではない。
けれど、そこに前脚の置き直しが二度、静かに続いたように感じる。
赤子の喉が浅く動き、次の拍で小さなむせが立つ。
すぐに寝具の角度を変え、背に薄いタオルを足す。頭の位置をわずかに上げ、肩の線を整える。鼻の下の空気の通りが広がる。むせは一度で終わる。終わったことを確かめるほどの時間は要らない。胸の上下は、先より深くなる。
窓へ振り向かない。窓の前にいる気配だけを受け取り、居間の真ん中で膝を折る。膝を折る位置は、赤子の呼吸の拍に合わせた場所にする。
落ち着くと、古いノートを棚の上から取り、居間の隅の小さな机の上に開く。左の真ん中に一行だけ書く。窓、指の幅で、息が合う。書いた行は、説明ではない。今夜も明日の朝も、手がそこへ戻れるように、線の太さと角度を変えずに一行だけ残す。
ペンを閉じ、机の上の紙を重ね直し、角を合わせる。角が揃うと、視線が散らない。散らないことで、赤子の胸の上下がはっきり見える。
午後の終わり、台所の順序を声にしないまま体に通す。換気、授乳、片付け、短い休息。休む場所は椅子。背は壁。目は閉じない。窓は指の幅。鈴は鳴らない。鈴が鳴らないことは、合図がいらないほど拍が整っているということだ。
この解釈を言葉にせず、まな板の縁の乾き具合を指で確かめ、布巾の折り目を一度だけ変える。そのたびに、胸の中の空地が少し広がる。空地が広がりすぎないところで止める。
夕方、玄関のほうで小さな気配が立つ。猫がそこを見ている。見ている気配だけが、廊下の空気の厚みを少し変える。
廊下へ出て、ポストを開ける。紙が二枚。片方は印刷の多い案内で、もう片方は薄い色の封。封には短い言葉と、名前はない。祝いの礼状だとすぐにわかる。
それを声に出さず、机の引き出しの奥へ入れる。入れるとき、紙が木目に軽く触れて、乾いた音が一度だけ立つ。音はすぐに吸い込まれる。
戻ると、猫は廊下の端の影にいる。尾は見えない。鈴は鳴らない。
礼は言わず、靴の向きを直し、玄関の戸の隙間の埃を布で一度だけ拭く。拭いた布は濡れの面を内に折り込み、乾きの面を外にして台所の端に置く。置く場所はいつも同じにする。いつも同じにすることで、目は迷わない。迷わない目で居間へ戻る。
夜が来る。灯りを一段落とす。赤子の寝息は一定に近づき、間の伸びは長くなりすぎない。
椅子の位置を畳の目に合わせ、背を壁につけ、目を閉じない。窓は指の幅で止まっている。外からの匂いは薄い。猫は窓の外の同じ場所にいる。いることだけが、この部屋の形を少し締める。
やかんは見ない。台所のほうから、金具が冷める匂いと、水の薄い匂いが混ざる。冷蔵庫の唸りは低く、途切れない。
深いところで、音が一つ落ちる。流しの内側のどこかで、水が一滴だけ落ち、金属に触れて丸くなる。丸くなった音はすぐに消える。消えたあとに何も増えない。寝息は一定。鈴は鳴らない。
窓を見ず、指の腹に残った金属の冷たさの記憶で、今夜の終わりの位置を知る。椅子の脚を畳からわずかに持ち上げて、音を作らずに戻す。部屋は静かで、歩幅は体の中に戻っている。
赤子は寝具の上で、胸の上下をそろえきれずにいる。
ベビーカーの布を張り、留め具の向きを確かめ、車輪の向きを一度だけ変える。玄関の鍵を胸のポケットに入れ、靴の踵を音を立てずに押し込む。台所でやかんの位置を端へ寄せ、火のつまみが元に戻っているのを指でなぞってから、居間へ戻って赤子を抱き上げる。重さは昨日と同じにはならない。
体の中心が、日ごとに少しずつ変わる。
外に出ると、風は弱い。ベビーカーを押す手に力は要らない。舗装の上に薄い砂があり、車輪が細い音を連れて進む。
角を曲がると、庇の影の端に猫がいる。距離は縮めない。首輪の金具が低い光を受け、毛の面が曇天の白を吸って、表面だけが柔らかく見える。
こちらを見ない。進行方向の先で、私たちの歩幅の拍を一つだけ待ってから、角の向こうへ消える。
その消え方を追わない。押す手の速度だけを均し、赤子の胸の上下の区切りに合わせる。
商店のガラスの前を過ぎる。内側に誰もいない。流し台が磨かれて、金具が細く光るのが見える。光は音を持たず、車輪の細い音だけが進む方向を保証する。電柱の影は短く、曇りのせいで輪郭がたわまない。
信号のない横断歩道で一度止まり、左右の気配を確かめる。風が一段だけ冷える。猫はもう先に行っていて、次の角の手前、植え込みの影に座っている。耳は遠くと近くの両方へ薄く開いて、鈴は鳴らない。
押す手をわずかに下げる。赤子は声を出さない。眠っているのではない。拍の帳尻を合わせているだけだ。
公園に着く。ベンチは乾いている。
座らない。ベビーカーを日陰に寄せ、ブレーキを確かめ、布を少しだけ上に上げる。頬の温度は良い。
ポーチから瓶を出し、手の甲の内側で温度を測る。冷えすぎている。温め直すものはない。
けれど、やかんの細い鳴りの高さを胸の奥で思い出す。あの高さの直前の温度が、吸う口にとってちょうどよかった。
瓶を両の手の内側でゆっくり包み、呼吸と合わせて数拍分だけ温度を移す。吸う口に触れる手前のぬるいが、手の節のあたりでわかる。
赤子は唇を探し、瓶の口を受け取る。吸う音は短くつながる。止まり、また吸う。
背を少し丸め、肩を下げる。公園の遠い方で、子どもの声が一度だけ跳ねて、すぐに静かになる。風が葉を擦る音が低く続く。
猫はフェンスの向こうの植え込みで座っている。
私を見ない。赤子のあたりの空気に耳を置いている。
声は出さない。瓶の角度だけを微調整する。吸ったあとでわずかに空気が入り、喉の奥の通りがよくなる。
手は震えない。震えなさを確かめないまま、拍に入っていく。
吸う量は多くない。ここまでで十分だと判断し、瓶を少し離す。
赤子は短く息を吐き、眠りのほうには行かない。目は薄く閉じたまま、口角がわずかに緩む。
布を戻し、ベビーカーの布をもう一度張り直す。
猫はその間も動かない。距離を保ったまま、私たちの時間に手を入れない。
礼は言わない。公園の入り口の表示と、ベンチの木のささくれを目で一度確認してから、押す手をまた前に出す。
帰り道、気配が一つだけ変わる。
赤子の胸の上下が浅くなり、喉の奥でかすかな鳴りが生まれる前の気配。歩幅の拍を崩さないように、速度を落とし、日陰に入る。
猫は先の角を曲がり、見えなくなる。見えなくなる直前、前脚が地面を柔らかく叩くのが遠くに見える。叩く音は届かない。代わりに胸の拍に、二つの無音が落ちる。
歩を止め、ベンチのない歩道の縁で、ベビーカーを少しだけ傾ける。角度が浅い。もう少し。車輪が沈む手前でとどめ、赤子の肩の下に入れた薄い布の端を指で探る。体の向きをわずかに変える。喉の奥の道が開く。鳴りは生まれずにほどける。
呼吸を一つだけ深くする。
家に戻る。玄関で靴を脱ぎ、ベビーカーを畳み、居間へ入れる。窓は朝のまま指の幅で開いている。金属の桟はさほど冷たくない。赤子を寝具へ移すと、胸の上下は浅く落ち着く。
台所へ行き、やかんを一度だけ持ち上げ、空の軽さだけを確かめてから元に戻す。流しの縁に残った水はない。布巾を開いて乾いた面を上にし、端をそろえる。整った面は、見ているだけで呼吸を低くする。
居間に戻る途中、窓のほうで小さな気配がする。ガラスがわずかに震えるほどではない。
けれど、そこに前脚の置き直しが二度、静かに続いたように感じる。
赤子の喉が浅く動き、次の拍で小さなむせが立つ。
すぐに寝具の角度を変え、背に薄いタオルを足す。頭の位置をわずかに上げ、肩の線を整える。鼻の下の空気の通りが広がる。むせは一度で終わる。終わったことを確かめるほどの時間は要らない。胸の上下は、先より深くなる。
窓へ振り向かない。窓の前にいる気配だけを受け取り、居間の真ん中で膝を折る。膝を折る位置は、赤子の呼吸の拍に合わせた場所にする。
落ち着くと、古いノートを棚の上から取り、居間の隅の小さな机の上に開く。左の真ん中に一行だけ書く。窓、指の幅で、息が合う。書いた行は、説明ではない。今夜も明日の朝も、手がそこへ戻れるように、線の太さと角度を変えずに一行だけ残す。
ペンを閉じ、机の上の紙を重ね直し、角を合わせる。角が揃うと、視線が散らない。散らないことで、赤子の胸の上下がはっきり見える。
午後の終わり、台所の順序を声にしないまま体に通す。換気、授乳、片付け、短い休息。休む場所は椅子。背は壁。目は閉じない。窓は指の幅。鈴は鳴らない。鈴が鳴らないことは、合図がいらないほど拍が整っているということだ。
この解釈を言葉にせず、まな板の縁の乾き具合を指で確かめ、布巾の折り目を一度だけ変える。そのたびに、胸の中の空地が少し広がる。空地が広がりすぎないところで止める。
夕方、玄関のほうで小さな気配が立つ。猫がそこを見ている。見ている気配だけが、廊下の空気の厚みを少し変える。
廊下へ出て、ポストを開ける。紙が二枚。片方は印刷の多い案内で、もう片方は薄い色の封。封には短い言葉と、名前はない。祝いの礼状だとすぐにわかる。
それを声に出さず、机の引き出しの奥へ入れる。入れるとき、紙が木目に軽く触れて、乾いた音が一度だけ立つ。音はすぐに吸い込まれる。
戻ると、猫は廊下の端の影にいる。尾は見えない。鈴は鳴らない。
礼は言わず、靴の向きを直し、玄関の戸の隙間の埃を布で一度だけ拭く。拭いた布は濡れの面を内に折り込み、乾きの面を外にして台所の端に置く。置く場所はいつも同じにする。いつも同じにすることで、目は迷わない。迷わない目で居間へ戻る。
夜が来る。灯りを一段落とす。赤子の寝息は一定に近づき、間の伸びは長くなりすぎない。
椅子の位置を畳の目に合わせ、背を壁につけ、目を閉じない。窓は指の幅で止まっている。外からの匂いは薄い。猫は窓の外の同じ場所にいる。いることだけが、この部屋の形を少し締める。
やかんは見ない。台所のほうから、金具が冷める匂いと、水の薄い匂いが混ざる。冷蔵庫の唸りは低く、途切れない。
深いところで、音が一つ落ちる。流しの内側のどこかで、水が一滴だけ落ち、金属に触れて丸くなる。丸くなった音はすぐに消える。消えたあとに何も増えない。寝息は一定。鈴は鳴らない。
窓を見ず、指の腹に残った金属の冷たさの記憶で、今夜の終わりの位置を知る。椅子の脚を畳からわずかに持ち上げて、音を作らずに戻す。部屋は静かで、歩幅は体の中に戻っている。
