朝の匂いは薄い。窓は指の幅で開いている。金属の桟はまだ冷たく、外の空気が細い筋になって流れ込む。
 赤子は寝具の真ん中で小さく丸まり、胸の上下がゆっくりと合うところを探している。
 耳の奥で、冷蔵庫の低い唸りが夜の名残を押し下げ、台所の金具は黙って光を受けている。やかんに水を入れ、火をつける。青い火は背の低い草の列のように揺れ、やがて金属の胴が内側から細く鳴り始める。

 そのとき、鈴が一度だけ鳴る。昨日と同じ拍で、同じ高さで、同じ短さだ。
 顔を上げる。窓の外、庇の影に、猫がいる。毛は暗い。首輪の金具が光を鈍く返し、耳は外と中の両方へ薄く傾く。こちらを見るというより、部屋の中央に目を置く。
 赤子はまだ眠っている。
 火加減をほんの少し落とす。湯気が立ちのぼる前の、金属が温度を受け取るだけの時間が、台所の中で平らに延びる。

 瓶を用意していると、背のほうで箸立てが小さく触れ合う。肘が棚の角を掠めた気がして、手元を確かめる。棚の上は乾いていて、粉の匂いは漂わない。
 計量のスプーンを水平にし、粉をすり切りに一度だけ通す。やかんの細い鳴りが、糸のように伸びて壁で丸くなる。瓶の口に湯を注ぎ、冷水で外側をぬらし、手の内側で温度を測る。ぬるいに届く手前で指を止める。
 居間から小さな寝返りの気配。猫の耳が一つ、こちらへ寄る。

 赤子を抱き上げるのではなく、寝具の上で少しだけ角度を変える。瓶の口を口元へ近づけると、唇はためらいなく触れ、吸う音が短くつながる。
 吸って、止まり、また吸う。
 肩の力を落とし、膝の角度を調整し、背を壁に軽くあずける。眠気は来ない。音の列を数えるほうが先だ。
 冷蔵庫の唸り、やかんの鳴り、赤子の吸う音、私の呼吸。外のほうでは、舗装の粉の匂いが少し強くなる。朝はゆっくりと部屋へ移る。

 瓶の中の温度がわずかに下がる。
 一度離し、親指と人差し指で乳首の根元を軽く押して、空気を通す。吸う音は再び定まる。台所へ戻り、火を落とす。やかんはもう十分だ。
 つまみを元に戻し、金具を端へ寄せ、濡れた布巾を折り畳んで、乾いた面と濡れた面の境をはっきりさせる。境ができると、胸のあたりの空気が少し軽くなる。
 伸びかけた電源コードを手に取る。束ね、固定し、床に伸びる影の線を短くする。猫は窓辺で座り、体の向きだけわずかに変える。

 椅子に腰を下ろし直した途端、瞼の裏に短い影が広がる。眠るわけにはいかない。
 膝の上で指を一度だけ動かす。動かしている間に、やかんの口から、気配のような湿りがもう一度だけ上がって、すぐに消える。台所の端に置いた鍋の水面が、火にかけないまま光を受けているのが見える。鍋の縁は清潔だ。
 顔を戻し、赤子の胸元に目を置く。吸う、止まる、吸う。壁の時計は見ない。拍だけを聞く。

 浅い眠気の縁で、世界がすこし柔らかくぼやける。
 意識を戻すために立ち上がり、台所へ行く。コンロの上に置きっぱなしの鍋に、火は点いていない。
 湯気の立ちそうな空気が、コンロの周りに薄く溜まる。もし火を点けていたら、と想像が先に動く。そのとき、窓のほうで少し長い鳴きが一つだけ落ちる。急がせる音ではない。戻れ、という方向だけを持っている。
 息を吸い直し、つまみを確認し、何も点いていないことを指で確かめる。
 猫は動かない。鳴きは一度で終わる。戻るべき位置に戻ってきたということだけが、体に入る。
 
 居間に戻り、赤子の寝具の周りに手の届くものがないことを目で確かめる。タオルの角は整い、端の袋は閉じている。床に出た紙片は拾い、机の右手前にまとめる。束ねていなかったコードは、今度は輪にして留める。
 猫はその動きを見ているだけで、近づかない。寝具の境界を越えない。越えないことで、部屋の中心がはっきりする。

 一息ついて、窓辺へ歩く。
 猫は首を動かさない。目は部屋の中央に置いたままだ。毛の表は朝の白で薄く柔らかく見える。そこに手を置きたくなる。ほんの一瞬、妻かもしれない、と心に浮かぶ。喉の奥が細くなる。
 手を上げる。上げたところで止める。止めるつもりで止まらず、わずかに近づく。その刹那、猫は短くシャーと鳴く。高くない。長くもない。境界の音だ。
 指先を引く。引くまでが遅くならないように、呼吸を一つだけ深くする。

 赤子は目を閉じたまま、小さく息を吐く。泣かない。
 窓の桟に触れて、冷たさで手を静かにする。猫の尾は見えない。耳だけが外へ傾き、次いで室内へ戻る。
 礼は言わない。言葉で返さない。代わりに、台所の整頓を始める。瓶の口を洗い、乳首を裏から押して水を通し、湯で戻して立てる。布巾を広げて乾いた面を上にし、濡れた面を内に折り込む。流しの周りの水を拭き、しずくの跡を残さない。換気扇は止めたまま、羽根の灰だけをひと撫でする。指に灰は付かない。付かないのを確認して、手を洗い、よく拭く。
 整えることが、礼になる。

 午前の遅い時間、光の角度が変わる。窓の下に落ちる影の幅が少し狭くなる。
 赤子の胸の上下は変わらず、唇は少しだけ乾き、私は薄く湿らせてから指で触れないように見守る。
 猫はしばらくの間、窓辺の同じ場所にいる。いることが合図になる。
 椅子を静かに引き、腰を下ろす。背を壁につけ、目を閉じない。閉じないことで、眠気が遠のく。家の音は増えない。冷蔵庫の唸りが、低いままゆっくりと流れていく。

 午後、短い風が入る。窓の桟に当たって、細い空気の帯が部屋を斜めに通る。
 赤子は身じろぎし、すぐに落ち着く。
猫はそこで一度だけ尾を見せる。尾の先が柔らかく揺れて、また見えなくなる。
 机の引き出しを開け、散っていた紙を重ね直し、角を合わせる。角が揃うと、視線の行き先が一つ減る。減ったぶん、赤子の胸の上下が大きく見える。
 その大きさを数える。数え終える前に、台所の奥で金具が微かに鳴る。乾いて、すぐに止む。

 夕方、光は低い。床の目地は鈍く光り、影は長くのびる。
 窓の外の猫は、こちらを見ずに立ち上がり、庇の端で一度だけ尾を振る。振りが終わると、体が影に紛れる。行くか、と心に浮かぶ言葉は声にならない。
 追わない。窓の桟に触れて、指先の温度を確かめる。冷たさが朝ほど強くない。強くないぶん、窓をわずかに動かし、指の幅に戻す。外からの匂いが一筋入る。土と、遠い水の匂いが薄く重なる。

 居間の灯りを一段落とす。
 赤子の寝息は一定だ。台所へ行き、火の周りをもう一度見て回る。何も点いていない。布巾は乾きの面を外にして畳んである。瓶は立って光を受けている。床の上の輪になったコードはほどけない。ほどけないことを確かめて、廊下の灯りも落とし、居間へ戻る。
 窓のほうで小さな風が生まれ、鈴が一度だけ触れるように鳴って、すぐにやむ。
 椅子を畳から少し持ち上げて位置を直し、背を壁につけ直す。窓は指の幅で止まる。音は増えない。
 赤子の寝息が、部屋の真ん中に静かに残る。