鍵の金属は乾いていて、ひねると短い音が内側へ沈む。戸を押すと、冷えた空気が背のほうから先に部屋へ馴染む。
電気は点けない。廊下の薄さのまま台所へ行き、手探りで換気扇を止める。羽根は灰を抱えたまま動かず、冷蔵庫の低い唸りだけが家の底を保っている。
窓は指の幅だけ開ける。金属の桟はひやりとして、指先の温度をきちんと奪う。外気が細く入って、土の匂いが薄い線になって台所の真ん中を通る。
赤子は居間の中央、畳の上に置いた簡単な寝具の上で、浅い呼吸を規則にしようとしている。薄い布団の角は私の膝より低い。息はまだ小刻みで、間がそろわない。
台所に戻り、やかんに水を入れて火をつける。青い火は背の低い草の列のように揺れ、やがて金属の胴が温まって、内側から細く鳴る。
ミルクの缶を開ける音は乾いていて、粉は光を持たない。計量のスプーンを一度だけ水平にして、瓶の口から薄く香りが立つ。
湯気が持ち上がる。やかんの細い鳴りが、近くの壁に触れて丸くなる。
やかんを持ち上げ、布巾越しの熱を手の甲で受け止める。瓶に湯を入れ、冷水で外側を少しだけ冷ます。手の内側で温度を測る。ぬるいに届くまでの数拍を呼吸で合わせる。
赤子の声が低く上がる。泣きとは呼べない、薄い抗議のような音。瓶の蓋を回し、畳を静かに渡っていく。足の裏に畳の目が規則を作る。
腕の角度を変えながら、口元に瓶を持っていく。小さな口が探して、触れて、やがて確かめる。吸う音は水の奥で細くつながる。
背を少し丸め、肩の力を落とす。瞼の裏に眠気が寄ってくるが、追い払わない。ただ、拍を数える。
吸う、止まる、吸う。
部屋のすべての音が、その拍に寄って並び替わる。冷蔵庫の唸りが少し低くなり、時計の針は低い音だけを残して進む。窓から外の乾いた匂いがもう一筋入る。
ふいに、遠くの拍をずらすように、鈴が一度だけ鳴った。あわてる音ではない。薄い金属が、風に指で触れられたように短く鳴って、すぐに止む。
目だけを窓へ向ける。庇の影に、暗い毛の塊がある。輪郭は崩れない。耳は内と外の両方へ向けて、尾は見えない。首のあたりで、首輪の金具が灯りを受けて鈍く光る。
声は出さない。手の中の小さな拍を崩さないために、瓶を持つ手だけをもう少し深く支える。
吸う音が途切れる。息が浅く跳ねて、喉の奥で小さな引っかかりが生まれる。
体の角度を一度だけ変える。布団の傾きを少し落とし、背にタオルを薄く足す。拍が戻るまでの間、部屋の音が一段薄くなる。やかんの細い鳴りはもう消え、台所の金具だけが静かに冷めていく。
瓶を離し、開いた口元をそっと閉じる。赤子は鼻で短く息を払って、また吸う。吸ったあと、間が一つ延びる。その延びは良い。
瓶を台所へ運び、流しに置く。水で外側の温度を奪い、内側の残りを捨てる。布巾を絞り、滴がシンクの底で二度丸く跳ねる。火の元を見て、つまみを戻し、やかんを端へ寄せる。道具を端に寄せる行為は、胸の前に薄い空地を作る。
その空地で一度呼吸を深くする。窓は指の幅。金属のひんやりがまだ指先に残っている。外の気配は一定で、遠い舗装の粉の匂いが薄く混ざる。
居間に戻ると、赤子は目を閉じたまま、唇をすこし開いている。頬は温かい。椅子に腰掛け、背を壁につけ、膝を少し開く。頭が重く、瞼の裏にゆっくりした影が広がる。眠らないように指先を動かすが、動きは音を持たない。椅子の脚が畳の目に触れて、心持ち沈む。
私の呼吸の拍と、家の唸りの拍がゆっくりと重なる。顔を上げるとき、首の筋に小さな痛みが走る。わずかに目を閉じる。閉じたまま、耳だけを開ける。
どれほど短い時間だったのか、体が自分の重さを思い出して、薄く目を開ける。窓のほうに視線を向ける。さっきの影が、場所を変えずにいる。
猫だ。
こちらを見ているのではない。部屋の中央を見ている。赤子のほうに耳を向けて、体は動かない。毛は光を吸い、暗さの中で輪郭だけが浮く。
立ち上がらない。椅子から半分だけ腰を浮かせ、呼吸を整える。
赤子の喉が小さく鳴る。浅いむせが一度。次の拍で、窓のほうから短い鳴きが二度、続けて落ちる。高くない、押しつけない音。
椅子から静かに立ち、両手を温かい布で軽く湿らせる。赤子を横向きにわずかに倒し、背を軽く撫で、鼻の下の空気の通りを確かめる。布団の角を指の幅だけずらす。胸の上下が、先ほどよりも深くなる。音が戻る。
浅い吸う、短い止まる、深い吐く。
戻った拍は、さっきよりも長い。
窓の外では、猫が耳を一度、こちらへ寄せる。
礼は言わない。言葉を作るより先に、片付けを始める。瓶の口を洗い、乳首の裏を指の腹でやさしく押して水を通し、湯を落として立てる。
布巾をたたみ直し、台所の端に寄せる。濡れたものと乾いたものの境目を広げない。境目をきちんと作る。作った境目が、部屋の呼吸を一段低くする。
それを見て、台所の灯りを一度消し、すぐ小さく点け直す。光は弱く、手元だけを照らす。
居間へ戻る。赤子の口が小さく開いて、息が通っていく。喉の奥で音は生まれない。
窓の前まで行き、外の影に目を合わせず、桟に触れる。冷たさは均一ではない。上のほうがわずかに乾いて、下のほうに薄い湿りが残る。
その差を指の腹で測り、窓をまた指の幅に合わせ直す。外気が少し入って、布団の角に落ちる。赤子は肩のあたりで一度だけ身を小さく動かし、すぐに緩む。猫は動かない。鈴は鳴らない。
居間の隅にある小さな机の前にしゃがみ、今夜使った道具をそこへ置く。置く角度を揃え、余計なものを積まない。床の目地は磨かれていて、光を弱く返す。返る光は音を持たないが、見る者の手を静かにする。
掌を合わせるみたいに膝の上で手を重ね、肩の高さを下げる。目線を上げると、窓の外にまだ影がある。こちらを見ないまま、そこにいる。そこにいることで、部屋の形がわずかに締まる。
赤子の寝息が、一段整う。寝具の表の皺がひとつ薄く伸びる。
灯りをさらに落とし、廊下と台所に残る細い光の筋だけにする。音は増えない。冷蔵庫の唸りが一拍だけ薄くなり、すぐに戻る。その薄さは、今夜の終わりの合図になる。
椅子を畳からほんの少し持ち上げて位置を直し、背を壁につけ直す。目は閉じない。目を閉じないまま、家の音の並びを確かめる。寝息は一定。鈴は鳴らない。
窓を見ずに、桟の冷たさを指の腹の記憶で思い出す。呼吸が一段低く落ち、家の静けさが定まる。
電気は点けない。廊下の薄さのまま台所へ行き、手探りで換気扇を止める。羽根は灰を抱えたまま動かず、冷蔵庫の低い唸りだけが家の底を保っている。
窓は指の幅だけ開ける。金属の桟はひやりとして、指先の温度をきちんと奪う。外気が細く入って、土の匂いが薄い線になって台所の真ん中を通る。
赤子は居間の中央、畳の上に置いた簡単な寝具の上で、浅い呼吸を規則にしようとしている。薄い布団の角は私の膝より低い。息はまだ小刻みで、間がそろわない。
台所に戻り、やかんに水を入れて火をつける。青い火は背の低い草の列のように揺れ、やがて金属の胴が温まって、内側から細く鳴る。
ミルクの缶を開ける音は乾いていて、粉は光を持たない。計量のスプーンを一度だけ水平にして、瓶の口から薄く香りが立つ。
湯気が持ち上がる。やかんの細い鳴りが、近くの壁に触れて丸くなる。
やかんを持ち上げ、布巾越しの熱を手の甲で受け止める。瓶に湯を入れ、冷水で外側を少しだけ冷ます。手の内側で温度を測る。ぬるいに届くまでの数拍を呼吸で合わせる。
赤子の声が低く上がる。泣きとは呼べない、薄い抗議のような音。瓶の蓋を回し、畳を静かに渡っていく。足の裏に畳の目が規則を作る。
腕の角度を変えながら、口元に瓶を持っていく。小さな口が探して、触れて、やがて確かめる。吸う音は水の奥で細くつながる。
背を少し丸め、肩の力を落とす。瞼の裏に眠気が寄ってくるが、追い払わない。ただ、拍を数える。
吸う、止まる、吸う。
部屋のすべての音が、その拍に寄って並び替わる。冷蔵庫の唸りが少し低くなり、時計の針は低い音だけを残して進む。窓から外の乾いた匂いがもう一筋入る。
ふいに、遠くの拍をずらすように、鈴が一度だけ鳴った。あわてる音ではない。薄い金属が、風に指で触れられたように短く鳴って、すぐに止む。
目だけを窓へ向ける。庇の影に、暗い毛の塊がある。輪郭は崩れない。耳は内と外の両方へ向けて、尾は見えない。首のあたりで、首輪の金具が灯りを受けて鈍く光る。
声は出さない。手の中の小さな拍を崩さないために、瓶を持つ手だけをもう少し深く支える。
吸う音が途切れる。息が浅く跳ねて、喉の奥で小さな引っかかりが生まれる。
体の角度を一度だけ変える。布団の傾きを少し落とし、背にタオルを薄く足す。拍が戻るまでの間、部屋の音が一段薄くなる。やかんの細い鳴りはもう消え、台所の金具だけが静かに冷めていく。
瓶を離し、開いた口元をそっと閉じる。赤子は鼻で短く息を払って、また吸う。吸ったあと、間が一つ延びる。その延びは良い。
瓶を台所へ運び、流しに置く。水で外側の温度を奪い、内側の残りを捨てる。布巾を絞り、滴がシンクの底で二度丸く跳ねる。火の元を見て、つまみを戻し、やかんを端へ寄せる。道具を端に寄せる行為は、胸の前に薄い空地を作る。
その空地で一度呼吸を深くする。窓は指の幅。金属のひんやりがまだ指先に残っている。外の気配は一定で、遠い舗装の粉の匂いが薄く混ざる。
居間に戻ると、赤子は目を閉じたまま、唇をすこし開いている。頬は温かい。椅子に腰掛け、背を壁につけ、膝を少し開く。頭が重く、瞼の裏にゆっくりした影が広がる。眠らないように指先を動かすが、動きは音を持たない。椅子の脚が畳の目に触れて、心持ち沈む。
私の呼吸の拍と、家の唸りの拍がゆっくりと重なる。顔を上げるとき、首の筋に小さな痛みが走る。わずかに目を閉じる。閉じたまま、耳だけを開ける。
どれほど短い時間だったのか、体が自分の重さを思い出して、薄く目を開ける。窓のほうに視線を向ける。さっきの影が、場所を変えずにいる。
猫だ。
こちらを見ているのではない。部屋の中央を見ている。赤子のほうに耳を向けて、体は動かない。毛は光を吸い、暗さの中で輪郭だけが浮く。
立ち上がらない。椅子から半分だけ腰を浮かせ、呼吸を整える。
赤子の喉が小さく鳴る。浅いむせが一度。次の拍で、窓のほうから短い鳴きが二度、続けて落ちる。高くない、押しつけない音。
椅子から静かに立ち、両手を温かい布で軽く湿らせる。赤子を横向きにわずかに倒し、背を軽く撫で、鼻の下の空気の通りを確かめる。布団の角を指の幅だけずらす。胸の上下が、先ほどよりも深くなる。音が戻る。
浅い吸う、短い止まる、深い吐く。
戻った拍は、さっきよりも長い。
窓の外では、猫が耳を一度、こちらへ寄せる。
礼は言わない。言葉を作るより先に、片付けを始める。瓶の口を洗い、乳首の裏を指の腹でやさしく押して水を通し、湯を落として立てる。
布巾をたたみ直し、台所の端に寄せる。濡れたものと乾いたものの境目を広げない。境目をきちんと作る。作った境目が、部屋の呼吸を一段低くする。
それを見て、台所の灯りを一度消し、すぐ小さく点け直す。光は弱く、手元だけを照らす。
居間へ戻る。赤子の口が小さく開いて、息が通っていく。喉の奥で音は生まれない。
窓の前まで行き、外の影に目を合わせず、桟に触れる。冷たさは均一ではない。上のほうがわずかに乾いて、下のほうに薄い湿りが残る。
その差を指の腹で測り、窓をまた指の幅に合わせ直す。外気が少し入って、布団の角に落ちる。赤子は肩のあたりで一度だけ身を小さく動かし、すぐに緩む。猫は動かない。鈴は鳴らない。
居間の隅にある小さな机の前にしゃがみ、今夜使った道具をそこへ置く。置く角度を揃え、余計なものを積まない。床の目地は磨かれていて、光を弱く返す。返る光は音を持たないが、見る者の手を静かにする。
掌を合わせるみたいに膝の上で手を重ね、肩の高さを下げる。目線を上げると、窓の外にまだ影がある。こちらを見ないまま、そこにいる。そこにいることで、部屋の形がわずかに締まる。
赤子の寝息が、一段整う。寝具の表の皺がひとつ薄く伸びる。
灯りをさらに落とし、廊下と台所に残る細い光の筋だけにする。音は増えない。冷蔵庫の唸りが一拍だけ薄くなり、すぐに戻る。その薄さは、今夜の終わりの合図になる。
椅子を畳からほんの少し持ち上げて位置を直し、背を壁につけ直す。目は閉じない。目を閉じないまま、家の音の並びを確かめる。寝息は一定。鈴は鳴らない。
窓を見ずに、桟の冷たさを指の腹の記憶で思い出す。呼吸が一段低く落ち、家の静けさが定まる。
