***
次の日の朝、いつもフレッドが顔を出す時間になっても、その姿が現れる気配がない。不思議に思いながら一人で食堂に向かってみてもその姿はない。厨房に顔を出してもシーズとルエが居るだけで、フレッドの姿はない。
「おはようございます、お嬢様」
「おはよう。えっと、フレッドがどこに居るか知らない?」
「そういえば今朝はフレッドさんのことは見ていませんね」
「僕も今日はフレッドさんと一度も顔を合わせていないかもです」
二人の言葉に胸の奥がザワザワと嫌な音を立て始める。
大人しく待つこともできないままルエにフレッドの部屋の場所を聞くと、アンリは厨房を出る。足早に階段を登り使用人達の部屋が並ぶ三階に初めて足を踏み入れると、フレッドの部屋に真っ直ぐに向かう。
ドアをコンコンと遠慮がちにノックしてみるが、いくら待ってみても返事が無い。勝手に人の部屋のドアを開けても良いのかと悩むも、仕方ないと言い聞かせてドアを開ける。
フレッドの部屋は机とベッドがあるだけで、とてもシンプルな部屋だった。だが、結局肝心のフレッドは居ない。布団はピシッと整えられて皺一つない。まるでこの部屋で初めから誰も生活していなかったかのように。
その後、書庫にも顔を出してみたがやはり誰も居ない。一階、二階と全ての部屋を回ってみたり、ワインセラーや食料保管庫のある地下にも行ってみたが、やはりどこにも姿が見当たらない。途中ですれ違うメイド達に聞いても誰一人、フレッドの行方を知る人は居なかった。
これまでずっと側に居たはずなのに、私はフレッドのことをほとんど知らない。それはフレッドが聞き上手でいつも私の話を聞いてくれるあまり、彼の話を聞けていなかったからだ。
唯一、心当たりがあるとすれば昨日のお母様とフレッドがしていた会話だ。どうしてあの時、最後まで話を聞いておかなかったのだろう。
いくら後悔しても時間は戻ってくれない。俯いていた顔を上げるとアンリは急いでお父様とお母様の書斎に歩みを進めた。
ノックを忘れてドアを開けると、普段は基本的に二人で一緒の空間に居ることが多いにも関わらず、今日はお父様の姿が見えない。お母様が一人、椅子に座り頭を抱え、ディルベーネがお母様の背中に手を当てている。
いつも笑っているお母様のそんな姿を見るのは初めてで、声を掛けても良いものかと迷っているうちにお母様はアンリの存在に気がついた。
「お母様、私聞きたいことが…」
「アンリ、外の空気が吸いたいわ。付き合ってくれる?」
「え、うん…」
まるでアンリの疑問を遮るように言ったお母様は椅子から立ち上がると、ディルべーネに振り返る。
「ディルベーネ、貴方はここに居てちょうだい」
「ですが奥様…」
「私なら大丈夫よ」
「…かしこまりました。ではこちらでお待ちしています」
お母様はどこか重たい足取りで部屋を出て行く。
それ以降、何も話そうとしないお母様の一歩後ろを着いて歩くと、お母様が向かったのはアンリが毎朝の様に訪れているバルコニーだった。
外に出るとお母様は大きな深呼吸を一つ、こぼす。
「それでお母様…」
「聞きたいことって言うのはあの子、フレッドのことでしょう?」
「え?うん、どこを探してもフレッドが居ないの」
そう言うと驚く表情を一切見せず、まるで事情を知ってるのか「ごめんなさい」とお母様はただ謝る。どうして謝るのか、お母様は何を知っているのか、アンリには見当もつかない。
「フレッドが居なくなってしまったのは、私のせいかもしれないわ」
「それって昨日、お母様がフレッドと二人で話していたことと関係があるの?」
「あら、聞いていたの?」
「偶然廊下を通り掛かった時にお母様とフレッドが話しているのが聞こえてしまったの。でも全部は聞いていなくて…、お母様が爵位がどうのって話しているのだけ…」
「…そうね。こうなってしまった以上、貴方にも話しておかないといけないわね」
「話すって…、何を?」
「あの子と私達の過去の話よ」
「それが今、フレッドが居なくなってしまったことに関係があるの?」
「えぇ、おそらく」
「お願いお母様、聞かせてちょうだい」
そしてお母様から聞かされた過去というのは、アンリの想像をはるかに超えた内容のモノだった。
「私には昔、姉がいたの。とても優秀で、それでいて誰に対しても優しい人だった。だから自然と誰からも好かれていたの」
「…どうして過去形で話すの?」
「私の姉は十年前、屋敷の火事で亡くなったのよ」
「え…」
「その火事で亡くなったのは姉夫婦と屋敷に仕えていた人達の大半よ。姉夫婦のお屋敷が建っていたのは、この辺りと違ってかなり田舎の地方だったの。だから火事だと気がついても、まともな消火活動なんてすぐにはできなかった。私は姉が亡くなったという知らせを受けてお父様と共に姉の住んでいた地方まで向かったわ。そして悲しんでいる暇もなく、彼女たちのお葬式に参列した。周りには姉夫婦と親交が深かった大勢の参列客がいて、皆揃って涙を流していたわ。…だけどね、ただ一人、まだ五歳になったばかりの幼い男の子は涙を押し殺していた。その男の子のことは、顔を合わせたことが無くてもすぐに姉のご子息だと分かったわ。…貴方もここまで聞けば、その男の子が誰か想像がつくでしょう?」
「…その男の子がフレッド…なの?」
「えぇ、そうよ。あの子の静かに震える背中を見たとき、あの子のことは姉に変わって私達がしっかりと育てると誓ったの」
「…え、でもお母様のお姉様ってことはフレッドも貴族の息子でしょう?だけど今のフレッドは…」
フレッドはアンリの側で仕えてくれている。初めてこの世界で目を覚ましたとき、フレッドはアンリのお世話をメインにしている執事だと確かに名乗っていた。
「えぇそうね。…お葬式が終わった後、私達はあの子に話しかけたの。そしたらそれまで黙っていた彼は静かに『父上や母上が亡くなったのは僕を助けたからです。僕が居なければ二人とも助かっていたのに』と言ったの…。だけどきっと姉夫婦からしてみればあの子だけでも生き残ってくれたこと、喜んでいるはずよ。そんな風に言ってみても小さな彼は一向に話なんて聞こうとしてくれない。それどころかあの子は、これからはオーリン家の使用人として働かせて下さいって言い出すの」
十年前と言うことはアンリですら、まだ六歳だ。今に比べて背も低く、体も小さな幼いフレッドが一度に両親や使用人を亡くし、子供らしく泣き喚くわけでもなく、ただ一人お葬式でお母様やお父様にそんなことを言っている姿を想像すると、胸が締め付けられるように苦しくなる。
「もちろん初めは断ったし、お父様もあの子には貴族教育をアンリと共に受けさせようとしたわ。だけどあの子は自分の決めた信念は絶対に曲げない性格だから、私達の話も聞かずに洗濯やら掃除、料理までしようとした。そんな姿に私達は彼の気が済むまで、好きな様にさせようと決めたの。その代わり、子供が家事をこなすのは危ないことも多くあったし、アンリのことをお願いしたの。とは言っても、アンリの遊び相手になってくれれば良い、それ位にしか考えていなかったわ。…だけどあの子は貴方の執事として貴方に関わるようになった。でもそれを本人も望んでいるようだったし、火事であの子が受けたショックは私達も計りきれないわ。だからこそ、強引に止めることが出来なかったの」
「じゃあ昨日の話は…?」
「アンリはこの国の貴族制度、特に爵位の受け継ぎについて知っているかしら」
「ううん、分からない」
「この国ではね、学園に入学できる年齢にならないと爵位を受け継ぐことができないの。だけどあの子も来年になれば爵位を受け継ぐことができる。何よりあの子は昔から勉強することが好きだったし、私達は当然爵位を継いでアンリと同じ学園に入学すると思っていたの。その件で昨日はあの子を呼んだのだけど、あの子は学園には入学しないし、爵位も放棄すると言ってきて…。理由を聞いても詳しくは教えてくれなかったけど、やはり火事のことを今でも引きずってしまっているみたい。それでももう一度考え直して欲しいと伝えたのだけど…、あの子には負担を感じさせてしまったのかもしれないわ」
「どうして今まで教えてくれなかったの…?」
「あの子に口外しないように言われていたの。それを正直に守っていた私達が正しかったのかと聞かれたら、私にも分からないわ。ごめんなさいね、アンリにもこうして迷惑を掛ける形になってしまって…」
今までお母様がフレッドに向けていた表情や言葉が、ただの使用人に向けるモノではないと違和感を感じることがあった。特に舞踏会が終わってアンリとフレッドが二人で踊っていた時や、昨日フレッドと二人で朝食を取っていた時もそう。アンリとフレッドが仲良くしていると、お母様はいつも頬を緩め、嬉しそうにしていた。
きっとお母様やお父様はフレッドにのびのびと自由に過ごして欲しかったんだ。それでもフレッド本人の意思を尊重するとなると、二人にとっても色々と難しかったのだろう。
「ねぇお母様、フレッドの過去を知っているのはお母様とお父様だけなの?」
「いいえ、あの時お葬式に一緒に参列していたディルベーネやジーヤは全て知っているわ」
「そうだったんだ…。お母様、私はどうすれば良い?」
「私にも分からないわ。今、お父様が色々な場所に掛け合ってくれているけど、あの子には身寄りも他にないはずだし、どこに居るのか見当も付かない…」
「そう…」
「でももしあの子が帰ってきたら、貴方はあの子の側に居てあげてね」
その日は一日、屋敷の中でいつものように喋り声や笑い声が響くことはなかった。みんな口には出さないが、当たり前の様に毎日一緒に過ごしていた人の消失にそれぞれ思うことがあるのだ。
アンリも一日、フレッドがいつ帰ってきても良いように玄関の前に座り込んでフレッドの帰りを待ち続けた。時々、時間が空いたルエが横に並んで一緒にフレッドの帰りを待ってくれたりもしたが、肝心の彼が帰ることはなかった。
次の日は学園を休み、フレッドの手掛かりを探すため、ほとんど眠っていない体のまま街中を歩き回った。だがそれまで一人で外を出歩くことのなかったアンリには土地勘があるわけじゃない。なにより方向音痴のアンリには遠くまで行くこともできないまま、収穫はゼロだった。
そしてフレッドが居なくなって三日目。こんな状態で呑気に学園に行く気にはなれず、今日も昨日に続き自主休講した。そのことについてお母様やお父様は何も言わない。むしろ、ほとんど食事や睡眠を取ろうとしないアンリを心配しているようだった。
今日も何ができるわけでもなく、ただ玄関の前で丸くなって座る。
さすがにこれだけ寝ていないと昼間でも眠くなってくる。眠気に負けてウトウトと首を振っていると、突然扉が開く。そんな音に一瞬で目が覚めて、目の前に立つシンプルなシャツにジャケット姿の人物の顔を見ると泣きそうになる。
「うそ、本物…?」
「もちろん本物ですよ。…それより、どうしてこんな所に座り込んでいるのですか?」
「そんなの、貴方をずっと待っていたから…」
「申し訳ありません。急に姿を消してしまい…」
「ううん、戻ってきてくれてありがとう」
「私はダメですね。アンリ様にそのような表情をさせてしまうなんて…」
「そんなことないよ」
この三日間、ずっと溢れ出しそうになっていた涙が堰を切ったように溢れ出す。ずっとずっと会いたくて、顔を見たくて、一緒に喋って笑いたかった人が目の前に帰ってきた。
涙なんて拭わずに、目の前に立つフレッドをもう二度と離さないように力強く抱きしめる。
「アンリ様…?」
「私、お母様からフレッドの過去のこと聞いたの」
「そうですか…。今まで迷惑を掛けないようにと、黙ってもらっていたのですが…」
「話してよ」
「え…?」
「勝手に私の迷惑になるだなんて、決めつけないで」
「アンリ様…?」
「私、この三日間ずっと後悔してた。今まで私は自分の話ばっかりで、ろくにフレッドのことを知らなかったんだって。私はあんなにも貴方に助けてもらっていたのに…」
涙声で声を震わしながら、この三日間ずっと後悔していたことを話すと、黙って聞いていたフレッドはアンリの頭に手を乗せて、ゆっくりとアンリの頭を優しく撫でる。
「ごめんなさい。私の勝手なエゴでアンリ様を巻き込まないようにと思っていたのですが、そのエゴが逆にアンリ様を苦しめていたのですね…」
「ねぇ、フレッドも来年から学園に通えるのでしょう?」
「えぇ、一応。そうですね」
「じゃあ一緒に通おうよ。フレッドは勉強するのが好きなんでしょう?」
「ですが私には執事としてのお仕事が…」
「私は執事としてフレッドに側に居て欲しいわけじゃないんだよ?ただ、側で一緒に笑っていたいの。それに貴方の将来を私のために諦めるなんて言って欲しくない!なによりフレッドが爵位を継いで学園に通ってこそ、出来ることだってあるでしょう?」
フレッドはアンリがそこまで言うと押し黙った。そしてしばらく何かを考えるように宙を見つめた後、一つ深呼吸すると再びアンリに向き直った。
「一度、旦那様や奥様と話をしてきます。三日間、屋敷を空けてしまったことも謝らなければなりませんし」
「うん、二人とも心配してたから会ってあげて」
抱きしめていた腕を名残惜しくも放すと、フレッドはアンリに一度お礼を言うと早足にお父様達のいる部屋に向かっていった。
どれくらいの時間が経っただろうか。アンリが自室でフレッドの帰りを待っていると、しばらくして顔を出したフレッドの表情は明るかった。
次の日の朝、いつもフレッドが顔を出す時間になっても、その姿が現れる気配がない。不思議に思いながら一人で食堂に向かってみてもその姿はない。厨房に顔を出してもシーズとルエが居るだけで、フレッドの姿はない。
「おはようございます、お嬢様」
「おはよう。えっと、フレッドがどこに居るか知らない?」
「そういえば今朝はフレッドさんのことは見ていませんね」
「僕も今日はフレッドさんと一度も顔を合わせていないかもです」
二人の言葉に胸の奥がザワザワと嫌な音を立て始める。
大人しく待つこともできないままルエにフレッドの部屋の場所を聞くと、アンリは厨房を出る。足早に階段を登り使用人達の部屋が並ぶ三階に初めて足を踏み入れると、フレッドの部屋に真っ直ぐに向かう。
ドアをコンコンと遠慮がちにノックしてみるが、いくら待ってみても返事が無い。勝手に人の部屋のドアを開けても良いのかと悩むも、仕方ないと言い聞かせてドアを開ける。
フレッドの部屋は机とベッドがあるだけで、とてもシンプルな部屋だった。だが、結局肝心のフレッドは居ない。布団はピシッと整えられて皺一つない。まるでこの部屋で初めから誰も生活していなかったかのように。
その後、書庫にも顔を出してみたがやはり誰も居ない。一階、二階と全ての部屋を回ってみたり、ワインセラーや食料保管庫のある地下にも行ってみたが、やはりどこにも姿が見当たらない。途中ですれ違うメイド達に聞いても誰一人、フレッドの行方を知る人は居なかった。
これまでずっと側に居たはずなのに、私はフレッドのことをほとんど知らない。それはフレッドが聞き上手でいつも私の話を聞いてくれるあまり、彼の話を聞けていなかったからだ。
唯一、心当たりがあるとすれば昨日のお母様とフレッドがしていた会話だ。どうしてあの時、最後まで話を聞いておかなかったのだろう。
いくら後悔しても時間は戻ってくれない。俯いていた顔を上げるとアンリは急いでお父様とお母様の書斎に歩みを進めた。
ノックを忘れてドアを開けると、普段は基本的に二人で一緒の空間に居ることが多いにも関わらず、今日はお父様の姿が見えない。お母様が一人、椅子に座り頭を抱え、ディルベーネがお母様の背中に手を当てている。
いつも笑っているお母様のそんな姿を見るのは初めてで、声を掛けても良いものかと迷っているうちにお母様はアンリの存在に気がついた。
「お母様、私聞きたいことが…」
「アンリ、外の空気が吸いたいわ。付き合ってくれる?」
「え、うん…」
まるでアンリの疑問を遮るように言ったお母様は椅子から立ち上がると、ディルべーネに振り返る。
「ディルベーネ、貴方はここに居てちょうだい」
「ですが奥様…」
「私なら大丈夫よ」
「…かしこまりました。ではこちらでお待ちしています」
お母様はどこか重たい足取りで部屋を出て行く。
それ以降、何も話そうとしないお母様の一歩後ろを着いて歩くと、お母様が向かったのはアンリが毎朝の様に訪れているバルコニーだった。
外に出るとお母様は大きな深呼吸を一つ、こぼす。
「それでお母様…」
「聞きたいことって言うのはあの子、フレッドのことでしょう?」
「え?うん、どこを探してもフレッドが居ないの」
そう言うと驚く表情を一切見せず、まるで事情を知ってるのか「ごめんなさい」とお母様はただ謝る。どうして謝るのか、お母様は何を知っているのか、アンリには見当もつかない。
「フレッドが居なくなってしまったのは、私のせいかもしれないわ」
「それって昨日、お母様がフレッドと二人で話していたことと関係があるの?」
「あら、聞いていたの?」
「偶然廊下を通り掛かった時にお母様とフレッドが話しているのが聞こえてしまったの。でも全部は聞いていなくて…、お母様が爵位がどうのって話しているのだけ…」
「…そうね。こうなってしまった以上、貴方にも話しておかないといけないわね」
「話すって…、何を?」
「あの子と私達の過去の話よ」
「それが今、フレッドが居なくなってしまったことに関係があるの?」
「えぇ、おそらく」
「お願いお母様、聞かせてちょうだい」
そしてお母様から聞かされた過去というのは、アンリの想像をはるかに超えた内容のモノだった。
「私には昔、姉がいたの。とても優秀で、それでいて誰に対しても優しい人だった。だから自然と誰からも好かれていたの」
「…どうして過去形で話すの?」
「私の姉は十年前、屋敷の火事で亡くなったのよ」
「え…」
「その火事で亡くなったのは姉夫婦と屋敷に仕えていた人達の大半よ。姉夫婦のお屋敷が建っていたのは、この辺りと違ってかなり田舎の地方だったの。だから火事だと気がついても、まともな消火活動なんてすぐにはできなかった。私は姉が亡くなったという知らせを受けてお父様と共に姉の住んでいた地方まで向かったわ。そして悲しんでいる暇もなく、彼女たちのお葬式に参列した。周りには姉夫婦と親交が深かった大勢の参列客がいて、皆揃って涙を流していたわ。…だけどね、ただ一人、まだ五歳になったばかりの幼い男の子は涙を押し殺していた。その男の子のことは、顔を合わせたことが無くてもすぐに姉のご子息だと分かったわ。…貴方もここまで聞けば、その男の子が誰か想像がつくでしょう?」
「…その男の子がフレッド…なの?」
「えぇ、そうよ。あの子の静かに震える背中を見たとき、あの子のことは姉に変わって私達がしっかりと育てると誓ったの」
「…え、でもお母様のお姉様ってことはフレッドも貴族の息子でしょう?だけど今のフレッドは…」
フレッドはアンリの側で仕えてくれている。初めてこの世界で目を覚ましたとき、フレッドはアンリのお世話をメインにしている執事だと確かに名乗っていた。
「えぇそうね。…お葬式が終わった後、私達はあの子に話しかけたの。そしたらそれまで黙っていた彼は静かに『父上や母上が亡くなったのは僕を助けたからです。僕が居なければ二人とも助かっていたのに』と言ったの…。だけどきっと姉夫婦からしてみればあの子だけでも生き残ってくれたこと、喜んでいるはずよ。そんな風に言ってみても小さな彼は一向に話なんて聞こうとしてくれない。それどころかあの子は、これからはオーリン家の使用人として働かせて下さいって言い出すの」
十年前と言うことはアンリですら、まだ六歳だ。今に比べて背も低く、体も小さな幼いフレッドが一度に両親や使用人を亡くし、子供らしく泣き喚くわけでもなく、ただ一人お葬式でお母様やお父様にそんなことを言っている姿を想像すると、胸が締め付けられるように苦しくなる。
「もちろん初めは断ったし、お父様もあの子には貴族教育をアンリと共に受けさせようとしたわ。だけどあの子は自分の決めた信念は絶対に曲げない性格だから、私達の話も聞かずに洗濯やら掃除、料理までしようとした。そんな姿に私達は彼の気が済むまで、好きな様にさせようと決めたの。その代わり、子供が家事をこなすのは危ないことも多くあったし、アンリのことをお願いしたの。とは言っても、アンリの遊び相手になってくれれば良い、それ位にしか考えていなかったわ。…だけどあの子は貴方の執事として貴方に関わるようになった。でもそれを本人も望んでいるようだったし、火事であの子が受けたショックは私達も計りきれないわ。だからこそ、強引に止めることが出来なかったの」
「じゃあ昨日の話は…?」
「アンリはこの国の貴族制度、特に爵位の受け継ぎについて知っているかしら」
「ううん、分からない」
「この国ではね、学園に入学できる年齢にならないと爵位を受け継ぐことができないの。だけどあの子も来年になれば爵位を受け継ぐことができる。何よりあの子は昔から勉強することが好きだったし、私達は当然爵位を継いでアンリと同じ学園に入学すると思っていたの。その件で昨日はあの子を呼んだのだけど、あの子は学園には入学しないし、爵位も放棄すると言ってきて…。理由を聞いても詳しくは教えてくれなかったけど、やはり火事のことを今でも引きずってしまっているみたい。それでももう一度考え直して欲しいと伝えたのだけど…、あの子には負担を感じさせてしまったのかもしれないわ」
「どうして今まで教えてくれなかったの…?」
「あの子に口外しないように言われていたの。それを正直に守っていた私達が正しかったのかと聞かれたら、私にも分からないわ。ごめんなさいね、アンリにもこうして迷惑を掛ける形になってしまって…」
今までお母様がフレッドに向けていた表情や言葉が、ただの使用人に向けるモノではないと違和感を感じることがあった。特に舞踏会が終わってアンリとフレッドが二人で踊っていた時や、昨日フレッドと二人で朝食を取っていた時もそう。アンリとフレッドが仲良くしていると、お母様はいつも頬を緩め、嬉しそうにしていた。
きっとお母様やお父様はフレッドにのびのびと自由に過ごして欲しかったんだ。それでもフレッド本人の意思を尊重するとなると、二人にとっても色々と難しかったのだろう。
「ねぇお母様、フレッドの過去を知っているのはお母様とお父様だけなの?」
「いいえ、あの時お葬式に一緒に参列していたディルベーネやジーヤは全て知っているわ」
「そうだったんだ…。お母様、私はどうすれば良い?」
「私にも分からないわ。今、お父様が色々な場所に掛け合ってくれているけど、あの子には身寄りも他にないはずだし、どこに居るのか見当も付かない…」
「そう…」
「でももしあの子が帰ってきたら、貴方はあの子の側に居てあげてね」
その日は一日、屋敷の中でいつものように喋り声や笑い声が響くことはなかった。みんな口には出さないが、当たり前の様に毎日一緒に過ごしていた人の消失にそれぞれ思うことがあるのだ。
アンリも一日、フレッドがいつ帰ってきても良いように玄関の前に座り込んでフレッドの帰りを待ち続けた。時々、時間が空いたルエが横に並んで一緒にフレッドの帰りを待ってくれたりもしたが、肝心の彼が帰ることはなかった。
次の日は学園を休み、フレッドの手掛かりを探すため、ほとんど眠っていない体のまま街中を歩き回った。だがそれまで一人で外を出歩くことのなかったアンリには土地勘があるわけじゃない。なにより方向音痴のアンリには遠くまで行くこともできないまま、収穫はゼロだった。
そしてフレッドが居なくなって三日目。こんな状態で呑気に学園に行く気にはなれず、今日も昨日に続き自主休講した。そのことについてお母様やお父様は何も言わない。むしろ、ほとんど食事や睡眠を取ろうとしないアンリを心配しているようだった。
今日も何ができるわけでもなく、ただ玄関の前で丸くなって座る。
さすがにこれだけ寝ていないと昼間でも眠くなってくる。眠気に負けてウトウトと首を振っていると、突然扉が開く。そんな音に一瞬で目が覚めて、目の前に立つシンプルなシャツにジャケット姿の人物の顔を見ると泣きそうになる。
「うそ、本物…?」
「もちろん本物ですよ。…それより、どうしてこんな所に座り込んでいるのですか?」
「そんなの、貴方をずっと待っていたから…」
「申し訳ありません。急に姿を消してしまい…」
「ううん、戻ってきてくれてありがとう」
「私はダメですね。アンリ様にそのような表情をさせてしまうなんて…」
「そんなことないよ」
この三日間、ずっと溢れ出しそうになっていた涙が堰を切ったように溢れ出す。ずっとずっと会いたくて、顔を見たくて、一緒に喋って笑いたかった人が目の前に帰ってきた。
涙なんて拭わずに、目の前に立つフレッドをもう二度と離さないように力強く抱きしめる。
「アンリ様…?」
「私、お母様からフレッドの過去のこと聞いたの」
「そうですか…。今まで迷惑を掛けないようにと、黙ってもらっていたのですが…」
「話してよ」
「え…?」
「勝手に私の迷惑になるだなんて、決めつけないで」
「アンリ様…?」
「私、この三日間ずっと後悔してた。今まで私は自分の話ばっかりで、ろくにフレッドのことを知らなかったんだって。私はあんなにも貴方に助けてもらっていたのに…」
涙声で声を震わしながら、この三日間ずっと後悔していたことを話すと、黙って聞いていたフレッドはアンリの頭に手を乗せて、ゆっくりとアンリの頭を優しく撫でる。
「ごめんなさい。私の勝手なエゴでアンリ様を巻き込まないようにと思っていたのですが、そのエゴが逆にアンリ様を苦しめていたのですね…」
「ねぇ、フレッドも来年から学園に通えるのでしょう?」
「えぇ、一応。そうですね」
「じゃあ一緒に通おうよ。フレッドは勉強するのが好きなんでしょう?」
「ですが私には執事としてのお仕事が…」
「私は執事としてフレッドに側に居て欲しいわけじゃないんだよ?ただ、側で一緒に笑っていたいの。それに貴方の将来を私のために諦めるなんて言って欲しくない!なによりフレッドが爵位を継いで学園に通ってこそ、出来ることだってあるでしょう?」
フレッドはアンリがそこまで言うと押し黙った。そしてしばらく何かを考えるように宙を見つめた後、一つ深呼吸すると再びアンリに向き直った。
「一度、旦那様や奥様と話をしてきます。三日間、屋敷を空けてしまったことも謝らなければなりませんし」
「うん、二人とも心配してたから会ってあげて」
抱きしめていた腕を名残惜しくも放すと、フレッドはアンリに一度お礼を言うと早足にお父様達のいる部屋に向かっていった。
どれくらいの時間が経っただろうか。アンリが自室でフレッドの帰りを待っていると、しばらくして顔を出したフレッドの表情は明るかった。

