伯爵令嬢になった世界では大切な人に囲まれ毎日が輝く1

「ザックくん」

 皆が寝静まった後、ぼんやりとした光を頼りに読書している時だった。それまで一定の間隔で寝息が聞こえるだけの静かな空間に小さく、それでも確かに名前が呼ばれた。
 まるで心臓が飛び出るのではないかと思うほどの驚きを覚えながらも平静を装って声の聞こえた方向に視線を向けると、そこには枕を抱きしめるアンリが立っていた。

 怖い夢を見たと言うアンリにはひとまず座っているように促し、お茶を淹れるために本を置いて立ち上がる。

 それにしても、先程からアンリは無理に話題を見つけては話を続けようとする。まるで無言の時間を怖がるように。
 余程怖い夢だったのだろうか。先程、席を立つときに一瞬目に入ったアンリの目元には薄らと涙が溜まっていたように見えた。

 しばらく話をしていると詳しくは話そうとしないが、大まかな夢の内容を打ち明けてくれた。それを聞いただけで、これだけ怯えてしまうのが納得できてしまう嫌な夢だ。

「うん…。その夢はもちろん怖かったし、何より世界に私の味方は誰一人居ないんじゃないかって…」

 そう言いながら、アンリは枕を抱きしめる力を無意識に強める。

 ザックはアンリを大して知っているわけではない。これまで社交界に出ることのなかったアンリのことを噂で聞くことがあっても、どれも噂が一人歩きしているようで、実際にどんな人物なのかを知る機会はなかった。

 学園に入学しアンリと実際に関わるようになって、アンリの幼馴染であるクイニーや学園内で常に行動を共にするミンスに比べたら、まだまだ知らないことだらけだが、それでも彼女が努力家の頑張り屋で、今まで見てきた誰よりも優しい人だというのは、一緒に関わっていれば自ずと分かることだ。そしてその優しさ故に、時に自己犠牲に走る恐れがあるということも。

 それにアンリがどんな幼少期を過ごし成長し、何を思い、何を感じ、何を考えながら生きてきたのか、出会って一ヶ月と少ししか経っていないザックには知ることも想像することもできない。だが、それでも分かることはある。

「…じゃあアンリ様は今もこの世界に独りぼっちだと感じるか?」
「ううん。だって今はザックくんが居てくれるから」
「そうか、それなら良かった」
「それにクイニーやミンスくん、屋敷に帰ればお父様にお母様、フレッドやルエも居るもん」
「あぁ、アンリ様には味方がたくさん居る。楽しいことを共有するのはもちろん、怖い想いをしている時に守るのも私達の役目だ」
「私、いっつも守られてばかりだね」
「そんなことはない。みんな、いつもアンリ様には助けられている」
「でも私、何もしてないよ?」
「何か特別なことをしなくても、そこに居てくれる。それだけで大きな支えになってくれていることもあるんだよ」
「そっか、それなら良いな。私にはみんなを物理的に守れる力はないから」

 そう言いながら枕を抱えていた腕の力を緩めると安心したのか、ようやく強張っていた体の力も抜けたようだ。

 だが、それでも一人で眠るのは怖いのか、ソファーで睡眠を取ろうとする。さすがにご令嬢をこんな場所で寝かせるわけにいかないが、それを断ると今度は寝室の明かりを付けて眠ると言い出す。だがどちらにしても、疲れは十分に取れないだろう。
 なんて、普段あまり睡眠を好んで取ろうとしない私に言われても、説得力は皆無かも知れないが。

「仕方ない。今日は特別に寝かしつけてやるか。それなら怖くないだろう?」

 本来ならいくら寝かしつけるだけとはいっても、同じ寝室に男女がいるのは好ましい状況ではないのは分かっている。だが、このままではアンリは大人しく眠ってくれないだろう。それにあくまでアンリが眠りにつくまでだ。

 暗闇の中、アンリが布団に入ったことを確認すると邪魔にならない程度の場所に腰掛ける。

「ザックくん、ちゃんと居る?」

 ようやく目が慣れてきた頃、少し不安そうな声を出すアンリを見るとザックがどこに居るのか分かっていないのか、キョロキョロと辺りを見渡している。

「あぁ、ここに居る。…まだ目が慣れないのか?」
「うん。お願いだから、私が眠るまでどこにも行かないでね」
「分かっている。ほら、ゆっくりと目をつぶって」
「…ねぇ、背中トントンして欲しい」
「背中?ほんとアンリ様はミンスにそっくりだな」

 ほんと、ミンスにそっくりだ。
 幼馴染だったミンスとは互いの屋敷が近かったこともあり、幼い頃から二人で頻繁に遊んでいたし、その流れでそのままお泊りになることも多かった。といっても、大抵はミンスが「今日は泊まっていきたい」「今日は泊まっていって欲しい」と言い出すことがほとんどだったのだが。

 二人で並んで眠りにつくと、ミンスは良くない夢を見るたび、決まってザックを起こし泣きながら夢の内容を話すのだ。そして再び眠りにつく時は背中をトントンするように頼まれるまでがお決まりだ。

 ゆったりとしたテンポで布団越しにトントンと振動を与える。それが落ち着くのか、次第に顔を綻ばせると、すぐに小さな寝息が聞こえ始める。

「…もう寝たのか?今度は良い夢が見られると良いな」

 経験上、眠りについた直後に背中をトントンしていた手を止めると目を覚ましてしまう可能性があると心得ている。しばらく手を動かし続けると本格的に深い眠りに入ったのか、アンリは何か寝言を発している。その声はあまりに小さく聞き取れないが、表情からして悪い夢ではないらしい。それが分かれば、ひとまず安心だ。

 アンリは先程、あんな風に言っていたが私は彼女に対して本当に感謝している。特にミンスのことを大切にしてくれていることに関しては感謝してもしきれない。

 初めてミンスに出会ってからというもの自分で言うのはアレだが、ミンスは私にべったりで、どんな時でも常に二人一緒に居るのが当たり前だった。にも関わらず学園に入学が決まるとザックはアドバンスレベル、ミンスはベーシックレベルと互いに別のレベルに入学することになった。つまりそれは強制的に離れる時間が増える、ということ。

 ミンスは昔から誰とでも話せる奴だったし、その面で心配することは特になかったが、人を信じやすい分、傷つく姿を何度も見てきた。それによって一時期は塞ぎ込んでいたこともある。だからこそ、ミンスの側にはミンスのことを絶対に傷付けない人に居て欲しかった。

 そしてやって来た入学の日、ミンスは新しい友達ができたと嬉しそうな表情でアンリを連れてきた。正直、初めはオーリン伯爵のご令嬢を連れてきた事実に驚いたが、その後交わした会話や表情でアンリが悪い人ではないと確信し、それと同時に安心したのだ。

 アンリはミンスを始め、クイニーやザックのことを大切にしてくれている。それは関わっていれば十分伝わってくる。だからこそ、彼女のことを大切にしたいと思うし、少しでも力になりたいと思わせるのだ。