伯爵令嬢になった世界では大切な人に囲まれ毎日が輝く1

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 舞踏会当日の朝。アンリはいつものように日も昇っていない時間に目が覚め、静かに自室を抜け出すとバルコニーに来ていた。最初に来て以降、ここで朝焼けを見るのがすっかり日課のようになっていた。

 今の空は淡い紫色から少しずつピンク色にグラデーションしているところだ。そんな空を眺めていると、背後から控えめにガラス戸を押す音が聞こえる。
 アンリが振り向くとそこには身支度を既に終え、モーニングコートに身を包むフレッドが立っている。

「おはようございます」
「おはよう。…こんな早い時間にどうしたの?」
「いえ、特に用事があったわけでないんです。ただ毎朝の様にアンリ様が眺められている景色を私も見たくなったんです」
「私が毎朝ここに居たこと、知ってたんだ」
「えぇ」

 そんな会話を境に自然と二人の間には静寂が漂い、無言のまま揃って空がピンク色からオレンジ色へと静かに変化していくのを眺める。太陽が一番眩しい瞬間を過ぎると、上の方の空から淡い水色に変わっていく。
 空全体の変化が落ち着き始めた頃、それまで無言だった空間にようやく静かに声が響く。

「アンリ様は緊張していますか?」
「ううん、なぜか落ち着いているの」

 ここ数日、特にこの二、三日はどこにいても何をしていても今日のことを考えて緊張していた。昨日の夜はホットミルクを用意してもらって、それでようやく眠れたくらいだ。
 それなのに今朝目覚めると、それまで胸の中で渦巻いていた緊張が嘘のように消えて、心はすっかり澄んでいた。

「そうですか、良かったです」

 そう言うフレッドの声はどこか震えていて、表情も硬い。そんな余裕のなさそうな彼を見るのは初めてで、どうしたのかと驚いてしまう。フレッドは眉を下げて笑うと視線を下げる。

「不思議なんです。今朝から私の方が緊張してしまって…」
「緊張?」
「あ、別にアンリ様が失敗しないか不安で緊張しているわけではありませんよ。ただ、なんでしょうね…。私にも分からないんです」
「フレッドでも、そんな風に緊張することってあるんだね」
「ダメですね。私がこんな状態では」

 頭をかきながら苦笑いするフレッドはまるで自分を責めているように見えて、その表情を見ているとアンリまで心が苦しくなる。
 だからなのか、アンリは気がつくと勢いのままにフレッドの手を握りしめていた。その手は昨日ダンスの練習をする時に握ったときは温かかったというのに、すっかり冷え切って微かに震えている。
 
 アンリの突然の行動に驚いたフレッドは目を見開くと、アンリの心理を探ろうとアンリの瞳の奥を見つめる。

「大丈夫、大丈夫」
「アンリ様…?」
「フレッドに私の元気をあげる。だから私が踊ってるところ、ちゃんと見ててね」
「…ありがとうございます。もちろん、ちゃんと見ていますよ」
「フレッドが見てくれてたら私も頑張れる」
「ふふ、二週間前は私と手を繋いだだけであんなにも緊張していたのに、今は自分から私の手を握ってくれるなんて。不思議ですね」

 フレッドの震えて冷たかった手は、次第に温かさを取り戻すと同時に緊張した面持ちも消え、いつも通りのフレッドに戻っていった。