***
舞踏会当日の朝。アンリはいつものように日も昇っていない時間に目が覚め、静かに自室を抜け出すとバルコニーに来ていた。最初に来て以降、ここで朝焼けを見るのがすっかり日課のようになっていた。
今の空は淡い紫色から少しずつピンク色にグラデーションしている。そんな空を眺めていると、後ろから控えめにガラス戸を押す音がした。アンリが振り向くとそこには身支度を既に終えモーニングコートに身を包むフレッドが立っている。
「おはようございます」
「おはよう。…こんな早い時間にどうしたの?」
「いえ、特に用事があったわけでは無いんです。ただ毎朝の様にアンリ様が眺められている景色を私も見たくなったんです」
「私が毎朝ここにいたこと、知ってたんだ」
「えぇ」
そんな会話を境に自然と二人の間には静寂が漂い、無言のまま揃って空がピンク色からオレンジ色へと静かに変化していくのを眺めている。太陽が一番眩しい瞬間を過ぎると、上の方の空から淡い水色に変わる。そして空全体の変化が落ち着き始めた頃、それまで無言だった空間にようやく声が響く。
「アンリ様は緊張していますか?」
「ううん、なぜか落ち着いているの」
ここ数日、特にこの二、三日はどこにいても何をしていても緊張していた。昨日の夜はホットミルクを用意してもらって、それでようやく眠れたくらいだ。それなのに今朝目覚めると、それまで胸の中で渦巻いていた緊張が嘘のように消えて心はすっかり澄んでいた。
「そうですか、良かったです」
そう言っているフレッドの声はどこか震えていて、表情も硬い。そんな余裕の無さそうな彼を見るのは初めてで、どうしたのかと驚いてしまう。フレッドは眉を下げて笑うと視線を下げる。
「不思議なんです。今朝から私の方が緊張してしまって…」
「緊張?」
「あ、別にアンリ様が失敗しないか不安で緊張しているわけではありませんよ。ただ、なんでしょうね…。私にも分からないんです」
「フレッドでも、そんな風に緊張する事ってあるんだね」
「ダメですね。私がこんな状態では」
頭をかきながら苦笑いするフレッドはまるで自分を責めているように見えて、少し心が苦しくなる。だからなのか、アンリは気がつくと勢いのままに彼の手を握りしめていた。その手は昨日握ったときは温かかったというのに、すっかり冷え切って微かに震えている。アンリの突然の行動に驚いたフレッドは目を見開くと、アンリの心理を探ろうとアンリの瞳の奥を見つめる。
「大丈夫、大丈夫」
「アンリ様…?」
「フレッドに私の元気をあげる。だから私が踊ってるところ、ちゃんと見ててね」
「…ありがとうございます。もちろん、ちゃんと見ていますよ」
「フレッドが見てくれてたら私も頑張れる」
「ふふ、昨日は私と手を握ってあんなにも緊張していたのに、今は自分から私の手を握ってくれるなんて。不思議ですね」
フレッドの震えて冷たかった手は、次第に温かさを取り戻すと同時に緊張した面持ちも消え、いつも通りのフレッドに戻った。
お屋敷では夕方から始まる舞踏会に向けて総出で準備が進められた。厨房ではシーズとルエを中心に数々の料理が作られ、執事長であるジーヤを中心にフレッドやメイド達がメイン会場であるホールとコンサバトリーの準備を進める。ホールの大理石の床はいつも以上に綺麗に磨かれ、階段や装飾の上にも一切の埃すらない。ガラス張りで外の様子がよく見えるコンサバトリーはゆっくり座れるように椅子やテーブルが並べられる。
フレッドの話では舞踏会は生演奏で行なわれるようで、昼過ぎになると楽器を抱えた人達が到着した。軽く挨拶をすると、何か出来ることは無いかと屋敷中を歩き回った。だが、どこに顔を出しても「夜に向けて、今は休んで下さい」と言われてしまう。そのため今朝からずっと暇なのだ。
この一週間、お屋敷で過ごしてみて分かったのは、このお屋敷に居る人はみんな優しいと言うことだ。
お父様にお母様、フレッドはもちろん。ジーヤにディルベーネ、他のメイド達も話してみると心優しい人ばかりだった。
初めて厨房でルエと話して以降、ルエやシーズの居る厨房にはよく顔を出すようになった。ルエは初めて話したあの日以降、日を追うごとに少しずつ打ち解けてくれてるのか、顔を見てちょっとずつ喋ってくれたり笑顔を見せてくれるようになった。最近ではアンリが厨房に顔を出すと二人はこっそりと試作品を試食させてくれたりもする。
でも周りの人達が優しい人ばかりだからこそ、手持ち無沙汰で何もしていないと罪悪感が出てきてしまうのだ。とりあえず何もせずに時間が過ぎるのを待つのは勿体ないし、ひとまずダンスの練習でもしてこようか。
いつもは二人で並ぶ練習部屋に今日は一人だ。それでもこの一週間の練習をひたすら思い出して踊る。
この一週間、かなりの練習をしてきた。元々運動が苦手な分、それを補うように、ただひたすら踊って踊って、踊り続けた。こんなに一つのことを諦めずに練習し続けたのは生まれて初めてだった。
そして何度目かの音楽の途中、コンコンと扉をノックする音が部屋に響く。
「お嬢様、今よろしいですか?」
そんな声と共にひょっこりと顔を出したのは、さっきまでコンサバトリーの準備を進めていたメイドの一人だった。
「そろそろお嬢様の身支度を整えたいと思うのですが、まだ取り込み中でしょうか」
「いえ、もう平気」
「ではすでに他のメイドがドレスルームで待機しているので行きましょうか」
メイドと練習部屋を出ると、すぐ近くの部屋に案内された。室内にはたくさんのドレスが綺麗に並べられ、奥の化粧台では見たこともないような数の化粧品が並べられている。いわゆる衣装部屋だ。
室内には既に二人のメイドが待機していて、すっかり準備万端のようだ。
「ではお着替えの前にお化粧をしましょう。お嬢様、こちらに座って下さい」
メイドの一人に案内されるままに椅子に座る。すると既に担当を決めていたのか、一人がメイク、もう一人がヘアセット、そしてここまでアンリを案内してくれたメイドが二人の介助をするらしい。
「あの、今まで化粧なんてした事無いんだけど…」
「お嬢様は肌がとても綺麗ですからね」
「本当に羨ましいです」
「えぇ、このお肌なら厚化粧よりも、あえて薄めの化粧にして瞳のブルーを際立たせた方が良いんじゃないかしら」
「そうね、そうしましょう」
「…全てお任せで、お願いします」
三人の手によって鏡に映るアンリはどんどん変身していく。顔には今まで使ったことがないクリームやパウダー類が乗せられ、普段とは違った色味が付いてくる。
髪は綺麗に二つの三つ編みが作られ、それを逆側にそれぞれまとめる形でピンで留められていく。いつもは下ろしっぱなしの髪がまとめられ、久しぶりに首元がスースーする。最後、綺麗に整えられた髪に小さなドライフラワーが一つ一つ丁寧に挿された。
三人は本当に手際が良く、あっという間にヘアメイクは完成した。鏡に映るアンリはまるで別人で、そんな自分の姿を見ていると不思議と胸が高鳴った。そのままの勢いでドレスも着付けてもらう。
「出来ましたよ」
「まぁとっても素敵!」
アンリが着たのはフリル生地で膝丈ほどのドレスだ。本来舞踏会のような場では、くるぶしまで隠れるドレスが選ばれることが多いようだが、お母様が初めての舞踏会で踊るアンリを気遣ってドレスの裾で足がもつれないようにと、わざわざ用意してくれたらしい。そんな気遣いが嬉しく、少しくすぐったくも感じた。
ドレスはアンリが動くたびに少し遅れてなびき、それがまた可愛いらしい。肩口もふんわりとしていて、ウエストは普通の服より締め付けられる感覚があっても着ていられないほど苦しいわけじゃ無い。
最初は初めての化粧に初めてのドレス。どうなるんだろうと思っていたが、三人に任せて正解だった。
「ありがとう、とっても素敵」
「いえいえ、こちらこそ。こんな風にお嬢様の身支度を調えさせて貰えて私達も幸せです」
三人にお礼を済ませるとアンリは早歩きで屋敷中を回った。
ホールに温室に厨房、どこを見ても目的の人物の姿が無い。厨房でルエにも声を掛けてみたが、見かけていないと言われてしまった。庭園に居るのかもしれないと思ったが、外を覗いても誰かが居るように思えなかった。
仕方ない、諦めよう。そう思いながら自室に向かう。そしてドアノブを握るが、ふと手を止めた。
何を思うわけでもなくバルコニーに向かうと、ガラス越しに探していた人物の後ろ姿が見える。
そしてなぜか分からないが静かにガラスの扉を開けた。どれだけ静かに開けたつもりでも、微かな音は聞こえていたようで振り返ったフレッドはアンリを視界に入れると目を見張る。
「とてもお似合いですね。素敵です」
「ありがとう」
「でもなぜ少し息が切れているのですか?」
そう言って小さく笑う。確かにおかしな話だ。ドレスにメイクをして綺麗にしてもらったのに、早歩きとは言え、さっきまで屋敷中を歩き回っていたから息は切れているし足はフラフラだ。
「フレッドの事を探してたの」
「それは、申し訳ありませんでした。何か御用でしたか?」
「用って言うか…、一番に見て欲しいなって思ってたから」
「私にですか?」
「だってこうしてドレスを着たりお化粧したのも初めてだったから。それにこんな風に堂々と立っていられるのはフレッドのおかげだもん」
「私のおかげ、ですか?」
「この一週間、ダンスだけじゃ無くて色々な事を教えてくれたでしょう?おかげでこうして自信を持っていられる。だから着たばかりで着崩していない姿を一番に見てもらおうって思ったんだけど…」
ドレスに着終え、鏡に映る姿を確認すると不意にフレッドの顔が脳内に浮かぶと同時に、この姿を一番に見て欲しいと思ったのだ。
「ありがとうございます。その気持ち、とても嬉しいです」
「あ、でもさっきルエと会ったからフレッドが一番に見た相手じゃなくなっちゃった」
「ふふ、ルエさんに負けてしまいましたか」
「だってこんな所にいると思わなかったんだもん」
「それはすいません。ですが早く手直ししないとですね。そろそろお客様がお見えになりますし」
「わ、大変。どうしよう」
「簡単な手直しで済むでしょうし、私が致しましょうか」
「本当?ありがとう」
自室に戻りドレッサーの前に座るとフレッドの手によって、髪やドレスがあっという間に整えられた。
手直しを終えると、アンリはフレッドと共にホールに降りるため、階段に向かった。階段上からホールを見渡すと、既に老若男女問わず何人かのお客様が集まっているのが見える。
あの人達の前でこれから踊るのだと思うと、今さら引き返せないのに心臓がイヤな音を立て始める。
「アンリ様、私がエスコート致します。お手をこちらに」
差し出されたフレッドの掌にアンリの小刻みに震える手を乗せる。恐らくフレッドもアンリの震えている手に気づいているだろうが、わざわざ指摘はしてこない。優しくアンリの手を握るとフレッドはアンリが躓かないようにゆっくり階段を降りていく。
ホールまで降りると自然とその場の注目がアンリに集まる。男のなめ回すような視線、女のつま先から頭のてっぺんまでチェックする瞳、そんな彼らの両親だと思われる大人からはまるで品定めでもするかのような目を向けられる。
やはり人の視線を集めるのは苦手だ。どうせこの後は馬鹿にするように笑うか、悪口を囁かれるかと相場は決まっている。出来ることならば、今すぐにでも透明になってしまいたい。
だが予想とは裏腹に、アンリへと向けられたのは息をのむ音や言葉を失った表情。それまで活気があったホール内は一瞬のうちに静まり返っていた。
「あの、これは一体…」
「アンリ様、一度あちらに行きましょう」
アンリの問いに被せるようにフレッドはそう言う。アンリはエスコートされるまま、一度ホールから出る。フレッドが扉を閉める直前、静まり返っていたホール内が一気に騒がしくなったが、ギリギリ何を話していたのかまでは聞き取れなかった。
連れられるままに食堂に入るとルエが丁度焼き上がったばかりの食パンを運んで来るが、アンリと少し焦った表情のフレッドが揃って食堂に入ってきた事に驚いている。
「どうしたんですか?」
「いえ、ちょっと避難を」
「避難?よく分からないですけど…、紅茶でも淹れましょうか?」
「いえ、ルエさんはお忙しいところでしょう?私が行ってきます」
そう言うとフレッドは厨房の中に入っていった。
「あの…」
「うん、なに?」
「厨房は今スペースが空いてなくて…、ここで最後の仕上げをしようと思ったんですけど良いですか?」
「うん、もちろん」
ルエは手に持っていた食パンをテーブルに置くと、手際よくパン切り包丁で食パンを切っていく。まだ焼けたばかりで温かいパンの甘い香りが部屋中に漂って、自然と緊張していた心は落ち着いてくる。
「それってこの前、試作品を食べさせてくれたサンドイッチ?」
「そうです。それと一緒にアンリ様が仰っていたフルーツサンドというものも作ってみようかと思ってます」
というのも数日前。厨房に遊びに行くとルエが今日のためにサンドイッチの試作をしていた。
その時に味見をさせてもらい、好みの具材も聞かれた。そこで実際に食べたことは無いがフルーツサンドを食べてみたいと話したのだが、どうやらこの世界にフルーツサンドと呼ばれる食べ物は存在しないらしい。ルエは初めはピンとこない様子だったが、大まかに概要を説明すると何となくどんなモノか理解してくれたようだ。
「わーい、楽しみ。後で無くなる前に食べに行こっと」
「良ければ今、少し食べますか?」
「え、いいの?」
「元はと言えばアンリ様からのリクエストですし。僕は一番に食べてもらいたいです」
「じゃあ食べたい!」
勢いよく頷くと小さく笑ったルエは食パンを二枚手に取る。テーブルの上にはサンドイッチ用の色々な食材が用意されていて、その中からボールに準備されていた生クリームとミカンや苺のスライスを取ると食パンの上に大量の生クリームを乗せ、フルーツのスライスもたくさん乗せる。
出来上がったサンドイッチを四等分に切り分けると、あっという間にお店に並んでもおかしくないレベルのフルーツサンドが出来上がった。
「すごい!私ずっと食べてみたかったんだ」
「それにしても面白いサンドイッチですよね。よく思いつきましたね」
その言葉には笑い返すことしか出来なかった。さすがに元いた世界で一時期、流行っていたから、なんて事は口が滑っても言えない。
にしても本当に美味しそうだ。今までずっと食べてみたいと思いながらも、そういうお店にはオシャレな女の子ばかりで入りづらい雰囲気に押され食べられず仕舞いだった。
ルエは出来上がったそれをお皿に載せてアンリの前に置く。と、丁度そのタイミングで紅茶のセットを持ったフレッドも戻ってきた。
「二人も一緒に食べようよ」
「え?でも僕なんかが…」
「えぇ、せっかくですしご一緒しましょう。ルエさんも時間があるようなら、ご一緒にどうです?」
そう声を掛けてくれたおかげで、渋々という感じもありながらルエも一緒に食べてくれることになった。
フレッドはアンリが一人でご飯やお菓子を食べるのが好きじゃないと理由まで詳しく話していないが、分かってくれている。おかげで初めの頃は戸惑いながらだったが、最近はアンリが誘うと快く受け入れてくれるようになった。
三人でお茶やサンドイッチを楽しんでいると、いつの間にか舞踏会の開催の時間になっていた。最後にルエに感謝を伝えて食堂を後にする。
ホールはさっきよりも人が集まっているようで、フレッドの後を歩いてホールの正面まで向かうとお母様とお父様が誰かと楽しげに話していた。その相手は背中を向けていてアンリからは顔まで見えないが、赤い髪の長身の男だ。
「あらアンリ、来たのね。そのドレス、とっても素敵よ」
「丁度良かった。そろそろ始めるからな」
「アンリのダンス、楽しみにしているわ」
そこまで言われてようやく気がついた。そう言えば散々ダンスの練習はしてきたが、一体誰と踊るんだろう。
「お父様、私が一緒に踊る相手って…」
「あぁ言っていなかったか。クイニー君だよ」
そうして今まで背を向けるように立っていた赤髪が振り返ると予想していたとおり、クイニーだった。でもまさか一緒に踊る相手がクイニーだったなんて。クイニーからもこの一週間、何度も顔を合わせたが、そんな話は聞いていない。
今日のクイニーは黒い燕尾服に身を包み、いつもより落ち着いた雰囲気だ。それでもアンリのあまりの驚き具合に眉をひそめている。
「何か不満か?」
「不満じゃ無くて、予想外だったって言うか…。でもクイニーが相手って言うなら気楽かも」
「それ、どういう意味だ」
「別に悪い意味じゃ無いよ」
クイニーと言葉を交わしているとお父様はアンリとクイニーの背中にトンと静かに触れた後、一歩前へ出て来客に向けて話を始めた。
いつの間にか、隣に居たはずのフレッドは居なくなっている。
「本日は当家の舞踏会にお越し頂きありがとうございます。今宵はコンサバトリーにて厨房自慢の軽食も用意しております。時間が許す限り、ぜひお楽しみ下さい。そして今宵のファーストダンスは娘のアンリが社交界デビューも兼ねましてソアラ伯爵のご子息、クイニー君と披露致します」
お父様の挨拶が行なわれる中、辺りには聞こえないほどの声で「行くぞ」と声を掛けられ、クイニーと二人、ホールの中心に向かっていく。アンリとクイニーが歩くと自然と周囲の人達は避けていき、ホールの中心には円状の空間が出来上がる。
フレッド曰く、お父様の話が終わり次第、演奏が始まり、それに合わせて踊り始める。場所や周囲の雰囲気、観客の有無が変わるだけで、やることは今までの練習と同じだ。何度も自分に言い聞かせるが、どうしても視界の端にドレスや燕尾服を身に纏った煌びやかな人達が目に入ってきてしまう。
落ち着け、落ち着け…。私なら大丈夫…。
ひたすら深呼吸するが心臓がドクドクとうるさい。そして一度、気になってしまえば次々に不安が溢れてくる。もし失敗なんてしたらどうしよう。こんな大勢の前で転んだり、途中で頭が真っ白になったら…。
次から次に溢れ出す不安によって、それまで笑顔を心がけていた頬がピクピクと震え出してしまうものだから一度、目をつぶる。どうにかして、すぐにこの緊張をほぐさないと。
不安と共に焦りが沸いてきたとき、正面から小さな、けれどハッキリとした声が耳に入る。
「アンリ、堂々と踊れ。俺がアンリに合わせる」
そんな声に落としていた視線を上げると、普段は素直に笑顔を見せないクイニーが微笑んでいた。そんな表情を見ていると、不思議とそれまでの緊張や焦りはどこかに消えていた。
「…うん、ありがとう」
そう笑い返すと同時に演奏が始まった。
舞踏会当日の朝。アンリはいつものように日も昇っていない時間に目が覚め、静かに自室を抜け出すとバルコニーに来ていた。最初に来て以降、ここで朝焼けを見るのがすっかり日課のようになっていた。
今の空は淡い紫色から少しずつピンク色にグラデーションしている。そんな空を眺めていると、後ろから控えめにガラス戸を押す音がした。アンリが振り向くとそこには身支度を既に終えモーニングコートに身を包むフレッドが立っている。
「おはようございます」
「おはよう。…こんな早い時間にどうしたの?」
「いえ、特に用事があったわけでは無いんです。ただ毎朝の様にアンリ様が眺められている景色を私も見たくなったんです」
「私が毎朝ここにいたこと、知ってたんだ」
「えぇ」
そんな会話を境に自然と二人の間には静寂が漂い、無言のまま揃って空がピンク色からオレンジ色へと静かに変化していくのを眺めている。太陽が一番眩しい瞬間を過ぎると、上の方の空から淡い水色に変わる。そして空全体の変化が落ち着き始めた頃、それまで無言だった空間にようやく声が響く。
「アンリ様は緊張していますか?」
「ううん、なぜか落ち着いているの」
ここ数日、特にこの二、三日はどこにいても何をしていても緊張していた。昨日の夜はホットミルクを用意してもらって、それでようやく眠れたくらいだ。それなのに今朝目覚めると、それまで胸の中で渦巻いていた緊張が嘘のように消えて心はすっかり澄んでいた。
「そうですか、良かったです」
そう言っているフレッドの声はどこか震えていて、表情も硬い。そんな余裕の無さそうな彼を見るのは初めてで、どうしたのかと驚いてしまう。フレッドは眉を下げて笑うと視線を下げる。
「不思議なんです。今朝から私の方が緊張してしまって…」
「緊張?」
「あ、別にアンリ様が失敗しないか不安で緊張しているわけではありませんよ。ただ、なんでしょうね…。私にも分からないんです」
「フレッドでも、そんな風に緊張する事ってあるんだね」
「ダメですね。私がこんな状態では」
頭をかきながら苦笑いするフレッドはまるで自分を責めているように見えて、少し心が苦しくなる。だからなのか、アンリは気がつくと勢いのままに彼の手を握りしめていた。その手は昨日握ったときは温かかったというのに、すっかり冷え切って微かに震えている。アンリの突然の行動に驚いたフレッドは目を見開くと、アンリの心理を探ろうとアンリの瞳の奥を見つめる。
「大丈夫、大丈夫」
「アンリ様…?」
「フレッドに私の元気をあげる。だから私が踊ってるところ、ちゃんと見ててね」
「…ありがとうございます。もちろん、ちゃんと見ていますよ」
「フレッドが見てくれてたら私も頑張れる」
「ふふ、昨日は私と手を握ってあんなにも緊張していたのに、今は自分から私の手を握ってくれるなんて。不思議ですね」
フレッドの震えて冷たかった手は、次第に温かさを取り戻すと同時に緊張した面持ちも消え、いつも通りのフレッドに戻った。
お屋敷では夕方から始まる舞踏会に向けて総出で準備が進められた。厨房ではシーズとルエを中心に数々の料理が作られ、執事長であるジーヤを中心にフレッドやメイド達がメイン会場であるホールとコンサバトリーの準備を進める。ホールの大理石の床はいつも以上に綺麗に磨かれ、階段や装飾の上にも一切の埃すらない。ガラス張りで外の様子がよく見えるコンサバトリーはゆっくり座れるように椅子やテーブルが並べられる。
フレッドの話では舞踏会は生演奏で行なわれるようで、昼過ぎになると楽器を抱えた人達が到着した。軽く挨拶をすると、何か出来ることは無いかと屋敷中を歩き回った。だが、どこに顔を出しても「夜に向けて、今は休んで下さい」と言われてしまう。そのため今朝からずっと暇なのだ。
この一週間、お屋敷で過ごしてみて分かったのは、このお屋敷に居る人はみんな優しいと言うことだ。
お父様にお母様、フレッドはもちろん。ジーヤにディルベーネ、他のメイド達も話してみると心優しい人ばかりだった。
初めて厨房でルエと話して以降、ルエやシーズの居る厨房にはよく顔を出すようになった。ルエは初めて話したあの日以降、日を追うごとに少しずつ打ち解けてくれてるのか、顔を見てちょっとずつ喋ってくれたり笑顔を見せてくれるようになった。最近ではアンリが厨房に顔を出すと二人はこっそりと試作品を試食させてくれたりもする。
でも周りの人達が優しい人ばかりだからこそ、手持ち無沙汰で何もしていないと罪悪感が出てきてしまうのだ。とりあえず何もせずに時間が過ぎるのを待つのは勿体ないし、ひとまずダンスの練習でもしてこようか。
いつもは二人で並ぶ練習部屋に今日は一人だ。それでもこの一週間の練習をひたすら思い出して踊る。
この一週間、かなりの練習をしてきた。元々運動が苦手な分、それを補うように、ただひたすら踊って踊って、踊り続けた。こんなに一つのことを諦めずに練習し続けたのは生まれて初めてだった。
そして何度目かの音楽の途中、コンコンと扉をノックする音が部屋に響く。
「お嬢様、今よろしいですか?」
そんな声と共にひょっこりと顔を出したのは、さっきまでコンサバトリーの準備を進めていたメイドの一人だった。
「そろそろお嬢様の身支度を整えたいと思うのですが、まだ取り込み中でしょうか」
「いえ、もう平気」
「ではすでに他のメイドがドレスルームで待機しているので行きましょうか」
メイドと練習部屋を出ると、すぐ近くの部屋に案内された。室内にはたくさんのドレスが綺麗に並べられ、奥の化粧台では見たこともないような数の化粧品が並べられている。いわゆる衣装部屋だ。
室内には既に二人のメイドが待機していて、すっかり準備万端のようだ。
「ではお着替えの前にお化粧をしましょう。お嬢様、こちらに座って下さい」
メイドの一人に案内されるままに椅子に座る。すると既に担当を決めていたのか、一人がメイク、もう一人がヘアセット、そしてここまでアンリを案内してくれたメイドが二人の介助をするらしい。
「あの、今まで化粧なんてした事無いんだけど…」
「お嬢様は肌がとても綺麗ですからね」
「本当に羨ましいです」
「えぇ、このお肌なら厚化粧よりも、あえて薄めの化粧にして瞳のブルーを際立たせた方が良いんじゃないかしら」
「そうね、そうしましょう」
「…全てお任せで、お願いします」
三人の手によって鏡に映るアンリはどんどん変身していく。顔には今まで使ったことがないクリームやパウダー類が乗せられ、普段とは違った色味が付いてくる。
髪は綺麗に二つの三つ編みが作られ、それを逆側にそれぞれまとめる形でピンで留められていく。いつもは下ろしっぱなしの髪がまとめられ、久しぶりに首元がスースーする。最後、綺麗に整えられた髪に小さなドライフラワーが一つ一つ丁寧に挿された。
三人は本当に手際が良く、あっという間にヘアメイクは完成した。鏡に映るアンリはまるで別人で、そんな自分の姿を見ていると不思議と胸が高鳴った。そのままの勢いでドレスも着付けてもらう。
「出来ましたよ」
「まぁとっても素敵!」
アンリが着たのはフリル生地で膝丈ほどのドレスだ。本来舞踏会のような場では、くるぶしまで隠れるドレスが選ばれることが多いようだが、お母様が初めての舞踏会で踊るアンリを気遣ってドレスの裾で足がもつれないようにと、わざわざ用意してくれたらしい。そんな気遣いが嬉しく、少しくすぐったくも感じた。
ドレスはアンリが動くたびに少し遅れてなびき、それがまた可愛いらしい。肩口もふんわりとしていて、ウエストは普通の服より締め付けられる感覚があっても着ていられないほど苦しいわけじゃ無い。
最初は初めての化粧に初めてのドレス。どうなるんだろうと思っていたが、三人に任せて正解だった。
「ありがとう、とっても素敵」
「いえいえ、こちらこそ。こんな風にお嬢様の身支度を調えさせて貰えて私達も幸せです」
三人にお礼を済ませるとアンリは早歩きで屋敷中を回った。
ホールに温室に厨房、どこを見ても目的の人物の姿が無い。厨房でルエにも声を掛けてみたが、見かけていないと言われてしまった。庭園に居るのかもしれないと思ったが、外を覗いても誰かが居るように思えなかった。
仕方ない、諦めよう。そう思いながら自室に向かう。そしてドアノブを握るが、ふと手を止めた。
何を思うわけでもなくバルコニーに向かうと、ガラス越しに探していた人物の後ろ姿が見える。
そしてなぜか分からないが静かにガラスの扉を開けた。どれだけ静かに開けたつもりでも、微かな音は聞こえていたようで振り返ったフレッドはアンリを視界に入れると目を見張る。
「とてもお似合いですね。素敵です」
「ありがとう」
「でもなぜ少し息が切れているのですか?」
そう言って小さく笑う。確かにおかしな話だ。ドレスにメイクをして綺麗にしてもらったのに、早歩きとは言え、さっきまで屋敷中を歩き回っていたから息は切れているし足はフラフラだ。
「フレッドの事を探してたの」
「それは、申し訳ありませんでした。何か御用でしたか?」
「用って言うか…、一番に見て欲しいなって思ってたから」
「私にですか?」
「だってこうしてドレスを着たりお化粧したのも初めてだったから。それにこんな風に堂々と立っていられるのはフレッドのおかげだもん」
「私のおかげ、ですか?」
「この一週間、ダンスだけじゃ無くて色々な事を教えてくれたでしょう?おかげでこうして自信を持っていられる。だから着たばかりで着崩していない姿を一番に見てもらおうって思ったんだけど…」
ドレスに着終え、鏡に映る姿を確認すると不意にフレッドの顔が脳内に浮かぶと同時に、この姿を一番に見て欲しいと思ったのだ。
「ありがとうございます。その気持ち、とても嬉しいです」
「あ、でもさっきルエと会ったからフレッドが一番に見た相手じゃなくなっちゃった」
「ふふ、ルエさんに負けてしまいましたか」
「だってこんな所にいると思わなかったんだもん」
「それはすいません。ですが早く手直ししないとですね。そろそろお客様がお見えになりますし」
「わ、大変。どうしよう」
「簡単な手直しで済むでしょうし、私が致しましょうか」
「本当?ありがとう」
自室に戻りドレッサーの前に座るとフレッドの手によって、髪やドレスがあっという間に整えられた。
手直しを終えると、アンリはフレッドと共にホールに降りるため、階段に向かった。階段上からホールを見渡すと、既に老若男女問わず何人かのお客様が集まっているのが見える。
あの人達の前でこれから踊るのだと思うと、今さら引き返せないのに心臓がイヤな音を立て始める。
「アンリ様、私がエスコート致します。お手をこちらに」
差し出されたフレッドの掌にアンリの小刻みに震える手を乗せる。恐らくフレッドもアンリの震えている手に気づいているだろうが、わざわざ指摘はしてこない。優しくアンリの手を握るとフレッドはアンリが躓かないようにゆっくり階段を降りていく。
ホールまで降りると自然とその場の注目がアンリに集まる。男のなめ回すような視線、女のつま先から頭のてっぺんまでチェックする瞳、そんな彼らの両親だと思われる大人からはまるで品定めでもするかのような目を向けられる。
やはり人の視線を集めるのは苦手だ。どうせこの後は馬鹿にするように笑うか、悪口を囁かれるかと相場は決まっている。出来ることならば、今すぐにでも透明になってしまいたい。
だが予想とは裏腹に、アンリへと向けられたのは息をのむ音や言葉を失った表情。それまで活気があったホール内は一瞬のうちに静まり返っていた。
「あの、これは一体…」
「アンリ様、一度あちらに行きましょう」
アンリの問いに被せるようにフレッドはそう言う。アンリはエスコートされるまま、一度ホールから出る。フレッドが扉を閉める直前、静まり返っていたホール内が一気に騒がしくなったが、ギリギリ何を話していたのかまでは聞き取れなかった。
連れられるままに食堂に入るとルエが丁度焼き上がったばかりの食パンを運んで来るが、アンリと少し焦った表情のフレッドが揃って食堂に入ってきた事に驚いている。
「どうしたんですか?」
「いえ、ちょっと避難を」
「避難?よく分からないですけど…、紅茶でも淹れましょうか?」
「いえ、ルエさんはお忙しいところでしょう?私が行ってきます」
そう言うとフレッドは厨房の中に入っていった。
「あの…」
「うん、なに?」
「厨房は今スペースが空いてなくて…、ここで最後の仕上げをしようと思ったんですけど良いですか?」
「うん、もちろん」
ルエは手に持っていた食パンをテーブルに置くと、手際よくパン切り包丁で食パンを切っていく。まだ焼けたばかりで温かいパンの甘い香りが部屋中に漂って、自然と緊張していた心は落ち着いてくる。
「それってこの前、試作品を食べさせてくれたサンドイッチ?」
「そうです。それと一緒にアンリ様が仰っていたフルーツサンドというものも作ってみようかと思ってます」
というのも数日前。厨房に遊びに行くとルエが今日のためにサンドイッチの試作をしていた。
その時に味見をさせてもらい、好みの具材も聞かれた。そこで実際に食べたことは無いがフルーツサンドを食べてみたいと話したのだが、どうやらこの世界にフルーツサンドと呼ばれる食べ物は存在しないらしい。ルエは初めはピンとこない様子だったが、大まかに概要を説明すると何となくどんなモノか理解してくれたようだ。
「わーい、楽しみ。後で無くなる前に食べに行こっと」
「良ければ今、少し食べますか?」
「え、いいの?」
「元はと言えばアンリ様からのリクエストですし。僕は一番に食べてもらいたいです」
「じゃあ食べたい!」
勢いよく頷くと小さく笑ったルエは食パンを二枚手に取る。テーブルの上にはサンドイッチ用の色々な食材が用意されていて、その中からボールに準備されていた生クリームとミカンや苺のスライスを取ると食パンの上に大量の生クリームを乗せ、フルーツのスライスもたくさん乗せる。
出来上がったサンドイッチを四等分に切り分けると、あっという間にお店に並んでもおかしくないレベルのフルーツサンドが出来上がった。
「すごい!私ずっと食べてみたかったんだ」
「それにしても面白いサンドイッチですよね。よく思いつきましたね」
その言葉には笑い返すことしか出来なかった。さすがに元いた世界で一時期、流行っていたから、なんて事は口が滑っても言えない。
にしても本当に美味しそうだ。今までずっと食べてみたいと思いながらも、そういうお店にはオシャレな女の子ばかりで入りづらい雰囲気に押され食べられず仕舞いだった。
ルエは出来上がったそれをお皿に載せてアンリの前に置く。と、丁度そのタイミングで紅茶のセットを持ったフレッドも戻ってきた。
「二人も一緒に食べようよ」
「え?でも僕なんかが…」
「えぇ、せっかくですしご一緒しましょう。ルエさんも時間があるようなら、ご一緒にどうです?」
そう声を掛けてくれたおかげで、渋々という感じもありながらルエも一緒に食べてくれることになった。
フレッドはアンリが一人でご飯やお菓子を食べるのが好きじゃないと理由まで詳しく話していないが、分かってくれている。おかげで初めの頃は戸惑いながらだったが、最近はアンリが誘うと快く受け入れてくれるようになった。
三人でお茶やサンドイッチを楽しんでいると、いつの間にか舞踏会の開催の時間になっていた。最後にルエに感謝を伝えて食堂を後にする。
ホールはさっきよりも人が集まっているようで、フレッドの後を歩いてホールの正面まで向かうとお母様とお父様が誰かと楽しげに話していた。その相手は背中を向けていてアンリからは顔まで見えないが、赤い髪の長身の男だ。
「あらアンリ、来たのね。そのドレス、とっても素敵よ」
「丁度良かった。そろそろ始めるからな」
「アンリのダンス、楽しみにしているわ」
そこまで言われてようやく気がついた。そう言えば散々ダンスの練習はしてきたが、一体誰と踊るんだろう。
「お父様、私が一緒に踊る相手って…」
「あぁ言っていなかったか。クイニー君だよ」
そうして今まで背を向けるように立っていた赤髪が振り返ると予想していたとおり、クイニーだった。でもまさか一緒に踊る相手がクイニーだったなんて。クイニーからもこの一週間、何度も顔を合わせたが、そんな話は聞いていない。
今日のクイニーは黒い燕尾服に身を包み、いつもより落ち着いた雰囲気だ。それでもアンリのあまりの驚き具合に眉をひそめている。
「何か不満か?」
「不満じゃ無くて、予想外だったって言うか…。でもクイニーが相手って言うなら気楽かも」
「それ、どういう意味だ」
「別に悪い意味じゃ無いよ」
クイニーと言葉を交わしているとお父様はアンリとクイニーの背中にトンと静かに触れた後、一歩前へ出て来客に向けて話を始めた。
いつの間にか、隣に居たはずのフレッドは居なくなっている。
「本日は当家の舞踏会にお越し頂きありがとうございます。今宵はコンサバトリーにて厨房自慢の軽食も用意しております。時間が許す限り、ぜひお楽しみ下さい。そして今宵のファーストダンスは娘のアンリが社交界デビューも兼ねましてソアラ伯爵のご子息、クイニー君と披露致します」
お父様の挨拶が行なわれる中、辺りには聞こえないほどの声で「行くぞ」と声を掛けられ、クイニーと二人、ホールの中心に向かっていく。アンリとクイニーが歩くと自然と周囲の人達は避けていき、ホールの中心には円状の空間が出来上がる。
フレッド曰く、お父様の話が終わり次第、演奏が始まり、それに合わせて踊り始める。場所や周囲の雰囲気、観客の有無が変わるだけで、やることは今までの練習と同じだ。何度も自分に言い聞かせるが、どうしても視界の端にドレスや燕尾服を身に纏った煌びやかな人達が目に入ってきてしまう。
落ち着け、落ち着け…。私なら大丈夫…。
ひたすら深呼吸するが心臓がドクドクとうるさい。そして一度、気になってしまえば次々に不安が溢れてくる。もし失敗なんてしたらどうしよう。こんな大勢の前で転んだり、途中で頭が真っ白になったら…。
次から次に溢れ出す不安によって、それまで笑顔を心がけていた頬がピクピクと震え出してしまうものだから一度、目をつぶる。どうにかして、すぐにこの緊張をほぐさないと。
不安と共に焦りが沸いてきたとき、正面から小さな、けれどハッキリとした声が耳に入る。
「アンリ、堂々と踊れ。俺がアンリに合わせる」
そんな声に落としていた視線を上げると、普段は素直に笑顔を見せないクイニーが微笑んでいた。そんな表情を見ていると、不思議とそれまでの緊張や焦りはどこかに消えていた。
「…うん、ありがとう」
そう笑い返すと同時に演奏が始まった。

