「あっやべぇ、エプロン忘れた」
玄関まで来て、忘れ物に気がつく。
二◯三◯年三月二十六日の今日は、スーパーマーケットのアルバイトのシフトの日だった。
夫婦で経営している地元に根ざしたスーパーマーケット『たけのこマート』でアルバイトをしている。
かつてのアルバイトの仕事だったレジ打ちは、技術革新で機械へと成り替わり、採用枠は無くなっていた。
「今日も寒いのにお疲れ様だね
はい、これ!ちゃんとあったかくするんだよ」
荷物を運びすぎて真っ赤になった手を見て、店主の奥さんが温かい缶のコーンスープを渡してきた。
とってもありがたい。
「わっ、おばちゃんありがとう!」
「いいのよ!むしろ雨の中、カッパを着てあちこち配達行ってくれて助かるよ
車も入れないような山間に住んでるお年寄りは、こんな雨じゃ買い物には行けないからね」
通っている高校よりも家から遠い勤務先。
決して高いとは言えない時給。
けれども、二人とも優しくてまるで自分の家のように迎えてくれる温かさが嬉しい。
「今日はよく冷えるね
これじゃあ河原のマーガレットなんかは枯れてしまうね
最近咲いたばっかりだったのに」
「おばちゃん、お花詳しいんですね」
「あら、そうなのよ!昔、お花屋さんでバイトをしててね
懐かしいわねぇ、コブシ君と同じくらいの頃かしら
その頃は楽しくてねぇ、たくさん花の名前を覚えたわ」
「そうなんですね!
……あっ、そういえば、花で聞きたいことがあったんだ
桜って、いつぐらいに咲くか知ってますか?
卒業式の時にはまだ咲いてなくて」
「そうねぇ……そろそろ咲く頃だけど、最近はずっと降ってる雨のせいで気温が上がらないから、もう少し先かしら
四月一日くらいには咲いてくれると思うわよ」
「そうか!ありがとうございます」
「いいのよ!昔、バイトをしている時に同じような質問をされて、そのお客さんに花束を作ったことがあったわね
偶然同じ日に同じ花で作った花束が売れたのよ!」
「そうだったんですね!
その二人は知り合いだったんですか?」
「わからないわ……ただ、違う時間にそれぞれ来店したけど、二人ともとっても嬉しそうだった
あれはきっと、本当に愛する人へ買った花束ね!
蒼色の綺麗な花を買っていったけど、両手で大切に抱えて歩いていったから」
「それは素敵ですね……おばちゃんは、なんで花屋でバイトしようとしたんですか?」
「そうね、コブシくんは花を渡したことはあるかしら?」
「……ないですね」
「ふふふ、そしたらいつかわかるかもしれないわね
花束はね、買った人も受け取った人も幸せになるものよ
二人を思い浮かべて花を束ねる時間がすごく好きだった
だから、花を見るたびに売った記憶を今でもずっと覚えているの……あっ、そうそう」
思い出にふけた後、おばちゃんは手招きしてひそひそと小声で話し始めた。
「……ちなみに、このスーパーは元々花屋で、父さんはそこの一人息子だったのよ
ふふふ、そしたら私からプロポーズしちゃった
この話、お父さんには秘密よ?」
「ええ!そうだったんですか!?
秘密ですね、わかりました!!!
なんかいいこと聞いちゃいましたね!」
「ふふ、そうなのよ
その頃から無口でシャイだけど、優しくて素敵でねぇ
もし気持ちを伝える時が来たら、花があると良いわ!これは、私の経験話ね
話し過ぎちゃったわ!聞いてくれてありがとうね」
「いえいえ、素敵なお話をありがとうございます!」
「あっ、そうだ
ほら、これ持って帰りなさい!」
ビニール袋に売れ残った苺とバナナを突っ込む。
ちょっと斜めになった容器に入っている果肉は、数分前まで売り物だったため、艶々と綺麗な色をしている。
「わあ!ありがとうございます!それじゃ、また!」
手を振るおばちゃんの向こうから、いつも無愛想だけど温かいおじちゃんの声が聞こえた。
「おう、気ぃつけて帰れよ!風邪引くんじゃねぇぞ!」
なんだか、二人を見ていると優しい気持ちになれるのはそういうことだったのか。
いつもの帰り道。
響くのは、雨と俺の足の音。
片道三十分の家までの道のりで川沿いを歩いている
この川の両岸には、堤防の代わりとなった土手の一本道がそれぞれある。
自転車同士がすれ違うくらいの狭い幅で、あまり人も通らない。
この街の真ん中にある、車が行き来する大通りも近道でいい。
しかし、人間の表情のように川はいつも通って眺める度、様子が違って面白い。
だから、この道が好きだ。
「あっ、にーちゃん!今日もお仕事帰り?」
「おう!ユウくんじゃねえか!もうすぐ小学校かな?
一年生は、もうすっかりお兄さんだなぁ!」
「うん!そうなの!勉強もするんだよ!」
「おお!そりゃすげぇな!
あっ、お母さんもこんばんは」
「まぁ!こんばんは
いつもユウとお話ししてくれてありがとうね」
お母さんと雨の日の散歩をしていた小学生の男の子が声をかけてきた。アルバイト帰りに話すたび、いつの間にか懐かれてしまった。
隣にはビニール傘を差したお母さんが、こちらに笑顔で会釈をしてきた。
「その傘もかっこいいなぁ!」
「そうなんだよ!お母さんに買ってもらったの。」
「そうかぁ、ユウくんは雨は嫌いじゃないのかい?」
「嫌いだったよ……でもね、この傘の下はいつも明るくて、太陽みたい
だからいつもこの傘の下は晴れなの」
ユウくんはいつも会うたびに、
今日はカエルがいただとか、
河原での練習の末自転車に乗れるようになっただとか、
ユウくんにとって大きな発見をいつも教えてくれる。
ユウくんはまっすぐで素直に世界を見ていると感じる。
「ああ、そうだよ
今日もお母さんと一緒でいいな!」
「うん!これからお家でホットケーキ作るの!」
傘を持っている上、雨がっぱを着ている完全防備の状態から、奥歯が見えそうなほど満面の笑みでこちらを覗く。
「おぉ、そりゃいいねぇ
あっ、そうだ!今日、バイト先で苺貰ったからあげるよ
これのっけるとうまいぞ」
「えっ、いいの!ありがとう!やさしーね!」
「あら、そんな……
悪いわよ、コブシくん……!」
「いいんですよ、俺一人だと食いきれないんで、一緒に食べてあげてください」
少し恐縮そうにお母さんがしている横で、ユウくんは喜びを全面に表していた。
「ごめんねぇ、じゃあいただくわ
ほらユウちゃん、ありがとうは?」
「わぁ、にーちゃんありがとう!お礼にアメあげる!」
「おお!いいのか!ありがとう」
お礼にくれた飴玉を口に入れ、ユウくんとお母さんを後にして、家への道へと進む。
味はブドウ味のようだ。
今日の雨は、しとしとと降っていた。
水たまりに落ちる雫のチャポンとした明るい音とは裏腹に、なんだかどんより気分が重たい気がする。
こうして歩いている川の匂いも、土臭さと雨特有のかおりが混じる。
飴が溶けてなくなった空っぽの口で深呼吸をする。
さっきまでの重たい空気がブドウ味になった。
「ユウくんの、おかげだな」
俺は紺色の傘を持ったまま、うつむいて水たまりを避けながら歩いている。
すると突然、正面に人影が見えた。
水たまりに反射する赤色の傘。
心当たりがあって、傘で隠してながら見上げるようにそっと覗く。
その人物は、まっすぐこちらを伏目で見つめる顔馴染みの女子だった。
「あっ、シズク……」
思わず、小声でつぶやいてしまった。
ギリギリ、シズクには聞こえないくらいの距離。
水泳部を辞める前の日以来、会っていない。
もちろん、卒業をしてから会うのは初めてだ。
なるべく、いつも通り。
そう、心がけた。
そう考えているうちに、シズクはこちらをみるなり目を逸らして俺に声をかけずにすれ違った。
「よ、よう、シズク
バイト帰り?」
ここで声をかけなかったら、一生後悔する気がした。
もう一生、これから先話せない気がした。
歩き続けていた足音が止まった。
そして傘ごとゆっくり振り返る。
傘から水滴が落ちた。
「……これからバイトよ
コブシこそ、いつものスーパーのバイトの帰り?」
不機嫌そうにチラチラとこちらを見ているが、なんとか会話には付き合ってくれるみたいだ。
「ああ……そうだ、今日はバナナが余って貰ったんだ……一本食う?」
肩にかけていたエコバッグからバナナを房から取って渡す。言葉を発する前に少し体を後退させて、既に要らないと言いたげな顔をしている。
「……要らないわよ、これからバイトだし」
やっぱり。
「そっか、そうだよな
ちなみにバイトって、もしかして本屋とか?」
「……なんで知ってんのよ
あたしバイトしてることクラスの誰にも言ったことないんだけど……もしかして、先生?」
「まぁ、ね
でも、」
「……でも?」
「前言ってたろ?図書館司書になりたいって
だったら本屋かなって」
「……そっか」
「うん、まぁ、バイトしてることはホウセンカから聞いちゃったんだけどね」
頭をかいて恥ずかしそうにしている俺を見て、身体の向きを直して進もうとする。
引き留めなきゃ。
「なぁ、なんで水泳部辞めちゃったんだよ」
「……あんたには関係ないでしょ」
「うん、関係ないかもしれない
だから、理由を教えてくれなくても良い」
「……うん」
「だからいつか、言いたくなったら教えて欲しいんだ
だって俺が辛い時、一人の時にそばにいてくれたから……俺にも寄り添わせてよ」
ゆっくり俺は、深呼吸をした。
雨音がさらさらと聞こえた。
「だから、待ってるぜ」
シズクからの返事はなかった。
でも、話せてよかった。
ここで声をかけなかったら、一生後悔する気がした。
もう一生、これから先話せない気がした。
折り畳み傘じゃなくてよかった。
「……あたし、バイトだから、じゃあね」
「あぁ、気をつけてな」
そういうと、スタスタと歩き出してしまった。
ついさっきまで舐めていたぶどうのアメは、いつの間にか溶け切ってしまった。
代わりに渡そうとしたバナナをむいて、食べながら川沿いを歩く。
「……うっ、酸っぱいなこのバナナ
まだ青かったな」
少し緑がかっていたせいか全く甘くない。
酸味がなくなり、心地よい甘さになるにはまだ早かったようだ。
「……ただいま」
家に着いた。
家の中から帰ってこない挨拶を事務的にこなし、びしょびしょになった靴下を脱いだ。
ソファーに引っ掛けてあったタオルでひとまず足を拭く。
開いたままの傘を傘立てに戻そうと玄関に向かう。
すると、玄関扉から投函された一通の黒い封筒が見えた。
何やら怪しげだ。
「なんだこれ、見覚えないし誰からかも書いてないな……
普通書くよな?しかも、表面になんか見たことのあるロゴマークが印刷されてる……」
見覚えのない郵便物を持ったまま、リビングに向かった。
ペン立てからカッターを取り出し、封を開く。
中には三つ折りされた紙が一枚。
どうやら手紙のようだ。
文章の最後。
「んー?……えっ」
ここで初めて、送り主を知る。
そこに書かれているのは、あまりにも予想外すぎる人物の名前だった。
俺は、眉間にシワを寄せて思わず声に出してしまった。
「こっ……子安ソリューション株式会社代表の竹取オキナ!?」
玄関まで来て、忘れ物に気がつく。
二◯三◯年三月二十六日の今日は、スーパーマーケットのアルバイトのシフトの日だった。
夫婦で経営している地元に根ざしたスーパーマーケット『たけのこマート』でアルバイトをしている。
かつてのアルバイトの仕事だったレジ打ちは、技術革新で機械へと成り替わり、採用枠は無くなっていた。
「今日も寒いのにお疲れ様だね
はい、これ!ちゃんとあったかくするんだよ」
荷物を運びすぎて真っ赤になった手を見て、店主の奥さんが温かい缶のコーンスープを渡してきた。
とってもありがたい。
「わっ、おばちゃんありがとう!」
「いいのよ!むしろ雨の中、カッパを着てあちこち配達行ってくれて助かるよ
車も入れないような山間に住んでるお年寄りは、こんな雨じゃ買い物には行けないからね」
通っている高校よりも家から遠い勤務先。
決して高いとは言えない時給。
けれども、二人とも優しくてまるで自分の家のように迎えてくれる温かさが嬉しい。
「今日はよく冷えるね
これじゃあ河原のマーガレットなんかは枯れてしまうね
最近咲いたばっかりだったのに」
「おばちゃん、お花詳しいんですね」
「あら、そうなのよ!昔、お花屋さんでバイトをしててね
懐かしいわねぇ、コブシ君と同じくらいの頃かしら
その頃は楽しくてねぇ、たくさん花の名前を覚えたわ」
「そうなんですね!
……あっ、そういえば、花で聞きたいことがあったんだ
桜って、いつぐらいに咲くか知ってますか?
卒業式の時にはまだ咲いてなくて」
「そうねぇ……そろそろ咲く頃だけど、最近はずっと降ってる雨のせいで気温が上がらないから、もう少し先かしら
四月一日くらいには咲いてくれると思うわよ」
「そうか!ありがとうございます」
「いいのよ!昔、バイトをしている時に同じような質問をされて、そのお客さんに花束を作ったことがあったわね
偶然同じ日に同じ花で作った花束が売れたのよ!」
「そうだったんですね!
その二人は知り合いだったんですか?」
「わからないわ……ただ、違う時間にそれぞれ来店したけど、二人ともとっても嬉しそうだった
あれはきっと、本当に愛する人へ買った花束ね!
蒼色の綺麗な花を買っていったけど、両手で大切に抱えて歩いていったから」
「それは素敵ですね……おばちゃんは、なんで花屋でバイトしようとしたんですか?」
「そうね、コブシくんは花を渡したことはあるかしら?」
「……ないですね」
「ふふふ、そしたらいつかわかるかもしれないわね
花束はね、買った人も受け取った人も幸せになるものよ
二人を思い浮かべて花を束ねる時間がすごく好きだった
だから、花を見るたびに売った記憶を今でもずっと覚えているの……あっ、そうそう」
思い出にふけた後、おばちゃんは手招きしてひそひそと小声で話し始めた。
「……ちなみに、このスーパーは元々花屋で、父さんはそこの一人息子だったのよ
ふふふ、そしたら私からプロポーズしちゃった
この話、お父さんには秘密よ?」
「ええ!そうだったんですか!?
秘密ですね、わかりました!!!
なんかいいこと聞いちゃいましたね!」
「ふふ、そうなのよ
その頃から無口でシャイだけど、優しくて素敵でねぇ
もし気持ちを伝える時が来たら、花があると良いわ!これは、私の経験話ね
話し過ぎちゃったわ!聞いてくれてありがとうね」
「いえいえ、素敵なお話をありがとうございます!」
「あっ、そうだ
ほら、これ持って帰りなさい!」
ビニール袋に売れ残った苺とバナナを突っ込む。
ちょっと斜めになった容器に入っている果肉は、数分前まで売り物だったため、艶々と綺麗な色をしている。
「わあ!ありがとうございます!それじゃ、また!」
手を振るおばちゃんの向こうから、いつも無愛想だけど温かいおじちゃんの声が聞こえた。
「おう、気ぃつけて帰れよ!風邪引くんじゃねぇぞ!」
なんだか、二人を見ていると優しい気持ちになれるのはそういうことだったのか。
いつもの帰り道。
響くのは、雨と俺の足の音。
片道三十分の家までの道のりで川沿いを歩いている
この川の両岸には、堤防の代わりとなった土手の一本道がそれぞれある。
自転車同士がすれ違うくらいの狭い幅で、あまり人も通らない。
この街の真ん中にある、車が行き来する大通りも近道でいい。
しかし、人間の表情のように川はいつも通って眺める度、様子が違って面白い。
だから、この道が好きだ。
「あっ、にーちゃん!今日もお仕事帰り?」
「おう!ユウくんじゃねえか!もうすぐ小学校かな?
一年生は、もうすっかりお兄さんだなぁ!」
「うん!そうなの!勉強もするんだよ!」
「おお!そりゃすげぇな!
あっ、お母さんもこんばんは」
「まぁ!こんばんは
いつもユウとお話ししてくれてありがとうね」
お母さんと雨の日の散歩をしていた小学生の男の子が声をかけてきた。アルバイト帰りに話すたび、いつの間にか懐かれてしまった。
隣にはビニール傘を差したお母さんが、こちらに笑顔で会釈をしてきた。
「その傘もかっこいいなぁ!」
「そうなんだよ!お母さんに買ってもらったの。」
「そうかぁ、ユウくんは雨は嫌いじゃないのかい?」
「嫌いだったよ……でもね、この傘の下はいつも明るくて、太陽みたい
だからいつもこの傘の下は晴れなの」
ユウくんはいつも会うたびに、
今日はカエルがいただとか、
河原での練習の末自転車に乗れるようになっただとか、
ユウくんにとって大きな発見をいつも教えてくれる。
ユウくんはまっすぐで素直に世界を見ていると感じる。
「ああ、そうだよ
今日もお母さんと一緒でいいな!」
「うん!これからお家でホットケーキ作るの!」
傘を持っている上、雨がっぱを着ている完全防備の状態から、奥歯が見えそうなほど満面の笑みでこちらを覗く。
「おぉ、そりゃいいねぇ
あっ、そうだ!今日、バイト先で苺貰ったからあげるよ
これのっけるとうまいぞ」
「えっ、いいの!ありがとう!やさしーね!」
「あら、そんな……
悪いわよ、コブシくん……!」
「いいんですよ、俺一人だと食いきれないんで、一緒に食べてあげてください」
少し恐縮そうにお母さんがしている横で、ユウくんは喜びを全面に表していた。
「ごめんねぇ、じゃあいただくわ
ほらユウちゃん、ありがとうは?」
「わぁ、にーちゃんありがとう!お礼にアメあげる!」
「おお!いいのか!ありがとう」
お礼にくれた飴玉を口に入れ、ユウくんとお母さんを後にして、家への道へと進む。
味はブドウ味のようだ。
今日の雨は、しとしとと降っていた。
水たまりに落ちる雫のチャポンとした明るい音とは裏腹に、なんだかどんより気分が重たい気がする。
こうして歩いている川の匂いも、土臭さと雨特有のかおりが混じる。
飴が溶けてなくなった空っぽの口で深呼吸をする。
さっきまでの重たい空気がブドウ味になった。
「ユウくんの、おかげだな」
俺は紺色の傘を持ったまま、うつむいて水たまりを避けながら歩いている。
すると突然、正面に人影が見えた。
水たまりに反射する赤色の傘。
心当たりがあって、傘で隠してながら見上げるようにそっと覗く。
その人物は、まっすぐこちらを伏目で見つめる顔馴染みの女子だった。
「あっ、シズク……」
思わず、小声でつぶやいてしまった。
ギリギリ、シズクには聞こえないくらいの距離。
水泳部を辞める前の日以来、会っていない。
もちろん、卒業をしてから会うのは初めてだ。
なるべく、いつも通り。
そう、心がけた。
そう考えているうちに、シズクはこちらをみるなり目を逸らして俺に声をかけずにすれ違った。
「よ、よう、シズク
バイト帰り?」
ここで声をかけなかったら、一生後悔する気がした。
もう一生、これから先話せない気がした。
歩き続けていた足音が止まった。
そして傘ごとゆっくり振り返る。
傘から水滴が落ちた。
「……これからバイトよ
コブシこそ、いつものスーパーのバイトの帰り?」
不機嫌そうにチラチラとこちらを見ているが、なんとか会話には付き合ってくれるみたいだ。
「ああ……そうだ、今日はバナナが余って貰ったんだ……一本食う?」
肩にかけていたエコバッグからバナナを房から取って渡す。言葉を発する前に少し体を後退させて、既に要らないと言いたげな顔をしている。
「……要らないわよ、これからバイトだし」
やっぱり。
「そっか、そうだよな
ちなみにバイトって、もしかして本屋とか?」
「……なんで知ってんのよ
あたしバイトしてることクラスの誰にも言ったことないんだけど……もしかして、先生?」
「まぁ、ね
でも、」
「……でも?」
「前言ってたろ?図書館司書になりたいって
だったら本屋かなって」
「……そっか」
「うん、まぁ、バイトしてることはホウセンカから聞いちゃったんだけどね」
頭をかいて恥ずかしそうにしている俺を見て、身体の向きを直して進もうとする。
引き留めなきゃ。
「なぁ、なんで水泳部辞めちゃったんだよ」
「……あんたには関係ないでしょ」
「うん、関係ないかもしれない
だから、理由を教えてくれなくても良い」
「……うん」
「だからいつか、言いたくなったら教えて欲しいんだ
だって俺が辛い時、一人の時にそばにいてくれたから……俺にも寄り添わせてよ」
ゆっくり俺は、深呼吸をした。
雨音がさらさらと聞こえた。
「だから、待ってるぜ」
シズクからの返事はなかった。
でも、話せてよかった。
ここで声をかけなかったら、一生後悔する気がした。
もう一生、これから先話せない気がした。
折り畳み傘じゃなくてよかった。
「……あたし、バイトだから、じゃあね」
「あぁ、気をつけてな」
そういうと、スタスタと歩き出してしまった。
ついさっきまで舐めていたぶどうのアメは、いつの間にか溶け切ってしまった。
代わりに渡そうとしたバナナをむいて、食べながら川沿いを歩く。
「……うっ、酸っぱいなこのバナナ
まだ青かったな」
少し緑がかっていたせいか全く甘くない。
酸味がなくなり、心地よい甘さになるにはまだ早かったようだ。
「……ただいま」
家に着いた。
家の中から帰ってこない挨拶を事務的にこなし、びしょびしょになった靴下を脱いだ。
ソファーに引っ掛けてあったタオルでひとまず足を拭く。
開いたままの傘を傘立てに戻そうと玄関に向かう。
すると、玄関扉から投函された一通の黒い封筒が見えた。
何やら怪しげだ。
「なんだこれ、見覚えないし誰からかも書いてないな……
普通書くよな?しかも、表面になんか見たことのあるロゴマークが印刷されてる……」
見覚えのない郵便物を持ったまま、リビングに向かった。
ペン立てからカッターを取り出し、封を開く。
中には三つ折りされた紙が一枚。
どうやら手紙のようだ。
文章の最後。
「んー?……えっ」
ここで初めて、送り主を知る。
そこに書かれているのは、あまりにも予想外すぎる人物の名前だった。
俺は、眉間にシワを寄せて思わず声に出してしまった。
「こっ……子安ソリューション株式会社代表の竹取オキナ!?」

