春雨に触れたくて

 大学受験の合否が出る前日の朝、じいちゃんは普通に生活していた。

 
 朝食を食べ終えて、俺が学校へ行く直後、じいちゃんは皿洗いをしたまま話をし始めた。

 
「コブシ、お前もワシと同じように発明家を目指してると言っていたな」

 
「ああ、俺はいつかじいちゃんを越える、すげぇ発明家になるぜ
 だから、まだまだたくさん教えてくれよ」

 
「ハッハッハッ、その調子でがんばるんじゃ
 きっとワシはもう長くない
 もしワシが死んだら、木目の床の書斎にあるもので売れるものは売ってしまってもいいぞ」

 
「じいちゃん、そういうのはいいからさ、すげぇ発明の話とか、昔の珍しい経験の話とかさ、そういうの教えてくれよ‥」

 
「まぁ、そんな後ろ向きになるな
 次にこの時代を引っ張っていくのは、お前の番になる
 それだけだからな
 じゃあ、ワシから次の発明家に、二つある最高傑作うちの一つをお前にプレゼントしてやろう」

 
「最高傑作?どんなやつなんだ?」

 
「気になるか?
 もし、ワシが死んだらプレゼントは書斎の机の上から二段目の引き出しを開いてくれ、そこに入っておる
 もう一個はあげたくてもあげられないものが、いずれは出会うはずだ」

 
「そうか……ありがとう」

 
 
 慣れた手つきで皿洗いをしている。

 
 テキパキと家事をやるその後ろ姿は今思えば、すぐに寿命を全うする老人には思えないほど、背筋はピンと伸びていた。

  
 そしていつも、俺と話してるときのじいちゃんは、とっても嬉しそうにしていた。
 

「でも、それをくれたって俺は使い方も作り方も知らねえ
 だから今度教えてくれよ
 まだ、聞きたいことや知りたいことが、たくさんあるからさ」
 

「ハッハッハッ、お前は口は悪いが、そのまっすぐで誰よりも優しいところがワシは大好きじゃ
 安心せい、どこにいても見守ってるからの」
 

 
 じいちゃんはもしかしたら、この時にはすでにもう長くないことをわかっていたのかもしれない。
 
 最期の瞬間に、俺と話せないこともわかっていたのかもしれない。
 

 
「コブシ、お前はなぜワシを超える発明家になりたい?」

 
「俺は、俺は、じいちゃんに憧れて……」
 

「それはわかっておる
 自分の中の言葉で教えてほしい」
 
 
 相変わらずこちらに背を向けたまま、話し続ける。
 

  
 それでもわかる。
 
 いつもの優しい声で、笑顔で、語りかけていること。
 
 込み上げる思いを全てまとめて、一言を放つ。

 

「……目の前の人を助けたい」
 

 じいちゃんはその言葉を聞くと、一瞬皿を洗う手を止めた。そして、こちらを振り返る。

 
「さすがはワシの孫じゃ
 だからこそ、ワシにはできなかったことをお前に託したい
 ワシが一生を賭けても助けられなかったものなんじゃ」
 

 じいちゃんは、再び皿洗いを始めた。
 

「いつかその優しい手で、助けた人の涙を拭い、その人を守れる男になってくれ」

 
 
 雲ひとつない青空。

  
 二人で暮らす一軒家のガラス窓から青天を見上げた。

  
 明日の合格発表の結果にソワソワしていた俺は、どんな結果であれ、ちゃんと応えられる人生を歩みたいと思った。

 

 リビングで温かい緑茶を飲んでいた俺は、そこに残った苦い茶渋を飲み干す。
 
 リビングのフローリングに手をついて立ち上がる。
 

「じいちゃん、皿洗い手伝うよ」



 
 
 次の日。

 迎えた大学の合格発表の日。

 最近では珍しく、豪雨の日だった。


 
  
 折り畳み傘を畳む暇もないほど、足早に歩いていた。

 
 試験の時以来にやってきた大学の敷地内は、水たまりができていたが、桜の花はまだ蕾のままで枝についている。


 運動靴に滲む雨水はいつもより冷たく感じた。

 
 受験番号が書かれた紙を握りしめて、数字の羅列に目を向ける。


 順番に等間隔で並んでいる番号。


 あと3つ……あと2つ……あと、1つ……


 

 
 合格発表の掲示板と自分との間の視界に雨が横切る中、握った受験番号と同じ数字はそこにあった。


 
「じいちゃん……俺、やったよ!やったんだよ!!!」


 震える拳。


 まだ肌寒い春の雨の中、熱くなる身体は酸素を欲し、息を早めた。


 鳴り響く心臓を落ち着かせながら、喜びを噛みしめる。

 

 
 事務室で通知を受け取るまでは信じられなかったが、やはり合格している。


 濡らさないようにクリアファイルに入れて、家へと駆け出した。
 


 早く、早くじいちゃんに伝えなきゃ。

 
 
 
 プルルル……


 突然知らない番号から電話がかかってきた。

  
「なんだ、誰だ?この番号」

 
 途中の河原道。

 家までいつもより遠く感じる河原道。


 濁流の音が聞こえなくなるほど、画面向こうから声が響く。

 
「もしもし、小松です」

 
「もしもし?こちら小松タロウさんのお孫さん、小松拳さんのお電話番号でお間違いないでしょうか?」

 
「はい、そうですが」

 
「そうでしたか……こちら、よろず病院です
 先ほど、小松タロウ様が救急搬送され、現在集中治療室におります
 容体が急変する場合もございますので、今すぐに来てください」

 
「えっ、じいちゃんが……?」

 
 電話を切るなり、走り出した。


 ズボンが汚れることも厭わなかった。
 

 
 もっとたくさん話したい。


 合格したことも、これからの夢のことも。


 
 まだまだ教えてほしいこと、たくさんあった。
 


「……ハアハア、あそこだ」

 
 病院に着いた。


 小さな診療所で、よく定期的に検査をしてもらっていたところだった。
 

「クソ、何で閉じねぇんだ」

  
 入口の自動ドアが開きっぱなしの前で、折り畳み傘がうまく畳めない。

 
 留め具の位置が見つからず、もたついてしまった。

 
 パチッと止めてから階段を駆け上がり、病室のドアを開ける。

 
 そこには青い入院着を着させられたじいちゃんがベッドの上に横たわっていた。


 目をつぶった横顔。

 
 いつの間にか小さくなったように見えた身体。



 俺は飛び込むように駆け寄った。
 
 
「……じいちゃん!!!」


  
「二◯三◯年三月十日、午後三時……ご臨終です」


 
「なんだって……」


「君がコブシくんかな?」


「はい……なんで俺の名を」


「そうか、よく来てくれたね
 私はこの病院の医師だ
 ごめんね、助けてあげられなくて」



「じいちゃんは……どうして……
 さっきまで元気だったのに」 


「実は前から心臓の重い病に苦しんでいたんだ
 でも、コブシくんには受験の邪魔になるからって、秘密にするように言われていたんだ」



「そんな……
 俺、さっきその合格発表だったんです
 受かったから一番に伝えたかったのに」


「そうだったんだね、よく頑張ったよ
 おじいさんも本当にさっきまで、君の名前を呼んでいたんだ」


 
「俺の名前を……」


 
「そうだよ、だからここで手を握って話しかけてあげてくれないか
 まだ、温かいから聞こえるはずだよ」

  
 そう言って、数名の看護師と医者が病室を出た。



 もう息は引き取っているはずだから、聞こえるはずはない。


 俺は嗚咽混じりの声で、懸命に届くように伝えた。


「なあ、じいちゃん……俺さあ合格したよ……
 じいちゃんがちゃんと支えてくれたから、ちゃんと応援してくれたから……
 だからね、ちゃんと、ちゃんと、ここに伝えに来たよ……」

  
 あと少し、間に合わなかった。

  
 もっと早く走り出していれば。


 折り畳み傘なんて、畳まなければ。


 そもそも、雨なんて降ってなければ。





   
 この街には、昔から天気を晴れにさせる神様がいるという言い伝えがあった。

 三重県には神様が集まる場所があり、そこにまつられているらしい。

 いろんな災害や大雨から守ってくれるって学校で習ったけど、こんなときに限って雨じゃないか。

 

 じいちゃんの最期にも俺は会えなかった。


 どうしてくれるんだ、神様。

 

 じいちゃんに直接伝えたかった。
 




 やっぱり、雨は嫌いだ。





 

 俺が合格した、じいちゃんが死んだあの日も雨だった。

  
 そして、今日も雨は降り続ける。
 

 あの日からずっと、折り畳み傘は使っていない。
 

  
 使えない。
 

 
 だって、触れるたびに思い出してしまうから。


 
 だから、俺は夢を諦められない。

 夢を、諦めたくない。


 これから始まるんだ。
 




 



 


「そうだ、『最高傑作』ってなんだろう」
 
 
 最近、忙しない日々を過ごしていたからか、心に余裕ができた気がした。
 
 
 じいちゃんの『最高傑作』を見に書斎へ行く。
 

 
 俺の憧れる発明家、じいちゃんの書斎は平屋の一番奥にあり、六畳一間ほどの部屋だった。
 
 
 入って左手の机の前の窓からは、遠くの雨空に『トリプル』連絡通路がぼんやりと浮かんでいるのが見えた。
 

  
「相変わらず床の本が山積みで、歩きにくいなぁ
 木目のフローリングすら見えねぇよ」
 
 

 あまりに本が多くて、正面の本棚にまで到達しない。

 
 とりあえず何もない右手のスペースに足元の本を積み上げて寄せた。
 
 
 机はよくあるサイドに三段の引き出しがあるタイプの学習机だ。

 
 
 だが、部屋が散らかっているせいで三段のうち二段は、積み上がるガラクタや書類に埋まっている。

 
 

「ゴホッゴホッ……やっと、二段目が見えた……」
 
 
 舞い上がる埃にむせながら段ボールにまとめ、二段目の引き出しを引く。


 

 
 カラン…

 
 
「なんだ、これ?」

 
 手前に引いてみると一本の銀色の棒が転がる。

 手にとってみる。
 
 どうやらこれが、その『最高傑作』らしい。
 

 太い油性ペンくらいのサイズのそれはぱっと見、凹凸のない銀色の棒で、その中心からはリコーダーの吹き口のような小さな出っ張りがある。
 
 
 不思議に思って眺めていると、その棒以外に引き出しの中には四つ折りの紙が入っていた。どうやら説明書のようだ。
 

「……『水中呼吸器』?」
 

 自分に理解させるように、説明書の文章を読み上げた。
 

「『この機器は口にくわえるだけで、水中に含まれる酸素を集め、最大連続で十時間呼吸を可能にします』だって!?
 じいちゃん随分すげえもん作ったなこれ」
 

 くわえるための突起をよく見ると、マウスピースの形になっている。
 

 手に持って駆け足で風呂場に行き、桶に水を張って書斎の床に置いて試してみる。
 

 バシャ!ブゥーン……

 
 咥えて顔ごと突っ込むとモーター音が鳴り、地上と同じ感覚で空気を吸うことができる。
 

 驚くほど、息苦しさは全くない。

 
「これ……水中で呼吸できるぞ!?
 とんでもないものを作ったなじいちゃん
 この世でいろんなところで求められるだろうに、よくまだ出回ってねぇな」
 

 一見、なんの変哲もない銀色の棒が水中での呼吸を可能にさせる。

 それもボンベなどの付属品無しで。

 
 『最高傑作』と自画自賛するのもわかる。
 

「でも、ところどころ気になるんだよなぁ
 機器の素材が見たことないんだよなぁ
 鉄のような丈夫さと重厚感を感じるけど、この強度をプラスチックのような軽さで実現しているのが不思議だ」
 

 説明書の材料欄を見ると付属パーツで鉄やらチタンやら見慣れた物質が並ぶ中、主な材料として初めて目にするものがある。

 
 
『ゲッコニウム 』

 
「なんだそれ?そんな物質聞いたことないぞ」
 

 
 書斎でつぶやく。


 たった一人きりのはずなのに、物でいっぱいのせいか、部屋の圧迫感で声が反響して聞こえた。
 

 そんな呼吸のできる製品の製造元は聞き覚えのある社名だった。


 
 『子安ソリューション株式会社』


 
「『子安ソリューション株式会社』って、もしかしてあの宇宙サーキット場『トリプル』を作っているあの会社!?
 あの胡散臭い代表の!?一体、どうして…」
 

 
 
 俺は右手の親指の腹で、未知の素材の機器についた水滴を拭った。