二○三○年三月十七日、シズクが水泳部の退部届を出したらしい。
そんなおかしな話、あるかよ。
昨日の帰り道、俺が週末の大会の応援に行くって言ったら、あんなに喜んでたじゃないか。
慌てていると教室のドアが開いて、ホウセンカが入ってきた。
ホウセンカはうちの担任であり、水泳部の顧問でもある。
俺は飛びつくように問いただした。
「ホウセンカ、シズク水泳部辞めたって本当かよ?」
「ああ、そうだ
今朝、俺に退部届出してきたんだよ」
「そんな……なんで、引き留めなかったんだよ!
あいつ、週末大会だよな?努力が水の泡じゃないか」
「引き留めたさ、でもだめだった
ずっと一生懸命練習してきて、しかも結果も出してきているところだったこと、俺も見てたからな」
「じゃあ……なおさら何で……」
「まぁ、理由は人それぞれだろうが……コブシは直接、なんか聞いたりしてないのか?」
「いいや、聞いてないんだ
むしろ昨日だって帰り道、大会で結果出すんだ、って張り切ってたんだ」
「そうか……今日も体調が悪いようだから帰ったんだ
…コブシ、もしシズクの体調が落ち着いてそうだったら放課後、話を聞いてくれないか?お前ら幼馴染だろ?」
「……わかった」
チャイムが鳴った。朝の学活が始まる時間だ。
わちゃわちゃと話していたクラスが、席につくなり静かになる。
俺たちは、幼馴染だ。
シズクは幼い頃、両親を亡くしてからずっと一人で暮らしている。
亡くしたと言っても、突然姿を消したらしい。
シズクの住む家から数メートル離れた山間にポツンと建っている家で俺とじいちゃんは暮らしていた。
よくうちで晩御飯を食べては、俺が家まで送ってあげていた。
じいちゃんとシズクの両親は古くからの知り合いだったようで、シズクが一人になってからはよくじいちゃんはシズクの家で家事をやったり、料理を作ったりしていた。
つまり、親同然として俺とシズクは、ここまでじいちゃんが育ててくれたのだ。
俺のじいちゃんは実は発明家だった。
普段は『小松タロウ』と名乗っているが、発明家の時には違う名前を使かっていた。
近所の人からは頼られる何でも屋みたいな人で、家事も料理もなんでもできてかっこいい。
いつしかそんなじいちゃんみたいな、いや、じいちゃんを超えるほどの発明家に俺もなりたいと思った。
ある時、こんな会話をしたことがあった。
「コブシ、進路希望調査っていうもん書けって先生言ってたぞ?何になるのか決めたのか?」
「……なぁ、じいちゃん
俺さ、じいちゃんを超える発明家になりたいんだよ」
周りの大人はもっと真っ当な道を進みなさい、だとか、どうやって生活していくつもり、だとか言い放つ。
でも、じいちゃんは違った。
「おぉ、そうか、それは嬉しいな!そしたらワシを超えて、宇宙一の発明家になってくれよ、わっはっはっは!」
じいちゃんは馬鹿にするどころか、その夢を誰よりも応援してくれた。
俺はじいちゃんと話した夢を諦められない。
夢を、諦めたくない。
それなのに、シズクは夢を諦めた。
「……昨日、あんなに意気込んでたじゃないか」
席に戻る途中、抑えられない感情として俺は小声で溢した。隣のシズクがいない窓際の一番後ろは寂しく感じる。
視界の左、教室の窓から見える『トリプル』の連絡通路は、雨に打たれて濡れた表面はツヤツヤと、不自然に光が反射しているように見えた。
帰り道もまだまだ、雨が降っていた。
一人の帰り道なんて久々だ。
普段はシズクが他の人には話さない、愚痴や悩み事などをずっと話しかけてくるものだから、静かに感じる。
雨の日の傘にぶつかる水滴の音が、こんなにも大きかったなんて。
シズクの家の前。
どの部屋も電気は消えている。
ピンポーン
「なぁ、シズク
元気してるか?今日の授業の宿題、持ってきたぞ」
「……」
インターホンにすら出ない。
もう一度押す。
ピンポーン
やはり返事はない。
「体調が悪かったら、無理しなくていい
晩飯、食べたくなったらウチこいよ
宿題ポストに入れておくからな」
聞いているかはわからない。
もし聞いているなら、届いて欲しかった。
チャック付きの袋に入った宿題や配布物を投函するとき、傘の下から俺の手のひらが出る。
親指の付け根あたりに水滴が落ちて、冷たく感じる。
「明日、学校来るかな」
そのままピチャピチャ音を立てて、シズクの家を後にした。
あまりの曇天で、まだ午後五時前なのに夜みたいだった。
次の日も、その次の日も雨だった。
そして、やっぱりシズクは学校に来なかった。
帰り道、必ずシズクの家を寄っては押すインターホン。
チラシなどの当館物が溜まっていくポスト。
声が帰ってこないインターホン。
「この中身がスッキリする頃には、ちゃんと話が聞けたらいいな」
最後に話をしたのは、帰り道。
異変はなかったはずだ。
俺が発明家になること。
シズクは水泳でメダルを取ること。
お互いに大切な人とした約束を確かめ合った。
屋上で弁当を食べていて、隣に座ったあの日。
途中で雨が降ってきた、あの日。
ああ、やっぱり雨の日なんだな。
どうしても、好きにはなれない。
「まだ、春には程遠いや」
吸い込んだ空気は、雨のせいで冷え込んでいて、肺の中で凍るようだ。
吐いた息は白くなって空へ漂う。
その曖昧な白い吐息に、幾重も針のような雨が突き刺さっていた。
水泳の大会だった土曜日も、卒業証書の受け取り方を練習した週明けの月曜日も、ずっと雨は降っていた。
あれからずっと会えないまま、僕たちは卒業式の当日を迎えてしまった。
そんなおかしな話、あるかよ。
昨日の帰り道、俺が週末の大会の応援に行くって言ったら、あんなに喜んでたじゃないか。
慌てていると教室のドアが開いて、ホウセンカが入ってきた。
ホウセンカはうちの担任であり、水泳部の顧問でもある。
俺は飛びつくように問いただした。
「ホウセンカ、シズク水泳部辞めたって本当かよ?」
「ああ、そうだ
今朝、俺に退部届出してきたんだよ」
「そんな……なんで、引き留めなかったんだよ!
あいつ、週末大会だよな?努力が水の泡じゃないか」
「引き留めたさ、でもだめだった
ずっと一生懸命練習してきて、しかも結果も出してきているところだったこと、俺も見てたからな」
「じゃあ……なおさら何で……」
「まぁ、理由は人それぞれだろうが……コブシは直接、なんか聞いたりしてないのか?」
「いいや、聞いてないんだ
むしろ昨日だって帰り道、大会で結果出すんだ、って張り切ってたんだ」
「そうか……今日も体調が悪いようだから帰ったんだ
…コブシ、もしシズクの体調が落ち着いてそうだったら放課後、話を聞いてくれないか?お前ら幼馴染だろ?」
「……わかった」
チャイムが鳴った。朝の学活が始まる時間だ。
わちゃわちゃと話していたクラスが、席につくなり静かになる。
俺たちは、幼馴染だ。
シズクは幼い頃、両親を亡くしてからずっと一人で暮らしている。
亡くしたと言っても、突然姿を消したらしい。
シズクの住む家から数メートル離れた山間にポツンと建っている家で俺とじいちゃんは暮らしていた。
よくうちで晩御飯を食べては、俺が家まで送ってあげていた。
じいちゃんとシズクの両親は古くからの知り合いだったようで、シズクが一人になってからはよくじいちゃんはシズクの家で家事をやったり、料理を作ったりしていた。
つまり、親同然として俺とシズクは、ここまでじいちゃんが育ててくれたのだ。
俺のじいちゃんは実は発明家だった。
普段は『小松タロウ』と名乗っているが、発明家の時には違う名前を使かっていた。
近所の人からは頼られる何でも屋みたいな人で、家事も料理もなんでもできてかっこいい。
いつしかそんなじいちゃんみたいな、いや、じいちゃんを超えるほどの発明家に俺もなりたいと思った。
ある時、こんな会話をしたことがあった。
「コブシ、進路希望調査っていうもん書けって先生言ってたぞ?何になるのか決めたのか?」
「……なぁ、じいちゃん
俺さ、じいちゃんを超える発明家になりたいんだよ」
周りの大人はもっと真っ当な道を進みなさい、だとか、どうやって生活していくつもり、だとか言い放つ。
でも、じいちゃんは違った。
「おぉ、そうか、それは嬉しいな!そしたらワシを超えて、宇宙一の発明家になってくれよ、わっはっはっは!」
じいちゃんは馬鹿にするどころか、その夢を誰よりも応援してくれた。
俺はじいちゃんと話した夢を諦められない。
夢を、諦めたくない。
それなのに、シズクは夢を諦めた。
「……昨日、あんなに意気込んでたじゃないか」
席に戻る途中、抑えられない感情として俺は小声で溢した。隣のシズクがいない窓際の一番後ろは寂しく感じる。
視界の左、教室の窓から見える『トリプル』の連絡通路は、雨に打たれて濡れた表面はツヤツヤと、不自然に光が反射しているように見えた。
帰り道もまだまだ、雨が降っていた。
一人の帰り道なんて久々だ。
普段はシズクが他の人には話さない、愚痴や悩み事などをずっと話しかけてくるものだから、静かに感じる。
雨の日の傘にぶつかる水滴の音が、こんなにも大きかったなんて。
シズクの家の前。
どの部屋も電気は消えている。
ピンポーン
「なぁ、シズク
元気してるか?今日の授業の宿題、持ってきたぞ」
「……」
インターホンにすら出ない。
もう一度押す。
ピンポーン
やはり返事はない。
「体調が悪かったら、無理しなくていい
晩飯、食べたくなったらウチこいよ
宿題ポストに入れておくからな」
聞いているかはわからない。
もし聞いているなら、届いて欲しかった。
チャック付きの袋に入った宿題や配布物を投函するとき、傘の下から俺の手のひらが出る。
親指の付け根あたりに水滴が落ちて、冷たく感じる。
「明日、学校来るかな」
そのままピチャピチャ音を立てて、シズクの家を後にした。
あまりの曇天で、まだ午後五時前なのに夜みたいだった。
次の日も、その次の日も雨だった。
そして、やっぱりシズクは学校に来なかった。
帰り道、必ずシズクの家を寄っては押すインターホン。
チラシなどの当館物が溜まっていくポスト。
声が帰ってこないインターホン。
「この中身がスッキリする頃には、ちゃんと話が聞けたらいいな」
最後に話をしたのは、帰り道。
異変はなかったはずだ。
俺が発明家になること。
シズクは水泳でメダルを取ること。
お互いに大切な人とした約束を確かめ合った。
屋上で弁当を食べていて、隣に座ったあの日。
途中で雨が降ってきた、あの日。
ああ、やっぱり雨の日なんだな。
どうしても、好きにはなれない。
「まだ、春には程遠いや」
吸い込んだ空気は、雨のせいで冷え込んでいて、肺の中で凍るようだ。
吐いた息は白くなって空へ漂う。
その曖昧な白い吐息に、幾重も針のような雨が突き刺さっていた。
水泳の大会だった土曜日も、卒業証書の受け取り方を練習した週明けの月曜日も、ずっと雨は降っていた。
あれからずっと会えないまま、僕たちは卒業式の当日を迎えてしまった。

