翌朝、窓から差し込む光が目をくすぐり目が覚める。昨日の不気味なメッセージの影が無くなったのか非常に快眠であった。準備を済ませ学校へ向かう。その道中には人が見当たらず時間が流れる感覚がなくなったかのような不穏な空気が漂いパラレルワールドへ迷い込んだかのようだった。
少し歩くと学校の校舎が見えてきた。小鳥の囀り、世界を循環させる薫風、そこから香る青葉の匂いはいつもの日常を呼び戻してくれた。校舎に近付くと長い一本道、校門に一人の影が見えてきた。どうやらこちらに向かって手を振っているみたいだが、、、
「おーい!遥人君!私ですー」
目を凝らしてみるとその人は日向つむぎさんだとわかった。周りを照らし和やかにする向日葵のような笑顔だ。僕も笑顔で手を振り返す。
「つむぎさんもありまの応援?あいついろんな人に声かけすぎだろ」
「いえいえ、お誘いをいただいたのはとても嬉しかったですよ。私とはあまり接点もなかったのに。あとつむぎでいいですよ、呼び方」
なんていい子なんだろうか、恐らくスポーツにあまり関心はないほうだと思われるが。
「あ、じゃあつむぎ。無理に来ることはなかったのに。あいつ中々周りが見えないところあるからな。今日は説教して帰らないとだな」
「いえいえ説教だなんて、それに遥人君も行くみたいでしたから私も誘いをお受けしたんです。ありまさん、とても陽気な方でかわいらしいですよね。」
そんな会話をしながら僕たちは校舎の横に併設されている体育館を横目に校舎の二階から体育館へとつながっている連絡通路から応援席へと移動した。
中に入るや否やアップの掛け声、シューズ特有の床を擦る音が鳴り響き熱気が目、鼻など全身からものすごく伝わってくる。熱気という湿度に保湿されそうなほどに。
「すごいね熱気だね、それにしても練習試合なのにここまで気合が入るとは、試合でもあるまいし」
僕はただただ圧倒されていた。これが部活というものであり団体であるということ。団体を避けてきた僕にとってはあまりにも縁がない世界だと思っていたがこうして何かに本気に取り組む部活というものはいいものなのかもしれない。
紬が少し遅れて口を開く。
「練習試合だからですかね、多分」 「え?」
「練習時だからこそ全力で臨む。そうでなければ本番で勝てはしないと思います。」
ボソッとつぶやくかのように答えた紬の横顔はどこか儚げで負のオーラを纏っているようにも見えた。寂寥な様子は紬のイメージを瓦解させ僕を驚かせた。
その一瞬紬に一筋の淡い光が差し込んだかのように、そして周りの熱気も声援も掛け声も神隠しにあったように消え去り、そのただならぬ様子に僕は紬をただ見つめることしかできなかった。
「あ、ほら練習は本番のように、本番は練習のようになんて言い方するじゃないですか!ごめんなさい変な言い方になったし、急にシリアスな雰囲気になりすぎですよね」
「あ、いやいやなんか格言みたいでよかったよ」
そんな会話をしていると閉じていた眼を開くかのように周囲の音が僕の脳に響いた。あの神隠し体験はなんなのか、そしてあのつむぎの雰囲気どこか卯月さんに似ているようなそんな気がしたが、気のせいなきがしたので貴重な体験として胸にしまっておくことにした。
「……はぁ、本当にすごい熱気だな」
僕は手元のスポーツ飲料のボトルを握りしめ、圧倒されていた。
ホイッスルの鋭い音が鼓膜を突き抜け、天井の高い窓から差し込む光の筋が、コート上を舞う白いボールを神々しく照らしている。
僕たちが座ったのは、ありまのチームのベンチとはちょうど対角線上に位置する、少し高い観客席の端だった。
コートの向こう側、ありまは今、ちょうど後衛のポジションに下がっている。
しかし、彼女の肩は不自然に強張り、いつもなら周囲を鼓舞するはずの大きな声も、どこか上ずっているように見えた。
「……ありまのやつ、ガチガチじゃないか。練習試合であんなに緊張するなんて珍しい」
「ふふ、そうですか? 私は、あの子が『何か』を必死に探してるように見えますよ」
「それはどういう?」
隣でつむぎが、面白そうに顎を引いてコートを見つめる。
その直後、審判の笛が鳴り、ありまのサーブ順が回ってきた。
彼女はエンドラインに立ち、深く息を吐いた。
けれど、ボールを突く手元がわずかに震えている。第一セットの開始。いつもなら強気な彼女が、今はまるで迷子のような顔で、一度だけ観客席の遠くを見渡した。
その視線が、僕を捕らえた。
僕と目が合った瞬間、ありまの瞳にパッと「色」が灯るのが分かった。
昨日、ハンバーガー屋でありまが見せた、あの負けん気の強い、太陽のような輝き。
「……あ」
ありまはニカッと、少年のような不敵な笑みを浮かべた。
彼女は右手を高く上げ、僕に向かって「見てなさいよ!」と言わんばかりに親指を立てて見せる。
「……一ノ瀬君、見つけたみたいですね。ありまさん、本当に嬉しそう」
つむぎがクスクスと肩を揺らす。
ありまはトスを高く上げ、一歩、二歩と力強く踏み込んだ。
跳躍。
彼女のポニーテールが空中で扇状に広がり、逆光の中で黄金色に輝く。
バチンッ! と、体育館の空気を震わせるような快音が響いた。
放たれたボールは、相手チームのレシーバーの手に触れることなく、エンドライン際に鋭く突き刺さる。
サービスエース。それも相手側が誰も触れられていなかった、ノータッチエースというやつだ。
「よっしゃあああ!」
ありまの叫びが体育館に響き渡った。それと同時に緊張から緩和されたかのように観客が一気に沸き体育館がありま色へと変化していったのが分かった。
彼女はコートを駆け回り、ベンチに向かってではなく、まっすぐに僕たちのいる観客席へ向かって拳を突き出した。
「一ノ瀬ー! 今の見た!? 完璧でしょ!」
周囲の部員たちが「えっ、誰?」「ありまの彼氏?」とざわつき始め、視線が一斉に僕の方へ集まる。
「……あいつ、本当に周りが見えてないな。説教確定だ」
僕は顔が熱くなるのを感じながら、思わず手元を隠した。
けれど、そんな僕の様子を見て、ありまはさらに楽しそうに笑い、次のサーブに向けて再び力強く構えた。
隣に座るつむぎは、そんな二人のやり取りを、どこか優しく、けれどどこか遠いものを見守るような眼差しで見つめていた。
体育館の熱気は、試合が進むにつれて飽和状態に達していた。
ありまのチームは、彼女の強烈なサービスエースをきっかけに完全に勢いに乗っている。
「ナイスキー、ありま!」
「一本、切るよ!」
コート内を飛び交う叫び。ありまは前衛に上がり、ネット際で高く跳躍した。
その瞬間、彼女の視線が再び観客席の僕を射抜く。
「いっちー、瞬き厳禁だよ!」
言葉にならない叫びと共に振り下ろされた右腕が、ボールを相手コートのど真ん中に叩きつけた。
「うわぁ、今の……! 一ノ瀬くん、ありまさん本当にかっこいいですね」
つむぎが身を乗り出して拍手をおくる。
「……あいつ、見られてると思うと余計に張り切るんだ。お調子者なのは昔からだよ」
「ふふ、それって『応援の効果』を素直に認めてるってことなんですかね?」
つむぎは僕を横目で見ながら、いたずらっぽく笑った。試合が終わるまで、彼女はこうしてありまのプレーを褒めたり、僕とありまの関係を冷やかしたりと、まるで「新しい友達の恋路」を楽しむ女子高生そのものの顔をしていた。
試合はありまのチームの快勝。
着替えを済ませて飛び出してきたありまは、スポーツバッグを振り回しながら僕たちに駆け寄ってきた。
「見た!? 最後のブロック! 相手のアタッカー、私の威圧感にビビってたよね!?」
「はいはい、すごかったよ。ありまのドヤ顔、応援席までしっかり届いてたから」
「なによそれ! つむぎちゃんだって、いっちーが『かっこいい』って言ってたって言ってたもん!」
「えっ、言ってないよ」
「言ったってばー!」
「私はとてもかっこいいと思いましたよ、また見に行きたいです」
「つむぎちゃんの優しさが心に染みるよー、いっちーにはぜひ見習ってもらいたいね」
駅までの道中、三人の会話は絶え間なく続いた。三人の会話は青春色で昼間の青空を彩っているようだった。ありまが「今日はご褒美にコンビニのアイスだよねー」と提案し、駅前のコンビニでアイスを買い食いする。高校生らしい、なんてことのない、けれど二度と戻らない輝きを放つ風景。
「じゃあ、私はこっちだから。二人とも、また明日学校で会いましょうね!」
つむぎが軽やかに手を振って角を曲がっていく。
残されたのは、僕とありまの二人だけ。
「……ねえ、いっちー」
ありまが立ち止まり、真っ青な空を見上げた。雲一つない空は、あまりに高い彩度のせいで、どこか現実味のない書き割りのように見える。
「これってさ、『プロローグの煌めき』だと思わない?」
「プロローグ……? まだ昼過ぎだぞ。これから一日が本格的に始まるって時間だろ」
「そうだよ。だからこそだよ。一番光が強くて、影が濃くて、世界が全部丸見えな感じ。……あのね、物語ってさ、最初の一ページ目を開いた瞬間に、ページの間から眩しい光が溢れ出すような感覚があるじゃん? 『さあ、これから何が起きる?』っていう、あの期待感だけでお腹がいっぱいになるような」
ありまは、ポニーテールを跳ねさせて僕を振り返った。
「この真昼の光の中にはさ、『あたしたちがまだ手をつけてない、最高の可能性』が詰まってるんだと思うの。昨日までの悩みも、テストの点数も、全部この光が白く飛ばしちゃって。ここから先は、あたしたちが新しく書き込むための真っ白な余白……みたいなさ。そんな感じ、しない?」
彼女が見つめているのは、ただの五月の青空ではない。
すべてを肯定し、未来を信じるための、傲慢なまでに眩しい「始まり」の光だ。
「この今の瞬間も物語が形成されていて私たちの人生はどうなっていくかわからないし、だからこそこういうきれいな空を見ていると特に人生を振り返っちゃう的な?」
「……なるほどな。相変わらず頭の中はメルヘンで忙しそうだ。オゾン層が薄れて紫外線が直撃してる心配をするよりは、よっぽど幸せそうで羨ましいよ、ありま先生」
「ちょっと! せっかくいい雰囲気で話してあげたのに! 先生ってなによ! 今の、完全に私を煽ってるでしょ!?」
ありまが頬を膨らませ、僕の肩を小突こうと腕を伸ばす。
その屈託のない笑顔。その、光に満ちた日常。
――その「眩しさ」が、不意に、鋭利な刃物のように反転した。
伸ばされたありまの指先が、僕のシャツに触れる直前。
世界から、あらゆる音が吸い取られた。
「……っ」
ありまの動きが、スローモーションのように停滞する。
最高潮に達していた太陽の光が、まるで電圧が下がった電球のように、一瞬だけ不自然に「明滅」した。
そして、その光の瞬きの間に、空からあり得ないものが降り注いだ。
「桜」だ。
この炎天下、五月の熱気の中を、それは物理的な質量を持って舞い落ちてきた。
欅(けやき)の若葉が茂る街路樹の隙間から、まるで雪崩のように溢れ出すピンク色の破片。
それは、生物学的な美しさを超えた、「哲学的な美」を纏っていた。
すなわち、「あまりに強すぎる陽光が、見せてはいけないはずの過去の記憶を焼き付けてしまった」かのような、残酷なまでの鮮明さ。
ひらりと、一枚の花びらが僕の頬に触れる。
それは柔らかい春の感触などではなく、絶対零度の薄氷のように僕の肌を切り裂き、一瞬で体温を奪っていった。
春を象徴し温かいはずの桜はその温もりを失い冬の面影が見えるかのような冷酷な冷たさを感じた。
「……冷たい。なにこれ、いっちー、何が起きてるの……?」
ありまの声が震える。
彼女が手のひらを広げると、舞い落ちる桜は彼女の肌に触れた瞬間に、デジタル信号のような四角い粒子となって崩れ、消えていく。
この桜は、ただの幻覚ではない。でも桜だ、それだけは間違いない。それなのにこの切り裂くような冷たさは一体。
何者かが世界というシステムを切り取り「五月の午後」という現実を「四月の午後」へと書き換えているようだ、誰かがその場所に刻み込んだ「消せない未練」を露呈させてしまったエラーの産物だ。
春という季節に置いていかれた、透明な孤独が実体化したような、暴力的なまでの美的側面。
「見て、いっちー。……あそこに、誰か……」
ありまが指差す、アスファルトの上。
真上から照らす太陽が、僕たちの足元に最短の影を落としている。
けれど、降り注ぐ桜の花びらは、何もない空間――僕とありまのちょうど真ん中に、「見えない第三者」の形を描き出していた。
花びらがその「誰か」の肩や、ポニーテールではない短めの髪に降り積もり、そこにあるはずのない少女のフォルムを、陽炎の中で鮮やかに浮かび上がらせていく。
(桜子……なのか)
確信が、冷たい水のように背筋を伝う。
ありまが語った、希望に満ちた「プロローグ」を嘲笑うかのように。
世界は今、その眩しすぎる光をレンズにして、僕たちの記憶から消去されたはずの「彼女」を、この残酷な真昼の街に再び現像しようとしていた。
少し歩くと学校の校舎が見えてきた。小鳥の囀り、世界を循環させる薫風、そこから香る青葉の匂いはいつもの日常を呼び戻してくれた。校舎に近付くと長い一本道、校門に一人の影が見えてきた。どうやらこちらに向かって手を振っているみたいだが、、、
「おーい!遥人君!私ですー」
目を凝らしてみるとその人は日向つむぎさんだとわかった。周りを照らし和やかにする向日葵のような笑顔だ。僕も笑顔で手を振り返す。
「つむぎさんもありまの応援?あいついろんな人に声かけすぎだろ」
「いえいえ、お誘いをいただいたのはとても嬉しかったですよ。私とはあまり接点もなかったのに。あとつむぎでいいですよ、呼び方」
なんていい子なんだろうか、恐らくスポーツにあまり関心はないほうだと思われるが。
「あ、じゃあつむぎ。無理に来ることはなかったのに。あいつ中々周りが見えないところあるからな。今日は説教して帰らないとだな」
「いえいえ説教だなんて、それに遥人君も行くみたいでしたから私も誘いをお受けしたんです。ありまさん、とても陽気な方でかわいらしいですよね。」
そんな会話をしながら僕たちは校舎の横に併設されている体育館を横目に校舎の二階から体育館へとつながっている連絡通路から応援席へと移動した。
中に入るや否やアップの掛け声、シューズ特有の床を擦る音が鳴り響き熱気が目、鼻など全身からものすごく伝わってくる。熱気という湿度に保湿されそうなほどに。
「すごいね熱気だね、それにしても練習試合なのにここまで気合が入るとは、試合でもあるまいし」
僕はただただ圧倒されていた。これが部活というものであり団体であるということ。団体を避けてきた僕にとってはあまりにも縁がない世界だと思っていたがこうして何かに本気に取り組む部活というものはいいものなのかもしれない。
紬が少し遅れて口を開く。
「練習試合だからですかね、多分」 「え?」
「練習時だからこそ全力で臨む。そうでなければ本番で勝てはしないと思います。」
ボソッとつぶやくかのように答えた紬の横顔はどこか儚げで負のオーラを纏っているようにも見えた。寂寥な様子は紬のイメージを瓦解させ僕を驚かせた。
その一瞬紬に一筋の淡い光が差し込んだかのように、そして周りの熱気も声援も掛け声も神隠しにあったように消え去り、そのただならぬ様子に僕は紬をただ見つめることしかできなかった。
「あ、ほら練習は本番のように、本番は練習のようになんて言い方するじゃないですか!ごめんなさい変な言い方になったし、急にシリアスな雰囲気になりすぎですよね」
「あ、いやいやなんか格言みたいでよかったよ」
そんな会話をしていると閉じていた眼を開くかのように周囲の音が僕の脳に響いた。あの神隠し体験はなんなのか、そしてあのつむぎの雰囲気どこか卯月さんに似ているようなそんな気がしたが、気のせいなきがしたので貴重な体験として胸にしまっておくことにした。
「……はぁ、本当にすごい熱気だな」
僕は手元のスポーツ飲料のボトルを握りしめ、圧倒されていた。
ホイッスルの鋭い音が鼓膜を突き抜け、天井の高い窓から差し込む光の筋が、コート上を舞う白いボールを神々しく照らしている。
僕たちが座ったのは、ありまのチームのベンチとはちょうど対角線上に位置する、少し高い観客席の端だった。
コートの向こう側、ありまは今、ちょうど後衛のポジションに下がっている。
しかし、彼女の肩は不自然に強張り、いつもなら周囲を鼓舞するはずの大きな声も、どこか上ずっているように見えた。
「……ありまのやつ、ガチガチじゃないか。練習試合であんなに緊張するなんて珍しい」
「ふふ、そうですか? 私は、あの子が『何か』を必死に探してるように見えますよ」
「それはどういう?」
隣でつむぎが、面白そうに顎を引いてコートを見つめる。
その直後、審判の笛が鳴り、ありまのサーブ順が回ってきた。
彼女はエンドラインに立ち、深く息を吐いた。
けれど、ボールを突く手元がわずかに震えている。第一セットの開始。いつもなら強気な彼女が、今はまるで迷子のような顔で、一度だけ観客席の遠くを見渡した。
その視線が、僕を捕らえた。
僕と目が合った瞬間、ありまの瞳にパッと「色」が灯るのが分かった。
昨日、ハンバーガー屋でありまが見せた、あの負けん気の強い、太陽のような輝き。
「……あ」
ありまはニカッと、少年のような不敵な笑みを浮かべた。
彼女は右手を高く上げ、僕に向かって「見てなさいよ!」と言わんばかりに親指を立てて見せる。
「……一ノ瀬君、見つけたみたいですね。ありまさん、本当に嬉しそう」
つむぎがクスクスと肩を揺らす。
ありまはトスを高く上げ、一歩、二歩と力強く踏み込んだ。
跳躍。
彼女のポニーテールが空中で扇状に広がり、逆光の中で黄金色に輝く。
バチンッ! と、体育館の空気を震わせるような快音が響いた。
放たれたボールは、相手チームのレシーバーの手に触れることなく、エンドライン際に鋭く突き刺さる。
サービスエース。それも相手側が誰も触れられていなかった、ノータッチエースというやつだ。
「よっしゃあああ!」
ありまの叫びが体育館に響き渡った。それと同時に緊張から緩和されたかのように観客が一気に沸き体育館がありま色へと変化していったのが分かった。
彼女はコートを駆け回り、ベンチに向かってではなく、まっすぐに僕たちのいる観客席へ向かって拳を突き出した。
「一ノ瀬ー! 今の見た!? 完璧でしょ!」
周囲の部員たちが「えっ、誰?」「ありまの彼氏?」とざわつき始め、視線が一斉に僕の方へ集まる。
「……あいつ、本当に周りが見えてないな。説教確定だ」
僕は顔が熱くなるのを感じながら、思わず手元を隠した。
けれど、そんな僕の様子を見て、ありまはさらに楽しそうに笑い、次のサーブに向けて再び力強く構えた。
隣に座るつむぎは、そんな二人のやり取りを、どこか優しく、けれどどこか遠いものを見守るような眼差しで見つめていた。
体育館の熱気は、試合が進むにつれて飽和状態に達していた。
ありまのチームは、彼女の強烈なサービスエースをきっかけに完全に勢いに乗っている。
「ナイスキー、ありま!」
「一本、切るよ!」
コート内を飛び交う叫び。ありまは前衛に上がり、ネット際で高く跳躍した。
その瞬間、彼女の視線が再び観客席の僕を射抜く。
「いっちー、瞬き厳禁だよ!」
言葉にならない叫びと共に振り下ろされた右腕が、ボールを相手コートのど真ん中に叩きつけた。
「うわぁ、今の……! 一ノ瀬くん、ありまさん本当にかっこいいですね」
つむぎが身を乗り出して拍手をおくる。
「……あいつ、見られてると思うと余計に張り切るんだ。お調子者なのは昔からだよ」
「ふふ、それって『応援の効果』を素直に認めてるってことなんですかね?」
つむぎは僕を横目で見ながら、いたずらっぽく笑った。試合が終わるまで、彼女はこうしてありまのプレーを褒めたり、僕とありまの関係を冷やかしたりと、まるで「新しい友達の恋路」を楽しむ女子高生そのものの顔をしていた。
試合はありまのチームの快勝。
着替えを済ませて飛び出してきたありまは、スポーツバッグを振り回しながら僕たちに駆け寄ってきた。
「見た!? 最後のブロック! 相手のアタッカー、私の威圧感にビビってたよね!?」
「はいはい、すごかったよ。ありまのドヤ顔、応援席までしっかり届いてたから」
「なによそれ! つむぎちゃんだって、いっちーが『かっこいい』って言ってたって言ってたもん!」
「えっ、言ってないよ」
「言ったってばー!」
「私はとてもかっこいいと思いましたよ、また見に行きたいです」
「つむぎちゃんの優しさが心に染みるよー、いっちーにはぜひ見習ってもらいたいね」
駅までの道中、三人の会話は絶え間なく続いた。三人の会話は青春色で昼間の青空を彩っているようだった。ありまが「今日はご褒美にコンビニのアイスだよねー」と提案し、駅前のコンビニでアイスを買い食いする。高校生らしい、なんてことのない、けれど二度と戻らない輝きを放つ風景。
「じゃあ、私はこっちだから。二人とも、また明日学校で会いましょうね!」
つむぎが軽やかに手を振って角を曲がっていく。
残されたのは、僕とありまの二人だけ。
「……ねえ、いっちー」
ありまが立ち止まり、真っ青な空を見上げた。雲一つない空は、あまりに高い彩度のせいで、どこか現実味のない書き割りのように見える。
「これってさ、『プロローグの煌めき』だと思わない?」
「プロローグ……? まだ昼過ぎだぞ。これから一日が本格的に始まるって時間だろ」
「そうだよ。だからこそだよ。一番光が強くて、影が濃くて、世界が全部丸見えな感じ。……あのね、物語ってさ、最初の一ページ目を開いた瞬間に、ページの間から眩しい光が溢れ出すような感覚があるじゃん? 『さあ、これから何が起きる?』っていう、あの期待感だけでお腹がいっぱいになるような」
ありまは、ポニーテールを跳ねさせて僕を振り返った。
「この真昼の光の中にはさ、『あたしたちがまだ手をつけてない、最高の可能性』が詰まってるんだと思うの。昨日までの悩みも、テストの点数も、全部この光が白く飛ばしちゃって。ここから先は、あたしたちが新しく書き込むための真っ白な余白……みたいなさ。そんな感じ、しない?」
彼女が見つめているのは、ただの五月の青空ではない。
すべてを肯定し、未来を信じるための、傲慢なまでに眩しい「始まり」の光だ。
「この今の瞬間も物語が形成されていて私たちの人生はどうなっていくかわからないし、だからこそこういうきれいな空を見ていると特に人生を振り返っちゃう的な?」
「……なるほどな。相変わらず頭の中はメルヘンで忙しそうだ。オゾン層が薄れて紫外線が直撃してる心配をするよりは、よっぽど幸せそうで羨ましいよ、ありま先生」
「ちょっと! せっかくいい雰囲気で話してあげたのに! 先生ってなによ! 今の、完全に私を煽ってるでしょ!?」
ありまが頬を膨らませ、僕の肩を小突こうと腕を伸ばす。
その屈託のない笑顔。その、光に満ちた日常。
――その「眩しさ」が、不意に、鋭利な刃物のように反転した。
伸ばされたありまの指先が、僕のシャツに触れる直前。
世界から、あらゆる音が吸い取られた。
「……っ」
ありまの動きが、スローモーションのように停滞する。
最高潮に達していた太陽の光が、まるで電圧が下がった電球のように、一瞬だけ不自然に「明滅」した。
そして、その光の瞬きの間に、空からあり得ないものが降り注いだ。
「桜」だ。
この炎天下、五月の熱気の中を、それは物理的な質量を持って舞い落ちてきた。
欅(けやき)の若葉が茂る街路樹の隙間から、まるで雪崩のように溢れ出すピンク色の破片。
それは、生物学的な美しさを超えた、「哲学的な美」を纏っていた。
すなわち、「あまりに強すぎる陽光が、見せてはいけないはずの過去の記憶を焼き付けてしまった」かのような、残酷なまでの鮮明さ。
ひらりと、一枚の花びらが僕の頬に触れる。
それは柔らかい春の感触などではなく、絶対零度の薄氷のように僕の肌を切り裂き、一瞬で体温を奪っていった。
春を象徴し温かいはずの桜はその温もりを失い冬の面影が見えるかのような冷酷な冷たさを感じた。
「……冷たい。なにこれ、いっちー、何が起きてるの……?」
ありまの声が震える。
彼女が手のひらを広げると、舞い落ちる桜は彼女の肌に触れた瞬間に、デジタル信号のような四角い粒子となって崩れ、消えていく。
この桜は、ただの幻覚ではない。でも桜だ、それだけは間違いない。それなのにこの切り裂くような冷たさは一体。
何者かが世界というシステムを切り取り「五月の午後」という現実を「四月の午後」へと書き換えているようだ、誰かがその場所に刻み込んだ「消せない未練」を露呈させてしまったエラーの産物だ。
春という季節に置いていかれた、透明な孤独が実体化したような、暴力的なまでの美的側面。
「見て、いっちー。……あそこに、誰か……」
ありまが指差す、アスファルトの上。
真上から照らす太陽が、僕たちの足元に最短の影を落としている。
けれど、降り注ぐ桜の花びらは、何もない空間――僕とありまのちょうど真ん中に、「見えない第三者」の形を描き出していた。
花びらがその「誰か」の肩や、ポニーテールではない短めの髪に降り積もり、そこにあるはずのない少女のフォルムを、陽炎の中で鮮やかに浮かび上がらせていく。
(桜子……なのか)
確信が、冷たい水のように背筋を伝う。
ありまが語った、希望に満ちた「プロローグ」を嘲笑うかのように。
世界は今、その眩しすぎる光をレンズにして、僕たちの記憶から消去されたはずの「彼女」を、この残酷な真昼の街に再び現像しようとしていた。


